第二十一話
 〜叛逆の暗天使 Vivo per la tua morte〜
(前篇)


第一章 奪われた翼  THE LONGING
 
 (2)

 軍学校に入ったミスティは十七歳の夏、出征した。
 アドリア海を挟んだ、ダルマチア地方の内戦干渉及びゲリラ征伐に赴く為だった。イタリアに近いクレス島を中心とした沿岸地域は、大小数千という島々から成る地域だった。かつて中世十字軍が経た路。
 ミスティ・サファイアは夜営に出ていた。正規軍それもプロフェッショナルの集団において、出自や性別は関係無い。誰もが一般兵士として職務に就いている。望んで出た遠征だった。
 このバルカン半島は、数世紀に渡って紛争が絶えない地域でもあり、その言語、宗教、人種は複雑に入り混じっていた。ユーロに加入を試み続けるトルコと同じくらい、ヴァティカンにとっては悩みの種だった。とりわけ、イスラム教徒の全土統一運動への反抗は激しく、ほぼ二、三ヶ月に一度は紛争が勃発していた。
 この遠征も御多分に洩れない内紛の一つで、ヴァティカンはローマとリュブリヤナから援軍を送ったのだった。
 潮の香りが漂って来た。風は西から吹いてくる。
 ミスティは、キャンプを離れて一人馬を駆った。漆黒の馬が海岸線を走った。
 噂は既に陣営に響き渡っていた。西風が吹く時に、ゲリラは出現する事が多いという。噂では、相当な腕の船乗り或いは傭兵がゲリラの指揮を執っているということだった。
 本来、ゲリラ作戦を遂行するのは内戦の当事者であるムスリムであるのだが、どうやらそれは宗教的な関わりの無い集団と推測された。ならば、経済的な問題でムスリムに雇われていると考えるのが妥当だ。金で動く傭兵連中が、ある意味御しやすい、というのは事実だ。
 そこを行くと、政治的、宗教的理念を掲げて邁進する盲目な愛国者は手におえない。いっそ、思い切って交渉するなら、金の話をしたらどうだろう。死人など、これ以上無駄に出してもつまらないだけだ。
 などと、ミスティは考えながら海岸を警邏していた。
 遥か西の海上に明かりが見えた。漁師がこんな時間に漁に出る事は無い。また、季節は真夏だった。沿岸漁業は貝毒が発生する今の季節不向きだった。
 不審に思うミスティは、馬を休め海岸に下りた。
「あの船…」
 軍用コートが風に揺れた。暗視用双眼鏡を開く。だが、船は一見したところ只のジャンクだ。敗れかけた帆に、風の音がはたはたと鳴る。老いぼれた男が、一人天を仰いでタバコをふかしているのが見えた。
 ゲリラの斥候にしては、いやに長閑だが、油断はならない。
「……」
 ミスティは振り向きざま、左手を腰から離した。既にヒップホルスターから、《パイソン・シスタームーン》は抜かれていた。銃身の先にあったのは、男の掌だった。掌が退くと、灰色のテンガロン・ハットが見えた。その下に光った金色の瞳が、ミスティを見た。
「キャプテン・ブラッド!」
 ミスティは思わず息を呑んだ。五年前に消息を絶った男が目の前にいた。ブラッドは、しーっと唇の前に自分の人差し指を当てて、首を振った。
「大きな声で呼ぶな、アルテミス」
 何処かで聞いた台詞に、ミスティは頬を緩ませた。ブラッドの姿は、以前とほぼ変わり無かった。只、頬に生やしていた野性的な髭が剃り取られている事が、彼を却って若々しく見せていた。
 ミスティは懐かしさで、胸が詰まった。思わず銃を下ろしてしまった程だ。
「一体何処へ行ったのかと思っていたわ。ベラクルスの修道院が瓦解してから…」
「そうか。もう五年にもなるな…シスター・フィロメルは?」
「ずっとメキシコよ。会っていないわ」
 ブラッドは、海岸にしゃがみ、ミスティの姿を見上げた。修道服の少女とはまるで正反対の軍服姿は、それはそれで大柄なミスティに似合っていた。だが、軍服姿を褒められて喜ぶ若い女はいまい。ブラッドは、敢えて褒め言葉を噤んだ。
「しかし、お前はパウダーガンを構える姿も様になった」
 ブラッドは唇を噛みながら、しみじみと言った。
「仕込が良かったからよ」
 ミスティは淡々と言った。風が長い髪を頬と首に貼り付かせた。ブラッドは、ミスティの顔を見ないで、遠くの海を眺めていた。天候が良ければ、イタリアの国土が見える。だが、今は空とも海とも付かない宵闇が視界一面にあるだけだった。
