第十八話
 〜アーツ・オブ・カース  Il fucile maleddetta 
(後編)


第四章  夕べに陽が昇る BEFORE THE ROOSTER CROWS,YOU’LL DENY ME THREE TIMES 

 (2)

 麦畑で見つけた時の妹は、確かに両手を肘の所まで赤黒い液体に染めていた。それが、芳醇なワインの匂いだったら微笑ましいと思えたかもしれない。だが、皮肉にもワインをこよなく愛する義母は、娘の手によって、まるで圧搾された葡萄のように押し潰され、四肢をもがれていた。
 頭部と腹部は凄惨を極めた。
 振り返った黄色い頭の印象が、今でもアーチの眼底に浮かぶ。まるで麦穂と太陽の光を吸収したかのような、眩しい黄金色だった。
 一面の黄金色。
 風になびく金色の柔らかな穂。掌にちくちくと、そして陽の光を含んで暖かく、香ばしい匂い。初秋の日向の匂い。何処までも続く黄金の海。
「お兄ちゃん」
 両腕を不器用に振って、黄金の波を渡る少女がいた。青く大きな瞳。金色のふわふわとした短い髪。半分べそをかいた少女の顔が近付いて来た。
「お兄ちゃん」
「何慌ててるんだ」
 アーチは振り返った。小麦色を反映した頬の少女は、手を差し伸べた。
「ディアーヌ」
 少女の細い指が、少年の右手指に絡み付く。まだ八歳の妹。だのにその濡れた青い瞳は、底の見えないカルデラ湖のように人を惹き付ける。美しい薔薇色の唇。黄金の髪。ミルク色の肌。
 まるで鏡合わせのように自分に似た、一つ違いの妹。
 違うのは瞳の色だけ。妹が冷たい朝靄の中から姿を現す湖の色ならば、兄は太陽に抱かれた真昼のオリーヴの若実のよう。
「泣くようなことでもあったかい?友達とケンカした?」
 ディアーヌは首を振った。短い髪が揺れる。
「友達なんていないわ。お兄ちゃんが突然いなくなってしまうような気がしたの」
 少女の湖が溢れ出さんばかりに潤んで、兄の顔を見詰める。少年は、両手を伸ばして妹の頬を伝う涙を拭ってやる。
「何処にも行きやしないよ」
「嘘付き。お兄ちゃんは、いつも私を置いてきぼりにするもん」
「そんなことない」
 少年は微笑した。遠くに若い女の声がした。小麦畑を渡る風に乗って、良く通る呼び声。
「ほら、シモーネが呼んでる」
 少女は漸く、顔を背けた。
「お兄ちゃんを呼んでおいで、って。お茶の時間なの」
 あからさまに仏頂面を見せる妹の頭を、アーチは撫でた。父親の新しい恋人を嫌っているのだ。
「お兄ちゃんをあんまり困らせるなよ」
 初秋の日向の匂い。妹の手は、太陽を浴びて温かい。そして、涙の味がした。
 記憶が逆回転する。行きつ戻りつ、それがある地点に到達すると、必ずアーチは嘔気に襲われてそれ以上とても考える気にならなかった。
 だが、薄々手繰る記憶の回路には、そこはかとない『罪』の意識が横たわっていた。
 自分の身体にしがみ付く、妹。ディアーヌの腕が、自分の首に纏わり付く。
「私には、お兄ちゃんだけいればいいの」
「何言ってるんだ」
「お兄ちゃんだけいれば、何も要らない」
 ディアーヌは、血塗れの手でアーチに縋った。アーチは、思わず総毛立った。
「パパはお前の事をキライなんかじゃない!」
「嘘よ。じゃあ、どうしてパパは私のキライな女の人ばかりママにしようとするの?」
 アーチは、ディアーヌの両手を引き剥がそうとした。だが、離れなかった。当然だ。兄妹は、同じ力を持つのだから。
「嘘をつくお兄ちゃんなんて、許せない」
 ディアーヌの指が、アーチの喉に掛かった。息苦しい。ディアーヌの表情が、天使から悪魔の彫像のように変わった。強張った表情。癒し切れない寂しさを抱えて奈落へ落ちた天使の変化した顔。
