第十九話
〜千年の孤独 mille-solitalio 〜
(前編)
第二章 ダブル・インパクト TRIGGER MEN
(1)
何処までも続くかのような蒼天が、丸い屋根を抱いていた。イル・クッポローネ(クーポラ)には、広場を追われた鳩の群れが三々五々集まる。
円形の広場をそぞろ歩きする人々はまだいない。午前七時だった。
ヴァティカン、つまり聖庁は二十一世紀半ばまでは、比較的緩やかな規制でもって一般市民の立ち入りを許していた。ところが第三次大戦中にその門扉が一旦閉じられて以降、戒厳令は続いた。それが時の教皇の一存では無かったしにても、ヴァティカンはローマを死守するが為に路線変更を余儀なくされたのだ。
現在、聖庁を取り囲む門の開錠は午前六時五十分から、閉門は午後十時となっていた。
いま一人の若い尼僧が、広場を横切って大股に歩いていた。
遠めに見ると然程でもないが、男にしても身長が高い部類に入るだろう。これだけ大柄な女は珍しく、またその歩く姿は、しとやかさからは縁遠いものだった。長いストライドが影を伴って揺れ、高い靴音が規則的にカツカツ、とタンゴのような二拍子を刻んでいった。
「おはようございます」
尼僧に声を掛けたのは、彼女を凌駕する程の大男だった。だが、男はまったく厳つい印象を受けない優男、むしろ華奢にさえ見えた。
若い尼僧は薄緑色のコワフ(頭布)を翻し、振り返った。
「シスター・マルガリータ・サフィール」
男は優しい声音で言った。マキシム・デ・リガール教皇報道秘書官だ。漆黒の髪にエメラルドに似た深い森のような緑の瞳だ。嫉妬深い緑の瞳。
マルガリータは、にかっと白い歯を見せて笑った。緊迫していた朝の空気に温もりが満ちた。マルガリータのきらきら光る青い瞳がリガールを見据えた。
「わざわざお出迎え?ご苦労様ですこと。卿(けい)は朝のお勤めは?」
マルガリータは、十七歳という年齢にはそぐわないくらいに毅然とした口調で言った。要するに、大人から見れば、小生意気な口のきき方をする小娘だということだ。
「私にはそのようなものはございません。民間人ですので。サフィール枢機卿は、もうじき朝会を終えられます」
「毎朝早起きよねぇ、ご老人達は。朝の四時に起きてから、一体何するってのかしらん」
マルガリータは、ロザリオを弄りながら言った。
グルッポ・カルディナーレ(枢機卿会)の主催する朝会が開かれる会議室を尻目に、マキシム・デ・リガールはマルガリータを案内した。尤も、案内されるほど聖庁内部に疎い訳ではない。だが、一人でうろついているよりは随分と安心出来た。何しろ、まだ教務司教養成学校を出たばかりの新米修道女なのだから。
マキシム・デ・リガールは、この初々しいシスターが伯父貴であるグレナデン・サフィール枢機卿に何故に呼び出されたかの理由は、聞かされていない。想像するだに、恐らくは叙階の秘蹟を示唆するのだろうが。
それも、教務司教養成学校で助祭という役職を得て実務として教会に奉職していたマルガリータを、いきなり「司教」に抜擢する。
考えられない事ではなかった。
《ヴァティカンの頭脳》と称される程の優れた執務能力を振るうサフィール枢機卿の姪御ドノ、であるのだ。その目から鼻へ抜けるような利巧振りは、教務司教養成学校時代から噂になっていた。勿論、指導教官達の誰一人として異議も挟まず、首席で修了した。
本来、宗教に指導力或いは執務能力など無関係だ。
だが、ヴァティカンが歴とした「国家」である以上、その能力を有するものは高く評価されて当然だ。かく言うリガールも然り。名も無い一民間人で、しかも名家の出身でもない彼が教皇報道秘書官という地位までこの若さでのし上がったのは、目端が利いたからに他ならない。
