第十八話
〜アーツ・オブ・カース Il fucile maleddetta 〜
(後編)
第四章 夕べに陽が昇る BEFORE THE ROOSTER CROWS,YOU’LL DENY ME THREE TIMES
(1)
晴れた翌朝。
昨晩の、嵐のような降雨がまるで幻のように上がっていた。この辺りでは、こういう天候は珍しくない。乾いた土地故に、その一夜の雨が町の緑を潤すのだ。たっぷりと水分を蓄えた木々は、心なしか生き生きと天を向いているかに見えた。
だが、どうだろう。ジンは窓の下を覗いて、ぎょっとなった。地面はすごい泥濘だらけだ。甲の浅い靴など履いていたら一たまりも無い。地面はまるで、何処もかしこも底なし沼のように頼りなく緩んでいた。水はけが非常に悪いのだ。
アーチが町の中にバイクを入れたがら無かった理由は、これでジンにも知れた。
『コリンズ研究所』のドアを叩く音がする。
慌てて玄関先に走ったのは、いちばん早く起きたピーチィ・フィズだった。
「はぁい?」
ドアを引くや否や、屈強な男が二人傾れ込んで来た。いつもは裏口から出入りしている連中だ。『ナノティクス・サプリメント』を運んでいる男だった。
「な、何やの?」
「博士は何処だ?」
男の一人が言った。
「起きてるけど、朝ゴハン中」
答えるピーチィの身体を押し退け、男達はずかずかと研究所内に入り込んだ。サプリメントだけを食している割には、力強い。靴音が不穏な空気を掻き立てる。
「ちょおっと!何なんやて訊いてるやろ!答えてもない内から他人様の家に上がり込むて、どういう了見やの?」
男達は振り返りもしないで、どんどん進んで行く。廊下に詰まれた古い科学専門雑誌を踏み倒そうが、空バケツをひっくり返そうがお構いなしだ。
「舐めとんのか、こらァ!おっさん」
一瞬、ぴくんと男達の首が後ろに回り掛けたが、それも束の間。朝食の匂いを嗅ぎ付けて、二人の男はまんまとダイニングに侵入した。
数秒遅れて、ピーチィが飛び込む。
ティクス・コリンズは、朝食を終えたばかりだった。テーブルには、サプリメントを載せる皿ではなく、スープ皿が残されていた。それも、いつものようなクリーム色の跡ではなく、赤いトマトピューレの付着した皿。そして、パン屑の散らかった平たい皿。ガラスコップには、白いミルクが残っていた。
まずは、男達はその食事風景に瞠目したようだった。
「何の用だい?新しいサプリメントを取りに来たのか?」
ティクスはナプキンで口元を拭いながら、言った。
テーブルの前には、ジン・スティンガーが座っていた。ジンは未だ食事を終えていなかった。事の展開とは全く無関係に、ぐびぐびとミルクを飲み干し、解凍されてふっくらとしたピッツァに齧り付く。
「いや」
男達の言葉を遮って、ティクスは言い出した。
「『ナノティクス・サプリメント』の配布は止めだ。そうヴァレンタイン氏に伝えてくれ。詳しい事は後ほど私の方から説明に出向く、と」
「御当主にですか?」
男の一人が言った。
「それは兎も角、実は御当主が…」
言い澱んでから、男二人は厳つい顔を見合わせた。
「昨夜半から、大変なのです。身体の痙攣が止まらず、床に着いたままガタガタと震えっぱなしで。薬も受け付けません」
「それどころか、我々が近寄る事も困難です。何しろ、音を立てると狂ったように泣き叫ぶもので…」
ティクスは、びん底眼鏡の下の目を丸くした。だが、それは瞬間的なものだった。
「始まったか。…サプリメントの副作用だ」
「副作用!?」
男達は一様に叫んだ。
「何とかならないものですか?」
そう言う男に向かって、ティクスは冷徹とも言える答えを直ぐに返した。
「どうにもならんよ。収まるまで放って置くしか手立てはない」
「そんな!」