「だが、オレは生きている。虚実ではないとしたら、首を絞めたのはディアーヌではなく、オレだ。オレがディアーヌを縊ったのだ」

 アーチは、オリーヴグリーンの瞳をゆっくりと瞬いた。虹彩の収斂さえも、ディアーヌにははっきりと見えた。美しい兄の顔が、困惑を含んでいる。
「もしかしたら、兄さんは逆位置に記憶しているかも知れないと感じたのよ」
 ディアーヌは静かに言った。
「これもNLPの効果だとか?」
「父さんが兄さんにそうしたのよ。私は、麦畑で顔面蒼白で倒れていたらしいわ。蘇生したけれどね」
 ディアーヌは他人事のように答えた。
 判然と思い出す事は出来ない、とアーチは直ぐに悟っていた。その自覚が、自身を保たせているのだ。でなければ、普通そんな告白を死んだ筈の本人から受けたら、とうにパニックに陥っているだろう。
 懼れていたのだ。
 父親の三番目の妻ヴィットリアを殺害したのが、ディアーヌであると知った瞬間から。
 いつか自分は、必ず愛する妹を裏切らねばならない時が来る。その形は様々だ。例えば、アーチ自身に愛する女性が出来た時。父親と同じように、自分は憎まれ汚辱の言葉を投げ掛けられる。
 果たして、その恐怖と自己愛がそうさせたのか、幼い心に問いかけたところで今は知る術も無い。ただ、純粋に生物としての脅威を実妹に感じていただけなのかも。
「所謂、正当防衛だったかもね」
 ディアーヌは自分の顎に右手を当てて、思案した。その言葉の意味は、やはりアーチの記憶の断片が事実であった事を示していた。
「でも、父さんは兄さんが私にしようとした事を必死で捻じ伏せた。何故だか判らないけど…」
 言葉の端に不穏な彩が満ちていた。ディアーヌは決して全てを語っていない、とアーチは感じている。
「兎も角、兄さんは『人殺し』じゃないから安心して。その事を忘れて生きていけるように、父さんがNLPを。勿論、身内が心理療法を施す事は出来ない。効果の程が危ういから。専門家に頼んだんでしょうけどね」
「その人物は?」
「生きているものですか。私達がレミンカイネンだという事実が知れたらことだもの。無知蒙昧な連中は兎も角、科学者同士は他言無用のことよ」
「殺したのか」
「恐らくは父さんが」
 ディアーヌは、確信に満ちて言った。
「…そのクソオヤジもあっさり死んじまったがな。若い女に殺されて本望だろう」
「計算ずくだったのよ、父さんは。過去の研究データを抹消してしまうということは、最終的にレミンカイネンを開発した自身も消すしかない。いずれ死ぬつもりだったのよ」
「くだらない」
 と、アーチは吐き捨てるように笑った。些か苦痛を伴う笑声に聞こえた。
 だから、マリーナ・ビアジョッティという反乱分子の塊の様な女に、むざむざ殺されたというのか。其処まで入れ込む何かが、この身体に存在すると言うのか。
 何ら見た目は一般人と変わらぬ、血肉の通った肉体に。
「どれ程の価値があるというんだ、たかが人造人間に」
「そう思っているのは兄さんだけよ。いえ、兄さんだって黙って利用されてるじゃない」
 ディアーヌは皮肉に唇を歪めた。
 恐らくは、グレナデン・サフィール枢機卿とアーチとの関係を言っているのだろう。何処まで知っているのか判らないが、ディアーヌが言うのはまるでハッタリではないようだ。
「利用されていると、そう呼びたければ呼べばいい。オレはしたいようにしている。生きている事に価値があれば、利用される事も利用する」
「小理屈だわ。彼等にとっては、いずれ兄さんも消耗されて後は始末されるだけの御仕舞い、という存在でしかないというのにね」
