第二十話
 〜千年の孤独 mille-solitalio  
(後編)


第四章 ファランクス・クロス  HOLY CROSS

 (2)
 
 もうじき夜が明ける。遥かな東の地平線に、糸のような薄い細い紫色の線が現れた。カーテンを少し引き開けたジョーは、シケモクを咥える。
「《千年の孤独》っていう名称からして、オレはハサン・イ・サバーのミイラか何かだと思ったがな」
「初代ハサンの時こそ、確かにニザリ教団の暗殺者教国としての勢力はインパクトがあったでしょう。でも、実際、このアラムートが全盛期を誇ったのは、十三世紀前半ハサン三世までの頃。暴君ムハマッド三世の治世の後を優柔不断な王子フールシャーが継ぎ、ニザリはモンゴル軍に屈して滅んでしまう」
 ミスティ・サファイアはカーテンの隙間から、外を見遣った。
「フールシャーの身体は切り刻まれて捨てられたというから、残っているとすれば、ハサン三世の別子、ダウラトシャーのミイラくらいなもの」
「成る程、それなら正統イマームの子孫だな」
 ジョーは今ひとつ因果関係が判らないなりに、納得した。
「それにしても、一体何時間経った?」
「部屋に入ってから、六時間弱っていうところね…」
 ミスティとジョーは、眼前の重い扉を見た。その厳重かつ黒い扉の奥には、《千年の孤独》と共にアーチレリー・ブールヴァルドが居た。
 ミスティは、重い瞼を押さえた。
「助手とかナントカ言うなら、中へ入れろっていうもんだがな」
 ジョーはぶうつく言った。ミスティは、ジョーのぼやきなどまるで耳に入っていなかった。
 広い天井に、突然喧しいくらいの靴音が響いた。男達がずかずかと歩いて、近付いて来る。それは、手に手に曲刀を持って、ジョーとミスティを襲わんばかりの勢いで、駆け出した。
「賊です!」
 一人の男がたどたどしいトランス(共通語)で話した。息が荒いところを見ると、一戦交えて来たのだろう。
「オ、オレらは賊じゃないぞ」
 と、ジョーは一瞬惚けてみるが、そんな冗談は通用しなかった。男達は、何れも鬼気迫る表情で、二人を促した。
「御存知無いでしょうが、『急進派』の連中が夜襲をかけてきた模様です。此処は離れて安全な所へ移って下さい」
「何でまた、こんな時に」
「こんな時だからこそよ」
 ミスティは立ち上がった。左手は、既に腰のホルスターに掛かっていた。《パイソン・シスタームーン》を抜く。冷却用のベンチレーターリブが青く光った。
 男達は、ぎょっとなった。
 ミスティは情熱的な美貌に笑みを浮かべた。
「安全な所もヘッタクレもあったもんじゃないわ。連中は本気よ。此処だってどうなるか判らないわよ。此処は私達が守る」
 ジョーは、一瞬ぽかんとしてしまったが、ノリが悪いのは好きじゃない。オレも、と《パイソン・ブラザーサン》を抜いて、チャチャ、とグリップを決めてみた。
「右に同じ。でないと、ドットーレの助手として死んでも浮かばれんからなァ」
 男達は、顔を見合わせた。とんでもない助手とナースがあったものだ。
 
 天井の低い、その部屋の中央に置かれた棺は、空だった。
 既に聖餐台のような長方形の石の上に、肉体は横たわっていた。
 それは屍ではない。仮死状態に陥った一人の男の肉体だった。
「《千年の孤独》は、ダウラトシャーの子はずっと待ち続けておったのだ」
 《山の長老》ハサン・イ・バルキヤックは、初めてアーチにそれと指し示した時、厳かに言った。
「ダウラトシャーの子?ダウラトシャーは、殺害されたのでは無かったのですか」
 アーチはうろ覚えの記憶で言った。ハサン・イ・バルキヤックは首を微かに横に振った。
「ハサン三世の直系はまだ生きていたのだ。ダウラトシャーの后であったエヌメリアは孕んでいた。その腹を割き、モンゴル人達は后を殺害した」
