第十九話
 〜千年の孤独 mille-solitalio  
(前編)


第三章 死神に愛された男ども THIS CRUEL EYES

 (1)
 
 医院は、城内のはずれにあった。珍しく手入れの行き届いた建物は、一見他の住宅と同じように見えたが、確かに看板が掛かっていた。
「誰かいませんかぁ?」
 よく通るバリトンテナーの声が、玄関先に響いた。
 返事はやや遅れて返ってきた。それも、アーチの背後から。
「…あなた誰?」
 少年は、黒い瞳でアーチを見上げた。少年の腕には黒い猫が抱えられていた。
「ああ、済まない。キミがここの坊やかい?」
「そうだけど。父さんなら、いないよ」
 ミルザ少年は、言った。
「それは聞いている。お会いする前から、実に残念な話だが」
「あなたもお医者さんなんだね。父さんの事なら、今は話す気になれないよ…」
 少年は小さい声で言った。アーチは、じっと少年の容貌を観察していた。日に焼けた肌はやや黄味がかっているが取り敢えず、目鼻立ちは何処か他のムスリム達と違っているような気がした。扁平な鼻梁。秀でた額。そして、黒い瞳を抱えた眼は目間(まなかい)に襞がある。
 モンゴロイド系にのみ見える蒙古襞だ。無い人間もいる。だが、それは特徴の一つだ。
 思わず、少年のズボンを脱がしたい衝動に駆られた。いや、変態趣味ではない。蒙古斑が残っているかも知れないのだ。漢民族には無い。モンゴル人と日本人にのみ存在する乳幼児の尾てい骨あたりに現れる青黒い斑。
「はっ」
 思わずアーチは我を忘れそうになった。
「どうかしたの?」
 ミルザは訝しんだ。アーチは首を振った。
 何故、少年を見て日本人を思い出したのだろうか。そういえば、宮女もこの少年の雰囲気を醸し出していた。生憎と、成熟した女体には蒙古斑は無かったが。
「いや。キミのお父さん、フサーム・ハーン・アッカー医師に《千年の孤独》に関する要請が下ったのは何時の話なんだろうか?」
「よく覚えてない。一年…もうちょっと前だったかも。でも、何でそんな事聞くの?」
「ハハ、キミに聞いても仕方ないか。ところで、お父さんはキミにそっくりかい?」
 アーチは、ジュラルミンケースを地面に置き、屈んで少年の顔を見詰めた。ミルザ少年は、この初めて見る美しい男に天使でも見るような思いだった。
「ううん。父さんはもっとお髭が濃くて、日焼けしていて、お鼻が高かった。ボクは似てない。母さんに似ているって」
「お母さんは?」
「知らないんだ。ボクが生まれて直ぐに死んだって」
 ミルザは、ごく淡々と答えた。
「そうか。悪い事を聞いたなァ」
「本当の事だから」
 ミルザは小首を傾げただけだった。腕の中の黒猫がニャーン、と鳴いて少年から離れた。黒猫は、アーチの膝にしなやかな身体を擦り付けてから、また素早く路地裏に逃げ去った。どうやら、歓迎すべからざる客を知ったらしかった。

城外は、朝まだきの冷やりとした空気に満ちていた。
 テントの中は、外気に比して異様なまでに暖かかった。もうじき沸騰を示す赤い警告ランプが、旧式のポットに点った。
 大人が立てば十二、三人はは入れるだろう折りたたみ式簡易テントは、その名称や見かけ以上に立派なものだ。中には、一先ずここで過ごすに充分な設備があった。いや、ある意味充分過ぎるくらいに。
 パルメット・ソノーラは、沸騰した湯をすぐさま琺瑯のマグカップに注いだ。固形のブラックコーヒーが溶け出して、みるみるうちに黒い液体と化した。
「もうじき夜が明ける」
 そう言いながら、ソノーラはジン・スティンガーにカップを渡した。カフェインを摂取しなければいけないほど眠気はなかった。むしろ、目が冴えて困る程だったのだが、寒さからジンは直ぐに黒い苦い液体を口にした。
 ソノーラは、ピーチィにも同じマグカップを渡した。だが、こちらの中身は、白い液体だった。
「うーん」