 ディアーヌは冷ややかに兄の顔を見た。
「考えてみれば行き着く所に行くだけよ。《科学撤廃主義》を旨とするヴァティカンの教義に反しているのは、私達の存在そのものなのだから。人造人間の存在自体が許されない、と考える連中のうようよいるプールに自ら落ち込んだものよ」
 便宜的には、ヴァティカンも実戦に強化人間を投入している。だが「死なない」人間までも許容出来るかどうか。吸血鬼が西欧人の敵足り得たのも、「死なない」存在だったからではなかろうか。
「そうは言っても、オレ達とて『死』を超越出来る存在ではない。現に、毎日僅かずつ、一般人と同じように歳を取っている。細胞は古びていくだけだ。人間は所詮、死に向かって毎日生命活動するのみだ。いずれ消耗されるというのなら、何をしようが構わない。自分が快楽を得られる生き方で結構じゃないか」
 アーチの言葉に、ディアーヌは一瞬ぽかんとした表情を見せた。だが、直ぐにそれはやや沈鬱なものに変化した。
「そうかしら。本当に、兄さんは自分が真底楽しいと思える生き方をしているようには見えないけれども」
 アーチは、ディアーヌの思い掛けない言葉には応えなかった。
「だったら、この男もそう。生きていたってしょうがないわ」
 と、ディアーヌは再び睡眠薬で寝入っているジャメインに銃口を向けた。
「家庭も顧みず、妻や娘を置き去りにしてきた男。ほんの寂しさから浮気した妻を許す心も無い。孤独を判ろうともしない。お蔭で、たった一人の娘がノイローゼになってしまった事にさえ気付かない」
「この子に、サロメに何をしたんだ?」
「別に。銃を持たせたら、母親を撃ったのよ。ピアノを弾いていた所へ、母親がサプリメントの副作用でボロボロになった身体を引き摺って。咳一つさえも、荒んだ神経に響くのよ。ショパンのノクターンを聴いて、母親は狂乱していたわ」
 ディアーヌの話し声は極めて優しかったが、並べ立てた単語の何れかに、サロメは敏感に反応した。アーチの腕の中で、少女の身体は再び震え出した。
「もしかして、苦しむ母親を楽にしてやろうと思ったの?」
 問いかけに対して、サロメは答えなかった。元より、答えを求めた文句ではない。
「…狂っているのよ、この町の住人は」
 ディアーヌは、深い息と共にその言葉を吐き出した。
「狂わせたのは、『ナノティクス・サプリメント』。お前の体細胞から抽出したフラボタンパクを使ったサプリメントの所為だろう」
 アーチはサロメの背中を擦りながら、言った。少女は激しく呼吸に苦しんでいた。
「誰も欲しがらなければ、作りはしないわ」
「何とでも言え。お前はどうかしてる」
 ふふふ、とディアーヌの整った唇から連綿とした小さな笑声だけが零れた。
「お兄ちゃんだって、そうじゃない。私を殺そうとしたのよ」
「覚えていない」
「思い出させてあげましょうか?」
 ディアーヌは優雅に微笑した。目は笑っていない。
「楽しくないでしょう?人を殺すのって。だのに、抑えられなくなるの。どうしてかしら。どうして殺したい衝動を抑えられないの?判るでしょう」
「判るわけがない」
 アーチは、強く否定した。サロメを抱きかかえる腕に力が籠もった。少女は、余りの力にほんの瞬間小さな悲鳴を上げた。
「そんな筈は無いわ。兄さんは、私と同じ生まれついての『殺人兵器』なのだから」

「『ナノティクス・サプリメント』も、単にレミンカイネンがその本来の効力を発揮しただけの事に過ぎないわ。《PE》だって、元を手繰ればそうなのよ」
 ディアーヌはうそ寒いような微笑を浮かべた。見方に拠っては、非常に楽観主義者のようにも見えた。