 ハサン・イ・サバーは口惜しげに言った。
「后は、実はそれまでモンゴルとの宥和の為に彼の地から輿入れしたナイマンの血統だといわれておる」
「つまり、モンゴル人ということですか」
 アーチは言った。ナイマンは、将軍キドブハらを出したモンゴルの一部族であった。
「だが、一たび戦が始まれば、元はモンゴル人であろうが、ニザリに加担した者はことごとくフラグ・ハーンの軍勢に蹴散らされた。エヌメリアとて同じ運命だったのだ。腹から出された赤子は、まだ生み月に二月も足らなかったという」
 ハサン・イ・サバーは目を見開いた。彼の眼前には、ポリ塩化樹脂の透明な筒が置かれていた。その中に浮かんでいる、奇怪な深海魚の干物のような、もしくは伝説の人魚の産み落とした赤子と思われるような褐色の物体を、アーチは見た。
「これが、ダウラトシャーの子」
 干からびたメロンのような頭部、枯れ枝のように縮こまった四肢。気の弱い者なら、目を逸らすに違いない怪異なミイラの標本漬けを、アーチは見詰めた。
「…これが《千年の孤独》だ」
 ハサン・イ・サバーの声が呪文のように響いた。部屋には、アーチと《山の長老》の二人しか存在しなかった。
 無言裡に、ハサン・イ・サバーの瞳は物語っていた。この《千年の孤独》を復活させるのが、ニザリの復興であると。
「しかし、何も今更ダウラトシャーの子を甦らせる事は必要ないのではないですか?あなたは既にこの城の主、ヌォーヴォ・ニザリのお頭であって《山の長老》ではないですか」
「何を言うか!」
 ハサン・イ・サバーは、黒い目を剥いた。
「貴様ら異教徒にはわかるまい。正統イマームは、第七代ムハマッド・ビン・イスマイリ以外には有り得ん。ファーティマ朝の系譜であるニザルの一統、ニザルの息子であるアル・ハーディの継承者を育てた初代ハサン・イ・サバーのみが、この建国者であるのだ」
「確かにそうですが」
「私は仮の統治者に過ぎないのだ。ムハマッド三世の寵臣、ハサン・マザンデラーニの後裔であるが故にだ」
 ハサン・イ・バルキヤックは、苦々しい表情で顎鬚を撫ぜた。その苦渋に満ちた横顔に、アーチは何か感じるところがあった。しかし、彼が一体数十年ニザリ復興の為に辛酸を舐め、臥薪嘗胆しようがアーチには無関係の事実だった。
「見たまえ、今まで数十人という科学者、医師を内密に招いて《千年の孤独》を甦らせようとしたが、何れも失敗に終わった」
 ハサン・イ・バルキヤックは緞子を引いた。その向こうには、数人の男女が犇いていた。皆が皆、よく似た整った平面的な顔付きで、彼等は美しい薄物や装飾品を纏っていた。そして、黄ばんだ白い肌をしていた。モンゴル人の血だろうか。
 だが、その目は死魚のように曇った者、或いは両腕が殆ど根元まで縮こまった者、足が立たない者、様々だった。
「生まれた者は、皆いずれかの欠陥を肉体に負っている。最早、暗殺者としても使えぬ以上は、せいぜい享楽の添え物にしておくしかないのだ」
 ハサン・イ・サバーの残酷な決断は、一体生まれたくもないのに生み出された彼等にどう作用しているのだろうか。アーチは、正視に堪えない惨たらしい彼等の姿を見詰めながら、沸々と湧き上がる怒りの感情を禁じ得なかった。
 其処までして、《千年の孤独》を復活させる事に何の意義があろうか。
 偶像崇拝を禁止するイスラム教だが、シーア宗は聖者崇拝を厳禁しない。むしろ、聖人の偶像を掲げているほどである。そういった面からも、大多数派であるスンニからは異端と見做されていた。その教義の性格ゆえに、聖人を復活させようと試みるのは、理解出来ない事も無い。
 だが、単純にその意義だけがハサン・イ・バルキヤックを動かしているとは思えなかった。
「しかし…」
 アーチは飽く迄冷静な声で言った。
