第二十話
〜千年の孤独 mille-solitalio 〜
(後編)
第四章 ファランクス・クロス HOLY CROSS
(1)
「三人、いえ四人。…こっちを見てる」
ミスティの青い瞳が泳いだ。ぱっと見には全く人気が無い路地裏にしか見えないのだが、微かな気配と八つの瞳の瞬きが感じられた。
「見てるからといって、連中はオレ達に手出し出来ない。それは野暮ってもんだぜ」
アーチは、小声で言った。熱い吐息混じりの声は、ミスティの喉を餓(かつ)えさせた。医師の細長い指先が、彼女の敏感な腿の陥穽にあった。
「せいぜい早く済ませろ、と恫喝するのが関の山だな」
「こんな所でするなんて」
そう言いながら、ミスティは啜り泣くように息を呑んだ。腿の内側は、膝近くまでじっとりと濡れていた。その湿り気が、布越しに絡んだアーチの内腿にも伝わった。
「なら、やめようか」
「それはイヤ。生殺しだなんて意地悪」
ミスティは内腿の付け根に力を込めた。収斂した筋肉が、アーチの手指を離さないように捉えた。壊れた水道の蛇口のように、透明な滴がしとど腿と手を濡らした。
「焦らした方が燃えるだろう?」
「…馬鹿。もう我慢出来ないわ。気がおかしくなりそう。今直ぐしてよ」
この命令には、アーチの理性を溝に捨てさせる趣が充分にあった。
ミスティは、上目遣いにオリーヴグリーンの瞳を睨んだ。そして、悪戯っぽい笑みを浮かべた。ネクタイを緩めて、シャツの中に柔らかい指を滑り込ませる。瞳はアーチを見詰めていたが、括れた腰から下は、まるで勝手に活動する生き物のように微妙に蠕動した。尖った乳首が弾丸みたいに黒い鹿革を押し上げている。
こうなると、男の原形質は直ぐに総てが分離して溶解してしまう。
「いつもズルイのよ。アナタばっかり」
ミスティは、素早くアーチの白衣の裾を割って膝まづくと、痛いまでに怒張したズボンの前を押し開いた。
アーチは、暗がりで息を呑む音を微かに聴いた。勝手に見てろ、という気分と自制心の効かなさが綯い交ぜになっていた。
考え事など、今はどうでもいい。アーチは下を向いて、ミスティの青黒い眸を見た。焦点深度の深い瞳が、見上げた。アーチは些か乱暴に長いブルネットの束を掴むと、引き上げて再び赤く濡れた柔らかい口唇を荒々しく吸った。
「どうしたの、良くない?」
「いや。オレとした事が、良すぎてもう我慢出来ない」
ミスティは、満足気な表情を浮かべてアーチの腰を引き寄せた。
「我慢出来ないのは、私の方なのよ。私はもうアナタなしでは居られないの」
ミスティは首を振り、陶然とした様にアーチの耳元で囁いた。だが、眸の奥は冷ややかだった。まるで誰かにそう伝えろ、とでも言っているかのようだ。
いや、まるで、なんかじゃない。確かに、そうなのだ。
彼女の内奥の襞が齎す熱と快美と潤いと忌々しい言葉に、アーチは頭がぼんやりと重かった。恰も初めてサルサを踊った時のように、二人は結合したままゆっくりと律動した。
黒雲が広がっていた。もう小一時間もすると、容赦ないスコールがやって来るだろう。
ミスティの髪をかすめて、鈍い銀色が走った。路傍に佇んだ男を見て、ミスティは一瞬血の気が引いた。だが、それは錯覚に過ぎなかった。
「何だ出歯亀」
安堵の吐息を吐くミスティに、ジョー・クリサンスマムは羞含んだ顔を傾けた。その右手には、《パイソン・ブラザーサン》が握られていた。ジョーは、片手で顔を隠し、指の隙間から覗いて見せた。
「何だ、はオレの方だよ。まったく、か弱い女性の悲鳴かと思いきや。…おたくらなァ。随分見せ付けるじゃないか」
「これは失敬」
と、アーチは何事も無かったかのような屈託の無い表情でジョーを振り返り、衣服の乱れを素早く直した。
「まだ終わってないのにィ」
ミスティは男どもに背を向けたまま、不満を呟いた。
「いや、止めるつもりはないんだが。若いってのはいいねぇ。しかし、音量に多少気を遣いたまえよ」
ジョーは鼻の穴を膨らませ、しゃちほこばって言った。
「お気遣いは在り難いが、あまりゆっくりもしてられないんでね」