男達は、思わず床に膝を付いた。驚いたのは、ジンとピーチィの方だった。こんな簡単に膝まづく心理がまるで判らない。生き馬の目を抜くようなこの世界でだ。
「本当に、何とかして下さい」
「…と言われても、仕方ない。私にも責任はあるが、やはり医者ではないのでな」
と、ティクスは考え込んだ。『ナノティクス・サプリメント』の製造を中止しようとした矢先の事だ。どうすべきか。対処療法は幾つかあるに違いないが、ティクスにとってはもう考える気力も然程無かった。己の副作用もどうにもならないのだ。
「死ぬのを待つか?それとも悪魔に魂でも売るか?」
ダイニングの入り口で、声がした。アーチレリー・ブールヴァルドだった。
昨夜ジンに殴られた頬は、大分腫れが引いていた。些か顔色が悪いが、皮肉な表情が引き立つ程度だ。
「その場しのぎの対処療法なら無くもないぜ」
と、アーチは白衣の襟を正しながら言った。
「その場しのぎでも何でも」
「呆れた連中だな。そんなだから、得体の知れないサプリメントにでも食いつくか…。ま、いい。それでいいと言うのなら、オレに一任しろ」
アーチは言った。とんでもなく居丈高な口調だったが、今は誰もそんな事は気にしない。自信無さそうな口調の方が、不安を煽って逆効果だったかも知れない。アーチはニヤリと笑った。
「決して見殺しにはしない」
ジンは黙って、男達と出て行く相棒の姿を見遣った。
「嫌だな。嫌だな…修道院を移るのなんて嫌!」
ミスティの目に映っているのは、栗色の長い髪。妹マルガリータの頭だった。
嫌と言っても仕方ない。十四歳になったら、カルタヘナの修道院を出なければならない。ローマの教務司教養成学校に入り、将来的にはヴァティカンの中枢にいるべき人材としての訓練と学問を積む必要があった。
「だって、ここにいる時は、母さんに直ぐ会えたのに。教務司教養成学校に入ったら、ローマにいる姉さんの近くだと思ってたら…」
マルガリータは唇を窄めた。
姉であるミスティに似た髪の色、瞳の色。一目で姉妹と判るが、七歳の年齢差は明らかに成熟しつつある女と少女の境を区別していた。
「仕方のない事でしょ。私はいつまでも一つ所には留まっていられない職務なんだから」
特務巡検使という職業の性質上、移動は余儀なくされる。任命されて暫くはローマで研修を受け、拠点はローマに置きながら近辺の巡察を主に行う仕事を預かるのだ。従って、ヴァティカン付近にうろうろしている巡検使というのは、駆け出しか、半分リタイアして後継の指導にあたっている者が殆どだ。
ミスティは、直にローマを離れる事に決まっていた。
「つまんない」
むくれた顔で、マルガリータはテーブルに突っ伏した。ティーカップが揺れた。
「勉強は嫌いじゃないけど。友達もいないし、アレつまんないのよね、朝のお話。シスターによっちゃ、ゲロつまんないのよ。今度の学校にもあるのかな?」
「あるでしょ。当然」
と、ミスティは優雅にティーカップを持ち上げた。
「やだ」
「やだ、じゃないの」
「つまんないったらつまんない!」
「私がいなくても、おじさまがいるじゃない」
「おじさまァ?」
マルガリータは徐に、嫌な顔をした。だが、ミスティがじろりと睨むと慌ててにっこりと笑う。
「何だかねぇ。おじさまったらお説教臭いんだもん!嫌だな、もう。姉さんだってウンザリでしょ?でしょ?」
「まァね。ここだけの話だけどねぇ」
姉妹はこっそりと顔を寄せ合って、くすくすと笑った。昼下がりのカッフェ・テラス。
「とは言え、母さん以外にはおじさましかいないんだから」
「そうよねぇ。カタブツでどうしようもないけどね」
「こないだ私が宮殿に《スレイプニル22F》で乗り付けたら、目ェ剥いてんの。折角『おじさまご機嫌麗しゅう』って言ってんのに、開口一番『その格好はちょっと…』って」