「クローンは法律で禁じられています。これまでの例は兎も角、私も初めてです」
「リスクを伴う事は判っておる」
 ハサン・イ・サバーは厳粛に言った。アーチは、《千年の孤独》から視線を外した。
「そもそも、カトリックの私がここに立ち入る事も奇妙な話です。決して口外はしませんが、何時なんどき誰が何処で見ているやら判りませんのでね」
「その辺りは貴方が案じるまでもない。我々は暗殺者集団だ」
 成る程、身を挺して秘密厳守してくれるというのか。アーチはそれ以上会話するのを止めた。
 そうして翌日再び、承諾の返事を連れて戻ったアーチを、ハサン・イ・サバーは歓待した。直ぐにも《千年の孤独》の復活に取り掛かることと相成った。

 初め、曲刀を構えた男達が、部屋の片隅に居た。だが、アーチは気が散るというので人払いした。
 医務室である。最新の医療設備とは言い難かったが、それでもムスリムの地域では最も優れた設備であるだろうし、ディアスポラの一般的な町医者に比べると格段にまともだった。
 遠心分離機やら、冷蔵庫やらはおよそ二十年ほども前のものだろう。だが、クローンを作るに不十分ではない。
 クローンといっても、一つの体細胞からそっくりの単体を生み出すのではない。
 そんな設備は、少なくともヴァティカンにもあるかどうかといったところだ。
 ダウラトシャーの子《千年の孤独》の染色体を、あの乾物のような組織から抽出し、無差別に選択した成人男性精子の持つ染色体とそっくり交換するのだ。そして、卵子の持つ染色体とも同じ行程を経て受精させる。
 十月十日(とつきとおか)で、母体からはまったく似ない子供が生まれるのだ。
「だが、ミトコンドリアは必ず母体のものを受け継ぐ。ダウラトシャーの子が男子であるとしても、モンゴル人の血を脈々と受け継ぐのに何の抵抗もないのだな」
 アーチはふと疑問に思ったが、それは口にしなかった。
 只、医務室に入る前、ハサン・イ・サバーに一つだけ質問した。
「ところで、このダウラトシャーの子の遺骸を一体何処で入手されたのですか?」
 ハサン・イ・サバーは、突然雷に打たれたように背筋を伸ばした。
「…四十年以上も前だった。ギルドクーの城塞跡で発見した遺骸の中に埋もれていたというのだ」
 ギルドクーというと、ここアラムートからもっと東にあたるニザリの古城だ。難攻不落のアラムートがフールシャーの降参によって陥落した後も、まだ戦意消失していなかったが、やはりフールシャーの勧告によってモンゴルに下った都市。
「若い考古学者が、私にそれを差し出したのだ。紛いも無いダウラトシャーの子の遺骸だと言ってな。半信半疑だったが、彼は私にダウラトシャーの末路とモンゴル軍の侵攻の歴史を語った。そして、科学的にその遺骸がダウラトシャーの遺伝子を含む事を証明してくれたのだ」
 ハサン・イ・サバーは顎髭を整えながら、遠い目で言った。
 アーチは、《山の長老》の顔から視線を逸らした。
「その学者は、ムスリムでは無かったのですか?」
「随分昔のことだが、覚えている。言葉はムスリムのように巧みだったが、顔立ちはどうみてもラテン系のようだった」
「……」
 アーチの気分は矢庭に萎えた。というよりも、そこはかとない不気味な予感が胸中を跨いだのだ。
 最早それ以上、アーチはハサン・イ・サバーの話を聞こうとはしなかった。
 一人になると、アーチは静けさを待って部屋の四方を歩いた。ジュラルミンケースから、ポリタクティカルホルミリン樹脂の入った小瓶を取り出し、窓やら壁の隙間やらに流し込む。酸素に触れると速乾性の樹脂は、呆気なく固まった。目張りの役目を果たすのだ。しかも、この樹脂は炎や水に強い。金属ホルミウムを含む不水溶性の樹脂だ。
