第二十話
〜千年の孤独 mille-solitalio 〜
(後編)
第五章 生きる力 WHEN THE GOING GETS TOUGH、THE TOUGH GET GOING
(2)
宮殿の回廊の窪みには、要所要所に黄色い灯火が炎を上げていた。
が、夜の闇が侵入してきた今は、宮殿の大部分を無言の威嚇で浸している。
ジンは、既に遠くなったソノーラの影を追った。見失ったところで、悲しいかな、直ぐに行き先は知れた。ジンが持つライターの乏しい光源でさえ、床面の点々たる血の跡を確認出来たのだった。
「バカ野郎め、そんな深手で、しかも右腕だけでどうするつもりなんだ」
ジンは、まるで己を叱咤するかのように呟き、進んだ。
イスマイリは偶像崇拝を禁じないシーア派であるが、この回廊は装飾も少なく至ってシンプルで味気無い造りだった。装飾を施す余裕さえ無かったのか、もしくは安普請したのか。それは判らない。
しかし、それは同時に敵の存在を知るにも好都合な造りでもあった。
今や『急進派』と呼ばれたソノーラの同胞達は、一人も姿を見せない。総て、《山の長老》の配下に惨殺されたのか、それとも宮殿内に潜んでいたスタンレーの部下達が蹴散らしたのか。或いは、土壇場で尻尾を巻いて逃げてしまったか。
いずれにしても、味方と呼べる者はいない。ソノーラ只一人なのだ。その悲壮感が、ジンを奮い立たせたに他ならなかった。
同時に、ジンは改めてこのヌォーヴォ・ニザリという宗教組織の奇怪さに戦慄していた。
同じ宗派でなければ、たとえムスリムであっても皆殺しに出来るのが、ニザリの連中だ。そして、それはモンゴルに壊滅させられ雌伏の千年を経た今も変わりない。
ソノーラは、立ち止まっていた。黒い影が見えた。
ジンは目指すところが異様に明るいのに気付き、そして次に立っている人物が二人である事に気付いた。
炎だ。
炎は回廊の右へ曲がった奥手から竜蛇のようにちろちろと長い舌を出して、拡がりつつあった。何かに引火しない限りは急激には勢い付かないだろうが、いずれ炎が宮殿内を焼き尽くすのは時間の問題と予測された。
「おい、ソノーラ!」
声を掛けたが、ソノーラの全神経は眼前の老人に注がれていたようだった。
老人は、荘厳な存在だったに違いないが、既にターバンも無くし、ところどころ火の粉で穴の開いた絹の衣を纏ってはいるも、殆ど浮浪者のようにも見えた。顔色は土気色を通り越していた。
初め、ジンは老人が只の精神異常者かとも思った。
何故なら、老人の目は死魚のように膜が張り、半ば死人のようだったからである。
「シャイフ・アル・ジャバル(《山の長老》)、ハサン・イ・バルキヤック!」
ソノーラは一喝した。
すると、その声で老人は漸く目間(まなかい)に皺を寄せた。黒目が動き、早代わりのようにハサン・イ・バルキヤックの表情は生きたものとなった。
「愚か者め、何をしに来た?」
ハサン・イ・バルキヤックは、上ずった声で訊いた。彼の右手には曲刃の長剣が握られていた。刃は全体に血と脂が混ざったぎとぎとした物が付着し、濡れ光っていた。恐らくは『急進派』である、ソノーラの同輩達を斬ったのだろう。
「今更無益な仲間割れなど何になる?《千年の孤独》、いや、ハサン・イ・サバーの後裔など甦らせてどうするつもりだ?」
ソノーラの言葉に突かれたように、《山の長老》は笑った。殆ど哀しいまでの、けたたましい哄笑だった。
「心配要らぬわ!もうとうの昔に、そんな物は炎に焼かれてしまったのだ!あの金髪碧眼の悪魔の異教徒に拠ってな」
ハサン・イ・バルキヤックは目尻を引き攣らせながら、忌々しく血痰を吐き出した。ソノーラは一抹の安堵を得て、ほんの僅かな時間長老から目を逸らした。
「危ない!」
ジンが叫ぶより先に、ソノーラの肉体は反射的に動いた。ハサン・イ・バルキヤックは、曲刃の剣を振るい、まるでその年齢には相応しくない身軽な動きでソノーラを襲ったのだ。
ソノーラは、右手のみで曲刀を構え、やや腰を落として後退した。長老の髭は、乱れていた。眼光に宿っているものは、何処か遣る瀬無い瞋恚に似た絶望だった。
この際、またジンは只の傍観者でしか無かった。全く、何の為にソノーラを追って来たのか。だが、もし仮にハサン・イ・バルキヤックがソノーラを死に追い遣った時は、ジンの右腕はその時こそが出番だ。