「オレが、何故此処にいるのか訊かないのか?」
「ええ」
 ミスティは再び銃口を上げた。
「クレス島のゲリラというのはアナタなんでしょう?」
「よく判ったな」
「ジャンクみたいなボロ船を自在に操って、ムスリムを助けているという噂を聞いたからよ。しかも、そのリーダー格がパウダーガン使いだという事もね」
 それで、ミスティは自ら部隊に志願した。そのパウダーガン使いがブラッド・ワルドーフである事を思いながら。
 奇しくも、予測は的中した。出来れば、そうであって欲しいという気持ちと、そうであって欲しくないという気持ちの鬩ぎ合いが続いていたのだ。事実を突付けられてしまった以上、今はどうしようもなく、ミスティは只選択を迫られるのみだった。
 ブラッドは、懐からタバコを取り出した。
 甘い香りが広がった。青白い炎の後、白い細い煙が上がった。
「…オレは海が見える田舎町で育ったんだ。そうして船に乗った。生きる為に人殺しの道具を握った」
 ブラッドは、咥えタバコのまま昔語りを始めた。何もこんな時にするものではない、とミスティは思ったが黙って聞いていた。そういえば、ブラッドの身の上話など、ベラクルスに居た時も聞いたことは無かった。
「強くなりたくてな。オレは、唯一《称号》を得る程のパウダーガン使いになった。だが、それじゃあ満足出来ない。何ていうか、一生使って懸けるものってのは人それぞれ幾つかあるがな。それで、お前達と別れてメキシコを出た後、マーリオを追った。マーリオはイタリアに戻っていた。ヴェネツィアに居た。…だが、オレは一歩遅れたようだった」
 ブラッドは、まるで遠い昔の御伽噺でも語るように、優しい口調だった。ミスティは、ほんの一瞬自分があの頃、十二歳の頃に戻るような気分を味わった。だが、それは眩暈にも似た幻覚だった。
「マーリオは死んでいたんだ。呪われたパウダーガンに魅入られた男としてな。オレが辿り着く、ほんの数日前だった」
 ミスティは、《パイソン・シスタームーン》のトリガーに掛けた指が、潮風にべた付くのを感じていた。
 とても嫌な感覚だった。

 潮の香りが、きつく鼻腔に侵入して来た。粘膜を傷付けて痛みを伴うほど、塩分を含んでいた。そして、何処からともなくきな臭いにおいをも運んで来た。
「呪われたパウダーガン?そんな物が存在するの?」
 ミスティは何気無く訊いた。最早、何気無いといっても緊張と動揺で、答えなどまともに期待していない。実際、心の奥で考えているのは、目の前の男、ブラッド・ワルドーフをどうすべきかという事ばかりだった。かつて、たった数日とはいえ自分にパウダーガンの手解きをしてくれた男に、銃口を向けねばならない己の立場を、ミスティは一瞬恨んだ。それすらも、自己が望んで選択した事であるのに。
「お前は知らないだろう。パウダーガンが人を選び、選ばれた人間のみがそのパウダーガンの所有者となれるという事を」
 ブラッドは、紫煙を燻らせつつゆっくりと喋った。呪いのパウダーガンに関しては、直接触れずに。
「銃が人を選ぶなんて、有り得ないわ」
 ミスティはせせら笑うように言った。
「そう、オレもそう思っていた。だが、それは嘘じゃなかった」
 ブラッドはミスティを見上げた。《パイソン・シスタームーン》のフロントサイトが、こめかみに当たった。
「その銃は、持ち主にお前を選んだ。だから、オレはお前にそいつを渡す事にしたんだ」
「信じられないわ、そんな事言われても」
 ミスティは、低く呟いた。
 ブラッドはミスティの虚ろな瞳を見ながら、言った。
「銃に見限られない限り、お前はパウダーガン使いであり続ける。懼れるな。懼れない限り、そいつはお前を裏切る事は無い」
「…アナタだって、まだパウダーガン使いじゃない。どうしてこの《パイソン・シスタームーン》を手放したの?私を選んだなんて、言い訳にもならない」
 ミスティは嗄れた声で、詰問した。
「オレは、二つ名のあるパウダーガンを持つ資格を失くしたということだな。覚えているか?サトウキビ畑の風を、あの時修道院を囲んでいた男達を」
