第十九話
〜千年の孤独 mille-solitalio 〜
(前編)
第三章 死神に愛された男ども THIS CRUEL EYES
(2)
暗雲が広がって来たようだった。空は既に夕陽に染まっていた。その見事な黄金色を侵食して、灰黒色の雨雲が東から流れて来た様だった。
「一雨来るなぁ」
シケモクを咥えた石榴売りが言った。否、只の石榴売りではない。スロッピー・ジョーこと、異端審問官ジョー・クリサンスマムその人だった。
バザールは殆ど終わっていた。だが、まだ路地裏では白い煙がところどころ立ち昇っている。
ミルザ少年が駆け寄って来た。かと思えば、ジョーを無視して一目散にバザールの通りを走りぬいて行こうとする。
「おうい!何処行くんだぁ?」
声を掛けられて、ミルザは漸く立ち止まった。まるで、ジョーに呼び掛けられたのが救いの手のように、少年は息も絶え絶えに走っていたのだ。
ミルザは、ジョーの姿が近付くや、わっと叫んで胸元に飛び込んだ。
「何だ、泣いてんのか」
そう言うと、ミルザは余計にジョーの腰をぎゅっと掴んで、今度は声を上げてわあわあと泣き出した。
「やれやれ…」
商売をたたんだ連中は、通りを出て行く。
だが、人通りは途絶えなかった。昨日のように、陽が落ちて急にうら寂しい雰囲気にはならなかった。一体、どうした事かとジョーは暫し眺めていた。ミルザが一頻り泣き止むまでは、そうせざるを得なかったが。
「どうしたってんだ」
ジョーはシケモクを足元に吐き捨てた。
無精髭を撫でながら、ジョーは両目を瞬いた。通りを疎らに、しかも早足でやって来る連中がいた。その後を、町中だというのに不躾にサンド・バギーが横行していた。
ジョーはミルザの身体を抱え、道端に後退した。
男達は無言で、ジョーの前を通り過ぎて行く。十中八九はジョーの顔を一瞥した。それは単なる興味本位に過ぎず、難癖つける類の輩でないのは一目瞭然だった。
サンド・バギーに揺さぶられて行く男の群れを見て、ジョーは唸った。
「おっさん!」
「おっさんちゃうわい!」
ジョーは思わず怒鳴り返した。走り去るバギーの後方から、手を振る姿があった。ジン・スティンガーが必死の形相で振り返っていた。何か叫んでいるが、巻き上げられた土埃と音に掻き消されて、殆ど聞こえなかった。
「あいつ、こんな所で何やってんだ?それに、連中は…」
ジョーの青灰色の瞳が鈍く光った。髭が生え掛けた口元に何やら皮肉な笑みが浮かんだ。男達は、明らかに《山の長老》の座す城塞に向かっている様子に見えた。
アラムートの村々は、かつてはもっと貧困に喘いでいた。それは二十一世紀半ばまでも、そうだった。比較的平坦な土地にある民家であっても、穀物部屋に一家の女性が寝るという状況は少なくなかった。
少し裕福な家庭の女となると、宝飾品を身に着けているが、それは殆どが模造品かガラス玉というものだった。時代は下って、やや改善された感はあったが、それでも女は質素だった。
他のディアスポラ地域と比して、殆ど欧州化されていないからだろう。
ミスティ・サファイアは、黒いヴェールを頭からすっぽりと被ってやや早足で歩いた。
昼間なら、男の形(なり)をしていても目立つが、夜の帳が下りてしまえば遠慮する必要は無かった。しかし、年端も行かない少女の身なら兎も角、成熟し切った女が幾ら颯爽と歩いても男のにおいを感じさせないのは必定。
薄汚れた路地裏を歩いていると、昔の記憶が次々とミスティの脳裏に甦る。
特務巡検使は、一般の検察官(ジウディーチェ)でもあって、そうでない。異端審問所は、ヴァティカン内の独立機関として教皇直轄の捜査官を持つ。いわば、ジョー・クリサンスマムなどは、教皇および枢機卿会(グルッポ・カルディナーレ)のお抱えスパイなのだ。
スパイはその歴史的過程を言うまでも無く、非情な任務と訓練を課せられたある意味優秀な人材だ。そして、ヴァティカンに仕える場合は敬虔なクリスチャンでなければならない。
叙階の必要は無い。だが、任命時に、その心身共に聖庁に尽くし、教皇そして神の御膝に額づく意志を表明する形をとらねばならなかった。
「裏切り者は、躊躇い無く断罪してよい」
という一項目が『検察官規定』の中にある。これに乗っ取る行動を以って図り、特務巡検使は任命された。