アーチは、不平を託(かこ)つミスティの方を見た。ミスティは身づくろいを終えて、いつものクールな表情に戻っていた。仕事用の顔だ。
「そうそう、ミルザに会ったんで、今しがた医院まで送ってきたところだ」
「ミルザに?…よかったわ、取り敢えず見付かって」
ミスティは、思わず少年のことを一瞬失念してしまっていた。実のところ、それが恥ずかしくもあったが、決して顔には表さなかった。
「何があったのか知らないが、相当ショックを受けてたようだぞ」
「…無理も無いわ。父親は旧い友人に殺されたようなものだから」
ジョーは、ミスティの顔を見詰め返した。だが、それ以上の言葉は返って来なかった。濡れたような赤い唇を引き結んでいるだけだった。ジョーは諦めて今度は話し相手を変える事にした。
「ところで、ゆっくりもしてられないって、これから何処へ行くんだ?」
「《山の長老》ハサン・イ・バルキヤックの所だ」
アーチは密偵達に聞こえるように、わざと通る声で言った。
「《山の長老》?」
ジョーとミスティは、異口同音に言った。
「何しに?」
「決まってるじゃないか。患者が待っているんだ」
アーチはジュラルミンケースを拾うと、大股に歩き出した。
城下を出る頃、密偵は確かに四人居た筈だが、いつしか二人に減っていた。その辺りの事情は、全く判らなかったが、彼等は音も無く数十メートル離れて、三人の影に付いて来ていた。灯りも無いのに。
「ねぇ」
と、ミスティがアーチの背中に声を掛けた。その頭には、何故かナースキャップが載っかっていた。
「どうしてフサームの代わりにアナタが?」
アーチは振り返らなかった。仄かに蛍光色をしたペンライトだけが、足元を照らしていた。
「よく判らんな。さぞかしオレの名前は有名なんだろう。ケチで偏屈で、女好きって」
「冗談言わないで。どう考えたって奇妙だわ。ムスリムでもなければ、ましてアナタはヴァティカンの人間。《山の長老》が何故…」
言い掛けて、ミスティは声のトーンを落とした。今更小声で喋ったところでどうにもなるまいが。
「だからこそ、オレは断るつもりはない」
「この事がヴァティカンにバレたら大変よ」
「そうだな。ていうか、バレたらオレはキミらの命令で囮捜査に入った、という事にでもしてくれよ。でないと、勝手について来たって事で《山の長老》の前に突き出すぜ。まぁ、キミは殺されやしないって。ハーレムにブチ込まれるくらいかな」
アーチは些か軽い口調で言った。それが、ミスティの勘に少々触ったらしい。
「は?じょおだんじゃないわよ、何様のつもりなのよ?」
「オレ様」
「相変わらず身勝手ね。私達が来なかったら、どう言い訳するつもりだったの?」
「ハハ。たられば、の話はオレはキライだと前にも言ったろ?結果オーライてってことでいいじゃないか」
「呆れ果てて、ものも言えないわ!」
「よく喋ってるじゃないか。まるで夫婦ゲンカだ。いや夫婦漫才か?」
と、茶々を入れたのは、しんがりを務めるジョーだった。
「言っていい事と悪い事があるわよ?神父様」
ミスティはにんまりと笑って、ジョーの背中に《パイソン・シスタームーン》の銃口を、ぐりぐりと突き付けた。
アーチはジョーの弄言を否定も肯定もしないまま、黙って進んだ。肋骨に皹が入っているにもかかわらず足取りは軽かった。もう、骨組織は殆どくっつきかけていたようだ。階段を上り詰めると、三人はテラスのように広がった踊り場を歩いて、止まった。割れた石碑が立っていた。
同時に、背後の気配も薄れた。密偵達も息を潜めているらしい。
ジョーは、懐から出したダンヒルの一本に素早く火を点けた。ライターの火を点したまま、石碑に近付き、屈み込む。ジョーもまた何故か汚れた白衣を羽織っていたが、裾を引き摺っていることなど気にも留めないらしい。
「兎も角も、ドットーレは別として、オレら部外者が此処まで無傷で入って来られたのは、殆ど奇跡と言って良かろう」
と、ジョーは言った。
「いや、奇跡でなくんば、敢えて懐に飛び込ませて置く為か」
ジョーの青灰色の瞳が、ミスティの澱んだ瞳を見詰めた。無言の圧迫感を、ミスティは感じた。