「確かにマルガリータ…妹御の方がその点ではこういう世界では生きやすそうに見える」
と、リガールは密かに思った。妹に対する姉とは、ミスティ・サファイアことアルテミス・サフィールの事だ。姉妹ともに利発には相違ないが、長女の方が得てして不器用な生き方をする、というのはこの名門出身の姉妹にも当てはまるだろう。
それにしても、姉妹は似ている。姉ミスティが深紅の薔薇のまさに今開かんとする大輪なら、妹マルガリータは、赤く色づいた蕾か。
螺旋状の階段を上り詰めると、踊り場でリガールは一礼し、マルガリータから離れた。
「では、私はこれで」
「あらもう帰るの?おじさまに会って行かないの?」
「私はどうも、枢機卿にはあまり好印象を抱いて頂いてないので。朝から、こんな不躾な顔をお見せするのはいけないかと」
リガールは、慇懃に言った。卑屈な雰囲気は無かった。
「ふうん。そうなの。私は姉さんやおじさまが言うほど、アナタのことは嫌いじゃないわ。ちょっとバカ丁寧なんだか、無礼なんだか判んないけど」
マルガリータはずけずけと、ものを言った。
「そのお言葉、在り難く頂戴します」
リガールは苦笑した。
「可愛くない笑顔ね。男前が台無しよ、素直に笑ってみたら?」
マルガリータは、またしても言い難い事をきっぱりと言った。姉よりも口さがない。だが、リガールは不思議に腹は立たなかった。
「練習しておきます」
再び深くお辞儀してから、リガールは階段を下りていった。マルガリータは、階下まで視線を巡らせ、その姿を見送った。
程無くして、まさにロッソ・カルディナーレ、真紅の法衣を纏った銀髪の紳士が現れた。
「おじさま」
振り返ったマルガリータの顔に、満面の笑みが浮かんだ。
「何やら騒がしいですね」
アーチレリー・ブールヴァルドは端整な面を上げた。右手には金の酒盃が掲げられていた。杯を満たすのは、白いシラバブ(乳酒)だった。醗酵した山羊の乳であって実は酒ではない。イスマイリも表面上は禁酒を守っているのか。ただ、シラバブ自体は独特の臭みがあって、飲み慣れない者なら思わず吐き出してしまうだろう。
だが、アーチは出されたものを無理して飲んで見た。臭いは頂けないが、味は悪くない。
「賊が入り込んだようです」
と、側近の男が早口に言った。アーチは幸いにもある程度のイスラム系語を解する。少々頼りない部分はあるが、それは漢民族の言葉を知るよりも楽だった。
《山の長老》ハサン・イ・バルキヤックは、黙って肯いた。側近と警護の暗殺者達には絶大な信頼を持っているかのように、老人は厳かだった。
「見慣れない風体の若い男と、少女。それに、紫紺のターバンの男が乱入して来た模様です。ただちに駆逐致します故、少々お耳障りな音もいたしましょうが、いま暫くご勘弁を」
男は慇懃に述べると、音も立てずに素早くその場を立ち去った。
アーチは、胸中で呟いた。
「何しに来やがったんだ、あのアンポンタン。どうせ、宿から様子を窺ってたんだろうが…」
ハサン・イ・バルキヤックは、静かに酒盃を傾けた。広々とした空間に座すのは、この老人と二人の側近、そして対面するアーチのみだ。
遠くで発砲が響いている。男達の靴音も賑やかだった。
「天候は明日以降、下り坂ですね」
と、アーチは重々しく言った。
「何故そうと判るのかな?」
「昔からの言い伝えです。遠くの物音が聞こえる時は、天気は悪くなる、と。つまり少々科学的に言えば雨雲が上空から降りてきている証拠ですね。そうすると、雲に反射して音は幾分聞こえやすいのです」
アーチの的確な答えに、ハサン・イ・バルキヤックは感心したようだった。
「しかし、まさか賊とやらは例の物を狙って来たのでは?」
アーチは言った。