 それからアーチは、マスクを掛けて使い捨ての手袋を填めると、手術台に載せられている仮死状態の男の髪の毛を抜いた。慎重に薄紙に包み、それを滅菌されたサンプリングボトルに入れた。次にメスを取り出し、男の表皮組織を薄く剥ぐと、髪の毛と同じようにボトルに詰めた。
 小一時間ばかり、そういう作業に掛かりっきりだった。しかもその間、全く《千年の孤独》には触れようともしなかった。
 ハサン・イ・サバーが見ていたら、やきもきしかねないだろう。
 アーチは、走査型小型電子顕微鏡(SMEM)を取り出した。ほぼ掌に載る程度の顕微鏡を組み立て、電子銃のボルトを締めた。
 漸く《千年の孤独》の入った透明な容器に手袋ごと腕を突っ込み、生理的食塩水で濡れた胎児の一部をメスでこそげる。
 やや厚い検体を顕微鏡で確認し、血管部分のみを残して後は切除した。血球のみを塩析にかけるのだ。凝固阻止剤を添加し、旧式の遠心分離機にかける。
 何故DNA精製の為に血球を選択したのかは、今日あるインスタント血液の原理に基づいていた。何しろ、手探りなのだから、最も自分がよく知る部分から始めるのが賢明だった。
 こんな面倒な作業、ヴァティカン科学アカデミーでなら、一分と掛からないだろう。総てバイオアナライザが高感度分離、定量出来るのだ。
 血漿と血球が分離された。各種溶液を添加し、遠心分離機にかけると核の無い赤血球が破壊され、遠心によって白血球が回収される。更に白血球を溶解し、残ったタンパク質を塩析する。DNAをイソプロパール沈殿、エタノール洗浄して再溶解する。
 その間、アーチは手術台の上の動かない男を見詰めていた。
 男の皮膚は白く、髪は黒く四肢は長くは無かった。扁平な鼻梁、腫れぼったい瞼、どう見てもペルシア系ではない。明らかに南モンゴロイドの血を受け継ぐ人間を、何故に甦らせようとするのか。
「まあ、それはそれぞれの考えだ。だが…」
 アーチは、後ろ暗い心地を覚えずにはいられなかった。そっくりそのままのコピーとしてのクローンを生成するのではないが、余りにも無益だ。倫理に悖るのは言うまでもない事だが、それを言及すれば己の存在すらも危うい。
 一つの疑念は、《千年の孤独》が果たして本当にハサン・イ・サバーの言うようにダウラトシャーの子であるのか。それがエヌメリアの血を濃く継いでいても、子には変わりない。
「万に一つもそんな事は有り得ない」
 と、アーチは自信を持って思う。
 では、一体この《千年の孤独》は何者なのだろうか。
 根拠は定かでないが、それはいずれ確認出来るだろう。いずれ。三十年以上前に遺骸を譲り受けたという、ハサン・イ・サバーの言葉が真実であるならば。
 もう一つの疑念は、何故《千年の孤独》を復活させるのがいま現在でなければならないのだろうか、という事だ。
「自ら死してもなおアッラーの意志を遂げようとする、聖地を取り戻そうとするニザリにとっては、肉体など大した意味を持たない」
 その筈なのだ。だが、その象徴ともいえる初代ハサン・イ・サバーの血を甦らせる事に何の意義があるのだろう。
 アーチは、延々と考え続けた。
 とてつもなく長い時間、独房にでも入れられているような感覚があった。
 遠心分離が終わっても、まだアーチは漠然と物思いに耽っていた。
 そして、ふと何かを思い付いたように立ち上がると、分離したDNAを放置したまま手術台の端に置かれた《千年の孤独》の容れ物を掴んだ。
 
 断崖を登って来たのは、城塞に巣食う鼠の群れではない。その事に気付いた時、既に密偵達は宮殿内に戻っていた。
 黒いターバンの男達は、皆めいめい曲刀を抜いた。そして、曲刀を持たない者は、マシンガン・ブラスターを抱えていた。
 キンキンキン。金属音と硝煙の臭いが混じり合う。其処に血の臭いが芬々と漂った。
