第十九話
 〜千年の孤独 mille-solitalio  
(前編)


第二章 ダブル・インパクト TRIGGER MEN

 (2)

 「噂をすれば何とやら…。もう試合は始まっているというわけね」
 ミスティは塀の上から飛び降りた男を見て、言った。男の長い銀髪は乾いた空気にゆっくりと流れるように落ちた。
 黒いコートの埃を叩きながら、キール・ロイヤル・スタンレーはミスティに向き直った。相変わらず涼しい紳士面だ。
「ご明察です」
 スタンレーはにこりともせずに応えた。男の死体を見下ろしつつ、《鉄仮面》スタンレーは手にした暗器のようなものを懐に仕舞った。投げた剃刀のような飛刀が男の喉笛を掻っ捌いたのだ。
「一手先んじたのは御免」
 と、スタンレーは英国紳士らしく慇懃な言い回しをした。
「随分と荒っぽいことをするのね。顔に似合わず」
 ミスティは嫌味で応戦した。
「殺してしまっては元も子も無いわ。この男は医師殺しの下手人なのに」
「承知です。私の密偵は既に三日前からこの城内に潜ませてありますからね。ありとあらゆる場所に」
 スタンレーは含みの多い答え方をした。素人ではないミスティですら、簡単にそうと判らないように潜ませてあるという絶大な自信の表れだ。バザールの中にも数人いたのだろう。こちらの打つ手は見え見えだと言いたいのか。
「男が殺した医師の名はフサーム・ハーン・アッカー。《千年の孤独》を復活させる為に選択された人材だということも」
「其処まで知っていて、何故?」
 ミスティは《パイソン・シスタームーン》を下ろした。気分は決して良くないが、あからさまな敵意は示さぬが花だ。
「恐らくは、フサーム・ハーン・アッカーを殺害したのは、イスマイリの急進派ニザリの中でも、更に急進派の連中です。彼等は《山の長老》を頂く旧態派とは相容れないで、密かに独立を試みている筈ですよ」
「よーくご存知ですのね」
 ミスティは赤い唇を窄めて笑った。誘惑しているような素振りにも見えた。
「貴女もご存知の連中ですよ」
「…?」
 そう言われて、ミスティは一瞬戸惑ったが、ややあって思い出す何かがあったようだ。
「急進派は、非政府組織として地下活動をしています。彼等は旧態派の教団復興とは異なった形での復興を望んでいます。いわゆるトゥーラン運動の一端ですがね」
「思い出したわ。旧世界の破壊兵器を探っている連中のことね」
 ミスティは苦笑を浮かべた。
 ディアマントスの《不帰の砂漠》で埋もれていたガーディアン・ワーム・アーツの実態、そして生物兵器《PE》を追う男。
「彼等は時に我々に協力的です。第七次ジェノサイド条約を遵守、そして過去の誤った遺産を撤収するに欠くべからざる陰の力として、快く我々に協力してくれるようです」
 スタンレーはさらりと言った。
 ミスティの胸中に、みるみる疑念と憤懣が湧いた。
「・・・じゃあ、あの時、ガーディアン・ワーム・アーツを回収するつもりで辺境にいたのは、ホリー・ディプシーでもその裏の組織でもなく、やはりアナタだったというのね」
「そういう事です」
 《鉄仮面》は、その渾名に遜色ない冷淡な表情で肯いた。
「ドットレッサ・ディプシーは、良くある言い方をすれば『裏切り者』とでも言いましょうか。非政府組織が調査・回収したものを我々が押収するに理由は及びませんからね」
「つまり、非政府組織に下仕事をさせて置いて、国連に対する越権行為だとして獲物を押収する、もしくは協力するという形で旧世界兵器を回収する、という筋書きが端から出来ていた…」