「…また厄介な事に首を突っ込んでるな、若造」
胸中で呟いたのは、ジョー・クリサンスマムだった。この男こそ抜け目無く、回廊の円柱の影に凭れて対峙する二人の暗殺者を凝視していた。
手を出すのは、全く以って野暮な話だ、とジョーは懐に納まっている《パイソン・ブラザーサン》のグリップを確かめながら思った。
ジョーにとっては、何れが倒れたところで構わない。残ったヤツを始末するか捕虜にすればいい。だが、どっちを取っても余り愉快とは言えない選択だった。ミスティ・サファイアを呼ばなかったのも、この展開が手に取るように見えていたからである、これ以上ややこしいのは御免蒙りたかったからだ。
恐らく、ミスティなら問答無用でハサン・イ・バルキヤックを撃ち殺す。しかし、それでは異端審問官の仕事にはならないだろう。
出来ればどちらも生かして置くのが、最良の方法だ。だが、《千年の孤独》がああなった以上、話は随分と拗(こじ)れたようだ。
「せめて、オレは生きて戻らにゃマズイだろう」
ジョーは気休めにシケモクを咥えた。一体。ポケットの中に幾つそんな物を入れているのだろうか。
外は既に、冷たい雨粒が斜めに散っていた。宮殿の取り巻きには、暗く重い雨雲が圧し掛かるような圧迫感があった。それは、出て行こうとする彼等が入ってきた時には無かったものだ。
火を吐く怪物が棲んでいるという伝説も、あながち嘘っぽく聞こえない風情だ。
アーチは、明るみはじめた空を見上げた。スタンレーも同じだった。細かい雨粒が、血に塗れたスタンレーの白皙を穿った。
そして、城下に目を向けると町の灯りは半減して見えた。最早、城塞に望みは無いと人々が逃げ去ったのか、それとも単に雨の所為なのか。
「城下には私の部下達がまだ留まっている筈だ。其処までの厄介だな」
スタンレーは、言った。アーチは軽くそれをいなした。
「なに、まだおたくの体中に埋まったオレの相方の弾丸を摘出しないとな。アイツ、まったく手を焼かせるヤツときたもんだ」
行きと同じく急な階段を、四つの影が下って行く。だが、往路と違うのは皆の足取りが異様なまでに重い事だった。無傷な人間は一人もいない。
足元は暗く、仄かな人工光源だけが頼りだった。
「ジンとジョーは…」
と、ミスティは人知れず呟いた。アーチは聞き逃さなかったようだ。
「案ずるに及ばないと思うぜ。或る意味、オレよりもしぶといからな」
それは本音だった。繊細さが無い、というのではなく己の不利な事不得手な分野に関しては、こと鈍感になれるというのも、アーチの言うしぶとさの類だろう。
ミスティは、頭からコートを被った。まるで遣らずの雨のごとく、雨足が強くなって来た。
「…バカね。男って何でああもバカなのかしら」
「仕方ないさ、そういう風に生まれてるんだ。キミら女性のように賢くは無い」
アーチは言った。ミスティの赤い唇が歪む。
「それって皮肉なの?」
「いや、本当の気持ち。女性は我々愚かな男よりもずっと高等な生き物だ」
やがて、アーチは不意に立ち止まった。
進路の遠方にに誰かがいるのだ。初め、逃げるムスリムの一人かと思ったが、そうではないことに気付いた。
彼は、一行に背中を向けてはいない。
その男は、ゆっくりと近付いて来た。黒い影ががっしりとした大柄な体型を形作っていた。つばの広い帽子を被り、闇に溶け入りそうな黒いインバネスは長身の男の踝までもありそうに長かった。だが、引き摺っているという雰囲気は無い。むしろその内側の肉体が無ければ、存在すら無意味な物にさえ見えた。
あまつさえ、インバネスは軽やかだ。雨に打たれて、ぐっしょり重みを増しているとは思えなかった。
だが、この目が眩むような階段を登って来るまでは、幾ら男の足でも十分やそこらでは到底無理だ。既に、その時点で男は人外の趣を漂わせていた。
男が近付く度に、奇妙な威圧感が増した。雨雲の所為ではなく、まるでこの男一人が造り出しているのかと思うばかりの存在感だった。
「貴様は…」
スタンレーは訝った。無意識に《スパルタン》としての体が、反応していた。全身が総毛立つ感覚に襲われたのは、次の瞬間だった。
男はアーチの真正面に来て、立ち止まった。
