第二十話
〜千年の孤独 mille-solitalio 〜
(後編)
第五章 生きる力 WHEN THE GOING GETS TOUGH、THE TOUGH GET GOING
(1)
重々しい音を立てて、扉が開いた。開いた時、アーチは静かに周囲を振り返った。一斉に振り返ったのは、ジョー・クリサンスマムとミスティ・サファイアだった。
此処にはまだ、『急進派』は辿り着いていないようだった。
「どうした?《千年の孤独》は!?」
叫ぶジョーに、アーチは酷薄な笑みを返した。ジュラルミンケースを右手に、出立の姿だ。
「ライター貸してくれ」
「はぁ?」
「いいから貸せ」
と、アーチはジョーの白衣の下に無理矢理手を突っ込んだ。
「おい」
胸をまさぐられ、げらげらと笑い出すジョー。アーチは、古びたジッポライターを抜き取ると、青白い炎を点した。呆気に取られているジョーとミスティを尻目に、アーチはそれを医務室の中に放り込んだ。
そして、素早く扉を閉める。
「ど、どゆこと?それは?」
ジョーは灰色の頭をぼりぼりと掻いた。アーチは扉に背を向け、無言で歩き出した。
「《千年の孤独》。そんな物は此処には無い。此処にあるのは、蒙昧な信仰の虚実だけだ」
「判るように説明してくれよ」
「つまり、ハサン・イ・サバーの後裔はいないということだ。《千年の孤独》が正統イマームだなんて、真っ赤な嘘。総ては灰になって御仕舞い、て事さ」
アーチは早口で言い、にんまりと笑った。さしものジョーも、この言葉には慌てた。
「灰になって、ってあんたそりゃマズイだろ?《山の長老》に大目玉食らうぞ」
「大目玉だけだといいがなぁ」
アーチは立ち止まった。薄暗い回廊の向こうから、男達がやって来た。白い顎鬚を蓄えた男、ハサン・イ・バルキヤックだった。
数メートル離れていても、その黒い瞳に籠もった怒気は炎のようにめらめらと燃えていた。敬虔なムラーヒダ(イスマイリ信徒)なら、その場に平伏して微動だに出来ないだろう気迫が、《山の長老》の全身から溢れていた。
「裏切り者めが!」
ハサン・イ・バルキヤックは、怒鳴った。空気がびりびりと共鳴した。ターバンを巻いていない三人の髪の毛に静電気が走った。
長老に随う二人の男は、曲刀を構えた。向かって右側の男が、アーチの懐に飛び込もうとした。曲刀の刃な届かなかった。ジュラルミンケースが、銀色に鈍く光る刃をこぼった。
「あーあ、これ高かったのに」
アーチは傷付いた商売道具を眺めつつ、呑気に言った。すると、間髪居れず左脇で長老を護っていた男が踏み出した。
銃声は一発。
撃ったのは、《パイソン・ブラザーサン》だった。
男は、撃たれながらも、ジョーの右腕に切り込んだ。白衣が裂け、その下の汚い僧服が破れて鮮血が噴出した。ジョーは咄嗟に《パイソン》を放り、左手に持ち替えた。
だが、ジョーは二発目を男の急所にはぶち込まなかった。腋下に入った弾丸は、男の肺を貫いて背中へ出た。
「何もパウダーガン使いは、利き腕だけで撃つとは限らない」
そう言いながら、ジョーはシケモクを床に吐き捨てた。男はひゅうひゅうと嫌な喉声を出しながら、よろぼうた。その肩をもう一人が抱えた。《山の長老》の怒りは心頭に達しつつある。
「…やはり異教徒。ヴァティカンの犬どもめ、わしらを愚弄するか。だが、貴様らのように堕落し切った輩が、我らに敵うと思うか!?」
ハサン・イ・バルキヤックは、腰に帯びた長剣を抜いた。それは柄に見事な宝飾を施した曲刃の剣だった。刃は音速で唸り、切っ先はアーチの鼻先に届かんばかりだった。
彼もまた、暗殺者の長。年老いたとはいえ武人の腕は、そこ等の若造が太刀打出来るものではなかろう。