「でも、二度と同じ轍は踏まないわ」
ミスティは答えた。サンチャゴ・エル・ブランコでの事を言っているのだと、後の二人は理解した。
石碑には、ジョーにとって解読不可能な文字が書かれていた。アーチは、腰を屈めて石碑を睨んだ。
「『ギーランにて現れし御人は…灰色の驢馬に乗って彼の地を治めん』。中世のペルシャ語だ。間がよくわからないが、ギーランという場所に十四世紀、神が降臨したという伝説がある。その伝承を書き記したものだろう」
と、アーチは読んだ。出鱈目ではない。
「城塞には、初代イマーム、ハサン・イ・サバーの墓があるそうだが」
ジョーは持て得る限りの知識で言った。
「いや。そんな物は無い」
そうして、アーチは再び階段を登り始めた。今度は、先程よりも足取りは重々しかった。
風が吹いてきた。ミスティは、思わず断崖を見下ろした。遠くに町の明かりが寂しく光っていた。雲は次第に重く黒く、彼らの頭上に圧し掛かった。
血の気が引いた白い頬に長いブルネットが貼り付いた。
「墓など肉体の容れ物であって、魂の容れ物じゃない」
アーチは低く言った。ジョーはフィルター近くまで吸ったダンヒルを、所在無く唇の端に貼り付けていた。
「そして、自ら死してもなおアッラーの意志を遂げようとする、聖地を取り戻そうとするニザリにとっては、肉体など大した意味を持たない」
アーチは言い終わると、ほんの一瞬ミスティの横顔を見遣った。張り詰めた美しさが、アーチの胸中に一瞬恐怖を与えた。何故、そう思ったのかは判らない。だが、それは白目の端の一点の血塊のように、直ぐに忘れ去られるような感慨だった。
宮殿内部には、既に灯りが煌々と点り、夜の闇を追い払っていた。
既に出迎えの者が二人立っており、アーチは丁重にもてなされた。出向かえた黒いターバンの男達は、訝った。アーチの後に続く二人の人間を足止めする為に、彼等はずいと胸を反り返らせて立ちはだかった。
ジョーとミスティは、覚えず息を呑んだ。
「部外者の入城は禁止、と言った筈です」
男の冷たい声に、アーチは振り返った。
「オレの助手とナースだ。一人では作業が捗らないが、それでもいいというのなら追い返してくれ」
アーチは表情を変えないで、言った。
ジョーは汚い白衣のポケットに手を入れたり出したりしており、ミスティは微かに瞳を泳がせた。声を放った男とは別の男が、ミスティの顔をまじまじと見詰めていた。秋波を送ると、僅かに男の頬が緩んだ。
「…よかろう」
男達は道を開けた。アーチは、再び白衣の裾を翻して颯爽と歩き出した。
すっかり陽は落ちていた。いや、真っ暗だった。思わず長居してしまったのを、マルガリータは少し案じた。宿舎に戻らなければならない。門限は午後八時だ。
懐中時計を取り出し、開いてみてマルガリータは吃驚した。
「ああっ!」
黄色い声がドーム型の天蓋に響いた。
「どうしましたか?」
振り返ったのは、黒髪の男マキシム・デ・リガールだった。リガールの長い影は、まるでサタンのように琥珀色した地下の平面に長く伸びていた。
「もう八時半を回ってるわ。マズイ…このままでは、寮長に大目玉を食らうところよ!」
マルガリータは、長い真っ直ぐな髪を振り乱して、言った。
「それだけじゃないのよ。バルセロナから…」
ウォホン、と咳払いが聞こえた。
「聖遺物室では、もう少しお声を控えて頂かないと」
リガールの前に立っていた黒いカソック(僧衣)の男が、言った。この地下室の番人、聖遺物室を管理するレオーニ司祭だった。名目上は彼の上司である司教が管理人で、さらにその上にジアチント・バルベリーニ財産管理局長がある。だが、実際に業務一切を執り行っているのが、このレオーニ司祭だった。
「あーら、ごめんなさい」
と、マルガリータは悪気も無く答えた。
聖遺物室に入ってから、一体何時間経っただろう。
高い天蓋は、まるでこの部屋が地下に続くとは思えないものだった。遺物室への道は、あまり外部の人間に知られていない。ここはシスティーナ大聖堂の真下に位置していた。だが、入り口は城壁の北東にある。其処から延々とループ状に続く階段を地下へと潜っていくのだ。