例の物、とは言及するまでも無い、《千年の孤独》だ。
ハサン・イ・バルキヤックは、黒い瞳を瞬いた。
今しがた、眼前の若い医師には総ての経緯を語り終えたところだった。
「今までにそういう輩も幾たりはあった事だ。いや、数世紀に渡って《千年の孤独》は心無い連中に狙われ続けてきたものだ…」
老人は嗄れた声で次句を継いだ。
「だが、何人たりとも外部の者はおろかここらに居る朋輩とて、あれを観ることは叶わなかった」
「その至宝とやらを、何処の馬の骨とも知れない、いやヴァティカンの微温湯につかってメシを食っているような若輩者のオレにあっさりと閲覧させて頂けるというのは、天の秘蹟ですか」
アーチは決して冗談ごかして言ったのでも、皮肉でも無かった。その言葉の調子を最も理解したのは、他ならぬハサン・イ・バルキヤック。側近二人は、些か怪訝な面持ちになっていたが。
「ドットーレ・ブールヴァルド。貴方は優秀な学者だと伺っている。本来は、フサーム・ハーン・アッカーという男がすべき任務だったが、フサームは不慮の事故で死亡した。たまたま貴方がこのアラムートを訪れていたというのも、何かの奇遇であろうか。是非にこの老体の願いを聞き届けて欲しいのだ」
ハサン・イ・バルキヤックは、恭しくアーチに向かって言い、目を細めた。
アーチは、オリーヴグリーンの瞳で老人を見詰め返したまでだった。答える術は無かった。
つい三時間程前、《山の長老》の口から聞かされた事を、アーチは俄かに把握し難かった。
事実としては受け止められても、何がといって、こんなマイペース人間にも感情というものがある。その普段は他人に見せない感情を震撼させるような、そこはかとない不気味な真実と申し出が、アーチレリー・ブールヴァルドをして躊躇せしめたのだ。
ハサン・イ・バルキヤックが喉から手が出るほど欲しいのは、確かな腕を持った医師だった。いや、正確には生物学に精通した人間だ。医学者でなくとも、分子生物学者で充分なのだ。
アーチには、いま一つの疑問があった。
ヴァティカンの宿敵とも言えようムスリム世界の、しかも急進派と言って差し支えないイスマイリ派ヌォーヴォ・ニザリ教団の頭領の申し出を安直に承諾してよいものか、という危惧だ。
有り体に言えば、これは巧みな罠だとも考えられる。罠にしては余りにもストレートな感は否めないものの。
そもそも、この砦内部にクリスチャンが足を踏み入れる事など、無かった筈だ。それを簡単に許してしまえるところに、何か不穏なものを感じずには入られない。いや、切羽詰まっているというべきか。
「だが、あんなものを見せられた後じゃなぁ…」
アーチは久しぶりに少々悩ましい気分になっていた。知らず知らずの内に、美味くも無いシラバブを飲み干していた。頼んでも無いのに、二杯目がなみなみと金盃に注がれた。
麝香の香りが漂っている。噎せ返るような、脳を麻痺させる匂いに、女を知らないあどけない少年なら、穏やかに眠っていられないだろう。そう、この匂いは山岳で捕らえられた貴重なジャコウネコの分泌腺より摘出した香料に混じって、幾分女体の香りも醸している。
アーチは目を伏せた。つい半時ほど前の会話を思い出す。
「お返事をさせて頂く前に、一度城下に戻らせてくださいませんか?いずれにしろ、此処へは手ぶらで参りましたので」
すると、ハサン・イ・バルキヤックは、アーチに向かって鄭重を尽くして言った。
「しかし日も暮れました。どうぞ、今晩は此処でお休みなさい。御存知でしょうが、険しい階段には手摺も命綱もない。お帰りになるなら、明日の朝」
「返事は明日の夜、で宜しいでしょうか?」
ハサン・イ・バルキヤックは、黙って頷いた。
