第二十一話
 〜叛逆の暗天使 Vivo per la tua morte〜
(前篇)


第一章 奪われた翼  THE LONGING 
 
 (3)

 「よう、目が覚めたか」
 懐かしいタバコの葉の匂いがした。火口(ほくち)が噴火口のように赤く光っているのが、まず目に映った。そうして、その向こうにやや黄ばんだ歯の並びと、灰色のぼさぼさ頭。更にその上の天井は、クリーム色の漆喰が塗り固められていた。
「・・・う。どうしたってぇんだ」
「そりゃ、お前さんの方だろう?神父の顔が見えたんで、死んだと思ったか」
 ジョーは、ジン・スティンガーの鼻先に紫煙を吹き付けた。久方振りに嗅ぐきついニコチンの臭いに、ジンは噎せ返った。咳き込んだところ、体がみしみしと鳴った。全身に言いようが無い痛みが走る。
 ジンはベッドの上で、四肢を曲げる事にも不自由しながら、のたうった。
「ちくしょう。死んでちゃ、神父の顔も見えねえよ」
「ハハハハ。痛むってえ事は、元気に生きてるって証拠だ」
 と、ジョーは高く笑った。ジンは仏頂面で、神父の顔を睨め付けた。こんなお気楽な神父、世界中何処を探してもこの男くらいしかいないだろう。
「丸々五日間眠り続けだ。尤も、二日分くらいは麻酔が効いてたんだろうがなぁ」
「冗談じゃねえよ」
 ジンは、自分の生命を確認したむず痒いような喜びに浸っている訳にいかなかった。肘をつき、床と水平になったベッドから無理に起き上がろうとする。
「こんな所で寝ちゃいられねえよ」
「無理は禁物だぞ」
 ジョーは使い古された制止の言葉を言い、ジンの両肩に手を置いた。
「何しろ、お前さんは生きてるだけで在り難いんだ。相棒に感謝しろよ」
「ばーろい!オレのパウダーガンは…!」
 ジンはジョーを押し退けて、ベッドの上に起き上がった。だが、脇腹がきしきしと引き攣って、己の意志とは関係無く膝が崩れてしまった。引き抜かれた導尿管が、虚しくパジャマの下から落ちた。
 点滴のチューブがぶらぶらと、無意味に揺れていた。差し込まれた注射針が、皮下を動いて傷んだ。
 ジョーは手を離した。
 ジンは両腕を垂れて座り込んだ。フラッシュバックのように、脳裏に浮かんだのは、撃たれた瞬間よりも、金色の瞳の男が初めて見せた表情だった。確かにジンは、三発のマグナム弾を撃ち込んだ。だが、男はやや後退したものの、倒れなかった。
 帽子のつばの下から現れた中年男の精悍な双眸に、夕暮れに似た色が浮かんでいた。本当は、ジン自身の無様な顔が浮かんでいるにも拘らず。
 如何にも無念そうに、男は眉を顰めて倒れたジンに近付き、無慈悲なその右手で《ブラックホーク・ディオファイア》を奪った。まるで天使の片翼でももぎ取るような、哀しくも傲慢な目付きで。
 はっきりと覚えている。まるで骨から筋肉組織が剥がされるように、苦痛を伴ってジンのパウダーガンは掌から引き剥がされた。
「残念だが、コイツはお前を見放したようだ」
 男の声が鼓膜の内でがんがんと警鐘のように響いた。終わりが無い祝日のカンパニーレのように。
 見放した。
 見放したとは、どういう意味だ。己の倒れた無様な姿に、エンリケの今際の際の顔が浮かんだ。それは、昔見たジャバー・ウォックの横顔とも重なった。
「…顔色が悪いな。言わんこっちゃない」
 ジョーは肩を竦めて、傍らにあった丸椅子に腰掛けた。
 ジンは思わず蓬髪を掻き毟っていた自分に気付くと、顔を上げた。脂汗がじっとりと両の掌に浮かんでいた。顔は数日も洗っていない上に、嫌な汗に濡れていて、髭がだいぶ伸びているのが手触りで知れた。
 ジョーは、ジンと目を合わせた。
「どうだ?その状態でまだ出歩くつもりか?それであの男とやり合うか?」
「……」
 ジンは反論の言葉を持たなかった。