「キャプテン・ブラッド…」
ミスティは、ふとその男の名を洩らした。忘れられるものではない。
かつてミスティ・サファイアに、パウダーガンの手解きをした男。だが、ヴァティカンから《称号》を賜りながら、自ら放棄した男。
裏切り者の烙印を押され、彼の死せる魂は中間(ちゅうげん)を彷徨っているのだろうか。
だが、何故思い出す必要があるのかは、図り得ない。強いて言うなら、この宵闇といかがわしい空気がそうさせたのだろう。
「こんな夜だった。生暖かい空気が澱んだ夜だったわ…」
ミスティは、左手で腰のホルスターを探った。
「ようよう、ネエチャン。こんな時間に何処行くんだ?」
擦り寄って来る男に、ミスティは容赦無く膝蹴りを食らわせ、《パイソン・シスタームーン》を突き付けた。
「触るな、お前らに構ってる暇など無い」
野良犬のごとく群がってくる男達も、同様に尻尾を巻いて逃げるのみだ。
ミルザを捜して、それに精一杯だったのも影響しているが、パルメット・ソノーラとの邂逅も彼女の精神状態を落ち着かなくさせていた。
いや、もっと遡ればキール・ロイヤル・スタンレーの所為とも言えた。
一つ一つ整理していくことは簡単だったが、気が滅入った。ミスティ自身が片付けねばならない仕事は、最終的には判っている。だが、其処に辿り着くまでに何かが足りないような気がしていた。例えば、ジグソーパズルの一ピースのような。それが見付からなくても、ほぼ解決するのだが、やはり見付からないと困る。
ミスティは、何故かヴェールの下のロザリオを握り締めた。少年の姿は見付からない。
静寂が真の支配者として、この場所に君臨していた。夜の闇は、只の従者に過ぎない。
アーチレリー・ブールヴァルドは、嫌な静けさの中を歩いた。どうもこの闇に嫌われているような、ちくちくした感じが衣服を通して皮膚を針のように貫いた。
密偵の跫(あしおと)は、殆ど聞こえない。まさか逃げ帰ったというわけでもあるまい。
スタンレーを寝かし付けるに、かなり手間取った。
「子守唄までうたってやらないと寝ないとはなァ…」
白衣と黒いコート。ブロンドとプラチナ・ブロンド。美しいとさえ言える対比だが、二人の男の繰り広げる光景は、さながら地獄絵図のようにも見えた。密偵が魂消たとしても、それは無理も無いことだった。
格闘技のテクニックでは、遥かにスタンレーの方が優れていた。概ね相対する人間は、マトモに肉体を使って喧嘩したことのないアーチよりも技術の面で勝っているのだが。
それでも、理論だけは人並み以上とはいえ全くの素人が達人を倒してしまえるところに、ファーティファイドとしての特質が遺憾なく発揮されていた。
お互いの弱点は見えてくる。それはほぼ常人と変わりないのだが、どうしても内燃機関のサイクルが比して短い。そこが強化人間の長所でもあり、弱点だった。
視覚、或いは聴覚等の刺激によって、視床下部からアドレナリン分泌の命令が下り、どっと神経興奮度が高まる。副交感神経系は生命維持活動以外の総ての活動を中止する。
興奮すると異様に食欲が減退、睡眠はおろか性欲までも失ってしまうのが、普通の人間の比どころではない。アーチが仕事を始めると、裸の女が傍らに寄り添ってもまるで関心が無いのは、その所為もあろう。
ある種、脳内麻薬と言っていいエンドルフィンの類の分泌が烈しくなり、攻撃本能が増す。
そして、血圧の上昇、血流の速度、そしてタンパク質分解の速度、再構成の速度が、急速に高まるのだ。ブラーエ増強受容体(エンハンス・アクセプター)という小細胞が、体細胞内で活発に動き始める。
ぱくりと開いた唇ほどの傷が、十数分後には赤い筋を残すだけになっている程、この時は恐るべき再生能力を発揮する。
この点において、レミンカイネン(再生促進型強化人間)であるアーチは、並みの強化人間スタンレーの及ぶところでないタフネスを誇っていた。
暗器を使うスタンレーに、アーチは苦戦しつつも耐えた。
格闘技の真の勝利者としての資格は、スピード、身のこなしの柔軟さ、そして力と体重が決め手となる。アーチには、決定的に欠ける部分があった。それは言うまでも無く体重だ。