「堕落してようが一行にオレは構わんが、おたくら、《千年の孤独》と呼んでるモノを甦らせたところで、自分の首を絞める事になるかも知れんぜ」
アーチは、刃先を見詰めることなく長老の顔を見て言った。普通は、鼻先数ミリのところに鋭い刃を向けられたら、どんな人間でも驚き慄くだろう。だが、この若い医師は全く動じなかった。恐怖心が無いのではない。圧倒的有利を確信しているからに他ならない。譬え、剣でなくハンマーだとしても、長老が一歩踏み入れる前に、彼は五歩も六歩も退く事が出来るからだ。
「何を戯言抜かしおって!」
「もう遅い。《千年の孤独》は炎の中だ」
「おのれぇ!」
長老の剣が閃いた。だが、アーチは寸前で後退した。驚くべき場面だったが、頭に血が上っている老人はそれどころではない。
いま一たび曲刃が振り下ろされるかと思いきや、ハサン・イ・バルキヤックは医務室の扉へ取り縋った。扉が開くと、酸素を含んだ空気がポリタクティカルホルミリン樹脂によって完全密閉された室内に流入し、バックドラフト現象が起こった。
まるで生き物のように、炎は扉から這い出た。ハサン・イ・バルキヤックは寸でのところで炎に焼かれるのを逃れたが、もう床に膝をつくより他無かった。
「おおおおおお!」
長老の悲痛な叫びを背に、アーチは再び何事も無かったかのごとく歩き出した。その背後を曲刀が狙ったが、それは二つの銃のたった二発の弾丸で阻止されてしまった。
銀髪の先が躍っていた。縁無し眼鏡は何処かで失くしたらしく、顔は素のままだった。キール・ロイヤル・スタンレーの涼し気な顔が、黄色い空気のなかから明らかになると、ジンは同じくサングラスを失くして締りが無いのを恥じるのも、すっかり忘れていた。
「キール・ロイヤル・スタンレー」
呪詛のように言ったのは、ジンでなはくソノーラだった。
ソノーラは曲刀を握り締めた。
「…ケルマンを殺したのは、貴様か」
スタンレーは肯定した。薄い唇が、木の葉のように滑らかな曲線で笑みを描いた。整った冷徹な顔の《鉄仮面》。
スタンレーは、両手を開いてジンとソノーラに近付いた。武器は手にしていないというパフォーマンスだが、それは逆効果を狙っているとしか思えなかった。その黒い大仰なコートの下には、ぎょっと眼を向くような暗器が仕込まれているのやも知れない。
「己を浅はかだと思いたまえ。我々が貴公ら野伏(のぶせり)の寄せ集めのような郎党など、真底信用するわけがない」
スタンレーは謳った。
「大体、歴史的に見ても、傭兵から成り上がった人物はロクでも無い連中ばかりだ。その筆頭がユリウス・カエサルというのは御存じだろうが。貴公ら、もしかして功績と情報をタネにUPに入り込もうなんて考えてはいまい?」
ソノーラは、無言でスタンレーを睨め付けた。猛禽のような眼力だった。だが、スタンレーもそれに負けぬ《鉄仮面》、両者は数秒の間瞬きもせず、睨み合った。
ジンはだが、この時スタンレーの微妙な変化に気付いていた。
どうやら、かなりの深手を負っているらしい。スタンレーの足取りに、不自然さが見て取れたのだ。
「貴様を生きてここから出すのは、我々イスマイリの恥」
ソノーラは野太い声で言った。禿頭に汗が滲んでいた。構えた曲刀が、閃いた。
スタンレーはコートの下に手を滑り込ませ、飛刀を放った。飛刀は垂直に飛んだ。ソノーラは飛刀の下を駆け抜け、スタンレーに突進した。血に濡れた刃が、つとスタンレーの制服を切り裂いた。
胸に赤い血筋を迸らせ、スタンレーは広場の端に飛んだ。ソノーラは、息つく暇も与えず、さらに曲刀を振るった。直立不動している者ならば、腕の一本や二本は飛んだだろう。ソノーラの腕は、暗殺者と訝るくらいに確かだった。