つば広の帽子の先が傾いた。
男は、ゆっくりと面を上げた。赤い顎鬚が見えた。帽子の下には、太く濃い茶褐色をした眉があった。その下の眸は殆ど金色と見紛う程、明るい茶色だった。四角い両目の下に座す獅子鼻、そして大きく引き結ばれた口元。
男は、無表情のまま再び帽子のつばを下げ、一歩階段を上った。
四人は、暗黙の了解のごとく道を開けた。男はその横をすり抜ける。アーチ、スタンレー、リンダ、そしてミスティの横を。微かに男の横顔が傾いたのは、ミスティが蝋のように強張った表情を見せた時だった。
黒いインバネスが翻り、男はまた音も無く階段を上がって行った。
一斉に振り返ったのは、ミスティを除く三人だった。
「今更、宮殿に?何者だ」
スタンレーは言った。ミスティ・サファイアの青い瞳が、呆然と進路を見ていた。
雨足は更に強まって来た。
「まさか、あの男…」
ミスティは、我知らず十字を胸の前で切った。その唇は紫色に凍えていた。
既に何人もの血を吸って切れ味が鈍った剣の音が響く。美しかった刃面には、薄汚れた血液と体液の残滓しか付いていない。
それでも、パウダーガン同士の闘いに比して剣同士は実に神経戦の様相を呈し、しかも将棋に似た詰め合いがあった。
ソノーラの肉体は、ほぼ限界に達しており、並みの人間ならとうに倒れている筈だった。左腕はまるで出来の悪い操り人形に似てぶらぶらと垂れ下がり、右腕のみで攻防を決めるソノーラにとって、どうしても左半身はハンディキャップとなっていた。
その左側は、向かってハサン・イ・サバーの利き腕を伸ばした先にある。随って、このかつて暗殺者として腕を鳴らした長老は一点、ソノーラの左ばかりを狙っていた。
「おのれ…」
ハサン・イ・バルキヤックは痺れを切らし、次の一手に出た。直突きで、曲刃の剣には無謀かと思える攻撃によって、ソノーラの胸の真ん中を狙った。
ソノーラは咄嗟に右腕で刃を交わした。
だが、振りが遅れた。右腕の力はそれ程に激減していたのだ。長老の曲刃は、ソノーラの二の腕に食い込んだ。それでも、鋼のように鍛えた筋肉が薄い刃をみっちりと塞いで、骨まで達することは無かっただろう。
「ぐうううう」
ソノーラは渾身の力を振り絞り、両脚を踏ん張った。ハサン・イ・サバーの体が、押し返されて後退した。 だが、長老は怯まずにニヤリと笑った。その左手が閃くや、電光石火の業でハサン・イ・サバーはソノーラの曲刀を奪った。
ソノーラは成す術も無く、長老の意のままに刀を奪われ、次の瞬間には鳩尾に自らの刃を突き立てていたのだった。
「ふははは…己が刀で貫かれる気分はどうだ?」
「…くっ、…ぷ」
ソノーラは息を継ごうとして、口から血を流した。曲がった刃先は、既にソノーラの背中に飛び出していた。
「ううううおおあああ!」
ソノーラは、目をかっと見開いた。ハサン・イ・サバーの剣を挟んだまま、右腕を振り解き、鬼のような力で目の前の長老を押し退けた。そして、震える右手で己の腹を真っ直ぐに刺した曲刀の柄を逆手に握り締めた。
「ふんっ!…ふっ、ううぐぐぐ」
唇から歯茎から真っ赤な血を滴らせながら、ソノーラは力ずくで曲刃を抜いた。それは、誰も想像し難い、地獄のような苦痛を伴っただろう。刃を抜いた傷口から。堰を切ったようにどす黒い血が流れ出し、ソノーラは流石に全身汗だくだった。しかし、彼はまだ両脚で力強く立っていた。
むしろ、臆したのはハサン・イ・サバーの方であったかも知れない。
「この程度で、私は死なぬわ!」
ソノーラは喉も潰れよとばかりに、声を振り絞った。
自らの血を吸った曲刀を再び構える。無論、その右腕には長老の曲刃の剣が食い込んでいた。ソノーラは、凄惨な形相でハサン・イ・サバーに向かった。
ハサン・イ・バルキヤックは、思いがけぬ逆転によって、気が動転していたのか。また虚ろな瞳を開いたまま、今度はじりじりと後退った。
ソノーラの曲刀が、振り下ろされた。
ジン・スティンガーは、瞬きすら出来なかった。
ジョーもまた、目の中に流れ込んで来るしょっぱい汗すら忘れてしまったかのように目を見開いたまま、対峙した《山の長老》とソノーラを見ていた。
ジョーの目の前を、黒いものが過ぎった。それが何なのか判断が付く前に、総ての事は終わっていたと言っても過言ではなかっただろう。