 ジン・スティンガーは、《ブラックホーク・ディオファイア》のリロード(再装填)をしながら進んだ。テンガロン・ハットを掠めて、あの気味悪い金属片が飛んできた。所謂チャクラムというインドの飛翔武器に似た用途だが、それは円形ではなく三日月の形をしていた。まさしく古代ペルシアの御旗に描かれたのと同じだった。
「畜生、あいつら先走るなと言ったのに!」
 パルメット・ソノーラは吐き捨てるように言った。その足下には、三日月型の金属片で喉を貫かれた若い男の屍が転がっていた。
 灰色を基調とした迷彩服は、血糊でべったりと汚れていた。死の間際まで抵抗し、相手を傷付けるに必死だったのが伺えた。血は死者本人の物だけではない。
 ソノーラは、遺体の肩を抱え起こした。開いた目をそっと閉じてやる。
 そして、ソノーラは再び歩き出した。ジンはその背中を追った。
 目前の敵に向かって、ソノーラは全く動揺も無く焦慮も表さずに、旧型M3A1グリースガンSMG・HWをはなった。
 ガガガガガ。床面がささくれ立った峰のように崩れる。
 長老派の男達は、しかしまるで怯む事無く、死を恐ろしいものとさえ捉えていないかのようにソノーラ達を襲ってきた。
 これが、真の暗殺者教国の姿なのだろう。教義の前には己の死なの何ほどの物でもない。
 ジンは、真底不気味に思った。まるで、死者と戦っているよう錯覚にさえ陥るだろう。
「こりゃ、あのやんちゃ姫を連れて来なくて正解だった」
 と、ジンは独りごちた。
「なあ。本当にケルマンを殺したのが、長老派だと信じてるのか?」
「いや。そうではない」
 ソノーラはきっぱりと答えた。
「連中はそんな短絡的な事はすまい。今はそれよりも、《千年の孤独》を復活させることに専念している筈だ。譬え連中の手の者がケルマンを殺したとしても、恐らくは長老の命ではない筈だ」
「だとすると、ニザリ以外の何者かが?」
 ジンは言った。ソノーラの額に汗が浮かんでいた。赤銅色の逞しい首が重々しく動いた。
「彼等は、既に城塞に侵入しているかも知れない。いや、これは明確な罠だった…だから、先走るなと言ったのだ!」
 ソノーラは拳を握った。ジンには、ソノーラの言う彼等の正体がまるで想像もつかなかった。だが、それはニザリ同士をぶつけ合い、漁夫の利を貪る位置にあるという事だ。
 その時、ジンが凭れていた壁が揺れ出した。
「なっ」
 慌てて振り向くと、石壁に皹が入っていた。皹はだんだんと広がって、中からがぼっつと、何者かの手が出て来た。ジンは壁を離れようとして、その巨大な人間の頭程もある掌に掴まれてしまった。
「あわわわ」
 ジンの頭上で、乳酒臭い息が生暖かく臭った。見上げると、黒々と顎鬚を蓄えた巨人の顔があった。身の丈二メートル半以上、恐らく重さは三百キログラムを下らないだろう、大男の登場だった。

 巨漢の腕は、ジンの腰をむんずと掴み、ニヤリと黄色い歯を見せて笑った。タバコのやにでいっぱいの歯は、サメのように先が尖っていた。情けないかな、ジンは思わず肝を潰し掛けた。
 《ブラックホーク・ディオファイア》のトリガーが引かれた。
 巨漢の内腿に穴が開く。
 だが、巨漢は怯まなかった。この至近距離でマグナム弾を撃ち込まれたら、どんな大男だろうが肉食獣だろうが、一時でも倒れない筈がない。しかし、巨漢は決して倒れなかった。そればかりか、まるで揶揄するようにジンに微笑み掛けたのだ。
「く…」
 恐怖感がというよりも、無力感が銃口から逆行して這い上がる気分になった。
「そいつは痛みを感じない、幾ら穴ぼこだらけにしたって無駄だ!」
 叫んだのは、パルメット・ソノーラだった。
 巨漢はえへらえへらと笑っている。知能が足りないのではなく、何かの中毒症状のようにも見えた。恐らくは、ハシーシュの常用者と思われる。それが特異体質と相俟って、痛覚を失っているのだろうか。兎に角、無痛の上にとんでもない大力の巨漢相手に、パウダーガン使いは分が悪い。