 ミスティは言った。スタンレーは不気味なくらいに落ち着いた表情で、特務巡検使の高説に聞き入っていた。
「さしずめ妥当な協力体制なのね。幸い彼等の組織はムスリムを熟知している。そして、ヴァティカンの統括地域で不審物が発見されたなら、それは平和維持活動と称して、国連介入の口実となる。或いは、それを楯に彼らが擬似的内紛活動やヴァティカンへの脅迫を行ったとしても」
 いずれにしても、《上層都市》の連中が隙あらば、ヴァティカンへの口出しを狙っているのは確かだ。そして、その口実をつくる切欠を自ら作り出そうとしているのも。
 スタンレーは、ミスティの心を読んだかのように、軽く首を傾げた。
「ご立腹ですか?お気持ちは判りますよ。貴女は悉く、してやられた気分でしょう。ディアマントスの件といい、ホンコンでの事といい」
「ホンコンでの事を何故アナタが知っているの!?」
 ミスティは激しく詰問した。
「さる情報筋からです」
 聞くまでも無いことだった。愚問を発して後悔したのは、ミスティ自身だった。あの時、あの事実を知っているのは修道院の人間と自分達以外に部外者はあの男一人なのだ。あの男、パルメット・ソノーラ。
 ミスティの胸に沸々と怒りが湧いてきた。騙された自分が悪いのだが、それくらいの事は予測してあるべきところ、自分が何も感じなかった事に対して名状し難い怒りが押し寄せて来た。
「貴女はたいへん正直な御方だ」
 スタンレーは微笑を浮かべた。
 こんな場面でそういう台詞を言える無神経さが、気味悪い。普通は火に油を注ぐようなものとして、敢えて言わないのだが。余程の自信家でなければ、只の馬鹿だ。無論、スタンレーは前者に相当するだろう。
「…でも、アナタの言う、時には味方と成り得る急進派の手の者をこうして殺してしまって、どういうつもりなの?」
 ミスティは気持ちを押し込めて言った。
「この屍は切り札の一つです。有効に使わせて頂きますよ。世界の命運を掛けた一ページ、いや一行にこの男の生きた意義が記されるでしょう。死ぬ事によって、この男は生きるのですよ。でなければ、只人を殺してその金でハシーシュや賭け事に興じているだけの愚かな男に過ぎません」
 よくもそんな空恐ろしいことを抜けぬけと、このエセ紳士、とミスティは思ったが、反論したところで馬鹿げていた。
「私に見付かっておいて只で済むと思うの?」
 ミスティはわざと鹿爪らしい顔をして言った。
「取引ですか」
 スタンレーはにんまりと笑った。
「そういう事ね。アナタがその男をどうしようと自由だわ。だけど、私はアナタが男を殺した事実を、彼等急進派に告げる事は出来る」
 ミスティが言うや否や、スタンレーの右腕が翻った。コートの下に潜ませた暗器がミスティの喉元に迫っていた。そして、《パイソン・シスタームーン》の銃口は、スタンレーの下顎を突き上げていた。
 奇怪な抱擁の男女は、緊迫感を滲ませながらじりじりと壁に向かって移動した。
「ご婦人に手荒な真似は遠慮したいのですが…貴女は見かけ以上に強情だ」
「アナタこそ。見かけによらず、激しいのがお好きなようね」
 ミスティは喉を鳴らして笑った。ちくちくと鋭い刃が当たる。
「ミャーン」
 黒猫が塀の上を走った。
 緊張が解け、ミスティはしなやかな発条を生かしてスタンレーの腕をすり抜けた。スタンレーも同じだった。素早く後退し、飛刀を仕舞いこむと男の死体を抱え、軽々と塀を攀じ登った。
 重々しい制服姿には不釣合いなくらいに、軽快な動きだった。
 後に残ったのは、シプレ系のオー・デ・コロンの香りのみだ。
 ややあって、タバコの白い煙が現れ、無精髭の男が姿を現した。男の腕には、つい今しがた塀を走った黒猫が抱かれていた。