突きや蹴りが威力を発揮する為には、体重が必要だ。だが、ほぼ六十五キログラム強にしかならない身軽なアーチの攻撃では、まるで蚊が刺したようなものだろう。鍛え抜いたスタンレーの体は、幾ら細身であっても少なくともアーチよりは十数キログラムは上回っていた。
格闘技トーナメントなどで、この体重差はかなり無謀と言える。
だが、そのハンディキャップを問題にしない程の異常なまでの筋力が、軽さを補って余りあった。
突きは得意でない。ストロークの長い脚を使って、アーチはスタンレーを嫌と言うほど土壁に叩き付けた。
「…いい加減くたばれよ」
そう言いつつ、アーチは汗に濡れた金髪を掻き上げた。スタンレーの放った飛刀が、首筋や喉元に赤い筋を作り、両手の甲に幾つもの傷を拵えていた。
スタンレーは、血反吐を吐きながらも紳士面を崩さない。流石に《鉄仮面》と謳われるだけの事はある。
「貴様…」
スタンレーは言い掛けて、止めた。拳を交える毎に、アーチの動きは切れを増している。技術的な向上、というよりも本能ではなかろうか。スタンレーは身を以って目の前の男の潜在能力の底の深さを感じた。
この男は、やはり後天的にフォーティファイドになったのではない。生まれながらの生体サイボーグだ。そして、力と力をぶつけ合う場面では、恐ろしく美しい佇まいにさえ見えた。
「オレには、おたくらのかざす『正義』だの『悪』だのは無関係だ。只、『生きる』為だけに動いている」
「詭弁だな。『生きる』という意志を動かしているものが何なのか、直視してみることだな」
スタンレーは再び起き上がった。
その超人的な体力に、様子を窺っていた密偵達も、我を忘れて声を洩らしたようだった。
「人は自分の意志で生まれたのではない。生まれてあとから理屈をこじつけるのだよ」
その言葉が終わらないうちに、アーチは強烈無比なローキックを食らわせた。常人なら、やはり膝骨が砕けただろう。
だが、スタンレーは倒れなかった。どうやら、強化されているのは体細胞だけでなく、骨組織までものようだ。所謂、体内に重金属が埋め込まれた重装歩兵という事になるのだろう。それにしては、目を見張るような敏捷な動きといえた。
スタンレーの両拳が、アーチの胸骨にめり込んだ。
ひしゃげて音を立てるところだが、めりめりという鈍い音が微かに響いただけで、骨は折れたが肺を庇っていた。
やや怯んだところをスタンレーは、喉を掴んだ。これが弱点の一つだ。
運動能力と再生能力が高まっているのとは反対に、副交感神経に頼る部分は弱く、呼吸はかなり激しい筈だ。気道を塞げば、呆気無く失神するだろう。
「《千年の孤独》を再生させてしまって後悔しないように…」
スタンレーは不敵な笑みを浮かべた。きりきりと、アーチの喉を締め上げる。
その時、力無く下がっていた両腕が動いた。
「うあ」
スタンレーの瞼に血が飛んだ。アーチの両手指が、スタンレーの開いた目を押し込んだのだ。それは、ほんの軽い目潰しだったが。
再び優位を取り戻したアーチは、スタンレーのくの字に曲がった体を右膝だけで軽々と持ち上げ、十メートル先の屋台に叩き込んだ。
伏せた瞼から薄赤い涙を流し、呻いている長い銀髪の男を、アーチは放免しなかった。
恐らく、打撲した際に他の部分も骨折しているのだろう、スタンレーは全く無抵抗というほどに起き上がれなかった。
アーチは、スタンレーの脇腹を執拗に蹴った。そして、片方の足首を鷲掴みにすると、自分よりも重い筈の男の身体を振り回して、再び壊れた屋台の上に投げ捨てた。
密偵達は、息が止まるかと思っただろう。気配を隠すことも出来ず、最早茫然自失の境地でその光景を見ているしかなかった。
「ふ…」
アーチの悪魔的とさえいえる美しい顔に、嗜虐に似た笑みが浮かんだのを、彼等は見た。吊り上った眉、赤い唇、いずれもこの世のものとは思えない美しくも禍々しい造形に思われた。まるでディアブロ(悪魔)だ。
倒れ様にスタンレーが放った飛刀が、両腕に合計十数本刺さっていなければ、アーチは再びぐったりとなったフォーティファイドの銀髪を引き摺り起こしていただろう。
「はぁ、はぁ」
息がとてつもなく上がっていた。身体は熱を帯びたようにかっと火照り、汗が滝のごとく流れた。心臓の鼓動が喉の奥から聞こえた。脈拍は平静時の五倍にも跳ね上がり、普通の人間なら既に悶死している。