「お前さんがいいというのなら、丸腰であの男に勝てる方法でも考える事だな。言っとくが、オレは商売道具は貸さないぞ。まあ、見事におっ死(ち)んだら、葬式くらいはタダであげてやろう。袖摺り合うも何とやら、ってヤツだ」
 ジョーは愉しげに言った。だが、青灰色の瞳は笑っていない。
「…きしょう!」
 ジンは拳を振り上げ、ベッドに叩き付けた。痛みが腕を痙攣させた。そうして、肩から腹部へと伝った。
「エセ神父」
 と、ジンはジョーを睥睨した。
「オレに八つ当たりするなって」
「サイテーだよ、オレはサイテーだ!」
 ジンは喚いた。不意に、眠らされていた怒りだか悲しみだか、不安だかが一気に堰を切って溢れ出したのだった。
「パウダーガン使いとしてサイテーだ!何が《神の銃》を持つだぁ?何がシルヴァー・ブレットを倒すだぁ?早撃ちじゃあ手前ぇが腕自慢だったのに、何であんなにあっさり負けちまうんだよ!?」
 ジンは、シーツを握り締めた。眩暈がした。止め処ない遣る瀬無さが湧き上がる。
「チクショウ!何で、オレが選ばれたんだよ。オレはこの程度の腕で、ボコボコにやられて死に掛けたヘボでカスでおっちょこちょいで、ど下手で意気地無しで、情けねえヤロウなんだよ。何で、オレが《ブラックホーク》なんか、《神の銃》なんか…」
「ああ」
 ジョーは、病室だというのに相変わらずまだタバコをふかしつつ、口を挟んだ。
「お前はどうしようもないチキン(弱虫)野郎だなァ。度胸もねえ。腕もねえ。風采も十人並み、脚も短いし、頭も良くない。賢くて男前の相方に助けられてばっかだ。一人で苦労して生きてきた割には、実に青臭い。世間ずれしてないっちゃあそうだが、あまりにガキ臭い」
 ジンはジョーの飄々とした顔を見た。
「そんなんじゃあ、パウダーガンもいい加減愛想尽かして、持ち主を変えたくなるわな」
 ジョーは苦々しい表情で、再び立ち上がった。そして、つらつらと立て板に水のごとく喋り出した。
「カッコ悪い事は大嫌いだ。自分が悪いと思った事は、絶対許せない融通の無さ、とかな。自分に厳しい反面、他人にも厳しい。ドットーレのほうは、一見油断ならない男のようだが、本当はお前さんより随分繊細で他人に思いやりがあるように思うがな。それは、ヤツが自分自身を大事に認めてやっているからだ。自分で自分を認めなくてどうする」
 ジンは、呆気に取られながらもジョーの言葉を聞いていた。
 ジョーは、ふん、と鼻から一気に煙を出した。
「あの男は、カッコ悪いの大いに平気だ。カッコ悪いのも、偽らざる自分自身だからだ。こっぴどく女に嫌われようが、平気でモーション掛けられる図太さ。…なぁ、オレはヤツのそういうトコに惚れるぜ、男としてな」
 ジョーはぐい、と左手でジンのパジャマの襟元を掴んだ。タバコのにおいが、ぷんと鼻先に香った。
「先ずは手前ェのカッコ悪い姿を認めろや」
「ぐっ」
 ジンはしたたか、ジョーの右手指で鼻を摘まれた。
「ボコられて、虎の子のパウダーガンまで奪われて、死ぬほど情けない手前の姿を見ろ!」
 ジョーは恫喝した。無精髭に覆われた顔の下半分が、ジンの目前に迫った。
「判ったか?おい若造」
「ふぁ、ふぁはへ…」
「何言ってんだ。ハハ。鼻水垂らしやがって」
 ジョーは苦笑して、右手を離した。怪我人にいきなりの乱暴狼藉をする神父。この場に敬虔な信者がいたら、ヴァティカンに抗議の書簡が送られることだろう。
「ハッタリやカッコ付けじゃあ、シルヴァー・ブレットは倒せないって事だ。だが、お前には、それだけの腕がある。キンタマ縮み上がらせて膝小僧抱えて悲嘆に暮れてる暇があったら、ぐっすり寝て食って、英気を養うこった。銃を取り戻すのはそれからだ」
 ジョーはそう言うと、病室のドアを開けた。
「ジョー」
「何だ?」
 ジョーは振り返った。
「アーチは何処なんだ?」