もし仮に今夜帰ると言って聞かないなら、アーチは恐らくあの階段から突き落とされる運命にあっただろう。だが、そうではなかった。とはいえ、ニザリの秘密は厳守だ。最も深遠な部分に無理矢理とは言え足を踏み入れさせられた以上、唯々諾々と《山の長老》の申し出を呑んでも、断っても唯事では済まないだろう。
半ばうんざりした気分で、アーチは寝床に就いたものの、やはり疲れていたのか芬々たる麝香の香りに誘われて直ぐに夢心地になった。
闇の中で香料に混じって、アルコールの芳醇な香りがした。
襦子(しゅす)のような薄いカーテンを開いて、生暖かい風が忍び込んだ。
アーチは不意に冷たい空気に晒されて、目覚めた。だが、目は開かなかった。身体の内奥が疼くような感覚に呼び覚まされたのだ。薄目を開けて見れば、夜着を剥がれた自分の股間に女が蹲っているのが見えた。
覚えず押し寄せかけた奇体な快美の波を振り切って、アーチは女の髪を掴み引き起こした。
声も無く、若い女は濡れた唇を開き、呆然と上半身を立たせた。薄物だけを纏った妖美な肢体だった。
「本当にオレが欲しかったら、もっとじらせて見せるんだな」
言葉は判らない。だが美しい女は、冷たい青炎の点ったような大きな瞳を震わせた。少女のようなあどけなさが、暗がりでも見てとれた。
アーチは、直ぐに見覚えのある顔だと悟った。長老に、或る部屋でこっそりと紹介された女の一人だった。
「長老様の命令か?」
ペルシャ語の問いに、女は素直に頷いた。
案の定、とアーチは軽く舌打ちした。ハシーシュを断ったら、女を送り込んできたようだ。余程、申し出を断られたくないらしい。
だが、相手が悪かったという事に、幸いかなハサン・イ・バルキヤックは気付いていない様子だ。無理も無い。金髪碧眼の医師が、カトリシズムの厳格な貞操観念にどっぷり浸かっているという偏見あってのことだろう。
「……」
女は喘いだ。何か言おうとして、声が出ないのだ。頻りに、う、あ、と可憐な声を出してみせるが、言葉にならない。アーチは、女の頬を撫ぜて、唇を開かせる。指で触れてみると、女の口腔で蠢く舌は非常に寸足らずだった。どうりで、舌の粘りを直接感じなかった訳だ。
戒めや罰によって切除されたものではないと知れたのは、切断面の肉芽が無いからだった。
かつて東アジア地域に於いてこういった宮殿内、もしくは妓楼にはわざと歯を総て抜いた女や、舌を短くした女などがいたという記録が残っている。総ては口腔性交の目的に施術されたものだったが、この女はそうではない。
生まれつきなのだ。
だが、結果は同じだ。恐らくは暗殺者を育てる為の蜜だ。素晴らしく熟達した性技を持った宮女として、若者を虜にするよう召抱えられているのに変わりは無い。
アーチは、怯えた目付きの女の頤を上げさせ、ゆっくりといとおしげに唇を吸った。女はとろりとアーチの膝の間に崩れた。こういう風に、男に接して貰ったのは初めてなのだろう。女は既に警戒心を解いて、アーチのなすがままになった。
女はきくきくと動き、聞こえない声で、歓喜を謳った。
女が携えてきた酒瓶が転(まろ)んで、床に液体を零したが、それも半ば乾いてしまう長時間、女は耐えた。
少女のように柔らかい肢体をベッドに投げ出して気を失ったのは、真夜中だった。
「さすがに長老様のセレクトした女だけのことはある」
アーチは些かげんなりした気分で白衣のポケットからライターを取り出し、ランプを点した。
「……」
女の顔を照らし出した灯りが、ぼうと広がった。女の寝顔は安らかに上気しており、ふっくらした頬はまだ二十歳に満たない少女だと容認出来た。
結い上げた髪は、黒々と滝を作って乱れ、黒い睫毛は固く閉じられていた。しかし、その黄味を帯びた白い肌の色、ほんのりと甘い体臭、細い四肢、柔らかく小振りの乳房、平たい腹部は、どう見ても中近東の女らしからぬひ弱さだった。
