第十九話
 〜千年の孤独 mille-solitalio  
(前編)


第一章 隠者の道 孤独の谷 THE HERMIT PALACE 

 (2)

 酒場が無い、という事実をまざまざと突きつけられ、ジン・スティンガーは愕然とした。
 ムスリム圏には酒をメニューに出してしている店など皆無に等しい。一部、非合法でムスリム以外の人間に酒類を販売しているモグリの店があると聞いていたものの、アラムートに限ってはその噂は通用しないものらしかった。
「くっそう。何てこった、晩メシを食うのに酒も無い。クソ不味い硬水なんか飲めるか」
 ジンは毒づいた。それでもシシカバブに喰らいつきながら。
「判り切っとんのなら、買い溜めしとけばええのに」
 と、突っ込みを入れるピーチィに向かって、ジンは鼻を鳴らして見せた。
「そんな余分な金があるとでも思ってんのか?」
 薄暗い店内には、喧騒が満ちていた。
 酒ばかりか女っ気すら無い。女性が自宅に引きこもって慎ましやかに暮らす時代ではないのだが、それでも柄の悪い連中がいそうな場所にはやはり寄り付かないのだろう。カスピ海沿岸の高地民族の女性は独特に美しいと聞いているのだが。
 それにしても、腹の虫は収まらない。いや、空腹なのではない。昼間の喧嘩からずっとこのかた、ジンは不機嫌極まりなかった。
 タバコを吸っても落ち着かない。ましてアルコールは無い。綺麗なネエチャンもいない。おまけに仕事も無い。どうやって気を紛らわそうか、考えるのも腹立たしかった。
 考えれば考える程、相方の言動には納得が行かない。
 十七年ぶりに会ったという実妹との、あの剣呑な雰囲気は、話を聞けば大体の経緯は判ったのだが。それにしても、まだアーチは何か重大な事を隠している様子だ。聞いたところでヴァティカン内部の事など、今生きるのにどうでもいい、と多寡を括っていたのだが、やはりジンとて気になり出した。
「ヤツは、アーチは何かオレに隠し事してると思わねえか?」
「隠し事?」
 ピーチィは首を捻った。ややあって、何か思いついたかのように、小さな膝小僧をぽんと打った。
「確かにな。ウチも前々からアヤシイと思うてたんよ」
「そうだろ?あの二人」
「あの二人なァ」
 ジンとピーチィは、それぞれに店の天井を見上げた。ファンが緩慢に回っている。
 煙がファンに吸い込まれて行く。
 羊肉が焼ける香ばしい匂いは、それは主に香料の成せるものだ。クローブにナッツメッグ、そしてブラックペッパーをきかせた丸太のような羊肉が天井から吊るされ、ぐるぐると回っている。
「隠したところで始まらないってのに、何で相棒のオレにも言わねえんだろう?」
「そら、それなりに気ィ遣うてるんやて。少々性格はキツイけど、悔しいんやけどお面はイケとるし、チチはでかいしあの女。大体、アーチはモテへんアンタと違うしな」
「そうそう、モテないオレとは違って…て、何の話だよ?」
 ジンは、漸く話が噛み合わないのに気付いた。ピーチィは、目を瞬いた。
「え?二人って、アーチとディアーヌ兄妹のこと?」
「他に誰がいるっての?」
「あ…。聞かんかったことにしよ」
 ピーチィは、ぱたぱたと両手を動かして自分の顔を扇いだ。とことん鈍い男め、とピーチィは胸中で毒づいた。言っていた自分の方が恥ずかしくなるではないか。
「それにしても、あのヤロウ、ケツの青いサルだと抜かしやがった」
 ジンは、またぶつぶつと呟いた。
「オレは、ヤツの為を思って苦言を呈してやったのによ。それをなんつーか、恩を仇で返す?てか飼い犬に手を噛まれる?ああ、馬の耳に念仏だっけ。よくわかんねえが、小癪な!」