「姉さん、もしかして今着てるみたいので行ったわけ?こんなんで?」
と、マルガリータは胸の前を肌蹴る真似をして見せる。ミスティはほほほ、と笑って高く組んだ脚を組み換えた。成る程、黒い鹿革のライダースーツにローハイド。ばっちり胸元まで下ろしたジッパーは、いや、これ以上上げると胸が苦しいから開けているのだが、マリアナ海溝並みに深い谷間を強調している。腰に提げたホルスターには、《パイソン・シスタームーン》。せめて軍用コートでも羽織っていれば目立たないだろうが。
「そうそう。教会で妄りに肌を露出しちゃいけません、なんてクソ食らえよ」
「ああーん。私も早く、姉さんみたいなばいんばいんになりたぁ〜い」
マルガリータは身を捩る。それが、見習いシスターの服装なので、道行く人はぎょっとなるばかりだ。
「無理無理。なったところで、シスター服でしょうが、ああん?それに生憎、私がアンタの年頃はもっと胸があったんだけど」
「この際、胸の事はどうでもいいの。姉さんの頭脳はおっぱいに入ってるかもしんないけど、私の頭脳は頭蓋骨の中だからね。で、それがぁ、普段は大人しい純白のシスター服。でも一度特別任務が下ると、じゃーん」
マルガリータはばん、と腕を広げた。
「黒いボンデージ風衣装に身を包んだ隠密シスター参上!てなワケよ」
「アンタ、悪いフィルム(映画)の見過ぎよ、そりゃ」
ミスティはケラケラと声を立てて笑い、手をぱたぱたと振った。
「実際そんな面白い事ばっかないって」
「そうなの?たまにはいい男とオイシイ事もありそうに思うけど。どうなの?」
「…アンタ、シスターに向かないわね。とことん」
ミスティにそう言われると、マルガリータは急に大袈裟な手振りを止めた。しゅん、とした顔付きで再び椅子に座った。
「そうかも。で、話したかったのはそんなんじゃなくて、姉さん」
「なぁに?」
教務司教養成学校の面接で、マルガリータは家族構成について質問を受けた。
「父親を亡くしたのがどうとか、いや試験に不利になるとかいうんじゃなかったんだけど。…そういえば、父さんの事って何も知らないんだなァ、って思ったの」
「私が何か知ってるとでも?」
ミスティは首を傾げた。
「でも、私も殆ど知らないのよ。何をしていた人なのかも」
「名前さえも知らないって、おかしいわよ!母さんもおじさまも何も言ってくれないし」
マルガリータは、思わず立ち上がった。年齢の割りに背は高い。
「十数年も何も聞かずに、疑問も持たずにのうのうと過ごしてきた私達もどうかとおもうけど…」
ミスティは、やや恥じ入ったように言った。妹の手前、実はちょっと困ったのだ。
「知ったからどう、っていう事もないけどね。今の私には関係のない事よ」
「姉さんはそう言うと思った。でも私は面接のときに奇妙な噂を聞いたわよ」
「奇妙な噂?」
と、ミスティは鸚鵡返しに訊いた。マルガリータは、その時皮肉な表情を浮かべていた。
『カルタヘナのサフィール家の姉妹は、さる有名人の御落胤だ』というまことしやかな噂が、ヴァティカンの一部では流れていた。アルテミス、マルガリータ姉妹の実母であるヴェルジーネ・サフィールが愛された相手というのは、時の教皇だとか。
第102代ローマ・カトリック教皇インマヌエル18世。
「まさか、そんな筈はない」
ミスティは毛頭信じる気など無かった。本当なら、いや本当でない確立が断然高いにしても、大いにお笑いだ。
そもそも、他人の噂話など反吐が出そうなほど嫌いなのだ。自分がその話題に上るというだけで、実に不快だった。だが、その噂は今も何処かで信じられているのだろうか。本人の前には全く姿を現さないが。それとも、枢機卿会の筆頭である伯父貴が揉み消したものか。ミスティには図りかねた。