 ピーチィは密かに唸った。ミルクもこうしてインスタントにされると、まったく有難味を感じない。山羊にしと、牛にしろ、絞りたてがいちばんなのに。とはいえ、この御時世では生のミルクを入手するのは困難なのだ。
「ここがあんたら『急進派』の本部なのか?」
 ジンは一息入れたあとで、ソノーラに向かって訊いた。
「本部は旧アゼルバイジャン飛び地のナヒチェバンにある。ここは仮の部隊駐屯地として置いている」
「ナヒチェバン…」
 ふと、聞き覚えのある地名を繰り返してみたが、ジンにはあまり馴染みが無いようだった。
「それに。道々話した事だが、我々は『急進派』などと呼ばれているが、決してそうじゃない」
 ソノーラは、やや疲れた表情で言った。
「本来のイスマイリ派としてのメッカを築く為に働いているだけだ。その志を同じにする者の集まりだ」
「はぁ」
 ジンにはどうでもいい事だった。反発も同調も無い。全くの部外者というスタンスを、ジンはここに来て再び感じた。
「…ところで、あの男はどうした?」
「あの男?ああ、相方の事か」
 ジンはばつが悪そうに頭を掻いた。サングラスを失くしてしまったので、表情が丸判りなのが面映い。
「それが、この町に一緒に来たはいいんだが。昨夜はキレイな馴染みのねーちゃんの家にシケ込んでたと思ったら、朝には黒いターバンの連中と長老の城に向かって行ったんだ。それで、後を尾行(つけ)ていったら…」
 ソノーラの顔色が、一瞬蒼白にさえなった。
「何?宮殿内に入っていったというのか?」
「ああ。無理矢理、とかいう雰囲気じゃなくて、まるでVIP待遇だったぜ」
 ジンは掌に置いた一本のマルボロを弾き、口に咥えた。
 その時だった。テントの中に、転びつ起きつ男が入り込んで来た。痩せた色の黒い男だった。迷彩服に身を包んでいた。
「何事だ?」
 ソノーラは鋭い眼光を男に向けた。明らかに下っ端の人間と思われる男は、息を弾ませながら立ち上がった。
「はぁ、はぁ。すいません、導師。ケ、ケ、ケルマンが!」
「ケルマンがどうかしたのか?」
 男はソノーラの問い掛けに、直ぐに返答出来なかった。
「どうした?…死んだか」
 その言葉で、男は漸く肯いた。ソノーラはゆっくりと立ち上がった。左目の涙堂上にある黒子に触れながら、ソノーラは黙って男を押し退け、テントを出た。ジンもピーチィもソノーラの後を追った。
 向かいのテントの奥には、俄かに集まった『急進派』の同志達が犇めき合っていた。
 仄暗いテントの空間の中央には、帆布に包まれた男の遺骸が投げ出されていた。
 ターバンは崩れ、首筋にこびりついた赤黒い血塊が、急所を示していた。ソノーラが分け入ると、皆は暗黙の了解で遺骸の周りから一歩退いた。
 ソノーラは静かにケルマンの遺体の胸に触れた。
「…誰がこの遺体を?」
「はい。今しがた、このテントに放り込まれたんです」
 と、一人の若者が言った。精悍な面差しの少年だった。こんな、自分より若そうな人間も参加しているのか、とジンは思わず今の状況に関係ない感慨を抱いた。
「放り込んだ連中は、何も言わずにバギーで去って行きました。見たところ、我々と同じムスリムのような風体でしたが…」
「本当にムスリムかどうか判ったものではない。それに、我々がこの場所に駐屯している事を知っている人間は、ごく少数だ」
 そう言って、ソノーラはテントの中を見渡した。
 一人の男が、嗚咽を洩らした。
「ケルマンのヤツ。やっぱり無理に、あの医者を殺っちまったからだろうか?」
「《千年の孤独》復活の命を受けた人間を殺したから…」
「殺すんじゃなく、拉致するだけでも良かったんだ」
 同志達は口々に囁いた。囁きと呼ぶには、大きな声だったが。
 ソノーラは、暫し遺体の致命傷となった首の傷を眺めていた。『急進派』の連中を束ねる導師、という名目にあるとはいえ、仲間を失った一人の男にしてはいやに落ち着いている。何か思うところでもあるのだろうか。
「皆、下らない迷信は信じる必要無い。ケルマンはアッラーの意志で命を全うした。その役目を果たしたのだぞ」