 思い返すだに、右足の向こう脛が痛む。先程、あまりに熱いのでブルージーンを捲って見たが、すっかり蒼紫色に内出血していた。
 ふん、とピーチィ・フィズの鼻息がジンの腕に掛かった。
「何が苦言やのん。訳わからへん事言うてんのはアンタの方やん」
「クソガキが何を言うか」
「クソガキとでも何とでも言いや。アンタが熱うなる必要なんてない、って言われてんの判らへん?」
 ジンは、少女の言葉にぎょっとなった。
「所詮は他人やで」
 少女の瞳が、ジンの強張った表情を見詰めた。
「何だかんだ言うても、他人の心の中なんか判るかいな。ウチはウチ自身もわからへんよ。だったら、放って置くしかないやん」
 ジンは、ごくりと肉塊を飲み込んだ。喉の奥が痛んだ。ピーチィは、にんまりと笑った。
「お節介な男は嫌われるで」
「…お前に言われたかないけどな」
 ジンは、コホンと咳払いをしてサングラスを押し上げた。
「まぁ。喧嘩出来るうちが華なんちゃう?相手もおらんようになったら、喧嘩も出来へん。鬱陶しい思うてても、おらんようになったら寂しいもんやね」
 ピーチィはしみじみと、十三歳の子供らしからぬ口調で言った。亡父の面影でも思っているのだろうか。
「そうか、確かにな。向こう脛が痛いのは、生きてる証拠だ。あのヤロウの憎まれ口が聞けるのも、お互い生きてる証拠だってな」
 ジンは不承不承ながら、自分に言い聞かせた。それにしても、まだ納得は行かなかったが。
「何なんやろ。さっきから《千年の孤独》って」
 不意に、ピーチィは呟いた。
「お前地元の言葉が判るのか?」
 ジンは、さも青天の霹靂であるかのように言った。
「《海の民》は混血やよってな。言葉はアラブ訛りの人間も多いんや。ムスリムもおったし」
「へえ」
 余りの意外さに、ジンは思わず舌を出した。もしかしたら、何も知らないのはオレだけか、という疑念が湧いてきた。
「《千年の孤独》って何やの?」
 ピーチィは、料理を運んできたウエイターに訊ねた。若いウエイターは、少女の興味津々な顔付きを見て、初めはちょっと渋ったものの、手も空いて暇なので話し始めた。
 どうやら、警戒されずに済んだらしい。ジンは思った。
 ジンは元々サングラスで人相が知れないが、これが連れの少女が金髪碧眼でなく、アジア系なのが助かった。幸い、目立つ筈の相方も今は別行動だ。
「ああ、あんたら旅の者か」
「ここは初めてなんやけど」
「《千年の孤独》ってのは、《山の長老》様が持ってる至宝の事だよ」
 若いウエイターは、判り易く言った。みるみるピーチィの大きな瞳が輝いた。
「お、お宝!」
「おい…」
 ジンの呼び掛けなどまるで聞こえない。ピーチィは椅子から身を乗り出すようにして、ウエイターの話に聞き入った。
「僕ら一般信者はどういう物かはよく知らないんだが、何でも千年に一度だけお目見えするとかで、それで街中の密かな話題に上ってるんだ」
「でっかいダイヤとか、ルビーとか?」
「それは見てみないと判らないよ。何しろ、千年に一度っていうくらいだから、凄い物なんだろうけど…」
 ウエイターの話っぷりに、ピーチィは想像を逞しくする。人の頭程もある大きなブルーダイヤモンドか、はたまたブラック・オパールか。この地域で珍重されるのは、もっと極彩色の宝石かもしれない。或いは、目の玉が飛び出すくらいに積み上げられた金塊の山。それでは平凡過ぎるか、などと。
「こいつ…」
 ジンは、ぼんやりと夢想に耽る少女の頭を怒突いた。