今更、不意にそんな事を思い出す自分が気味悪い。
ミスティは、明けて行く東の空を眺めながら、茫漠と考えた。
それで、全く気付かなかったといえば嘘になる。
方角からすれば、真西から忽然と現われた黒い砂粒のような隊列。短い黒い隊列は、散り散りになりながらも、かなりの速さで近付いてきた。
「何だありゃ」
ジョーは咥えタバコで言った。まったく慌てる様子が無い。だが、ジョーの右手は既に我が僧服の内側に忍び込んでいた。
「ヌォーヴォ・ニザリでない事は確かね」
ミスティは呟いた。
拘束服のようなものを着せられた厳つい大男を、アーチは見下ろしていた。
ジャメイン・ヴァレンタインの意識は一体何処を彷徨っているのか知らないが、半開きの薄い目だけが、時折ちろちろと動いている。物音を立てれば、狂ったように暴れ出す。微かな家具の軋みでさえも、ジャメインには苦しみの元なのだ。自らの息吹さえも。
半時間程前までは、酷い有様だった。
ジャメインは入室した付き添いの男達をいきなり蹴った。
何事か喚き散らしながら、頭を抱え掻き毟る。致し方無いので、アーチが手を出すに至った。それでジャメインは頭痛以上のショックを左肘に食らい、昏倒した。
無論、肘は骨折していた。患者をおとなしくさせるとはいえ、無茶だ。町の誰もが、そんな医者は見たことが無い。男達は呆気に取られたものだ。
「ご当主の命と肘のどっちが大事だ?考えるまでもなかろう」
アーチはあっさりといい、拘束服を着させて処置に入ったのだった。
「何を注射なさったんですか?」
男の一人がおずおずと訊いた。
「マラリア原虫だよ」
予想だにしない返答に、男達は目を剥いた。マラリアというと、かつてアフリカ大陸中央部の風土病だった熱病のことだ。高熱が間歇的に繰り返され、死亡率の高い恐るべき伝染病だったという。
「なっ、何でさらに病原体なんかを」
男達はアーチに食って掛かろうとした。だが、冷ややかな視線で一笑に付されてしまうと不思議と血気に逸り掛けた心が静まった。
「一々シロウトに説明するのは面倒だが、要するに高熱によるショック療法だ。少々乱暴かもしれないがな」
アーチは悪気もなく事実を述べた。
「サプリメントの害悪は、フラボタンパク質が変質してしまった事にある。要するに、人間の体内に存在するタンパク質分解酵素が効かないような、或いは酵素活性が阻害されてしまって変性タンパク質が、神経細胞内に蓄積してしまった状況だな。それを除去する事は、はっきり言って不可能に近い」
男達は蒼白な顔で互いを見詰め合う。それは、何もヴァレンタイン家の主人に限った事ではなく、自分達も『ナノティクス・サプリメント』の常用者なのだから。
「分解酵素を体外から投与してやれば、解決する。だが、人間の腸内には二百数種ともいうプロテアーゼ(タンパク質分解酵素)が存在する。どの種が異常だなんて、測定しないと今直ぐに判るもんじゃないしな」
異常プロテアーゼの測定は、通常ポジショナルクローニングといって遺伝子解析によって原因を追究するのだ。医者ならば、施設も病院も無いこの町では、まず不可能だという判断が過ぎるだろう。
だが、ここでふとアーチは『分子シャペロン』の利用を思いついた。
タンパク質は合成によって、自然と高次構造(フォールディング)をとる。この時に介添えを行うのが『分子シャペロン』という存在だ。
生物の細胞は、体温付近では正常に活動するが熱を加えると、正常活動を保つために別種のタンパク質を合成し始める。これを『熱ショックタンパク質』という。シャペロンは熱によって変性しかけたタンパク質をATPの力を借りて正常に戻すのだ。