スタンレーは、今度は左肘から二の腕にかけて、大きな傷を作った。だが、《鉄仮面》のポーカーフェイスは揺ぎ無かった。
寡黙な二人の闘いは続いた。飛刀は、ソノーラの迷彩服を切り裂いたが、肉は削いでも決して、その動きを止めることは出来なかった。
突き、薙ぎ払いの交互の攻撃がソノーラの基本となっていた。スタンレーは、淡々とそれを交わし、或いはわざと受けて、次第に広場の外れに二人は動いた。
どちらがそのリズムを崩すか、それが専らの問題だ。
やがて、先にリズムを崩したのは曲刀の方だった。刃先は滑り、スタンレーの脇腹に突き立った。その瞬間だけ、スタンレーは血の気が引いたような表情になった。だが、次の瞬間だった。
スタンレーはニヤリ、とぞっとするような冷たい笑みを片頬に押し上げた。
「はっ」
呼気と共にスタンレーの右拳が突き出された。拳は、ソノーラの鳩尾に命中した。ソノーラはそのまま身体をくの字に折り曲げた状態で、ほぼ十メートル後方へ吹っ飛んだ。
「……」
無論、あんぐりと口を開いたのは、観衆ジン・スティンガー只一人だった。
とても、常人の成せる業とは思えなかった。まさか、とジンは訝った。こいつも強化人間だというのか。
スタンレーは何食わぬ顔で曲刀を引き抜いた。乾いた虚しい金属音だけが、響いた。スタンレーは早足でソノーラに歩み寄ると、ブーツの底でソノーラの肩を踏んだ。
「うぐぐぐっ!」
ソノーラは呻いた。まともにパンチを食らった腹部の燃える様な痛みで、ソノーラは血泡を唇から噴出した。
「薄汚いムスリムが…」
スタンレーは呟いた。ジンは、その呟きに激しい怒りを感じた。だが、スタンレーに挑みかかる寸前で、足が止まった。
スタンレーの靴底が、ソノーラの肩を押した。途端に、ソノーラはこの世のものならぬ低い呻き声を上げた。声は決して大きくない。むしろ、傭兵として訓練されているが故に、普段はこのような虐待でも声を上げるのは屈辱だ。
ソノーラの左肩は、だらりと崩れた。
「ただの脱臼だ。何なら二度とそんな物騒な物を握れないように、力を込めれば良かったか?」
ソノーラは首を捻り、スタンレーの顔を見上げた。《鉄仮面》の顔は笑っていなかった。不気味なデスマスクのように無表情だった。UPの誇る特殊部隊《スパルタン》は、敵と見做した相手にさえ、感情を覚えないのか。
スタンレーは、足に力を込めた。めりめり、と嫌な音が微かに響いた。声にならない絶叫が、ソノーラの唇から零れた。だが、ソノーラは歯茎から血を流しても、声は上げなかった。
引き続いて、スタンレーの足がソノーラの大柄な肉体を転がした。
「いい気になるな、旧世代の兵器やくだらぬ信仰を憎むのは、お前らクズどもだけじゃない。それが故に協力してやったんだ。有り難いと思えばこそ、我々に牙を剥くとは。やはりクズはクズ以外の何者でもないな」
動作は激しかったが、スタンレーの口調は飽く迄醒めていた。
ソノーラは、スタンレーの足先に転がされ、腿を踏み躙られ、なす術もなく床にのたうった。
「クズどもに何が判る?」
スタンレーは、動きを止めた。ソノーラは地中で戦慄く甲虫の幼虫に似た格好で痙攣していた。
「貴様らは、あんな欲の権化の異教徒どもに支配されて、何が愉しいのか?カトリックに反抗しようだなんて輩が、この程度のものか?…実にくだらん」
漸く、スタンレーの唇に狂気じみた感情が浮かんだ。
黒い軍用コートに穴が開いた。
重い発射音の後、チン、と空薬莢の零れる音が響いた。
スタンレーは振り返った。ジン・スティンガーの姿があった。その右手は肩に垂直に上がっていた。そして、掌に握ったパウダーガンの銃口からは、青白い煙が立ち昇っていた。