ソノーラの曲刀は、果たして振り下ろされていた。ハサン・イ・サバーの頬には、黒い液体が飛び散った。それは長老自身の血液であり、血液を迸らせたのは紛れも無く曲刀の一閃だった。刃はハサン・イ・サバーの左肩からほぼ袈裟懸けに流れていた。
ソノーラは、曲刀を振り下ろした後、方膝を床に付いて屑折れた。
「……」
ハサン・イ・サバーは、断末魔さえ無かった。その不審に気付いてソノーラが顔を上げた時、既に黒い影が炎の揺らめく中に投じられていた。
ハサン・イ・サバーの眉間には黒い穴がぷつりと開き、長虫のごとく脳漿混じりの血が流れ出していた。濃厚な火薬の臭いが立ち上った。
スローモーションのように、《山の長老》の肉体は背中から壁に激突し、倒れた。まるで木偶人形のように。
ソノーラの背後に佇んだ男が右手に構えていたのは、紛れも無いパウダーガンだった。
男は無表情だった。また、異様な風体をしていた。
「き、貴様は…」
ソノーラは歯を食い縛り、立ち上がろうと試みた。
「待て!」
それを制したのは、他でもないジョー・クリサンスマムだった。ジョーは既に僧服の内側から《パイソン・ブラザーサン》を取り出し、その牙を剥き出しにしていた。
「この男にそんな腐った刀は通用しないだろうよ」
ジョーは出番だとばかりに、シケモクを咥えたまま叫んだ。男は振り返る。ジョーは、その一瞬狼狽の色を隠せなかった。
「う…」
男が構えていた銃は、ジョーの愛銃に余りにも似ていたからだ。いや、その銃身の長さ以外ほぼ同じと言って良かった。つまり、それはミスティ・サファイアの持つ《パイソン・シスタームーン》とも同じ事が言えた。
今や、《パイソン》と呼ばれるリヴォルヴァーの存在は、《二つ名》を持つ優れたレプリカしか有り得ない。それも《ブラザーサン》と《シスタームーン》の二つしかないのだ。ということは、偽物でない限りは、第三の銃が存在するという事なのだが。
只、男の持つ《パイソン》の銃身は異様なまでに長い。十インチをとうに超えているだろう。その上、シリンダー(弾倉)までもが長かった。357マグナム弾が精一杯の筈の通常シリンダーではなく、全体的に一回り大きいのだ。
「いや、あんたの顔は初めて見る。…パウダーガン使いとしては初心者か?名鑑に載ってもいなければ、《十二鎗》でも有り得ない」
ジョーは、無謀とも思える台詞を男に向かって言った。明らかに見知らぬ男の醸し出す貫禄の方が勝っていた。男は、笑いもしなければ、ジョーに対して小馬鹿にした態度を取るでもなく、首を向けた。
「《パイソン》使いか。その腕確かかどうか、試してやろう」
男の声が低く響いたと同時に、銃声が響いた。ジョーがトリガーを引いたと同時と思われたが、それは間違いだった。
「おっさん!」
ジンが叫んだ。《ブラックホーク・ディオファイア》の銃口は、男の胸の中心を狙った。だが、トリガーは引かれなかった。安易に引き金を引いてしまえる程、ジンは浅薄な判断はしない。
ジョーは、男の一撃で軽く吹っ飛ばされてしまっていた。撃たれて初めて、ジョーは思い知った。長老を撃った弾とは違う。38スペシャル・ケース仕様のJHP(ジャケット・ホロー・ポイント)だった。
ジョーは、脇腹を押さえて上半身を起こした。弾は貫通している。
「…ふん。大した腕だな。このオレにたった一発で傷を付けられるとは」
そう言ったのは、男の方だった。男は左肩を掠ったジョーの弾丸の跡をちら、と見遣った。決して、皮肉ではなく、男の言葉は正確だった。
ジョーは立ち上がった。
男はゆっくりと首を振る。そして、二発目の弾丸を何の感慨もなく、ジョーの左脇腹に叩き込んだ。ジョーはもんどり打って呆気無く倒れた。
その間、ジンはまったく一発も男にくれてやる時間は無かった。いや、男に隙が無いのではなく、ジン自身に全くの余裕が無かったのだ。それ程に、男の腕前は神懸りに似て軽やかかつ正確、無言裡の威圧を感じさせた。
「オレが用があるのは、神父やムスリムではない。お前だ」
男は、ジンに向かって言った。
「お前の持つ、そのパウダーガンに用がある」
終章に続く
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