かつて二十世紀初頭に梅毒性進行麻痺の治療方法として、マラリアによる熱ショック療法が行われた時期があった。高熱によって梅毒スピロヘータを排除するのだ。尤も、このかなり野蛮ともいえる方法は直ぐに廃れ、ペニシリンが登場するや忘れ去られてしまったのだが。
それと全く同じ方法を、アーチが思いついたのは全くの偶然ではない。
アーチが病理学者でなければ、その可能性は少なかった。近年の医学界で、歴史的病理学など好き好んで学ぶ医者や医学生など皆無に等しいのだから。また、マラリア原虫のサンプリングなど持ち合わせていなかっただろう。
少なくとも、これで『分子シャペロン』さえ働けば、異常タンパク質の生成は一時的にしのげると考えられた。
「それは…どうやって?」
「ヴァティカン科学アカデミーに任せた。オレの専門はタンパク質じゃないんでね。取り敢えずは、今の対処療法で凌ぐしかない」
「では貴方がジャメイン様の主治医というわけでは…」
「それは無理な話だな」
と、アーチはあっさりと切り捨てた。言葉の刃を常に磨いている男ならではの、隙の無い口調で。男達は、虚を衝かれたように黙りこくってしまう。
「オレにはやらねばならない事が海のように目の前に広がっているし、護らねばならない…いや、護るものがある。おたくらのダメ当主に付き合っている暇など、これっぽちも持ち合わせていない」
わざわざ言い換えたところに、何かしらの意義があるのだろう。だが、男達にとってはどうでもよいことだった。
「この町にいちばん近い所にいる知り合いの医者を紹介する。その後の処置は依頼した」
アーチは予め用意しておいた封筒を、白衣のポケットから取り出して、男の一人に差し出した。
「副作用がまた出始めたら、錠剤二種類を飲ませてしのいでくれ。ペプタイドTという神経機能改善薬と精神安定剤のハロペリドールだ。ストックは全て置いていく」
その言葉に微かな険があることを、男達は敏感に感じた。本来なら、ジャメイン一人の為に置いていけるものではないのだと、暗黙裡に言っているようだった。
寝室のドアが閉まった。
やがて部屋の灯りは全て落とされた。男達もめいめい自室に戻って行く。邸は再び薄闇の静謐に包まれて行った。
ものの数分も経たないうちに、寝室のドアが開いた。
まるで飼い猫でも静かに屋内に戻ってきたかのように、淡い気配。だが、確かに人間のものだった。
隙間から覗く光に、眠り続けるジャメインの額が仄白く浮かび上がっていた。そこに落ちる細長い影。
カチカチ。キリキリキリ。
擦れ合う金属音がした。規則的なリズム。
「はぁ」
少女の深い溜息が洩れた。
「痛い!」
少女の右腕が不自然に捻り上げられる。振り向くと、長身の男が立っていた。
「何するの?お兄ちゃん」
その呼称に、一瞬たじろいだのはむしろアーチレリー・ブールヴァルドの方だった。
「父親を殺すのは、止めやしない。だが、少なくとも他の医師に引き継ぐまではオレの患者だ。患者を生かすのがオレの仕事だからな」
アーチは、サロメの右手に握られたパウダーガンを見詰める。それは、ディアーヌが持っている四十五口径銃《トルーパーMK-V》だ。
サロメは急に肩の力を抜いた。殆ど半泣きのような顔になって、ベッドの脇に屑折れる。
その腕を引き上げようとするアーチが腰を屈めた瞬間、女物の靴先が銃身を捕らえた。サロメは、慌てて床に着いた指を引っ込めた。
見上げた先に白い顔が浮かんでいた。闇にも映える金髪が、生き物のように静電気を帯びて揺らめいていた。
「何故だ?」
アーチは、ディアーヌの無表情な面から視線を外し、再びサロメに向けた。少女は華奢な肩を震わせている。
「こんな子供に父親殺しをさせるつもりか」
低くかすれたような声で、アーチは言った。どすも効いていなければ、深い哀傷も何も無い声だった。
「…そっくりその言葉を兄さんに返すわ」