 ジョーの返答が直ぐに帰って来ないので、ジンは首を捻って神父の顔を見た。ジョーは殆どフィルターまで吸ったタバコを咥えたまま、ズボンのポケットに手を突っ込んで頭を掻いていた。
「ああ、実はな」
 言い掛けたところ、別の力がドアを押し戻した。
 入って来たのは、ミスティ・サファイアだった。
「おお、お前の命の恩人がもう一人…」
 ジョーはミスティとジンを見比べて、言った。
 ミスティは酷く青褪めた顔色をしていた。いつもの溌剌とはちきれんばかりの色気は無く、いやに心(うら)寂しい表情が、今は濃艶さを醸し出していた。
「ドットーレ・ブールヴァルドなら、もう此処にはいないわ。アラムートにはね」
 ミスティは、索然とした風に視線を巡らせた。

 鄙びた町に再び平穏が訪れていた。遥か西の城塞は、既に黒く焼け落ちて、今は瓦礫と化していた。数日前の騒ぎは既にして沈静していた。UP(国際警察)の連中は、三日と経たない内に引き揚げて行った。
 キール・ロイヤル・スタンレーは、UPの医療班と共に上層都市に戻った。
「今回の件で、私は《千年の孤独》などという物は一切見ていなかった。それは事実だ。アラムート城砦の陥落と、ヌォーヴォ・ニザリの復活を暫し足止めしたという事実のみだ」
 スタンレーは、去り際に言った。
「事実かどうかは、死人を生き返らせて吐かせて見る事ね」
 ミスティ・サファイアは相変わらずの悪口で、英国人に対抗したが、それも空しいと知っていて言わずにいられなかったのだろう。
 果たしてスタンレーがどの様な報告をするのかは、アーチにはどうでも良い事だった。それに、この件で蒙るスタンレーの功績もだ。些か、異端審問所とどう折り合うのかは興味が無くもないが。
 只、今回のスタンレーとの邂逅は、多大な置き土産を遺してくれたという嬉しくない気分であるのは、確かだ。
 ムスリム達の礼拝の時間だ。人々は、皆絨毯を敷き、街角やバザールの中で膝をつき始めた。アザーンと呼ばれる呼び掛けは、モスクのないこの町では無かった。街頭でまちまちに「アッラーフ・アクバル(偉大なるアッラー)」とやり始めたようだった。
 誰もが額ずく間を、アーチは静謐の森でも歩くようにゆっくりと歩いた。
 乾いた空気が、頬を撫ぜた。髪に残る甘い香りが、夜明けの匂いを思い出させた。寝不足だったが、身体は軽かった。背負った見えざる荷物は、余りに重かったが。
「相棒に、さよならを言わないで行くの?」
 ミスティ・サファイアのハスキー・ヴォイスが、耳の奥に残っていた。
 日頃女性の言葉は聞き逃さないが、聞き流す性癖のアーチだった。だが、この言葉ばかりは、小指の皮膚のささくれのようにふと気になる類のものだった。
「二度と会わないわけじゃあるまいし」
 と、アーチは軽く言ってみせた。
 ミスティは、青く底光る瞳で、アーチを見ていた。顔色は、やはり悪かった。
 脚を高く組んだ部屋着の裾が割れて、ぬるくなった炎に映ってさえ、まるでオリーブの実の様に光沢を見せる内腿が覗いた。右太腿の付け根に黒子があることも、もっと奥の敏感な部分に黒子があることもアーチは知っていた。無意識の凄絶な色気があった。
 ミスティは大儀そうに立ち上がると、棒立ちになったままのアーチに青褪めた顔を近付けた。
 既に白衣に袖を通したその上から、ミスティは両腕をアーチの首に回した。洗ったブルネットの香りが漂った。
 アーチは暖炉の側で眠った後、明け方に目覚めてシャワーを浴びたのを思い起こした。
 暗くなった暖炉を認めて、アーチはいつの間にかソファで寝入っていたのに気付いた。寝覚めに髭でもあたろうかと思って、浴室に入った。バス・タブのようなものは基本的には無い。シャワーを浴びていると、同じように眠っていた筈のミスティ・サファイアが覗き込んだ。
 だが、それはアーチがそう仕向けたのだった。
