第二十二話
 〜叛逆の暗天使 Vivo per la tua morte〜
(後篇)


第四章   夜は無慈悲な淑女  THE LADY FEEL HER PAIN
 
 (3)

 四十五口径から放たれた黒い弾丸は、初速こそ見えざる神速だったが、それはやがて微かな放物線を開いて、狙いを外れた。
 カウンター奥のデキャンタの群れに突っ込んだ数十ミリの金属は、硝子を粉微塵にし、壁に穴を穿って止まった様子だった。
 吹き込む風雨の為にではなく、それは人為的な阻害によってだ。
 エヴァ・スプモーニは、酒場の床面に投げ出されていた。《コルト・S.A.A.・45》が、繊手を離れた。
 その彼女に覆い被さるように、黒い影が落ちているのを、ジンは漸く確認した。
「お前…スターバック!」
 エヴァは蒼白な面を上げた。犬は、その巨体で以ってエヴァの両足を圧していた。ずぶ濡れになり、口裂からは牙を剥き出し、血混じりの息を吐く。さながら、地獄の番人ケルベロスを思わせた。
 唸る大犬の背後で、少年が叫んだ。
「やめてよ、姉さん!」
 長い髪を身体に貼り付かせたアンドレアが、入って来た。
「これ以上バカな真似はやめてよ」
 そういった実弟の泣きそうな顔を、エヴァは睥睨した。
「何を言うの?アナタは彼が、ジョシュが死ぬのを黙認していたじゃないの!?」
「…えっ?」
 アンドレアは息を呑んだ。姉の悲痛な声に、言葉を失った。
「私が知らないとでも思っているの?ふっ…総てはあの神父から問い質したのよ。お前に似た少年を小屋の近くで見掛けたって事も」
 エヴァの憔悴した顔に、どす黒い翳りが滲んだ。
 スターバック号の唸り声が、一段と低くなる。だが、犬は主人が命令しない限り、決して他人を襲う事は無い。エヴァは、その事を知っていた。
「僕は、恐くて…」
「恐くたって、誰かを呼ぶ事は出来るでしょう?お前は、あの人を見殺しにしたのよ」
 エヴァは目の端を吊り上げて言った。
 ジンは、エヴァが既に正気を失っているのを知った。いや、歪んだ憎悪が、本来は悪質とは無縁な実弟に向けられている。
 その様子を伺いながら、ジンは《コルト・S.A.A.・45》の存在をを気に掛けていた。
「…だけど、実際にジョシュを殺すように命じたのは、他でもない、父だった。それで、真っ先に私は父を殺す事にしたわ。それから、手を下した連中、そしてその計画を知りながら止めなかった神父」
 エヴァの頬を涙が伝った。
「おかしいと思ったのよ。死体が池から上がった時、一度も見せてくれなかったから。腐敗ガスが出ているからだとか言ってね。…本当は見せられなかったのよ、酷い私刑の痕が残っているから」
 アンドレアは自分の口元を手で覆った。依然として、スターバックはエヴァの身体を自由にはしなかった。
 「神父は事細かに私にその時の事を喋ったわよ。愚かなあの男。私が寝てやると言ったら、あっさりぶち撒けたわ。アッハハハハハ」
 エヴァは、気違いじみた甲高い笑声を立てた。ジンはその隙に、僅かずつではあるが、壁際を移動した。勿論、エヴァの傍らに転がっているパウダーガンを奪う事が目的だ。
「姉さん…」
「どいつもこいつも皆、ケダモノ共だわ。金欲しさに旅人を殺してまで奪い、町ぐるみのその秘密を守る為に寄って集って嬲り者にしてあの人を殺した。その上まだ、私の肉体までも。何処までも欲が深い生き物なのね、人間達は。…おぞましい!」
 エヴァは、言い捨てるとスターバックを睨み付けた。
「おどき!私にはまだする事があるわ。あの運送屋を殺(や)らないと。それから、いちばん最後にあんたを…」
 エヴァの冷酷な青い瞳が、アンドレアを射た。
「早く!この犬をどかしなさい!さもないと」
 視線を遣ったに、パウダーガンがあった。更にその先にジン・スティンガーの姿があったのを、エヴァは漸く認めた。スターバックが力を緩めると、エヴァは素早く床上の《コルト・S.A.A.・45》を引っ掴んだ。そして、ジンに揶揄するような表情をくれて、立ち上がった。