「私達の血液や臓器が負傷者や重病患者の役に立つなんて、真っ赤な嘘。現に、兄さんは軍医として負傷兵に自分の血液を使った事がある?」
「……」
 アーチは黙っていた。サロメを両腕に抱いて、立ち上がる。
「そうした事実は無い筈。人間の身体は、常に侵入してくる異物に対抗しようとして免疫機能を保持している。他人の臓器を容易に受け入れられないという事も。私達の血液を誰かに輸血してみる?そうしたら判るわ。被輸血者のヘルパーT細胞が、全て壊されてしまうに違いないでしょうけど」
 ディアーヌは、絶望的な言葉を吐き出す。
「知っているんでしょう?兄さん。だから、兄さんは医師になった。そうすれば、下手に他人に自分の肉体を弄られる事もないから」
 精神分析医のような確固たる回答だ。アーチは、ただ聞いているしかなかった。それが、アーチ自身の内心を言い当てているかどうかは別として。
 異物を排斥しようとする抗体を作る機構が免疫機構だが、それを凌駕する作用を齎すのが、レミンカイネンの細胞組織だ。
 レミンカイネンの自己再生能力の元は、或る小細胞の存在にある。
 体細胞がある一定の刺激を受けると、ミトコンドリア内に存在する『ブラーエ増強受容体(エンハンス・アクセプター)』という小細胞が活発に動き始める。
 このブラーエ増強受容体が、爆発的にミトコンドリアにおけるRNA(リボ核酸)生産を促し、タンパク質合成を行う。それが、レミンカイネンの自己再生能力の高さに繋がるのだ。
 いわば、積極的細胞死(アポトーシス)ではない状況下で細胞が死滅した場合の、逆説的な細胞分裂だ。
 その活動が通常の人間に起こった場合を想定すれば、結果は見えている。
 50ギガバイトしかないパソコンのハードディスクに、1000ギガバイトのソフトをインストールしようとするような無理がある。いや、もっと性質が悪い事に、同じ細胞だからつい、受容してしまうのだ。
 少量の輸血なら兎も角、重傷であればあるほど、レミンカイネンの細胞分子を貰った個体は危険に晒されるのだ。
「目の前で手の施しようもなく死に行く人間を見ながら、己の肉体はどんどん修復していくジレンマというのもあるでしょうけど…」
 と、ディアーヌは刃の一閃にも似た一言をアーチに向かって言った。
「だから『殺人兵器』なのだとでもいうか?」
 アーチは、漸く擦れかけた声で、言った。ディアーヌは、腕組みをして頷いた。
「その為のこの姿なのよ。同じ形、同じ言葉を喋る人間として。だのに、同じ人間であるのに、どうして我々のような無防備で儚い生命を持たないのか?…戦場で、死に直面した場面でそういう強化人間の姿を見たら、一般人はそう思うでしょうね。絶望感、いえもっと虚しいに違いない。喪失感とでもいうのかしら」
「お前の見解はそうなんだな」
「そうよ。わざわざ殺して見せるまでもないの。とっくに相手は、人間としての尊厳を失ってしまっているから」
「そんな容易(たやす)いものだろうか」
 アーチは疑問を口にした。疑問というよりは、確信に近いものだったが。
 ふ、とディアーヌは笑った。
「だけど、どうしてかしら?普通に生きている人間の存在が恨めしいとでも思うのかしら、感情が昂ぶると殺してしまいたくなる。思うまでもなく、衝動に駆られるわ」
 ディアーヌの瞳が、虚しい空間を泳いだ。その時しか無かった。同じ能力の肉体を持ち、明晰な頭脳を持ち合わせた兄妹が対峙した時、その何れかが一方を出し抜くには、より精神的な脆い部分に自ら足を突っ込んでくれるように仕向ける必要があった。