 ソノーラの威厳ある声で、一同は静かになった。
「蓋し、ケルマンを殺害した者が『長老派』であるにせよ、それ以外の者であるにせよ、我々はそれなりの仲裁を施さねばならんようだ」
「おお!」
 仲裁、という言葉に『急進派』同志は共鳴した。
「何なんだ…」
 この辺りの心境が、元来流れ者であるジンには理解し難い部分だった。隣のピーチィは、いやに熱っぽい目で彼等を見ている。思春期の少女は、こういう集団心理に弱いのだろうか。

 少年が医院のドアの中に消えた後、アーチは白衣の襟を正した。再び右手に軽々と提げた銀色のジュラルミンケースが、陽光を反射していた。
 気配が変わった。アーチは、瞬きをして路地裏や民家の影に潜んでいる《山の長老》の密偵の存在を再確認した。朝方城塞を出た時から、彼等は無言裡の内にアーチを監視していた。それは至極当然の行為だ。送迎の者をつけないで欲しい、とアーチが願ったからだ。
 その代わり、アーチが尻尾を巻いて逃げ出さないように、ハサン・イ・バルキヤックの息がたっぷりと掛かった暗殺者にして密偵が、密かについて来たのは言うまでも無い。
 彼等は、影のように音も無くアーチにつかず離れず随い、そうして城外れまでやってきた。恐らく、城内で彼等を凌ぐ手だれなど存在しないだろう。アーチが感じる限り、その気配は常に自信に満ちていたのだ。
 だが、此処に来て急に密偵達の気配が変わった。
 妙に落ち着かなくなったのだ。
 その理由は只一つ。
 アーチが今現在対面している男の存在にあった。
「久しぶりだな、貴公。ドットーレ・アーチレリー・ブールヴァルド」
 黒い軍用マントに包まれた痩身が、逆光に縁取られていた。
 それとは対照的に白い、飽く迄輝くような白さの白衣を纏ったアーチレリー・ブールヴァルドの姿が向かい合った。
「あんた誰?」
 と、アーチは鼻の穴を膨らませて言った。
「…って言ったら怒るかい?」
「いや。物忘れが激しいようだな、その若さで気の毒に」
 銀髪痩躯の男、キール・ロイヤル・スタンレーは言った。全く負け惜しみに聞こえないところが、スタンレーの《鉄仮面》たる所以だろう。
「オレは男の顔や名前は、滅多に覚えないことにしてるんでね。女のコの事に関しちゃ、ヴァティカンのマザーコンピュータも凌ぐ細密な記憶力だと自負しているが。そりゃもう、いろいろとネ」
 聞きもしない事をずいずいと喋りそうだったが、スタンレーは敢えて止めなかった。
「あんたの可愛がってるあのコ、リンダとか言ったなぁ。ムチムチナイスバディの金髪。元気にしてる?」
「本人に聞くといい。城内に潜入している筈だ」
「ふうん」
 アーチは、唇の端を歪めて笑った。
「で、今日はオレにデートの誘いでも?」
 スタンレーの茶色い瞳に険が走った。
「貴公、これから何処へ出掛けるつもりだ?」
「聞いてどうする。オレが行く所は、患者か女のいる所と決まってる」
 アーチは、素っ気無く答えた。
「何しろ、相手は千年もの間、オレという名医を待っていたんだ」
 その言葉に、スタンレーの表情が一瞬強張った。だが、緊張は直ぐに解けた。冷ややかな微笑が《鉄仮面》を彩る。
「ふふふ。そう急ぐ事もあるまいに。千年も待ったというのなら、もう一時間や二時間くらい大差ないだろう?」
 台詞が終わるか終わらないかの内に、スタンレーは素早くアーチに詰め寄った。殆ど互いの息が掛からんばかりに顔を付き合わせる両人。
「何だよ、オレはその気なはいぜ。しかもあんたみたいな、紅茶漬けの英国野郎はお断りだ」
「お断りだろうが何だろうが、構わん!」
 スタンレーは覇気の籠もった声で言った。だが、その声は小さく、密偵達には届かないようだった。
「貴公は何をさせられるのか、承知で言っているのか?」
「勿論だとも。現に《千年の孤独》とやらを閲覧させて貰っての承諾だ」
「何!?」
 スタンレーは、やや怯んだ。
「貴様…見たのか?知っているのか?あれは前世紀の遺物、忌まわしい殺戮兵器ではないのか?」