 だが、扉の先にはアンドレアが立っていた。
 少年は両腕を伸びる限りに広げて、姉の行く手を阻んだ。
「行かせない!」
 アンドレアの側にスターバック号が寄り添う。
「絶対に行かせないよ、姉さん!これ以上姉さんを人殺しにしたくないんだ!」
「は。何を今更言うの?」
 エヴァは鼻で笑った。物静かで生真面目な姉の姿は何処にもない。だが、如何に鬼女面であっても、その手が血塗られていても、アンドレアにとってはたった一人の肉親だった。
 ジンは、己の計画が失敗に終わった悔恨よりも、アンドレアの表情に見入っていた。自分が体験した場面ではない。こんな事は無かった。
 だが、何故だか恐ろしいくらいに少年の思念が、ジンの皮膚から鼻孔から、耳孔から、総ての五感を通して入り込んで来た。
「行かせない!」
 行かせてはいけない気がした。だのに、自分はどうする事も出来なかった。命を救われて、のうのうと眠っている間に、あの男は一体どういう決断で相棒と別れる事にしたのだろう。
 本来の守り役であるジョーに委任したから。そうじゃない。
 何かを知ったのだ。このまま、ジンと共に居られない理由の存在を知ったのだ。
 恐らくはブラッド・ワルドーフ、もしくはアラムート要塞での出来事に関わる事項。それとも、ジンには、想像もつかない事なのか。
 いや、そんな事はどうでもいい。只、一言言えたなら良かった。
「勝手に一人で行かせない」
 アンドレアは叫んだ。
「…一人殺すも十二人殺すも同じよ。今度で十三人。幾ら殺したって変わりないわ。さあ、どきなさい。さもないと」
 エヴァは、《コルト・S.A.A.・45》を構えた。それでも、アンドレアは動じなかった。
「僕を殺せばいいよ。殺してから行ってよ!どうせわかってる。姉さんは、モンゴを撃った後で、自分も死ぬんだろう?」
 弟の悲痛な訴えに、エヴァはほんの一瞬怯んだ。青い双眸が揺れる。だが、女町長は自分の唇をきつく噛み締めた。血が噴出す程に。
「死に行くお前には関係ないわ」
 トリガーは引かれなかった。エヴァは、パウダーガンを持った右手を振り回し、アンドレアの華奢な肉体を押し退けた。少年は、酒場の中へとよろぼうた。エヴァの後姿を追い掛けようと、スターバックが走り出す。だが、それもほんの数メートルで終わった。
「大丈夫か?」
 アンドレアは、声も無く頷いて、その場に倒れ込んだ。
「…姉さんを追って」
 ジンは、抜くだけ無駄になってしまった《パイソン・ブラザーサン》の銃身を右手に提げたまま、走り出した。