「オアツイ逢瀬を邪魔してすまんなぁ」
 と、ジョーはニヤニヤ笑いで言った。
 無言のミスティは、わざと《パイソン・シスタームーン》をジョーに突きつけた。
 
 《山の長老》の城塞を脱出し、城外へ出て数時間。ここはアラムートの北部にあるだだ広い平原の一角だった。元は、石油採掘の基地として置かれる筈だった、中継点の付近にある。今や言うまでも無いが、カスピ海からのラインは途絶えて、朽ち果てた建物が幽かに残滓を留めているだけだ。
 ソノーラは、上手な語り手だった。サンド・バギーでゆるゆると進みながら、己の生い立ちから経緯までを実に簡単に話して聞かせ、そこで初めて現在の自己の身分を語った。
 掻い摘んで言えば、ソノーラはそもそもムスリムだが、アラムートの生まれではない。
 両親こそこの地方に生まれたが、ソノーラ自身はイタリアはラヴェンナに住んでいた。幼い時に、姉を亡くした事は、例の《PE》の事件の際にジンも後から聞いた話だ。
「私は二十年前まで国連軍東方部に所属していた。だが、上官と上手く合わないのもあり、軍の遣り方が性に合わないのもあって依願除隊し、再び下におりて来た。そこで、傭兵業などで稼ぎながら日々の糧を得ていたんだが…」
「成る程なぁ」
 ジンは大きく肯いた。
 ソノーラは、見るからに軍人上がりだからだ。それに、傭兵隊長というのは余りにもぴったり過ぎて可笑しいくらいだった。
「私の両親はアラムートの生まれだ。このアラムートは周知の通り、かつてのニザリ教団の中心地だった。しかし、イスマイリ派は兎も角、アラムートは既に歴史上滅んでいる。今の城内は他の都市と同じ商業都市に過ぎない」
「イスマイリ。ウチの手下にもムスリムはいっぱいおるで」
 ピーチィは言った。ソノーラは、やにわに優しい微笑を浮かべた。
「そうか、お嬢ちゃんは…《海の民》だったな。東南アジアへ渡ったイスマイリ派も多いだろうな」
 だが、ソノーラはまた神妙な面持ちに戻った。
「話は戻るが。そのアラムート城塞を再建し、《山の長老》を復活させたのは、ほぼ一世紀前だと聞いている。今の長老、ハサン・イ・サバーは新生ニザリの三代目という訳だ」
「ひょええ。もう、そんなになるのか?何だか、ごく最近出来たみたいに思えたけどな」
 ジンは首を捻った。
「ディアスポラ全域で活動し始めたのは、この一、二年だろう。それまでは、全く地下組織のように動いているだけだったのだ」
「何でまた、今頃…?」
「それは判らん。《千年の孤独》の復活と何か関わっているのか、それともヴァティカンに対する脅威を示すためなのか」
 ソノーラは低く唸った。この年齢不詳に見える男の眉間に、鋭い縦皺が寄った。
「けど、それとあんたとどう関わって来るんだ?」
 ジンの問い掛けに、ソノーラはやや間を置いてから答えた。
「傭兵家業をしていると、さまざまな危険と共に誘惑がやってくる。私は幸い、というか惜しむべきというか妻子を持たないが、仲間はいる。そして、仲間には家族がある。彼等総勢数百人、いや数千人を養っていく為には当然必要な物も出来る」
「金か」
「端的に言えば、そうだ。元々傭兵には信念など必要無い。だが、それだけでは仕事や人生は成り立たない。食っていく為には金は必要だが、味気無いものだ。己が生きる意味は何処にあるのか」
 ソノーラの言葉に、ジンは意外な気持ちになった。厳つい面からは想像し難い台詞が出てきたからだ。
「…少なくとも、我々はヌォーヴォ・ニザリと称する『長老派』を支持していない。かつての栄光或いは世界的な貢献など、知る由もないが、現在の世の中に敢えてまた暗殺者教国を復活させる意義が何処にあるというのだ」