 スタンレーの言葉に、アーチは首を傾げた。成る程、スタンレーもしくは《上層都市》の連中の見解では、《千年の孤独》は排除すべき大量殺戮兵器との推測のようだ。
「殺戮兵器ねぇ。そうは見えなかったが」
「出鱈目を言うと、貴公の命も危ないぞ」
 恫喝は柔らかい声でアーチの耳に届いた。だが、アーチはくすりともせずに白衣のポケットに突っ込んでいた右手を出した。スタンレーの右手には、既に鈍く光る物が見え隠れしていた。
「フォーティファイド(強化人間)であるこのオレを、どうやって力ずくで捻じ伏せるつもりだい?」
「…ふ」
 スタンレーは、薄く唇を引いて笑った。飛刀の刃がアーチの喉元に当たった。
 と、同時にスタンレーの鳩尾に突き入れたアーチの左手刀が、弾き返された。否、弾かれただけでなく、右脇腹に鈍い痛みが響いた。
「……!」
 それは、ブラスターでもましてやパウダーガンでもない感触だった。もっと柔らかいもの。アーチは、スタンレーの茶色い瞳を見据えたまま、皮肉に片頬を歪めた。
 スタンレーの唇から、糸きり歯が零れた。笑うと意外に茶目っ気があるのだが、今の表情は凄惨とも喜悦とも言えた。
「強化人間は、何も貴公だけではないのだよ」
 アーチは、哂うスタンレーの瞳に《鉄仮面》の暗い魂を見た。

 白衣の裾が埃を舞い上げた。重なるように黒いコートの金釦がバラバラと地面に散った。お飾りだけのものだが、それがなくなると余りにもスタンレーのコートは蝙蝠じみて見えた。
 アーチは強かに突き入れられた胃袋の下から、苦いものが込み上げてくるのを感じたが、堪えた。
「あんた、もしかして《スパルタン》か?」
 アーチは乱れた呼吸を整えながら、スタンレーとの間合いを計った。スタンレーはニヤリ、と白い歯を見せただけで言葉にしなかった。それが答えだ。
 《スパルタン》は、UP(国際警察)の有する特殊部隊の事を言う。素手で百通りという殺人術を身に付けた、恐るべき特殊部隊。かつて戦争の世紀に活躍したという、グリーン・ベレーなどの比ではない、無慈悲な殺人部隊だ。
 一見柔和な紳士面の下に、冷酷な性格が見え隠れするのはキール・ロイヤル・スタンレーの性格的な特徴のみかと思われたが、然(さ)に非ず。肉体的優越感さえ、それに拍車を掛けていたのだ。
「《スパルタン》がフォーティファイド(強化人間)で構成されているっていう噂は、真実だったのか」
 アーチは作り声で言った。
「辺境警備にはこんな重装備は無用だったからな。実に今は開放感に浸っているよ」
 スタンレーは、檻から放たれたライオンのようにのびのびとした表情で、答えた。アーチは、両手を広げて肩を竦めた。
「生憎、オレの半分、イタリアの血は無益な争いを好まない。まあ、一点の曇りも無い歴史とはいい難い面もあるが、概ね妥協の民族でな。おたくら血の気の多い海賊の末裔とは違うんだよね」
 スタンレーは、神速で跳躍した。普通の人間なら、脳味噌をヨーグルトのようにぐちゃぐちゃに掻き混ぜられること間違いない拳が、アーチのこめかみを掠めた。危ういところで、金髪が乱れた。
 立て続けに襲ってくる乱打の嵐さえ、アーチはことごとく紙一重でかわした。
 そうして、スタンレーが如何なる能力を有するフォーティファイドかを見極めるのだ。確かに、体術は遥かにスタンレーがアーチを凌いでいた。正当な訓練を受けた無駄の無い動きと、迅速な反応が、素人目にも明らかだった。
 ぱっと見た感じは、スタンレー有利。
 だが、苦戦しながらも紙一重で攻撃を交わし切っているアーチの動体視力と抜け目無い敏捷さは、スタンレーに勝っていると言えた。
「日和見主義者め。貴様のような軟弱な人間に、強靭な肉体は不釣合いだと思うが?」
 スタンレーは余裕の表情で囁いた。先程挑発に乗った時に比して、随分落ち着き払った声だった。
「オレが軟弱だろうが、ナンパだろうがおたくらには関係ない。それよりも、他人のシャバで随分と勝手に動き回って大丈夫なのかい?」