 ブラッドの問いに、ミスティは黙って肯いただけだった。
「あの時だ」
 ブラッドは極めてゆっくりと言葉を紡いだ。懐かしんでいるのではなく、その言葉を口にする事が苦痛でさえあるかのように。
「オレはあの時失くしたんだ。マーリオと向かい合ってからじゃない。死の恐怖など、何度だってあった。船乗りになれば、それは毎日のように襲って来る。だが、そうじゃない。失くしたくないと思ったものに気付いた途端、オレはそいつに見放された」
 という事は、既にマーリオの姿を見る前、ミスティに《パイソン・シスタームーン》を渡す前にそれを感じていたのだ。
 ブラッドは、深く息を吐いた。白い煙が吐き出される。
「銃が本当にオレを見放したのかどうか、それを確かめたくてマーリオを捜した。まだ見放されていないのなら、どんな銃でも『無敵のハンドキャノン使い』と言われたヤツを倒す事が出来るだろうと思ってな」
「…シスター・フィロメルの事が好きだったの?」
 ミスティは沈黙の後で訊ねた。返答は無かった。ブラッドは、途中でタバコを放棄した。靴底で踏み躙ると、金色の瞳が再びミスティを見詰めた。
「アルテミス」
 ブラッドは、右腰に手を当てると自前のパウダーガンを抜いた。それは、ミスティの持つ《パイソン・シスタームーン》と全く同じ型の銃だった。銀色の流麗な銃身が、夜の闇に映えた。
「お前のする事は一つしかないぞ」
 ブラッドは、作り笑いで銃身を上げた。ミスティは、《パイソン》のトリガーに左手人差し指を掛けた。
「アナタを撃つわ」
「そうだな。裏切った男は、裏切られた女に撃たれて死ぬのが真っ当なシナリオだ」
「…バッカみたい」
 ミスティは半ば強がりでそう言った。
 銃声が二つ、夜営のキャンプまで遠く響いた。
 クレス遠征作戦が終了すると、ミスティ・サファイアことアルテミス・サフィールは除隊した。

「私が殺したのよ」
 暖炉の灯りは、今が盛りとばかりに燃え立っていた。その炎を見詰めながら、ミスティは落ち着き払った声で語り終えた。
 《称号》も持つ者を倒したならば、《試合》と呼ばれる公認の場がなくとも、審査に拠ってその《称号》は倒した本人が受け継ぐ事は可能だ。 そうして、ミスティ・サファイアは《銃王》の《称号》を得た。
「ブラッドの遺体を軍に引き渡したのも私。だから、彼が生きている事なんて有り得ない。その時持っていた、もう一丁の銃こそ、《パイソン・ブラザーサン》。没収されて、今は持ち主を変えた」
 それが、異端審問官ジョー・クリサンスマムだ。
「だが、アラムート城塞で会ったあの男は?」
「ブラッド・ワルドーフだったわ。声も顔も全く同じ、老けてはいたけども」
 ミスティは両腕を自分で抱えた。まるで、目に見えない悪鬼が背中を撫でたかのようだった。
 アーチは、ミスティの横顔を見ながら、彼女の事を考える自分を置き去りにして、別の思案にくれていた。
 かつて同類の事があった。
 《不帰の砂漠》、ディアマントスの町に出現した男。ジン・スティンガーの左頬に三条痕を作った巨漢、ロブ・ロイだ。
 ロブ・ロイは確かに一度死んだ人間だった。それも、数体の人間を繋ぎ合わせて作った重合体だった。頭部および主要な骨格は、本人の組織だったが、それ以外の臓器、四肢の筋肉は似て非なる別人の物を使った、所謂生体サイボーグ。フォーティファイド(強化人間)といった、遺伝子操作人間の前身にあたる。
 その生き返った男は、宿敵ジンの前に再び現した。
 無論、目的は自分を殺したジンに復讐を遂げる為だった。
 アーチは、ふとミスティに呼び掛けた。物思いに耽っている様子だったミスティは、顔を上げた。
「今オレと同じ事を考えていたかい?」
「多分ね」
「一旦死んだ人間が生き返る筈など有り得ない。それを可能にするには、クローンでも作るしかない。仮にクローンだとしても、昔の記憶をそっくりそのまま受け継ぐ事は不可能だ」
 ミスティは、頷いた。
「私は遺体を処分する所までは見ていないわ。何故なら、直ぐにもヴァティカン本部に搬送されたからよ。確かに、心臓を狙って撃った。だけど、蘇生することが可能なら、ブラッドが生き返っても不自然ではないわ」
「額をブチ抜くよりは、遥かに蘇生しやすいだろう」