女達の血筋や素性は聞かされていたが、それでもアーチには訝しむ部分があった。
「もしかしたら…」
という、ある種の感のようなものがアーチを動かした。女の寝乱れた髪を一本抜き取ると、アーチは白衣に仕舞いこみ、そそくさと衣服を着込んだ。夜中に徘徊するのは得意だ。夜目が利くからだ。だが、誰もこの若い医師が闇に紛れて宮殿内をうろついているとは思わないだろう。
何しろ、今頃宮女に骨抜きにされて惰眠を貪っている頃だろうから。
断崖を見上げると、高所恐怖症のジンならずとも、よくぞこんな所へ登ったり降りたりするものだ、とピーチィは感慨に耽ってしまった。
膝を付いて座り込んだ草の上は、高度三百メートル以上から着地するには程良い深さだった。
ターバンの男は、この事も総て計算ずくだったのだろう。草地に大きく広がったパラシュートの紐を手繰りながら、男はピーチィの視線を感じて振り返った。
ジンは、男の脇にぐったりと横たわっていた。
空中に投げ出された時点で、既に意識を失っていた。サングラスは何処かへ紛失してしまっていた。只、忘我の局地に陥った人間の情けない表情が貼り付いている。
かろうじて《ブラックホーク・ディオファイア》を手放さないところが見事なプロ根性というべきか。
「…くぉの、はよ起きんかい!」
ピーチィは、ジンの肩口を蹴り上げようとした。だが、ターバンの男は黙ってそれを制した。男は腰に提げたスキットルの蓋を開け、どぼどぼとジンの顔に液体を浴びせた。
もわっと立ち上る強いアルコール臭。殆どエチルアルコールそのものといって良いほどの強烈な臭いだった。
「おわっぷ…ぷうぷぷ」
ジンは悶えた。咳き込んでのろのろと起き出すまで、ターバンの男はスキットルの液体を容赦なく注ぎ続けた。
「な、何しやがんだ手前ェ!?」
と、飛び起きて、ジンはきょとんとなった。
「……」
てっきり死んだものと思っていた自分が生きていたのだ。
「おおおお、オレ?」
ジンは自分の四肢を見詰めた。
「生きてるじゃん!いや、もしかしてここは天国でしょうか?…あ、違うか」
ジンはピーチィの顔を見て項垂れた。べっぴんのネーチャンがわんさといる筈の天国に、斯様な少女がいるわけが無い。
「どういう意味やねん!」
ピーチィはジンの足を踏ん付けた。いで、と踊るジンが振り返った先にターバンの男がいた。
「済まねえ。あんたのお陰で二度も助かったぜ」
ジンはターバンの男に右手を差し出した。
「……」
「覚えていまいか?」
男は落ち着いた声で言った。ジンは、きょとんとなった。男の声は何処かで聞いた事があるような気がしていたのだが、ターバンの屈強な男に友人は居なかった筈だ。
男は、空いた左手でするりと紫紺のターバンを取って見せた。ジンとピーチィの顔が見る見る驚愕に彩られた。
見事に剃られた赤銅色の禿頭、鋭い眼光を保った瞳。そして左目下の黒子。寡黙な軍人上がりを思わせる彫りの深い年齢不肖な顔立ち。
「パルメット・ソノーラ」
ジンは知らず、呟いた。奇しくもホンコンで会って以来の邂逅だった。敵とも味方とも得体の知れなかった男が、今は力強い握手でもって、ジンの右手を束縛していた。
バザールの時間が始まった。
ジョー・クリサンスマムは、石榴売りの風体で行き交う人々を睨んでいた。といっても、表面上は至極暢気だった。
七年前。
アルジェリア内紛は、州都アルジェから勃発し、周辺地域を含めて間歇的にその様相を呈していた。主に、その要因はムスリムとカトリック、そしてプロテスタントの対立と言えた。かつて支配者であったフランス自治国の直轄地として存続していたアルジェリア州は民族の坩堝だ。