「要らぬ心配。貴公こそ、《千年の孤独》に関わることがどういう事なのか、まるで判ってないと見える」
「判っていないのはあんたの方だ」
 アーチは前蹴りでスタンレーの突進を封じた。動きが一瞬静止した瞬間、強烈な回し蹴りを首筋に叩き込んだ。絶妙のタイミング、そして決して失策は有り得ないと思われる長いストロークだからこそだ。
 黒いコートに包まれた肉体が、弾丸のように宙に浮き、すっとんで十メーターほど向こうの白壁に激突した。
「……!」
 蹴った方は、思わず片膝を付いた程だった。これほど力を渾めて蹴ったことは、今までアーチには無かった。
 象をも蹴倒す事が可能なフォーティファイドが、渾身の力で蹴りを入れたということが、何を意味するかは明白だ。まして、相手が同じフォーティファイドだと知ってこそ、仮借ない猛攻を発揮出来たというものだ。
 スタンレーは、背中の壁に大きな亀裂を作ったまま、暫く動かなかった。
 アーチは、にじり寄るようにその黒いコートの裾の手前まで進んだ。
「つまり、オレの方が脚が長いということさ」
 アーチは口笛を吹き、凄絶なまでの冷笑を浮かべた。無理に笑いながら、本当は心拍数が随分跳ね上がっているのを肯んぜざるを得なかったが。
「ふふ…素人にしては、筋は悪くない。ドットーレ・ブールヴァルド」
 スタンレーは、ゆっくりと面を上げた。縁なしの眼鏡は外れていた。唇の端に薄っすらと血が滲み出していた。
 だが、《鉄仮面》は次の瞬間、跳ね起きた。よろめく動作を挟む余地も無いくらいに。
「あんたも思った以上に丈夫だな」
 アーチは憮然として言った。
 何より、総身縮み上がらせて見ていたのは、二人の言動を固唾を呑んで見守っていた密偵達だったろう。
 常人をはるかに凌ぐスピードで繰り出されるパンチや蹴りの応酬も兎も角、壁を打ち砕くほどの脚力を持つ男と、それで吹っ飛ばされても何事も無かったかのように起き出す男。
 密偵達は、呆気に取られ、また心底から震撼した。彼等の両眼は、まるで化け物を見るかのように変わった。
「貴様はヴァティカンを裏切るつもりか?」
「はぁ?」
 スタンレーの喉から出た言葉に、アーチは意外性と共に滑稽味を感じた。
「ハハ。裏切るも何も、オレにはそんな気持ちは毛頭無いぜ」
「《千年の孤独》は、言うまでもないがイスマイリ、いやヌォーヴォ・ニザリの象徴。それを復活させようとする事は、ムスリムに加担する事になるのだぞ」
 スタンレーは、再び拳を握った。今度は例の飛刀が指の股に光っていた。
「そんなにオレの仕事の邪魔をしたいのか?オレは科学者としてしか、アレには興味無い。ニザリの復活だか何だか知らないが、金を貰ってそれで終わりだ」
「果たして、老獪なヴァティカンの高官どもがそれを黙っているだろうか?」
 スタンレーは、アーチとの間合いを詰めた。
「おたくの言いたいことが漸く飲み込めたぜ」
 アーチは、苦笑した。灰色の脳細胞が、みるみる活発に動いてほんの瞬間で、今までほんの数分間で得たスタンレーの言動と一連の出来事を繋ぎ合わせたようだった。
「だが、あんたをあの城塞に連れて行くわけには行かない」
 きっぱりと、アーチは断った。
「見え見えだ。あんたの考えは」
 アーチは、密偵達に聞こえるように、わざと大きな声で言った。
「あんたは必ず、城塞を完膚なきまでに破壊して、ニザリを無きものにしようとする。理由も何もあったもんじゃない。それが為にわざわざまた下まで降りてきたんだろうが、そうそういつもいつも土産を抱えて戻れるとは限らないぜ」
 スタンレーは不敵な笑みを浮かべ、縁なし眼鏡を掛け直した。アーチは、白衣を脱ぎ捨てた。
「尤も、オレが連れて行かずともあんたは付いて来るだろう。オレは男に付回されるのは御免蒙る。だから詰まる所は、この辺でゆっくり寝ていて貰うしかないなぁ」
 ゴングは無い。だが、再びこの人間であって人間で無い能力の持ち主達の死闘が始まった。

 空がくすんで来た。陽が傾き始めたのだ。