そして、数え切れない程の昔ながらの燭台を見送った時、それは正確には999本あるそうだが、聖遺物室の扉へ続く間へ出る。
扉は三つあった。丸い部屋の中央に立ち、向かって左からマルガリータは案内された。
聖遺物とは、そもそもイエス・キリストに由来の考古物を言う。例えば、キリストの亡骸を包んだ聖骸布、或いは十字架に磔になった時にその胸を刺したロンギヌスの槍、傷口から溢れ出た血液を受け止めた聖杯。
殆ど伝説の世界の遺物が、この部屋に並んでいるのだ。
尤も、遺骸を包んだ布が何故か何百枚と並んでいたりするのは、滑稽だとマルガリータは思う。
「一体、おじさまは何で私にこんな仕事をさせるのかしらね」
マルガリータはぼやいた。
つい数時間前、喫茶の後にサフィール枢機卿は言った。
「ついては、お前の叙階の秘蹟に使う聖像を選びたいのだが。そうだな、聖遺物室にある《クレモンティナの聖ヤコブの像》などどうだろう?聖ヤコブはカスティリャの聖人だからな」
「どうって言われても私には判らないわ。見せてみてくださるんなら」
マルガリータは面倒臭そうに言った。
「それが、わしにも判らない。管理のレオーニ司祭に訊ねてみなさい」
というのが事の発端だった。
言い出した手前、マルガリータも強情な性格なので、意見を引っ込めるわけに行かず、渋々聖遺物室の番人であるレオーニ司祭の元へ出向いたのだった。
そうして、三時間ばかりレオーニと無理矢理仕事を中断させて巻き込んだリガールと、マルガリータの三人で聖遺物室の中を漁った。
「どういう順番で入っているの?あ、これはヘレナ大后の槍ね」
マルガリータは、疲れを知らず、レオーニ司祭とリガールに質問攻めをした。
「特に順番は設けていません。強いて言えば、ヴァティカンが接収した順ですね」
「普通は目録があるでしょう、目録ってものが」
マルガリータは、レオーニ司祭もたじたじの剣幕で迫った。
「いえ、それがお恥ずかしい話なんですが…」
レオーニ司祭は鼻の頭を掻いた。
ヴァティカンの至宝、或いはローマをはじめとしてイタリア全土の指定された宝物、美術品は領土外持ち出し禁止である。だが、これが第三次世界大戦以前からずっと、美術品の類はいつしか厳しい法の管理を潜り抜けて、闇に流通していた。
そもそも、イタリアという土地がそういう水面下の動きや人脈をを商売に巧みに使う風土を持っている。これはある程度致し方ないのだが、それでも近年ディアスポラ全土へのヴァティカンの隠れた宝の流出は目に余るものとなっていた。
「なわけで、目録は穴ぼこだらけなんです」
「へえ。でも、ここにある物も、まさかどっかの国の博物館みたいに、泥棒って来たんじゃないでしょうね?」
「そ、そんな事は言ってはいけません。聖庁は無闇に遺物を奪うような、野蛮な真似はしません」
レオーニ司祭は、額に汗しながら答えた。全く、サフィール枢機卿の姪は姉妹ともに手を焼く存在だ。歯に衣着せぬというか。リガールは、その遣り取りに思わず微かな笑みを浮かべた。
「今の笑顔はまだまだねぇ」
と、マルガリータはすかさず批評した。
「あ!」
レオーニ司祭が声を上げた。
む、と振り返るマルガリータ。
「何よ、私に注意しておきながら…」
レオーニの手に握られた、くすんだ銅色の像がマルガリータの視界に入った。それは、高さ三十センチばかりの古びた像だった。
「これです、これが《クレモンティナの聖ヤコブの像》です」
レオーニは、ぼろぼろになった目録の該当ページを開いた。リガール、そのページに灯りを翳した。確かに、目録に掲載されている像と、現物はそっくりだった。
「やれやれ」
マルガリータは、大きく息を吐いた。やっと聖ヤコブの像が見付かった安堵ではなく、未だにこういうアナクロな遣り方がヴァティカン内を罷り通っている事実に対してだった。
三人は、順番に聖遺物室を出た。
レオーニ司祭は、例のループ状階段を上がり切ると、就寝の挨拶をして二人と別れた。
「兎に角、門限を過ぎたというのでしたら、お送りさせましょう」
リガールは、レオーニの背中を見送りながら言った。マルガリータは、肯いた。