 だが、ピーチィはいつものように凄い剣幕で怒る事は無かった。それどころか、きらきらと潤んだ瞳をジンに向けた。
「なあ。見たいと思わへん?」
「見たって別に、オレらの物になるワケでもなし」
「そう?そう思う?」
 うふふ、と少女は含み笑いをした。何だか嫌な予感がする。ジンは背筋に寒いものが走ったのを感じた。とても嫌な予感がする。
「何時見えんの?それ。何処にあるのん?」
 ピーチィは猫撫で声で、若いウエイターに擦り寄った。少女趣味ではないウエイターは、ちょっと迷惑そうな顔で首を傾げた。
「さぁ。まだそれは《山の長老》様からお達しがあり次第だけど」
「てことは、まだお宝は《山の長老》が持ってんねんな」
 うふふ、とピーチィは再び不気味に笑った。ウエイターは、何事もなかったかのように戻って行った。ジンはサングラスを鼻先まで押し下げ、ピーチィを睨んだ。
「お前、まさかミョーな事考えてないだろうなァ?ああん?」
「ミョーな事って何やの?」
 ピーチィは至って御機嫌で応えた。ヘーゼル(はしばみ)色の瞳には、既に見たことも無い《千年の孤独》の姿が映っているのではないか。ジンはげんなりした。何か、また下らない事に加勢させられる未来は、ほぼ間違いないと思われた。
 それよりも、《賞金稼ぎ》としての仕事が見付からないのが切実だった。

 朝はさすがに麗しいものだった。思わず、口笛を吹きたくなるようなくらい。
 本当に口笛を吹くバカがいるようだ、とアーチレリー・ブールヴァルドは溜息を吐いた。ヴェランダから見える向かいの宿屋の二階には、大きく開いた窓に相棒の仏頂面が見え隠れしていた。
 昨日、食堂(トラットリア)で喧嘩別れしてから、相棒ジン・スティンガーの顔を見るのは数時間ぶりだ。
 何故、目と鼻の先の宿屋にいるのだろう。わざとにしても、あまりにも白々しい。
「ふん。負け犬の遠吠えか」
 しかし、お互い女付きでも、ジンには十三歳のお嬢ちゃんだ。
 ニヤリと笑い、そう呟くアーチの鼻先に、馥郁たる香りが漂った。
 むせかえるような若い女の香水だ。朝から濃厚な匂いに、頭がくらくらした。五月のシャンゼリゼ通りの匂い、リラの香だ。いや、この香りは昨夜から纏わりついていた。視線を屋内へ戻すと、殆ど半裸に近い薄物だけの美女が立っている。
「朝が早いのね」
 女は言った。気怠い声だった。浅黒い肌に薄っすらと汗が乗っているのが艶かしい。懐かしく、抱き心地のいい肌の感触を、アーチは思い出した。
 無意識的に母性本能を募らせている女は、当て所ない独り身の男にとって得難い存在だ。
 最もいとおしむべき女性とはまた別物であって、それは無尽に広がる飽くなき真理の追究にも似ていた。決して、代償作業ではない、という男の言い訳でもあるのだが。
「何事も規則的な北イタリア人気質の血が、入っているんでね」
 と、アーチはテーブルに肘を付いて答えた。遅くとも午前八時までには目覚め、取り敢えず朝食にホットチョコレートを摂取してからパソコンを開くのが日課だ。喩え前夜に如何なる美女と楽しんでも、だ。まま、そうでない時もあるが。
「三年前と変わっていないわ」
 女は黒い髪を掻き上げながら、欠伸を噛み殺した。滝のように腰の辺りで波打つ豊かな黒髪は、つやつやとしていた。その流れる様を見て動悸が早くなる男もいるものだ。
 三年前、この町で歌姫に会った時、彼女は天鳥のように麗しく夜の盛り場で囀っていた。
 そして歌姫は、取り敢えず喉の渇きを癒そうと入ってきたやや年下の青年医師を見るや、彼の瞳のオリーヴのような色彩の虜となった。