 医院の看板を下ろした少年の肩を、大きな手が覆った。ミルザは振り返って、驚愕と共に喜びに目を見開いた。
「おじさん!」
 ミルザが抱き付いた男の胸は広く、そして温かかった。
「アナタは…」
 少年の小さな身体を抱えた男は、医院の正面に立っていた背の高い若い女を見て、頷いた。
 パルメット・ソノーラは、ミルザ少年と隣り合って座り、ミスティ・サファイアと向き合っていた。
 懐かしいような気分に囚われながらも、ミスティは複雑にして憤懣の積もった心地をどうにも出来なかった。目の前に居るソノーラは、ニザリの『急進派』であり、つまりは『長老派』の要請を受け入れたフサーム・ハーン・アッカーを暗殺した連中の首領なのだから。
 ミスティの青い瞳が炯々とソノーラの瞳を睥睨していた。
「ミルザの父親とは旧友だった…」
 その言葉がどういう形でミスティに衝撃を与えたか、余人には計り知れないだろう。
 ミスティの視線は、一瞬空ろに泳いだが、やがて少年の無垢な瞳を見るにつれて、曇った。少年は、ミスティの微妙に翳った表情を察知してか、不意に立ち上がった。
「ボク、何か飲み物でも淹れて来る」
 少年がそそくさと、その場に居た堪れないような動作で去ると、ミスティは膝を突き出してソノーラをきっ、と見据えた。
「…アナタは何を考えているの?」
 怒りを押し殺したような声だった。だが、明らかに非情の女巡検使の感情の坩堝は、煮え滾っていた。
「我々は、『長老派』の復興を止めさせる必要がある」
「それが為に、こんな事を?」
 ミスティは言葉を選んでいた。もしかしたら、ミルザがまだ其処に居て聞いているかも知れないのだ。
「《千年の孤独》の復活を阻止する為だ、止むを得ない」
 ソノーラは、平坦な声で言った。
「むしろ、フサームが何故《山の長老》の申し出を唯々諾々と承知したのかが、私には全く理解出来なかった」
「何ですって?」
 思わず、ミスティはソノーラの迷彩服の襟を掴んだ。女とは思えぬ大力に、さしものソノーラの腰も一瞬浮き掛けた。
 だが、ミスティは短慮の無い動作で再び腰を下ろした。
「理解できない旧友は、簡単に殺してしまえるのね」
 今度は、ソノーラが熱くなる番だった。男の浅黒い両手が拳を象った。中手骨が飛び出るかと思う程に、ソノーラは力強く己の手を握り締め、腿の上で打ち震わせていた。さすがにミスティに手を掛けるような真似はしなかった。それは男として当然の態度と認識しているからでもあり、ヴァティカンの高官候補生に何かあったら、己の身にとんでもない結果が待ち受けているのを熟知しているからだ。
「殺せと命令したつもりは無かった」
「でも、何度も危ない目に遭ったと、ミルザは言っていたわ」
「……」
 ソノーラは、ミスティの曇った青い瞳を見詰め返した。握った拳の中から、血が滲み出していた。
「アナタがそう薦めるべきではなかったの?《千年の孤独》から手を引けと。『長老派』の言う事を聞いて欲しくなかったのならば」
「貴女の言う通りだ…」
 ソノーラは歯を食い縛って、答えた。
 だが、それは既に言い訳にもならなかった。
「フサームは国連軍時代の友人だった。会った当時はフサーム・エディン・サールと名乗っていた。それが、アッカーという医師の養子になったというのを知ったのは、つい最近のことなのだ」
「その時は既に、《千年の孤独》を甦らせる医師を抹殺するように命じていたというわけね」
 ミスティは、ソノーラが認識したくもない事実を、わざとに繰り返した。意地悪ではない。ソノーラは重々しく頷いた。
 半開きになったドアが、不意に揺れた。
「ミルザ!」
 ミスティとソノーラは、同時に叫んだ。
 だが、少年の姿は既にドアの外には無かった。ほんの一瞬、少年の怯えたような悲しみにくれたような黒い瞳がミスティの網膜に焼き付いた。
 

第三章(2)に続く

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