頭が割れるように痛い。
だが、アーチの心臓は高鳴りを止める事が出来なかった。
心臓に蛇がとぐろを巻いて締め付けるような緊迫感、そして異様なまでの興奮。
「これがフォーティファイドの真の力…」
初めて出した奇怪なまでの力。否、まだ行き着くところまでは到達していない。
その瞬間に、己はパウダーガンを抜く事さえ忘れていた。何の為のパウダーガンなのか、それすらも忘れた。
純粋な怒りではない。怒りは闘争本能を麻痺させ、判断を鈍らせる。
だが、スタンレーを組み合った時点のアーチは、全く感情を覚えなかった。純粋な闘いへの意志だったか。
人を人とは思わない。自分は『力』というものに降臨され、『力』こそが目の前の人間を虫けら同然に踏み躙っても構わない、とさえ感じる凶悪な感覚。
「ディアーヌが言うのは、この事なのか」
そう感じた途端、アーチはどっと疲労を覚えた。
「何が『生きる』為、ですって?本当は『殺す』為に生きているだけじゃないの?」
そう嘲笑うディアーヌの声が、遠くで聞こえたような気がした。
ジュラルミンケースを持つ手が、鉛のように重く感じられた。指と指の間を、乾いた血の跡が這っていた。
鳩尾が熱を帯びたように痛むが、押さえると反吐が出そうな気分だった。どうせ吐く物もないのだが。鼻腔に広がる血の臭いに脳が麻痺しそうだった。
厚い雲が割れ、月が明るく、遠目にそのシルエットを現していた。青白い炎のような光に照らされた女の顔は、やや憔悴の色を見せていた。それほど時間を経たとは思えない邂逅だが、アーチの目にはミスティ・サファイアがいやに大人然として見えた。
本当は、血を流し切った心をその場で吐き出してしまいたい衝動に駆られたが、意外にもそれを拒否したのは肉体だった。どうやら、まだアドレナリンの残滓があるらしい。
アーチは、至極ゆっくりと歩いて、密偵を気にしながらミスティに近付いた。
ミスティは石壁に背を預けた。チャドルに似せた黒いヴェールを抜き取る。長いブルネットが解放感に揺れていた。
暗がりで見れば、アラブ系の官能的な美女そのものだった。
だが、日焼けして見えた肌はやはりヨーロッパ人の薄い皮膚だった。
「会いたかったわ」
先に言ったのはミスティの方だった。いやにあっさりとした言い方だ。台本を棒読みしているかのような。
「オレもだよ」
アーチはさりげなく言って、ミスティの前に近付いた。ブルネットの黒い光沢が滑り、ミスティは面を向けた。青い瞳は、湿った空気に黒々と濡れていた。
「アナタに謝りたくて」
途端に、冷酷な女巡検使の言葉とは思えない、しおらしさが響いた。アーチは漸く気付いた。ミスティがさっき棒読みに言ったのは、余りにも自分の表情が鬼気迫るものだったからではなかろうか、と。それもその筈だ。強化人間同士、本気で殴打し合った直後なのだから。
「職務上のこととはいえ、無闇に撃ったりして悪かったわ。…何これ。血だらけね」
ミスティは、驚くでもなくアーチの手を取った。手だけではない。緩んだ襟元や、白衣のポケット周りは赤く染まっていた。
「ああ、オレのケツに付き纏う、しつこい男を追い払っただけだ」
「そう…」
ミスティは軽く受け答えしながらも、沈鬱な面持ちで正面を見詰めた。何処までも、自分に関する事は軽いリアクションをする男だと判っているからだ。
「こんな所で油を売っていて構わないの?もうシルヴァー・ブレットとやらは見付けたとでも?」
ミスティは、わざと皮肉めいて言った。
「それは、相棒の仕事だ。オレはアイツの背中でも掻いてやってるしか、能が無いんでね」
「気味が悪いくらい謙虚な言い方。アナタ、何処かで頭でもかち割ったの?」
アーチは、クスリと笑っただけで、いつもの減らず口は直ぐに出て来なかった。
「あら、言い過ぎたかしら。ごめんなさい…」
「悪い女には御仕置きだな。謝罪なんて御免蒙る。キスしろ」
顔を上げたミスティの唇を、アーチの唇が待ちかねたように塞いだ。
身体は冷えていたが、お互いの唇は熱かった。舌先が離れ、唇が離れると、ミスティは軽くアーチの胸を押し退けた。
「…キミに話す事がある」
アーチは、もう一度甘い憎らしい唇を貪りたい衝動を堪えて、言った。本当は、こんな理性などクソ食らえなのだが。