 アーチは、シャワーの栓を全開にした。あまり豊富とはいえない真水は、勢い良くは出てくれなかった。しかも、肌に刺激が強いかなりの硬水だ。とはいえ、水音は充分以上に煩かった。
 ミスティは眠い目をアーチに向けた。アーチは、ミスティの手首を掴んで浴室に引っ張り込んだ。
 部屋着を身に着けたままだ。忽ちのうちに、白い薄絹が水と共に、ミスティの全身に纏わりついた。その一枚下は何も身に付けていない。部屋着の下は、剥き卵のような素っ裸なのだ。
「…此処なら恐らく何も聞こえないだろう」
「どうかしたの」
 と、ミスティは訝った。まるでアーチの暗い瞳には、情事の甘ったるい匂いを感じなかったからだ。
「少なくとも、その格好なら盗聴器は仕掛けられてないだろう」
「それはどうかしら」
 ミスティは鼻に掛かった声で言った。
「女にはいろいろと隠す処があるわよ。少なくとも男よりは多いわ」
「其処はこの間も、随分念入りに調べた筈だがな」
 アーチは、髭を剃っていた剃刀を床に放り出した。どうでも良くなったからだ。第一、髭が生えていたところで別段不自由は無い。むしろ今以上に女にモテるかも知れない。
「今は調べる必要無いの?」
 ミスティは自分の首筋から鎖骨をマッサージしながら、すらりと長い脚を摺り合わせた。美神も歯軋りするだろう、相変わらず見事な肉体だった。貼り付いた衣越しの肌は、血色が悪かったが、それでも瑞々しく水滴を玉と散らせていた。
 アーチは敢えて、媚薬の塊のような裸身から視線を逸らせた。それを合図に、ミスティはいやにあっさりと誘惑の手立てを諦めた。
「オレは身辺の人間一切の言葉を信じていない。ヴァティカンの何処から来た誰かであっても、旧い友人だと名乗ってもだ。大袈裟に言えばだが、オレ自身も判らない」
「ジョーの事を疑っている訳ね」
 と、ミスティは怖いくらいにはっきりと言った。
「なに、疑っているのは、ジョーだけじゃない。オレの仕事がキチンと出来ているかどうか、オレは常に誰かの監視下にあるようなもんだ。それに、異端審問官達は常に一つの仕事だけを追っている訳じゃない」
「それは私も同じ事が言えるわ。でも、ジンは別格でしょう?」
 ミスティはほぼ確信を得たような口調だ。アーチは否定しなかった。
「アイツは人間として青過ぎる。収穫したてのバナナみたいに、食えない。だが、全く手放しで信用しているとは、オレには言い切れないな」
「アナタがジンのお守をし、そのアナタをお守する誰かがいて、その誰かもまた別の人間に見張られている。ウロボロスのように廻る関係。距離の遠近に係わり無く、ね」
 ミスティは言った。他人を信用しないのは、それは一個人としてでは無く、何れかの組織の一員としてだろう。それは今までのアーチレリー・ブールヴァルドのスタンスとして、実に明白だった。
 秘密主義を遵守する法王庁において、肩書きを持つ者が必ずしも一つの職務に従事しているとは限らない。『枢機卿』という名称自体が曖昧な職務を示すものだ。本来、現在は教会の聖職位階は、『司教』『司祭』『助祭』の三つしかないのだ。教区を持つ司教を『大司教』或いは『総主教』などと呼ぶ。
 如何ほど、職務と位階はかけ離れており、またそれに従事する人間の数多も同じ慣習に随っているか。
「オレは、キミがおじさまから頂戴した、別の任務の事も知ってる」
 アーチはミスティの耳元に唇を寄せて、言った。
 ミスティは、青い瞳を丸くした。シャワーの打撃によって、長い髪は黒く上半身に貼り付いていた。
 暗い気分になるような言葉が吐き出されても、ミスティの心は、麻痺したかのように一部ぼんやりとしていた。
「キミの知りたい事を知悉(ちしつ)している、とは言い難いが。だが、信用するにせよしないにせよ、オレはキミに言わねばならない事を今から言う」
「少し待って」