 ジンは、めくら滅法に《ブラックホーク》を撃ちまくった。弾丸は、総て巨漢の肉体に吸収されていった。
 どれ一つとして貫通しない。六発の弾は、何れも巨漢の脇腹、太腿にめり込んだ。
「チクショウ!」
 ジンは、左手をガンベルトに伸ばした。だが、それを巨漢は許さなかった。
 巨漢の分厚い手が、再び伸びてジンの喉を押さえた。ジンは慌てて、パウダーガンをベルトに差し、絡み付いた太い指を両手で掴んだ。だが、既に遅かった。巨漢の黒い十指はジンの喉の最も柔らかい部分に食い込んでいた。
「うぐー」
 ふんづかまった猫のように、ジンは宙にぶら下がってしまった。気管が圧迫され、頚動脈がどくどくと脈打った。血の巡りが急激に悪くなり、ジンの顔色は青黒く変化した。耳鳴りが轟音のようにがんがんと響き出す。眼球の奥では火花が散ったように、赤いものがちらほら消えたり浮かんだりした。
 実に深刻な事態だ。パウダーガンが縊られて死ぬなど、忌々しき事態以外の何でもない。
 ジンは、巨漢の顔を睥睨した。
 が、不意に喉の圧迫感が弱まった。
「おおおおうう」
 巨漢は、ジンを手放し、突然呻き声を上げた。
「ふがあああ」
 小山のような大男が、瓦礫の上に蹲った。ジンは体勢を崩しながら、その場に膝まづいた。解放された勢いで、吸気が一気に肺に達し、噎せ返る。
 巨漢は、十本の指を切断されていた。丸々とした黒い指が、まるで巨大な芋虫のように床に転がっていた。
 見上げると、ソノーラが立っていた。その右手には、旧型M3A1グリースガンSMG・HWではなく、曲刀が光っている。脂と血に濡れ光る銀色の刃が、天井を向いていた。恐らくは、倒れた男から奪ったものだろう。
「厄介者は捨て置け、先を急ぐぞ」
 ソノーラは無表情に言った。
 ジンは、一先ず弾丸を再装填しながら、悶え苦しむ巨漢を一度だけ振り返った。だが、十本の指を失った巨漢は、まだ瓦礫の上にのたうつばかりだった。
「あの男は脳の一部が壊れて痛覚を失っている。それもこれも、大麻のお陰だ。尤も、暗殺者にはうってつけだとも言えるが」
 ソノーラは再び旧型M3A1グリースガンSMG・HWを抱え、走った。
 ターバン男達が、無残な姿で回廊に転がっていた。だが、その数は圧倒的に『急進派』よりも『長老派』の方が多かった。夜襲に油断していたというばかりではない。それだけではない何かが、宮殿内に潜入していた。
 ジンは、ふと立ち止まった。『急進派』の衣服を身に着けた男の死体に、不審な傷跡を見付けたのだ。
「…ブラスターの穿孔。それも急所を外さず狙っている」
 暗殺者の手によるなら、それも訝るところでは無いかも知れない。だが、『長老派』の持つ得物には見られない傷跡だった。微かに硝煙の臭いがした。半火薬のブラスターだ。
 小型高性能原子力電池を失った時に、セミ・パウダーガンとして利用出来る銃器。太陽熱電池を利用出来ない状況下でも、火薬は使用出来る。そんな条件下で活動する必要がある連中は、世界で数える程の団体も無い。そして、こんな物はムスリムはまず持っていない。
 ジンは男の腕を静かに置いた。
「何をしている?」
 ソノーラは厳しい声音で言った。
 ジンは立ち上がった。振り返りざま、《ブラックホーク・ディオファイア》を抜き放った。
 ゴォオオオン。
 天井まで黄色く立ち上る土煙の中から、男は姿を現した。高い靴音を響かせながら、男の黒いシルエットが近付く。黒い軍用コートの裾が、風も無いのに閃いていた。


第五章(1)に続く

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