「さぁ。オレには何とも言えねえな」
 ジンの乏しい知識と、判断力で判るのは、ソノーラ達が《山の長老》に武力を以って意義を唱えようとしている事くらいだ。恐らくは、それまでに何度か武力以外の方法で訴えていたのかも知れない。だが、悲しいかな、今の現実はお互いに言葉も持たずに殺しあう、というところまで来ているのだろう。
「サンチャゴ・エル・ブランコでの事件も聞いている。既に出遅れた感は否定出来ないが、こうなっては我々はやはり《千年の孤独》の復活を阻止するのみだ」
 相変わらず出て来る、《千年の孤独》という宝物の名。それが何なのか、ジンにもピーチィにも全く見当が付かない。
「で」
 ジンはマルボロをふかしつつ、話題を変えた。
「あの時、ホンコンから持ち去ったディスクは何処へ行ったんだよ?」
 ソノーラは一瞬、訝った。この天下泰平楽な言動の男から、そんな疑問が出て来るとは、ちょっと考えられなかったからだ。
 ジンはと言えば、忘れようにも忘れられない事実を背負っている以上、あのディスクの行方は是非とも問い質して置きたかったのだ。
「…あれは、上に渡った。UPから、恐らくは国連本部の組織に」
 ソノーラは答えた。ジンは紫煙を長く吐いた。
 様々な思惑と、過去数ヶ月の思い出がジンの脳裏をニコチンと共に駆け巡るのだったが、とりとめも無く、言葉に仕様が無い。こういう時、相棒の雄弁さが羨ましい限りだ。
「国連本部に渡ったということは、本部はやはり…」
「ヴァティカンへの介入を試みているようだ。ガーディアン・ワーム・アーツは兎も角、《PE》は本来ユーロ時代の産物とはいえ、ヴァティカンに眠っていた殺人兵器なのだから。それが事故とはいえ流出したとあらば、黙って見逃す訳が無い」
「あんた、それを誰かに言ったか?」
 ジンはソノーラの横顔を睨んだ。
「ああ」
 と、ソノーラは固く肯いた。思わず、ジンはサンド・バギーのハンドルを握るソノーラの手を止めさせるに至った。
 ジャッ。
 ジンの右手に握られた《ブラックホーク・ディオファイア》が、銃口を光らせてソノーラの顎に突き付けられた。
「…手前ェ、何てことしてくれるんだよ?」
「仕事なのだ。仕方ない」
 即座にそう答えたソノーラの顔に、やや緊張が走った。ジンの右手人差し指がトリガーを弾いたからだ。既に、サンドバギーは道端に停止していた。後部座席のピーチィが、怯えたような大きな目をかっと見開いていた。
「仲間とその家族を食わせる為かい。さぞかし気分が良かろう」
 ジンは吐き捨てるように言った。ソノーラは地平線を見詰めたまま、言う。
「《鉄仮面》の遣り方だ。お前も知っているだろう?」
「《鉄仮面》?あ?スタンレーか!あの気障ヤロウ、キール・ロイヤル・スタンレーか!」
 ジンは呆気に取られた。まさか、こんな所で数ヶ月前の事件と繋がっているとは思いも寄らなかった、というのが正直なところだ。
「…今更、あんたと《鉄仮面》の馴れ初めを問い質したところで、気色悪いだけだがよ。よりにもよって、何であんなヤツと」
 ジンは、大きく溜息を吐いた。
「しかも、《PE》は事故流出なんかじゃねえのに…」
「あ?」
「いや、何でもない。兎に角、あんたは、UPの犬ヤロウの片棒担いでるってことだな。オレは帰るぜ」
 ジンは、《ブラックホーク》をソノーラに向けたまま、サンド・バギーのナビシートを降りようとした。
「行くぞ、やんちゃ姫」
 ピーチィは目をぱちくりさせた。ジンは、少女の細い腕を、無理矢理後部座席から引っぱった。