 と、アーチは答えた。
「とはいえ、搬送した時点で脳細胞を初め総ての臓器は腐ってしまう。まして真夏だ。心停止後、二時間程で総て終わる」
「じゃあ、あの時会った男は何なの?キャプテン・ブラッドでないと?私の本名を言ったのよ」
 ミスティは、椅子から身を乗り出した。手にしたグラスから、液体が零れそうになって初めて、ミスティは殆ど飲んでいなかった事に気付いた。
 アーチは疲れた目の下に、薄い皺を浮かべた。
「オレもキミの本名は知っている。ジンもピーチィも、ジョーも、キール・ロイヤル・スタンレーも。ブルーネレスキ博士も。そして、キミのおじさまも」
「何が言いたいの?」
 ミスティの険しくなった表情を見て、アーチは微かに笑みを浮かべた。それは、冷ややかに相手を抑制するような類の笑みでは無かった。
「まぁ、落ち着けよ」
 そう言って、アーチはルビー色の液体を干した。オリーブグリーンの瞳には、暖炉の炎ではなく燻ったような暗い焔が満ちていた。
「あの男が本当にブラッド・ワルドーフであるにせよ、誰であるにせよ、少なくともいま一度は会わねばならないな」
 ミスティは、その言葉の意味を直ぐに理解した。理解しても尚、気分は重々しいものだった。ワインを干してしまうと、アーチはゆっくりと目を閉じた。不意に眠気が回って来たようだった。
 
 充分とは言えない照明の下で、些か時代錯誤な手術が行われた。
 手術というと、上層都市における現在は遠隔地操作が普通だ。執刀医師は、空調の効いた自分のオフィスにいながら、モニターを見て実地活動している手術ロボットを動かすのみ。今や、生の臓器を見た事もないという外科医の方が遥かに多いのではなかろうか。
 手術台は、もう何年も使われていなかったのではないかと思われたが、器具は存外清潔に保たれており、簡単な消毒だけで使用出来た。
 大量の出血で、手術台に載せられたジン・スティンガーの皮膚の色は不気味に灰色掛かっていた。
 銃創は、全部で六個存在した。右肩、左内腿、右脇腹、左上腕部、左上腹部、胸部。中でも危険を予測されたのは、後の二つだろう。血液は、主に上腹部と脇腹の傷から流出していた。
「無様だな」
 と、アーチは紙マスク越しに悲嘆の言葉を禁じ得なかった。
 成り行きと幸運にせよ、《神の銃》と呼ばれる《ブラックホーク・ディオファイア》と呼ばれるパウダーガンを持っていた男が、こうも簡単に蜂の巣にされてしまうなど。
 そして、ジンに瀕死の重傷を負わせたキャプテン・ブラッドという男は、会った時と同じ表情同じ風体で、寸分変わりなく、アーチとすれ違った。違っていたのは、その男の右手に《神の銃》が握られていた事だけだ。
 アーチは、落胆も失望も無かった。
 お守り役として、身を挺してジンを守れなかったという悔恨さえ無かった。己に振り掛かった災難を自ら避けるか立ち向かう事が出来ないならば、それはパウダーガン使いとして、『パウダーガンに見捨てられた』という事に他ならない。その為の守役では無い、とアーチは充分に自己の任務を認識していた。
 事実、《ブラックホーク・ディオファイア》は、一旦その主であったジン・スティンガーを見捨てたのだ。
 だからといって、死に行く人間まして相棒を見殺しにして置く訳にはいかない。それで、アーチは同じく重傷を負っているパルメット・ソノーラとキール・ロイヤル・スタンレー、リンダ・アルバータインの手術と平行して進めなければならなかった。
 殆ど半日以上を費やす手術と事後処置をひとえにこなせたのは、ドットーレ・ブールヴァルドが軍医として少々荒らかな臨床経験を持つというだけでなく、人並みはずれた持久力を擁していたからだといえよう。
「ちくしょうめ、あとでUP(国際警察)には法外な治療費を要求してやる!」
 などとぶうつく言いながら、アーチは忙しなく働いた。
 輸血用血液が不足していた。アラムートの田舎医院の設備では、一時にこんな大手術は滅多に無い。ストックが少ないのも無理からぬ事だ。しかも、町の住人に緊急献血を強いている余裕は無かった。
 ストレッチャー(搬送台)の上に横たわるのは、ミスティ・サファイアの場違いに艶かしい肢体だった。