まだ、此処は地上ではない。夜だか昼だか区別もつかない仄暗い地下道で、二人は息を同時に潜めた。
「何かしら?」
「……」
リガールは音も無く、一歩進んだ。長身の割りに身軽だ。
だが、既に物音は聞こえなかった。
「気のせいです」
リガールは静かに言い、再び歩き出した。
「そうなの?」
マルガリータは、《クレモンティナの聖ヤコブの像》を抱えたまま背後を振り返った。冷たい壁だ。だが、微かに空気の生暖かい流れを感じた。
壁に手をつき、マルガリータは力を籠めてみた。
「え?」
壁が動いた。壁は回転扉のように、一枚板で回った。マルガリータは開いた扉の向こうに入った。
暗い空間が広がった。湿気た空気がマルガリータの全身を包んだ。
「突然、何をするかと思いましたよ」
リガールの声が肩越しに聞こえた。マルガリータは、振り返らずに頷いた。歩を進めようとして、マルガリータはふと足を止めた。
暗闇に目が慣れて来たところで足下を見ると、ブーツの先にぽっかりと奈落のような穴が待っていた。
「これ…」
いや、穴という狭い物ではなく、ほぼサン・ピエトロ広場の半分近くはあろうかという空間だった。
マルガリータは、足を踏み外しそうになった恐怖よりも、奇妙な空間の出現に唖然とする他無かった。
リガールが差し延べたカンテラが、薄ぼんやりと空間を浮かび上がらせた。天井は、聖遺物室に似て半球状だ。その中心には何も無い。
そして、見下ろした先は目測でほぼ十メートルの高さがあった。壁面は黒い。何処に出入り口があるのか、この距離では判然としなかった。だが、確かに空気の対流を感じる。
「見て下さい」
と、リガールはせっつくように言った。マルガリータが促がされて視線を漂わせた先に、何かが見えた。それは、床に描かれた大きな十字だった。
ほぼ、床一面を使って広がったラテン十字は、レリーフ状ではない。まして描画ではない。
黒い床、恐らくは黒曜石で出来たと思われる床に並べられた石版だった。石版が、まるで墓標のごとく立ち並んで、十字のラインを描いているのだった。それぞれは、恐らく人の身長程度に思われる。
最も北に位置する石版は、他の物と一線を画したように背が高かった。
「モノリス…何なの?これ」
マルガリータは、俄かに湧いた奇怪な疑念を顕にして言った。
「恐らくは、これは中世の査問室でしょう」
「査問室?」
リガールは、目を細めた。
「異端審問の部屋に使われたのですよ。中世の異端審問は、農村や都市部で行われた魔女狩りだけでなく、当然聖庁内部にもあった訳です」
聖庁、つまりヴァティカン内部における他教への改宗者や、間諜を洗い出す為の異端審問は、綿々と行われた。それが、地下のこのような部屋に通じているのは、表に出せない部分だからこそだろう。
「ここで、あの火刑とか水責めとかあったというの?」
マルガリータは、暗闇に薄っすらと浮かぶ十字を凝視した。微かに扉から洩れ込んだ光が、石版を禍々しい形に縁取っている。
いや、これだけの規模の室内なのだ。一部の異端審問官だけが、一人の異端者を嬲り者にするのではないだろう。長いモノリスに磔にして、彼等は殆ど拷問に等しい査問を続けるのだろうか。マルガリータは、今そこに異端者が存在するかのように、覚えた。背筋に寒気が走った。
「これが、その名残という事なの?」
マルガリータは、眉を顰めた。だが、リガールは首を縦に振らなかった。
「名残ではありません。今現在も、異端審問は行われているのですよ、シスター・マルガリータ」
「え?」
リガールは、大きく息を吐いた。眉間に深い皺が寄っていた。若さに似合わぬ険しいものだった。
「ですが、私もまさかこんな所にこんな規模で査問室が存在するなんて、思いも寄らなかったものです…」
それは、リガールの本心だっただろう。
黒い巨大な十字。それは、まるで十字軍のファランクス(戦闘隊形)を模しているかのように思えた。
第四章(2)に続く
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