 夜はまだ明けていなかった。
「待て」
 徒歩でアラムート城内へ引き返そうとするジンに、ソノーラの低い声が呼び掛けた。
 ジンは振り返らずに歩き出した。
「スタンレーはまだ《PE》の存在を上層部には告げていない筈だ」
「はぁ?」
 ジンは漸く振り返った。
「その事を告げたのは、約一月前だ。この間、ヤツはここらに出張っているので、上層部と緊密に連絡を取っていない。しかも、お前も知っているように、この周辺は特に電波状態が悪い。連絡の取り様が無いのだからな」
「断言出来るのか?」
 ソノーラは黙したまま、肯いた。
 その瞳は鷹のようにジンとピーチィを真っ直ぐに見据えていた。
「何の為に私がお前達を救ったか、考えてみるといい」
「……」
 そう言われて、ジンは漸く頭から熱気を追い払った。
 端からソノーラがUP、スタンレーに加勢するだけならば、ヴァティカンに雇われの身とも言うべきジンを見殺しにしたって構わないのだ。それをわざわざ危険を顧みず窮地に飛び込んだ意義は、幾ら浅はかな子供であってもこの瞬間、ソノーラの言葉に知っただろう。
「私は金の為に情報を売ったが、ムスリムの魂だけは上層都市の人間に売り渡すつもりなどない。利用されたなら、利用し返すまでだ」
 ソノーラの明るい瞳に怒気が籠もっていた。
「恐らく、スタンレーの部隊は上の命で《山の長老》の城を潰しに掛かるだろう。だが、生きて大手を振ってヤツらを帰すつもりは、我々には毛頭無いのだ…」
 ジンは、ごくりと生唾を飲んだ。のほほんと、お気楽なプレミオーロ(賞金稼ぎ)には到底想像もつかない宗教信念が、其処にあるのだろう。
 UPの介入は、それはヴァティカンを脅かすと共に、ムスリムの世界をも震撼させる脅威とも成り得るのだから。
「わかった。協力してやるよ」
 ジンは言った。テンガロン・ハットを脱ぎ、右手を差し出す。ソノーラもそれに応えた。
「だが、一つだけ断っておくが、決して我々はヴァティカンの立場を理解したわけではない」
「言われなくてもわかってら。オレは、オレ。ジン・スティンガーとして、協力するだけだ」
 ソノーラは、ジンの右手を強く握り返した。
「ただし。高いところは勘弁」
「心得た」

 今では珍重されているニルギリ茶が、さり気無く北欧生まれのボーンチャイナと共に出て来る所など、やはりヴァティカンだ。
 マルガリータが無類の紅茶好きだという事を心得ていて、伯父は堅物ながら気を遣ってみたのだろう。そんな心配りが嬉しい。マルガリータは素直に喜んだ。
「さすがね、おじさま。贅沢ぅ〜」
 まずは香りを楽しんで、鼻腔が膨らんだところでマルガリータはカップに唇を付けた。
「もしかして、グルッポ・カルディナーレに入ると毎日これが飲めるのかしら?」
 可愛い顔して、舌鋒の鋭さは実の伯父であるグレナデン・サフィールも舌を巻く程だ。明らかな嫌味、としか言いようのない言葉に、枢機卿は苦笑を禁じ得なかった。
「…懐かしいな。お前達とこれを飲んだのは、何年前だろうかね」
 サフィール枢機卿は、灰色の瞳を伏せた。
 カルタヘナの旧い屋敷。かつて城塞だった敷地に立っていた黄色い壁。御伽噺のような中欧の城ではなく、砦としても有能な平城。覚えている限りのことを、マルガリータは思い出してみた。修道院に入る前の幼い日の事だった。
「母さんがまだ自力で歩けた頃よ」
 サフィール姉妹の生母ヴェルジーネは、現在バルセロナの病院に居る。入院生活は何年になるだろうか。
 サフィール枢機卿は、和らいだ表情に少しく困惑したような趣を浮かべていた。