 そうして延々と演じてきた神経戦を、ここで終わらせないと限が無い。
 アーチは、ディアーヌの鳩尾に折った膝をめり込ませた。
 躊躇(ためら)いはあった。同じ強靭さを持っていると知っていても、見掛けはやはり妙齢の女だからだ。
 ディアーヌは、見事に後に倒れて尻餅を付いた。その拍子に、《トルーパーMK-V》が右手を離れる。
 アーチはパウダーガンを奪うと、取って返すようにディアーヌの鼻先に銃口を向けた。
「…やっぱりそうなの?私を殺すのね」
 ディアーヌは、額に乱れ掛かった金髪を掻き上げた。まるで、命の危険を感じているとは思われない仕草であったが。
 アーチは、その青い瞳を見詰めた。怯えたような、それでいて悲しい瞳。嘘の吐けない少女のようなあどけなさが、湧き上がる。いったい、それは何年経っても変わる事が無いのか。
 ガウン、ガウン。
 乾いた空気に銃声が二発響いた。アーチの左腕一本に抱えられたサロメは、その音で震えた。もやもやと不規則に広がる硝煙の臭いが寝室に立ち込めた。
 ディアーヌは、ゆっくりと面を上げた。
 四十五口径マグナム弾を浴びたのは、脇腹と右腿だった。
「…痛いわよ」
 ディアーヌは悲痛な声でいった。
「痛いだけで死なないわよ、兄さん」
「一つだけ訊いておいていいだろうか?」
 アーチは、ディアーヌの唇から迸り出そうな感情を一切無視して言った。
「現在(いま)のお前の保護者は誰なんだ?」
「言ったところで信じるの?」
 ディアーヌは、唇を噛んだ。痛みに耐えているのではなく、ある強い感情に呑み込まれてしまわないように、必死で耐えている様子だった。そんな表情すら、アーチはただ冷徹に見下ろすだけだ。
「言えないわ」
「なら、この目で確かめるさ」
 アーチはパウダーガンを床に投げ捨てた。呆然とした瞳のディアーヌを見遣りながら、アーチは後退った。後手にドアのノブを握る。
「…お前を捕らえるのも処分するのも、オレの仕事じゃない。オレは飽く迄医者に過ぎないからな。何れ公報が密かに出回るだろう。賞金稼ぎどもにはお目に掛からないように水面下でな」
「やんごとない人たちが動き出すというのね。私を生かして置いたら、兄さんは憂き目を見るわよ。それでもいいの?」
 ディアーヌは言った。痛憤にも似た言葉が響く。その時には、既に寝室の扉は閉じられていた。
「確かめるなんて、出来っこないわ。仮にそうなっても、いずれ…」
 ディアーヌは呟いた。頬に流れるものが、床を濡らした。

 低い山脈の向こうに現れた一団は、ミスティとジョーの姿を認めると進行を留まった。
 僅かに崩れたジープとサンドバギーの群れから、一人の男が離れた。近付いて来るまでも無く、ミスティにはその人物が容易に判断出来た。
 長い銀髪と薄い縁無し眼鏡の男だ。大仰なくらい物々しい重いコートを羽織っている。暑苦しいのではないかと思ったが、こんな状況でも近付いた男の額には汗も滲んでいない。
「こんな不毛な土地を背景にしても、相変わらずお美しい。お久しぶりだがご機嫌如何かな?特務巡検使アルテミス・サフィール殿」
「此方こそ。何時も惚れ惚れするような立派なお姿ですこと。キール・ロイヤル・スタンレー警視」
 ミスティは、白々しい社交辞令を気取って言った。アラブ馬の上から、スタンレーを見下ろす格好になっている。尤も、これは襲撃の返り討ちとして分捕った戦利品だが。
「でも、本名で呼ぶのはやめて頂戴。虫唾が走るわ」
 ミスティは声色を厳しく変えた。
「それは失礼。ミスティ・サファイア殿。それに…」
 スタンレーの乾いた茶色い瞳がミスティではなく、後の男に注目した。