ジンの黒い瞳と、スタンレーの虹彩の狭い茶色い瞳が見詰め合った。
「貴様…紳士の器ではないな」
「紳士じゃねえのは手前ぇだ、クソ野郎!」
ジンは叫んだ。汗が額を伝って顎から胸に滴り落ちた。
「手前ェ、ぶっ殺す!」
轟音が響いた。余りの音に、宮殿内がびりびりと振動したほどに。
ジン・スティンガーは、血走った目でスタンレーの姿を追った。リロード(再装填)の最中は、最も隙を見せる時だが、飛刀が何処からとも無く飛んで来ようが、今のジンには余り大事ではなかった。
だが、一方で頭の中に響く声がある。
「無意味に時間を制限しているんじゃあない。余計な知恵を働かさない、最長の時間として十秒を想定している。それ以上あってどうする?」
ジャバー・ウォックの掠れた声が甦った。
「一発で決めろ」
確かに。ジンは外さず全弾、キール・ロイヤル・スタンレーに撃ち込んだ。
だが、スタンレーは無痛の大男同様に何度でも立ち上がる。決して痛みに声を上げない。恐るべき体力と、精神力だった。
スタンレーは、そして抜け目無く弾丸を交わし、ことごとく急所を逸らしていた。その度に彼の指間から飛び出す飛刀は自在に動いた。ジンは、凍えるほどの冷たい感覚を身裡に覚えた。リロードの度に約十秒とはいえ、寿命が縮む危険に晒される。いつもなら何となく活路が開けて、一大事を避け果(おお)せているのだが、今ばかりはそんな気がしないのだ。
「手前ェ、鉛弾バカスカ食らって汗の一滴もこぼさねえどケチだな」
ジンは殆ど悔し紛れに言った。もはや敗色濃厚なのは、ジンの方に見えただろう。ガンベルトから、魔術のように滑らかにマグナム弾を取り出し、スィングアウトさせて再び装填する間も、スタンレーは間合いを計って飛刀を投げた。
もう一つ、パウダーガンが振りであるのは弾切れしたが最後、という点にあるだろう。その分、飛刀はまだ回収の余地さえあれば充分リサイクル可能な武器だった。
「ケチもここまで来るとご立派なもんだ」
「ふ…」
スタンレーの瞳に光が宿った。血に塗れ、最早黄色い埃の為に艶を無くし、色褪せたかのように見える黒い制服の両腕が上がった。
その足首を何者かが捉えた。パルメット・ソノーラの手だった。ソノーラは頭上から血と汗に塗れながら、這ってスタンレーの足首にしがみ付いていた。その体勢がやっとの事かと思いきや、スタンレーはそのまま後方へ引き摺られた。鈍い音を立てて倒れる黒いコートの男と入れ替わりに、ソノーラが立ち上がった。
「……」
ソノーラは充血した目を、逆転した立場のスタンレーに向けた。倒れる寸前に腰を捻りざまはなったスタンレーの飛刀が、ソノーラの力無く下がった左腕に刺さった。
だが、ソノーラは微動だにせず、黙したままスタンレーの下腹を踏んだ。ごぼ、という音を立て、スタンレーは血塊を吐いた。《スパルタン》であり、強靭な肉体を誇るフォーティファイド(強化人間)であるスタンレーに、少々の攻撃は通用する筈も無いのだが、今やこの男は拳の切れ味もかくや、と思われるほどに憔悴していた。
ソノーラは、そのままスタンレーを踏み付けただけで、踵を返すと足を引き摺って歩き出した。
右手には、先程までの曲刀を握り締めた。
「ソノーラ!」
ジンは叫んだ。だが、ソノーラは振り返らなかった。
「何処へ行くんだ?」
愚問だと知りつつ、ジンは重ねて叫んだ。ソノーラの行き先は一つしかないというのに。
本当は、スタンレーなどに構っている暇は一秒たりとも無かったのだ。その時間の消耗と、失った代償は大きかった。背中に重い疲労の色が滲み出ていた。
「…もう遅いぞ。《千年の孤独》は、あの男が甦らせていることだろう」