 窓の下には、黒い行列が続いていた。要人達の朝会が済んで、今度は高官が行政庁に登庁して来たのだった。皆が一様に黒いカソック(僧服)と黒ベレーという出で立ちだ。
 ローマっ子達は皮肉を込めて、この光景を『バガロッチ(ゴキブリ)の行進』と呼ぶ。
 もう何百年と毎朝同じ光景が続いているのを知っているのは、聖庁のシンボル、イル・クッポローネと太陽のみだった。
「マルゴ」
 と、サフィール枢機卿は親しみを込めて、姪を呼んだ。
「もう判っているだろうが、お前には司教職に就任して貰わねばならないのだよ」
「…姉さんは?」
 マルガリータは、真っ先に姉の進退を問うた。
「姉さんにもヴァティカンに戻れというの?」
 サフィール枢機卿は、組んだ両手の上に顎を乗せた。
「特筆すべき功績をあげずとも、叙階を経て高官になることは可能だ。事実、特務巡検使は高官予備生といっていい身分であるにしても」
 マルガリータは、床の上に視線を落とした。
 ヴァティカンで最も文武に秀でた人間達をも、簡単に馬上から振り落としてしまう外界の脅威に晒されている姉の身は、常々心配だった。
 特務巡検使が一般巡検使に比して、危険を大きく孕んだ職務であることは、マルガリータも知っている。公務執行中に殉職することも屡。
 特務巡検使という職業は、法と秩序、そして武力の三位一体を提唱する時代に組み込まれた独立システムである。
 現実において、伯父貴の言うよう、彼等は若くして出世する。だが、決して其処から緋色の絨毯を歩く事は無い。
 叙階を経ない一般人が出世するには近道なのだが、叙階という「神の祝福」を頂けない以上、司教区も持てないのだ。知力、武力において誰よりも抜きん出ていても、極端な話が己の能力よりも低い高位聖職者に使い尽くされて終わるだけの人生だ。
「無論、はなからアルテミスをそんな便利屋の一人として腐らせてしまうような事は考えておらんよ」
 サフィール枢機卿は、言った。
「おじさまは、姉さんにその赤い枢機卿服が似合うと思ってるの?」
 マルガリータは、皮肉めいて言った。喉の奥に紅茶の香りがまろんでいた。
「それとも…」
「昔ながらの時代は終わる」
 サフィール枢機卿は、マルガリータの言葉を遮って朗々と声を放った。祈祷書を読む時の声に似ている、とマルガリータは思った。
「有力な教区を持ち、対面と秩序のみを重んじ、教義にこだわるあまりにカトリシズムを『神学』のみに貶めた時代は終わらねばならない」
「『戦争の世紀』、続いて『混乱の世紀』、そして『疲弊の世紀』を振り返ると、まさにヴァティカンは今後新しい方針を打ち出さないとやってけないわね。領土ばかりを拡張する時代は終わったかも。今は『再構築の世紀』だわ」
 マルガリータとて、教務司教養成学校でそのくらいの政治的知識は充分に持ち合わせていたし、事によっては老獪な紳士たちを論破することも難しくは無いだろう。
「でも、現実には中近東の汎トルコ主義問題も、内紛も山のように課題が残っているでしょ。未だにアイルランド問題も解決し切っていない。最近聞いたところによると、アレね、ヌォーヴォ・ニザリが暗躍しているとか…」
 サフィール枢機卿は、サンチャゴ・エル・ブランコの一件を非公式にしていた。それだけではない。マルガリータにさえ、事件の真相を述べていない。
 それは、述べる必要を感じなかったからだとも言えたが、知ればマルガリータをも危険に晒す可能性があった。
 とはいえ、勘の良いこの娘が全く何も知らないわけであるまい。薄々知っていて、言うのだ。
「姉さんが噛んでるのは、判ってるわ。それでここ暫く音信普通なのもね」