「またそれか。オヤジを憎んでいたくせに、そのお前が恰もオレがオヤジを死なせたみたいに、言うのか」
ディアーヌは黙ってパウダーガンを拾い上げた。サロメの身体を抱き寄せるアーチを、冷たい目で見下ろしつつディアーヌは首を傾げた。
「判らないわ。兄さんが何を思っているのか」
「それはそうだろう。十七年も離れて暮らしていれば、同胞(はらから)でも判るまい」
「そうでなくて」
ディアーヌは、やや躊躇いがちに銃口を見詰め、目を伏せた。ほんの一瞬、少女のようなあどけなさが過ぎった。
「NLPの効果の程が判らないわ」
「NLP?」
「そうよ。もう薄々感づいているんでしょう?兄さんなら」
アーチは、ディアーヌの青白く光る瞳を見た。
「神経言語プログラミングか…」
NLPとはNeuro-Linguistic-Programmingの略称であり、心理療法においての免許制が確立され、開業医のように競合していた1970年代のアメリカで誕生した心理療法理論だ。
元々は、言語学者ジョン・グリンダーと心理学者リチャード・バンドラーによって開発された。二十世紀の心理療法家、ミルトン・エリクソン(米国の医療催眠療法家)、ヴァージニア・サティア(米国の家族療法家)、フリッツ ・パールズ(米国のゲシュタルト療法家)の心理療法の技法を体系化したものである。
「昔は、ビジネスシーンなどの多い人間のストレス軽減に使われていたものよ。尤も、今はそんな余裕など無いから、強烈な心的外傷を受けた人間に使う」
ディアーヌは、淡々と説明した。
その言葉が記号程度の意味しか持たないことに、アーチは気付いている。
「軽い催眠状態の被験者に、トラウマの原因となったと思われる出来事を頭の中で再現して貰う。その時の状況、心理状態、場面を出来るだけ詳しく、細かく。再現した後、施療者の指示によって、その出来事をふたたび…今度は逆再生する。出来事が終了した時点から」
「……」
「時間は二分から、一分、三十秒、十五秒、五秒、一秒…と逆再生する。そして、施療者は逆再生後に再現の指示を出す。不思議な事に、トラウマの原因である筈の出来事は、思い出せないくらいに不鮮明になる。どう…?」
ディアーヌは、膝まづいたままの兄を見下ろして言った。
「兄さんも何か再現してみた?全くといっていいほど、その時の事が、感情が思い出せないでしょう?」
「どうかな」
アーチは低く答えた。どうやら、察するところディアーヌはその道の専門家であるらしい。
NLPの仕組みは、アーチも知っている。大学時代に心理学の講義で習った。
神経細胞同士が繋ぐ記憶は、危機回避の本能に基づいて、『嫌な事』ほど結びつき易いものだ。そうして、一つ大きな『嫌な出来事』が存在してしまったら、後は簡単に他の取るに足らないことさえ、膠着してしまう。
だが、神経伝達の方向を逆向きに再生してやる事で、細かい接続が分断されてしまうのだ。
何度も何度もそれを繰り返す。それを繰り返し、おぼろげながら『嫌な事』は記憶していても、必ずしもその記憶と現在の感情が結びつく事のないようになる。
それがNLPの《スウィッシュ・パターン》と呼ばれる療法だ。
逆に陽性へ転じる《ヴィジュアル・スクワッシュ》というのもある。
「兄さんが、そんな何も知らないような顔して生きられるのも、NLPの結果だと言ったら?」
ディアーヌは、言った。
「もしかして、聞こえていたの?」
「ああ」
アーチは、サロメの身体を支えたまま立ち上がった。
「『…また、私を殺そうとするの?お兄ちゃん』と言ったな」
「そうよ」
ディアーヌは震える声で、応えた。ついさっきまでの気丈な態度が嘘のように、表情が崩れる。
「本人が言うのよ。間違いないわ。兄さんは、私を…」
第四章(2)に続く