スタンレーは、這い蹲って言った。冷酷な唇の端から、糸のような血が垂れた。ジンは息を呑んだ。覚えず、反射的に《ブラックホーク・ディオファイア》をスタンレーの額に突き付ける。
ソノーラは、《鉄仮面》の弄言など聞く耳も持たないかのように歩いた。
すると、その前にムスリムの格好をした女が忽然と現れた。まるで大型の肉食獣を思わせる静かで敏捷な動きで、女はソノーラの前に躍り出た。随分と背の高い女だ。
女は、金髪を短く刈り上げ、青い瞳を燃やしていた。彼女こそ、スタンレーの腹心とも言うべき存在、リンダ・アルバータインだった。
既に予め城内に潜伏し、内部からこの宮殿の者達を討っていったのは誰あろう、この女をはじめとするスタンレーの股肱達だったのだ。ジンは改めて、知った。
リンダの猫の眸に似た青い両眼が、炯々とソノーラを凝視した。
両手を構えると、女の握り拳の下に、中国の伝統武器トンファーが現れた。体術を得意とするのだろう。
「サー・インスペクターの仰る通り、無駄な足掻きはよしなさい」
リンダは仰々しく、そして居丈高に言った。もし相棒なら、こう言われたら目を剥いて喜ぶだろうな、とジンは思った。
アーチレリー・ブールヴァルドはこの手の女の強気な脅迫を目の当たりにすると、闘志と征服欲を掻き立てられるらしい。スタンレーに言わせると、それは野蛮なローマ人の伝統という事になろうが。
ソノーラは口返事もせず、只目の前の若い女闘士を無視して再び歩き出した。
「貴様っ!」
リンダのトンファーが風を切って唸った。ソノーラは右腕だけを回した。空気を裂く様な音がした。肘はリンダの脇腹に命中し、トンファーを握る手が開いた。ずばっ、と曲刀が流れて、容赦無くリンダの左乳房の下を抉った。
「うあ」
リンダは喘いだ。だが、辛うじて離さなかったもう一方のトンファーで、右腕を打つ。曲刀は抜かれた。ざっくりと深さ二十センチは肉にめり込んでいただろう。間を置いて、血が迸った。リンダは、やや後によろぼうたが、次の手は最早打てなかった。
呼吸を俄かに乱しながら、リンダは顔面蒼白のまま、ソノーラの横顔を見た。
「…許せ女。私には時間が無いのだ」
ソノーラは、その一言だけゆっくりと呼気と共に吐き出して背を向けた。
おい、とジンを呼び止める脳天気な声があった。ジンは、ようやくその声で我に返った。
アーチとジョー、そしてミスティ・サファイアだった。とても見た感じ胡散臭い格好の三人だが、ジンの神経はどうやら麻痺していて、それらの何処が珍妙なのか、直ぐに理解出来ずにいた。
シケモクに泥だらけの白衣の中年男と、ナースキャップを被ってパウダーガンを構えた女。これは異質な存在だった。
「久しぶりに会ったってぇのに、何て顔だよ」
と、アーチは言った。
ジンは暫し茫然自失していたが、ややあって首を激しく横に振った。この騒然たる血腥い光景に入り込んでいながら、相棒は全く動じないどころか、そこらの町を歩いているような悠然とした立ち居振る舞いだ。
「な、何てぇ顔とは、オレはもともとこうゆう顔だよ。お前ら今まで何してやがったんだ!?」
ジンは無駄だと知りつつ、咆え立てた。
「3Pに見えるか?」
アーチはしれっと嘲弄の言葉を吐いた。
「それは羨まし…じゃねえ!《千円の孤独》、うー、もとい《千年の孤独》はどうしたよ?」
「あん?」
アーチは、ジンの背後で横たわるスタンレーの無様な姿を認めた。瞼は伏せたまま、息が荒い。そしてそのずっと先、回廊の内部寄りに金髪女が蹲っていた。
「そんなもの、さてどうなったかオレは知らないね」