「知ってるわ」
ミスティは嘯くように言った。しなやかな手指が、アーチの胸元を探っていた。
「おじさまの命令なんでしょう?私を抱いたのは」
「人聞きの悪い言い方だなァ。ま、手っ取り早く言えば、ご明察の通りってトコだが」
ミスティは、アーチの顔をじっと凝視していた。アーチは降参したように嘆息を吐く。取り繕ってみても、この青い瞳の前には屈服するしかない。
「最初ッから知っていたのなら、キミは随分人が悪いな」
「お互い様でしょ。それに、焦らした方が燃えると思わない?」
ミスティは意味ありげに答えた。アーチは、困ったように苦笑を押し上げただけだ。
「ズルイ男ね。私が誘わなければ、アナタは口先だけでいつまで経ってもおじさまの命令を実行する気は無かった。違う?」
「判っているなら、わざわざ自分から厄介事に巻き込まれるなよ」
低い調子で言うアーチの言葉を、ミスティは遮った。
「知りたいから、真実をすべて」
「本気かい?」
「…初めは単に、おじさまが私に言う事聞かせようとしたんだと思ったわよ。口達者で床上手なアナタを使ってね」
ミスティは苦笑した。
「でも、そうじゃない。そうじゃないというのね」
ミスティの言葉に、アーチは黙って頷いた。オリーヴグリーンの瞳が瞬いた。そこはかとなく重い何かが、其処に映っている。ミスティは大きく息を吸って、目を伏せた。
「キミのおじさまは、とかく騎士物語がお好きなようだ。聖杯伝説を自ら求めて歩いたようにね」
「おじさまは、元々聖遺物考古学者だもの。聖杯が見付かったかどうかは知らないけども」
「ああ。『トリスタンとイズー』の物語を知っているだろう」
中世イギリスのアーサー王伝説の一篇だ。
「トリスタン」の名は「悲しみの子」を意味する。夫を失った悲嘆の中で、いまわの際に母が産んだからである。成長したトリスタンは、騎士としてコーンウォールの王である伯父に仕え比類ない信頼を得るが、彼を後継者と認めたくない他の家臣達が王へ結婚を進言する。
王がツバメの運んできた美しい黄金の髪を示しこの主とならば添おうと言ったため、己が領土へ野心をもっているのではないかとの猜疑を晴らすため、トリスタンはその女を探し、危険を冒して手に入れる。彼女が仇敵の妹、「黄金の髪のイズー」である。
そしてコーンウォールへの帰途誤って媚薬を飲んだ二人は恋に落ち、彼らの密通を知った王はトリスタンを国外追放に処する。
トリスタンは異郷の地で「白い手のイズー」を娶るが決して手を触れず、義兄に問い質された話しの流れで「黄金の髪のイズー」をうかがいに行く。その際生じた誤解を手間をかけて解き、再び異郷に去ったトリスタンはやがて戦傷に伏すことになった。
「黄金の髪のイズー」は死の床へ駆けつけるが間に合わない。『トリスタンとイズー』の物語は、愛を貫こうとした男女が世の中の規範と摩擦を起こし、逸脱せずにはいられなかった情熱の激しさを描いた恋愛物語だ。
「オレはそのトリスタンであり、ある意味ラーンスロットでもあるということさ」
アーチは、自嘲的ではなく淡々と言った。ミスティはぞっとしなかった。恐ろしいほど、目の前の男が語った言葉の意味は判然としていた。
「総てが物語の通りの筋書きとはいかないが、キミには判る筈だ」
アーチは優しい喉声で言った。
「今はそれ以上は言わない。いいね」
「判ったわ」
だんだん自棄になって来たように、ミスティは混乱した思考回路を押し込めつつ応えた。アーチは片頬に微笑を押し上げる。
「只一つ確かな真実を教えてやろうか…」
アーチは、冷たくなったミスティの両手を掴んだ。指が絡み合う。
「たとえ誰の命令であろうとなかろうと、オレがキミを愛しているということ」
「私も媚薬を飲んだということね」
だが「誤って」飲んだのではない。結果を予測しつつも、自らすすんで飲んだのだ。
ミスティは瞳を見開いたまま、再びアーチの唇を受け入れた。巧みに舌を絡め合いながら、胸の奥に埋もれていた熱いものを感じながら、ミスティはだんだんややこしい事など、どうでもいい心地になっていた。
第四章(1)に続く
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