 左腕を剥き出しにされ、肘の裏の薄い皮膚に注射針を埋め込まれていた。赤黒い血液が透明なチューブを伝って滅菌処理された袋を通し、ジン・スティンガーの太腿の動脈に送り込まれていた。
 幸い、ミスティの血液型はジンと一致していた。それで已む無くストレッチャーの上で無防備に寝ているのだったが、既にミスティの体から抜き取られた血液は400ccを超えていた。
 もうじき500ccというところで、アーチは注射針を引き抜いた。
「…どうして止めるの?ストックは無いでしょう」
 ミスティは台に横たわったまま、訊いた。アーチは刺し痕にガーゼの付いたパッチを当てて、柔らかい彼女の腕を右手で押さえた。左手でマスクを下にずらす。
「これ以上抜くと、今度はキミがヤバイからな」
 やさしさからの言葉ではない。アーチは押さえた手指を離し、今度は別の注射針をガーゼの下から指した。増血剤だった。
 女性に400cc以上の献血を要求すること自体が無謀といえた。しかも、ミスティは僅かだが、ジンに供給する前にスタンレーにも血液を与えていた。
「献血を募るのは無理ね」
 と、ミスティは機転が利きすぎて怖いような言葉をポツリと呟いた。
 アーチは、増血剤を吐き出し切ったカンフルと注射器を汚物入れに捨てた。
 ヴァティカンの統治下、もしくは自治領である土地ならば、病院もしくは保健機関に住民のカルテが保存されている。それは、定期的に行った健診に基づくデータであって、そこで緊急用輸血液の供給者を篩にかけることは出来た。或いは、自分の血液をストックしている血液銀行もある。
 だが、ヴァティカンの関与しないムスリムの土地では、そのような期待は持てなかったし、事実そうだった。このフサーム・アル・アッカーのものだった医院には、飽く迄病歴のみを記したものしか残っていない。
 よしんば同じ血液型の供給者を金で得たとしても、感染症、およびウイルスの抗体検査をしている暇は無かった。
 医師としての選択は、あと一つだけ残されていた。
 アーチは、自分の左腕に新たな注射針を差し込んだ。そうして、今度はチューブを直接患者に繋ぐのではなく、或る奇妙な器械に繋いでいた。
 インスタント血液を精製する簡単な機械であり、押し込まれた血液が血漿と血球成分に選別されて二つの容器に分かれて出て来る。凝集反応を起こす血球を除去し、血漿と予めストックが残っている血液成分のみを解凍して緊急用輸血液とするのだ。
 ジョー・クリサンスマムには、それを要求出来なかった。だいいち、ジョーも脇腹に弾を貫通させられた負傷者だった。それに、血液型が一致しないのも兎も角、神父は出来ない理由を持っていた。アーチもジョー自身も、暗黙の了解でその事は知っていた。
 己の血液を抜きながら、アーチはともすれば心の平静を失いそうな寒気に襲われていた。
 予感というよりも、確実な予測だった。
 ドットーレ・ティクス・コリンズの開発した『ナノティクス・サプリメント』精製に、レミンカイネンである妹の細胞組織が使用された。その副作用が常人に齎した結果は悲惨を極めたのだ。
 アーチは暫し、メスを握る右手を止めた。冷や汗が額に滲んだ。
 薄いカーテン越しに、ミスティ・サファイアの軽い静かな寝息が聞こえた。増血剤に睡眠薬を微量ながら混入しておいたのだ。
 こうして、已む無いとはいえ今まで頑なに拒んできた他人への臓器提供、輸血をせざるを得なくなったという事実は、想像が付かない不気味な恐怖をアーチに与えていた。それも、己が下した決断でなければ、表面的にだけでも平静でいられたかどうか。
 アーチは、辛うじて温もりを保っているジンの顔を見下ろした。
「結果がどうあれ、オレはこいつを今生かしておかねばならない。どんな事があってもだ。《ブラックホーク・ディオファイア》が、再びジン・スティンガーを選ぶかどうかは、こいつ次第としても。それがオレの役目だ」
 ミスティは、遠のく意識の中で不穏な物音を聞き続けていた。自分の言葉が、アーチを優柔不断の泥沼から掬い上げたという事も知らずに。

 第一章(3)へつづく

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