内紛は、以前は石油産業で食っていかれた旧殖民都市も、資源が枯渇してしまえば用は無いとばかりに放棄してしまったフランス政府の責任でもある。
だが、その実、アルジェリア放棄がフランス政府に介入する《上層都市》の高官らの口添えだと判ると、ヴァティカンは名目を保つために直轄権を奪取して、自ら取り込もうとした。
其処へ真実を知ったフランス野党をはじめ非政府組織の反対に遭い、ヴァティカンは危うく同領地内での衝突を避け難い命運に出くわすのだった。
件の地、アルジェでの武力抗争が始まろうとする折、ジョー・クリサンスマムは異端審問所の命を受けて赴いた。
其処で鉢合わせたのが、誰あろう、国際警察巡査官キール・ロイヤル・スタンレーだったのだ。
当時は、まだスタンレー自身は巡査長という肩書きだった。尤も、優秀なキャリア組として、その後の出世は明らかに見えていたのだが。
「平和維持活動という名目の、明らかな軍事介入だ」
ジョーは言った。あわよくば、これを機に手狭な《上》から基地を移してしまいたいのが、国連警察の本音であって、表面上は棲み分けを望んでいるように見えるカトリック総本山と《上層都市》の連中も、胸中どろどろした野望を抱いている。そんなことは、言うまでも無い大人の世界であって、只の手駒に過ぎないジョーにとっては、どうでもいいことだった。
「その話はローマで聞いていたわ」
と、ミスティはしみじみ言った。特務巡検使の実務に就く前、ヴァティカン五軍が解体されて間もない時分だった。解体直後とあって、再編成が不十分な時期に起こった内紛の為、ヴァティカン国防省は混乱を極めていた。
「オレの任務は飽く迄、ムスリムのテロ組織を叩く為。その為の存在だ」
ジョーは紫煙を吐きながら言った。口調は軽々しいが、言葉の持つ意味は重い。
ジョー自身、元テロリストでなければ、異端審問官でいる意義はない、というのだ。それは恐らく異端審問所所長グレナデン・サフィールの意向に違いない。ミスティは、伯父の人的能力を評価する慧眼には恐れ入っていたが、そういう冷たい部分を幾分軽蔑していた。それは、己の若さ、甘さともミスティは思うのだが。
「任務は一応の成果を挙げたんだが、スタンレーのお株を上げる事にもなっちまってだな。詳しいことは話せばキリがないが…兎に角それ以来、オレとヤツとは奇妙な縁がある」
「腐れ縁というヤツね」
ミスティは愉しげに笑った。ジョーは、口をへの字に曲げて売り物の石榴を齧った。隣に座っているミルザが、一瞬戸惑いの声を上げたが、ジョーは構わず唇を赤くして石榴を齧り続けた。
不意に、ミスティは立ち上がった。
黙したまま、急ぎ足でバザールのテントの下を歩き出す。その青い瞳が凝視するものは、男の背中だった。
「待て!」
ミスティは、覚えず叫んだ。男は、一瞬振り返ってまた早足で歩き出した。今度は、より早く。
生成りのターバンの男であることは明白だった。今日はターバンでなく灰色のフェルト帽を被っていたが。
走るミスティも、アラムートの城内の事は無知に等しい。男は地の利を生かして、ちょこまかと逃げ回った。
白壁は迷路のようにミスティの方向感覚を惑わせた。だが、鍛えぬいた脚力で必死に俊敏な男の背中を追った。
「貴様…!」
肩で息を吐きながら、ミスティは男が塀を攀じ登るのを見た。《パイソン・シスタームーン》を抜く。
だが、男の身体はミスティがトリガーを引くよりも先に、地面に屑折れた。
どさり、と音を立てて後、男はぴくりとも動かない。只、噴水のように喉から夥しい鮮血を噴き上げていた。
第二章(2)に続く
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