 頬を穿つような雨の中、既に衣服が皮膚のように吸い付いて、狂人と見紛うばかりの女が一人。エヴァ・スプモーニは、口の端に引き攣った笑みを浮かべながら、早足で歩いた。
「何処なの?何処にいるの?罪びとは何処?」
 まるで夜鳴き鳥の不気味な囀りのごとく、エヴァは呟いた。
「あんた達が殺した、あのいとしい人の銃で撃ち殺してあげる。早く出ておいで」
 高笑いが続いた。
 通りには、人っ子どころかやはり猫の仔すら見掛けない。
「何処なの?最後の野蛮人!」
 エヴァは絶叫した。風に混じって、嘯くような叫びが、おんおんと鳴り響いた。
 ややあって、メインストリートの外れに、黒い影が動いた。
「其処か?」
 エヴァは足早に近付き、パウダーガンの銃口を向けた。だが、動いたのは、野良犬だった。犬は妊娠しているのか、腹が膨れておりひどく殺気立って、エヴァに歯を剥いた。
 力任せに、エヴァは怯える野良犬の腹を蹴った。犬はキャンと鳴いたが、エヴァは容赦なくもう一度蹴った。
 その時、エヴァの背後を何者かが通り抜けた。
「お前…!」
 振り返った時、エヴァは少し遅れた。目の前に居たのは確かに運送屋のモンゴだった。モンゴの表情は稲光に照らされ、怯え切った野良犬の顔そっくりだった。
「殺してやる」
 エヴァは嗄れた声で言った。モンゴは愚かにも、思わず一瞬背を向けた。《コルト・S.A.A.・45》のマズルフラッシュが光った。
 雨音に混じって、発射音が散った。モンゴは前のめりになった。急所は外れている。その事を確認するまでもなく、エヴァは二発目を放った。
 今度は右肩を掠めた。
 斜線のように降り注ぐ冷たい雨の向こうから、もう一人の男が姿を現した。
 黒い衣服が僧服であると判るまでに、エヴァは数秒を費やした。その逡巡が、判断を遅らせた。
 ジョー・クリサンスマムの右手には、セミオート拳銃が握られていた。エヴァはトリガーを引いた。
 稲光の後に遅れてやって来た雷鳴が、銃音を掻き消した。立ち昇る白煙すら、この雨の中では無効だった。
「あ…!」
 エヴァは、叫んだ。声にならない叫びを。
 引き金は引かれなかったのだ。引く寸前に、彼女の右手人差し指は痙攣を起こしていた。筋肉が弛緩し、神経が麻痺した。初めて知る衝撃。そして二度目は知る事のない戦慄だった。
 エヴァは胸の中央に温かい広がりと、筋組織が破壊され行く虚無を感じた。
 ジョーの《ルガーPPK・リヴァイバル》の銃身は、発砲後の放熱が始まっていた。
 だがしかし、エヴァを穿った弾丸はその胸元ではなく、脇腹だった。
 ジョーは、引き結んでいた唇を僅かに開いた。神父の視線の先にいる男こそ、真にエヴァ・スプモーニを撃った人物だ。
 《ルガーPPK・リヴァイバル》を下ろして、ジョーは言った。
「狙っていたのか?」
 ジンは、答えなかった。今だ、ジンは《パイソン・ブラザーサン》を握り締めたまま、不動の姿勢でジョーを見詰めていた。
 雨がジンの髪を解き流していた。足元には、エヴァが泥に塗れて横たわっていた。
 ジョーは屈み込んだ。エヴァの髪に手を遣り、それから見開いた瞼をそっと閉じてやった。驚愕に彩られていた女の顔が、不思議と優しさを取り戻していた。
「…狙ってなんかいねえ」
 ジンの呟きが、響いた。つんのめって路地に倒れていたモンゴが、漸く微かに動きを示した。
「狙って人なんか殺せねえよ」
 ジンは漸くパウダーガンを下ろした。
「オレはそんなに割り切れねえよ。器用じゃねえんだよ!」
 ジョーは僧服が泥塗れになるのも構わず、エヴァの冷たい身体を担ぎ上げた。雨はまだ容赦なく降り注ぐ。
「だが、撃った事は事実だ。事実は否定出来ない。お前さん、そう叫ばずとも判ってるだろう。運命はどうにでもなる。殺されたのなら、それは手を拱いて死を受け入れただけに過ぎない。そうでない時は、他人を蹴落としてまで生きたい時が、生きる時だ。譬え蹴落とす相手がが血縁者であっても」
 ジョーは言った。神父とはいえ、異端審問官であるジョーの言動は酷く冷徹に、ジンの胸裡に響いた。
「…と、胸に刻み込んでおく事だ。そうでなければ、これから待ち受けているだろう様々な局面で、いつかきっとお前さんは耐えられなくなる」
 ジンは、予言めいたジョーの言葉に息を呑んだ。ジョーは、ジンを見遣る代わりに、天を見上げていた。
「だが、オレは今のお前さんを見て、少し安心したよ」
 そして、教会に戻るべく、ジョーはエヴァを抱えたまま歩き出した。
 ジンは立ち尽くすしか、その時術を知らなかった。決死の覚悟で行った行為を消化し切るには、まだ少し時間が掛かるだろう。
 雨がこの蟠った胸の中身を、溶かし出してくれるといい。総て洗い流してしまうといい。

 
 終章へつづく

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