 ジョー・クリサンスマムは、砂地の上にぺっ、とシケモクを吐き捨てた。
「まーた、会いたくもねえ面見せやがって」
 ふふ、とスタンレーは笑った。
「貴方に会えるとは幸運だ。また私にも運気が向いてきたらしい」
「オレにとっちゃ迷惑なんだよ、《鉄仮面》。ゲンが悪いったらありゃしない」
「神父がゲンを担ぐなんて、妙な世の中だ」
 スタンレーは聞こえよがしに嫌味を言ってみたが、ジョーは意に介さないという調子で遠くを見遣っていた。
 スタンレーの視線は、ミスティとジョーの前にいたムスリムの男に注がれていた。状況を見れば、説明するまでもない。また、スタンレーも一から十まで説明を受けなければならないような切れ味の悪い男では無かった。
「UPが動いているというのは、アナタの一存でなの?」
 ミスティは、微動だにしないバギーの列を眺めつつ訊いた。
 スタンレーは薄茶色の瞳に鈍い光を澱ませた。
「とんでもない。勿論上部の命令ですよ。私はチェス盤の上のポーンに過ぎません。命令されればそれに従うまでです」
「無駄な謙遜はおやめなさいよ。バカ正直に前へ前へ一歩ずつ、というのではなく縦横無尽に高飛びだってやって見せるというんでしょ?サー・スタンレー」
 ミスティは喩えて言った。スタンレーは思わず破顔した。スタンレーが騎士(ナイト)の称号を頂いた由緒或る家系である事を知っての喩えだ。
「貴女、チェスはお好きですか?」
「こう見えてもおじさまより強いわ」
「成る程…」
 スタンレーは、腕組みしてにっこりと笑った。
「ヴァティカンの頭脳、と呼ばれるグレナデン・サフィール枢機卿を負かす腕の持ち主である姪御殿を相手に、というのは手強そうだ」
「実戦チェスというワケね」
 ミスティは、その話に乗った、という表情をした。ジョーは二本目の真新しいダンヒルに火を点けながら、ぎょっとなる。
「当方に手駒が多いのは致し方ありませんが」
 と、スタンレーは肩を竦めた。
「其の位のハンディキャップは与えてあげる。当然、狙うのはアナタの首でも私の首でもない事だしね」
 ミスティは自信たっぷりに言った。
「では、お互いの健闘を祈りましょう。今度見(まみ)えるのは城塞アラムートにて、クイーン殿」
 スタンレーはコートの裾を翻した。銀髪の一本一本が芸術的に躍る。熱に炙られた空気が舞った。
 再びサンドバギーとジープの一団が動き出すのを、ミスティは黙って見詰めていた。
「売られたケンカなんぞ、中身も見ずに買ってから…」
 ジョーは言った。
「アナタも《スロッピー・ジョー》という異名を持つなら、つまんない事言わないでよね」
 ミスティはあからさまな侮蔑の視線をジョーに投げ付けた。
「…しかし、頼りないナイト一人が手駒ってワケね。こちらは」
「その言い方はあんまりだぞ」
 だが、ミスティはジョーの文句など聞いていなかった。アラブ馬が早足で進んで行く。
「ま、いいか」
 縁起の悪い相手にばったり出くわしたとはいえ、そのお陰でミスティの気分は些か高揚してきたようだ。沈んでいる女巡検使は、あまりらしくない。
「ところで」
 ミスティは矢庭に振り返った。
「スタンレーに会ってゲンが悪い、ってどういう意味なの?」
「え?そりゃ、まあなぁ」
 ジョーは灰色の頭を掻いた。
「昔の事だよ。面白くもねえ。どうしてもというんなら、聞かせてやってもいいがな」
 けっ、とジョーは地面に唾を吐いた。ジョーにしては珍しくばつの悪い顔に、ミスティは不意に笑みが湧いた。
 

終章に続く

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