 私を見くびらないで、という小娘の自信に満ちた顔が、サフィール枢機卿の前にあった。
「その件に関しては、アルテミスにはこれから更に一働きして貰わねばなるまい。本来は異端審問所の管轄でもあるのだが、彼等だけでは心もとない故に」
「あら、おじさまのご贔屓にしてらっしゃるジョー・クリサンスマム神父を派遣してるんじゃなかったの?」
「彼は試験的に出向させたまでだ。本来の仕事に戻って貰わないといけない。それにあの男は有能だが、半分死人だ」
「そうなの…」
 マルガリータは驚きはしなかった。伯父貴の人物評価は得てして厳しいものだからだ。
 半死人だという評価は、将来においてサフィール枢機卿に及ぼす影響を言っているのだろう。初めから上司に対して半分しか命を預ける気が無い放浪者の感がある、と言いたいのだ。
 成る程ね、とマルガリータはよく動く瞳で天井の豪奢なシャンデリアを見上げた。
 ヌォーヴォ・ニザリは、いわばヴァティカンの世界統一において脅威の一に値する。かつての十字軍が暗殺者教団の恐怖とイスラムの台頭に悩んだように。幸い、モンゴル帝国の進出によってイスマイリ派ニザリ教団は歴史の海に埋もれていったのだが、皮肉にもそのモンゴル軍によって、ヨーロッパは新たな危機に晒された。
 現在は、それほどの脅威と軍事力を持った軍団はないにしても、トゥーラン運動がひとたびまた発火すれば、第二のモンゴル帝国とも成り得る可能性はある。しかも、ウラル山脈やコーカサス山脈を越えた遥か東方からやってくるのではなく、敵は僅か数キロの海峡と、湖を超えて迅速にやって来るのだ。
「功績が無ければ、幾ら『ヴァティカンの頭脳』の姪、優秀な執行官であっても、階位を与えるのは不適とみなされる。姉さんに名目と功績を与える為のヌォーヴォ・ニザリ攻略。まるで、初めからそういう脚本になっていたかのような周到さとも言えなくも無いわね」
 マルガリータは、思った。だが今は口にすべき時ではない。
「ただ、事は我々の間だけでは収まらないと見える。クリサンスマム神父の報告では、上の連中も動いているということだ」
「上というと、UPの連中が何故ヌォーヴォ・ニザリに?」
「お前も知っているだろうが、地下資源を失ったムスリムの現資金源は非合法ドラッグにある。それがディアスポラだけでなく《上層都市》にも随分流入しているのだ。いや、むしろ生きていくので精一杯の地べたの連中以上に、上のほうが需要が高いに違いない」
「三つ巴というわけね。姉さんが心配だわ…」
 マルガリータは溜息を吐いた。
「心配には及ばんよ。スロッピー・ジョーとは比べ物にならんくらい優秀な人材をアレには付けている」
「……」
 マルガリータは、伯父貴の言葉に何か他人を見下したかのような卑しい響きを感じ取った。人を人とは思わないような、そんな差別的な言い回しに聞こえたのだが。
「マキシム・デ・リガールよりもキレ者で、ジョー・クリサンスマムよりも豪胆な男。死神にも簡単に背を向けられるあの男にしか、この大役は演じられまい」
 サフィール枢機卿は、淡々と言った。言葉の端々に、マルガリータは違和感を感じていた。余裕の無さだろうか、頭脳明晰な伯父貴が酷く焦慮に駆られているように思えた。
「何を焦っているの?おじさま。そんな優しい顔して、腹の中ではどす黒い血の海で溺れている子供みたいに」
 マルガリータは、胸中の不穏な考えとは裏腹に、花の様な笑顔でニルギリ茶を楽しんだ。


第三章(1)に続く

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