 ミスティは意外な躊躇(ためら)いを見せた。ややあって、呼吸を整えると彼女は頷いた。
 浴室で聞いた話は、大半がミスティの気分を消沈させ、または滅入らせるような類のものだった。予測はしていた事だったが、それが為に、彼女はたった数十分の会話で数ヶ月を費やしたかのように、疲労困憊してしまった。尤も、それだけが疲労の原因ではないのだが。
 そうして今の今まで、立ち上がる気力も無く、濡れた部屋着を着替える気力も失せて、ソファに柔軟な肢体をめり込ませていたのだ。
「やっぱり独りになるのが好きなのね、アナタは」
「淋しくなったら誰かと一緒に酒でも飲んで酔って踊って、誰かの寝床に入るさ」
 アーチは、酩酊した時のような調子で言った。
「だけど、誰と寝ても踊っても考えているのはキミの事ばかりかもな」
「あら。目の前の女性の事しか考えない、と言ったのは誰だったかしら」
 ミスティは穏やかに皮肉の言葉を言った。アーチは首を捻った。
「たぶん。オレは、キミの事を考えているオレ自身が、好きなんだよ」
 ミスティの肌は吸い着くように、衣服越しにアーチの贅肉を削がれた肉体に絡み付いた。水蜜桃に似た両の乳房が部屋着の間から零れた。長い弾力ある太腿が、巻き付く。これで、理性を何処かの火山の噴火口にに埋めてしまうか、地球の果ての断崖から投げ捨てない男は、相当におめでたいヤツか不能者だろう。
「身勝手な男」
 その媚態は、本心からのものだった。熱い唇と身体を開きながら、凍えるほど無慈悲な職務への忠誠を守る女巡検使の二つの顔は、無かった。
「だけど…」
 言い掛けたミスティは、長い睫毛をを伏せた。アーチは、堪らずしなやかな引き締まった背中を抱き寄せた。が、ぽってりとした形の良い紅い唇が触れる寸前、ミスティの腕をすり抜けていた。
「男が身勝手でなくなったら、生きる値打ちも無い。言ったろ。二度と会わないわけじゃない。また気が向いたら、オレとサルサを踊ってくれよ」
 アーチは、深呼吸して言った。深呼吸でもしないと、とても言葉が粘って出なかった。いまここでまた、男の卑しい性(さが)を発揮するわけにはいかない。
「それもそうね。出来れば、もう少しだけ上手くなっておいて」
 思わずミスティは、反射的に瞳を伏せた。身体が離れると、毅然としてミスティはいつもの表情に戻った。まるで、何の関係もない他人を見遣るかのようだった。
 アーチは不意に振り返った。
「言い忘れてた。オレ的感想だがな」
 緑の瞳が、しどけない美女の姿を映し出していた。
「ブラッドが惚れてたのは、シスター・フィロメルじゃない。キミだよ、多分」
 アーチはドアを後ろ手に閉めながら、もしかしてミスティが顔をそむけた時に光ったのは、ピアスのシルヴァーではなくて、涙ではなかったかと訝った。だが、それを確かめる術はもうなかった。
「いつも我ながら悪趣味だ」
 美女の未練にずぶ濡れになりながら、出て行く男の図。記憶を手繰り寄せるのも億劫な程の数をこなして来た。
 だが、筋書き通りに行って、これほど心苦しい思いをするとは。
 卑怯な言葉でしか別離を告げられない慙愧の念が、アーチレリー・ブールヴァルドという男の心を、真昼の太陽が影を食うように蝕んでいた。激しく照り付ける、遮りのない太陽の光が。光のみが正しいとは、光のみが明るいとは誰も感じはしない。
「多分、恐らく、だろう、だと思う…何一つ確かな事など在りはしない。だから、オレはこの目で確かめる必要がある。それだけの事だ」
 アーチはただ、飄々と歩き続けた。
 城下を出ると、長らく預けっぱなしだった愛車、《デアデヴィルXIX》が駐輪場に用意されていた。オートバイは、黒い馬のように精悍なフォルムを見せ付けていた。
 陽が高くなる前に、砂漠を渡ってしまわねばならない。
 
 第二章(1)へつづく

「前回までのSTORY」へ戻る