アーチはそう言い、瓦礫を踏んで歩くと、先ずリンダ・アルバータインに手を伸べた。リンダは、丸くなって腹部を押さえていたが、アーチの気配で顔を上げた。きっ、ときつい視線でアーチを睨み返したものの、実際成す術もなく、自分の運命は目の前の男に任せる他判断出来なかった。
トンファーを握る手にも、力が入らないのだ。
「知らないたァ、どういうこった?手前ェ、さては…」
ジンは軽く瓦礫を飛び越え、アーチの背中に掴み掛かろうとした。すると、アーチはジンの手が伸びる直前にさっと、振り返った。
「既に炎の中だ。今頃灰も残らず焼き尽くされているだろうな」
アーチはそう言って、ジュラルミンケースの中から包帯を取り出すと、リンダの衣服を引き裂いた、じゅくじゅくと血が流れ出す肋骨の隙間に、アーチは消毒パウダーを応急処置で振り撒き、包帯を巻いてやった。少々荒っぽいが流石に手馴れたものだ、とジンは感心してしまった。
「はっ。こうしちゃいられねえ!」
ジンは慌てて、テンガロンハットの顎紐を締め直すと、ソノーラが向かった先を目指して駆け出した。
アーチが呼び止める間も無く、ジンは早足でその場を去った。
やれやれ、と肩を竦めたのはジョー・クリサンスマムだった。ジョーは、シケモクを吐き捨て、白衣を脱ぐと丸めてアーチに投げ渡した。
「あんたらは、此処を出ろ。オレはジンを追う。何だかんだとオレが仕事放棄して戻る訳にゃ、いかんだろう?」
ジョーは、気色悪いウインクをして飄々と歩き出した。
「ちょっと、私の助けは要らないの?異端審問官!」
ミスティは、ジョーの背中をどやし付けた。ジョーは、ふと振り返り、ミスティの傍らに寄ると、そっと耳打ちした。
「オジャマ虫は早々に立ち去るからな。まあ、ヨロシク昨夜の続きなりとやってくれ」
「オヤジ臭い言い回し…。どういうつもりなのよ?」
ミスティはすっかり白けてしまって、ジョーの後姿を見遣るだけだった。
アーチは、リンダを立たせて右肩に担ぐと、ジョーの向かった先とは逆方向に歩き出した。
ややって、スタンレーが動いた。両腕でのみ上半身を支えつつ、スタンレーはゆっくりと起き出した。圧力を免れた傷口から、再び血液が流れ出す。
アーチは、ミスティに目配せしてリンダの身体を預けると、スタンレーを支え起こしてやった。
「…貴公に手助けされるとはな」
《鉄仮面》は、なおも澄ました様な、それでいて苦痛を堪える表情で言った。既に先程までの狂ったような戦意は無く、恬淡とした風情だった。だが、そこは流石に《スパルタン》の一員であって、悲壮さは微塵も無かった。名誉の負傷とでも言いたげだ。
「ふん。おたくらを助けるつもりなど、さらさら無いね、オレとしては」
と、アーチは嬉しそうに言った。
「只、あんたが死んでそっちのカワイ子ちゃんが嘆くのを、オレは見たくないもんでね」
その言葉に反応を示したのは、ミスティだけだった。それも、今ひとつ納得が行かないという表情だったに過ぎない。何で涙は見たいものじゃないのだろうか。
「というのは、戯言として。放置しておくと後でオレの立場が危うくなる上に、化けて出て来られそうだからな」
「ふ。私を生かしておく方が、立場が悪くなるのではないのかな?」
スタンレーは、アーチに両脇を抱えられ、歩き出した。足取りは思いのほかしっかりとしていた。
「おたくが幾ら《千年の孤独》の件を告げ口しようが、それは構わん。最早、証拠も無い事だし。オレが困るのは、元軍医として負傷者をほっぽり出してケツ捲くった、と後ろ指差される事だな」
ミスティは、会話を聞きながら思った。
男という生き物は、どうしてこの期に及んでまで己の名誉に拘る生き物なのだろう。その辺りは全く理解不能だ。だが、理解出来ないものにこそ反発を覚えつつも惹かれるのも、人間という厄介な存在らしい。
第五章(2)に続く