 それも思い返せば、ほんの三日間の綿菓子のような甘くて儚い恋の冒険に過ぎなかったが。
「あの時、ザザの村への道程を教えたのは私。アナタを逃がしたなんて思わなかったわ。いつかまた会えると信じていたから」
 女は昨夜、アーチにそう言った。
 あれは、ジン・スティンガーを捜しての旅路だった、とアーチは思い起こした。
「そういや、あの時の村の娘はどうしているだろう?オペラとか言ったっけ。今頃熟れた美女になってないかなぁ」
 と、ふと気になったが、それも目の前の美女の誘惑には太刀打出来なかったようだ。
「相変わらず、仕事熱心ね?」
 女は温いカッフェをアーチに差し出した。そうして、自分はテーブルの上に腰を下ろす。見事な曲線を描いた柔腰が液晶性ポリマーの画面横に押し付けられた。
「仕事以外も熱心だぜ」
「あら、昨夜はそうでもなかったけど」
 思わず、アーチは口に含んだカッフェを噴出しそうになった。動揺したわけではない。この男に動揺などある訳が無い。
 女の甘い手が、アーチの胸元に忍び込んだ。無駄な肉が削ぎ落とされた固い胸を探っている。
「人妻との情事というのは、そうそう熱意ばかりで応えるもんじゃない」
「女のシュミが変わったんじゃないの?別にいいんだけど」
「さぁ。オレは今は少なくとも、目の前にいる女性の事しか考えてない主義だがな」
 アーチは苦笑を押し上げながら、また論文に取り掛かった。実のところ、懐具合が寂しいのだが、女に無心する気にはなれなかった。以前ならそういう気も無くはなかっただろう。だが、今はそれどころでは無い。
 取り敢えず、キリが付いたら部屋を出よう、と思う。長居して居心地の好い所ではない。
 アラムート城塞の場末、しかも亭主持ちの歌姫の持ち家など。
 アーチは、カッフェを飲み終えると、さっさと白衣を着込んで階段を下りた。背後から、美女の未練が縋り付く。
「きっとまた会いに来て」
「今度会う時は、キミのその自慢の黒髪が白髪になって、オレの腹がナニも見えないくらい突き出してるかもな」
 アーチは皮肉めいて言った。
「分別臭いこと言わないで…」
 分別ではなく、より真実に近いと予測されることを口にしただけだ。だが、既に女の事など頭から追い出してしまった男の胸中など、歌姫は知る由も無い。
 リンゴン。
 玄関のチャイムが不意に鳴った。
「あの人だわ」
 美女の憂い顔が、吃驚顔に早変わりした。
「早く、ヴェランダから出て」
「何でそんな間男みたいな真似しなきゃならないんだよ」
「事実、間男でしょう?さ、早く」
 美女はそう言ってアーチの背中を再び階段に押し遣り、覗き穴から外を見た。
「…あら?」
 件の亭主ではない。黒い埃塗れのターバンを巻いた男が三人、立っていた。
「あの人じゃないわ。どういう事?」
 アーチは振り返った。美女が戸惑っている間に、アーチはドアを開けた。男達は、一瞬怯んだかに見えたが、それは錯覚だったようだ。
「お祈りは済んだのかい?」
 アーチは問い掛けてみた。男達は、その問い掛けをきっぱり無視した。
「貴方がドットーレ・ブールヴァルドか?」
「そうだけど」
 アーチは肯定した。白衣を着たまま言い逃れする必要は無い。仮に目の前の男たちが、美女の亭主であってもだ。こういうときこそ、《銀十字軍》の白衣はその威力を発揮するものなのだ。
 男三人は、恭しく胸の前に右手を押し当てた。
「《山の長老》が貴方を招待したいとの仰せです」



第一章(3)に続く

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