第二十六話
〜A SON OF A GUN〜
(後篇)
第五章 ありふれた戦慄 KILL IS TENDERNESS
(3)
一世紀以上も前の空気が満ちているとさえ思われる寒さだった。そして、気高い死の香りが漂う。
だが、実際はほぼ毎日のように墓参の信者が訪なう、意外に俗な場所だ。時刻は既に午後十時を回っていた。ヴァティカンの城壁という城壁が閉ざされ、職員以外は内部には存在しない筈の空間が生まれる。
「冷え冷えとした場所ですね」
思わずバルテュスことバルタザール・デュ・バランクール異端審問官の口から、他愛もない言葉が零れた。声が上擦るくらいに、長い時間バルテュスは喋っていなかった。ただ黙って上司であるミスティ・サファイアの後ろを歩くだけだった。
目前の女からは重苦しい雰囲気というよりは、必要以上にぴりぴりと尖った空気が感じられる。それで余計に寒々としているのだ、と言いたかったのだが、どうやら言葉に含んだ意味は通じていないようだった。ミスティはやはり黙々と静かに歩くだけだった。
ピーチィ・フィズと別れてから職員用のテラスで一服入れたのだが、その時にウォッカ入りのとびきり濃いカッフェを飲みながらミスティが苦み走った表情で言ったのは、一言のみだった。
「アナタが知りたかった事を見せてあげられるかも知れない」
軽い気分で言ったとは思えないが、真意を探ることは出来ないままバルテュスはイル・パーパ(歴代教皇)が眠る地下まで付いてくる羽目になったのだ。
バルテュス自身は初めて訪れる場所だった。というのも、好き好んで墓所に来る若い男など余程の思い詰めた事があるか枯れ果てた気分にでもならない限り、憂き世の憂さは歓楽街の赤や青の光の下に紛らわすからだ。
「まさかオレにこれから墓守をしろなんて言うんじゃ……」
返事が無いので、バルテュスはそう言ってみた。
罰当たりにも列聖の遺骸が並ぶ前でファックしようと言われても、バルテュスは驚かない覚悟でいた。この男に信心深さを求めるのは聖杯を求める以上に難しい。
ミスティは返答をしないまま、やおら振り返った。香りは強まった。丁度、第102代ローマ・カトリック教皇インマヌエル18世の墓前だった。大理石の前に置かれた白い花が強い臭いを放っている。墓参の誰かを特定出来るような特殊な花ではなく、ありふれた白百合だった。百合の花は、甘く爛れた香りで腐りかけていた。幾つかの花弁は、半ば透き通り掛けていた。
しかし、置かれた花にミスティは何か只ならぬものを感じたらしかった。墓前の花束に触れようとした瞬間、バルテュスは猫の様に目を細めた。
カタコンベ(地下墳墓)の仄暗い奥から現れた細長い影。
バルテュスの全身が毛羽立った。何故だか判らない。まだ近付いて来る人物の正体も見ていないのに、幽霊でもみたような悪寒が背筋を走る。否、バルテュス自身は幽体の存在は見たことも信じてもいないので、飽く迄想像に過ぎないのだが。
男は簡素な神父服に似た立ち襟の黒服に黒いギャバジンのロングコートを羽織っていた。右手に花束を携えていた。透明なフィルムから覗く花びらは、白百合のものだった。
コートの間から見え隠れする男の四肢は、衣服を纏っていても細いのが判る。
バルテュスが息を呑んだのは、男の白皙にでも百合の花にでもない。一瞬、ウイッグかと思った金髪にでもない。元々の健康状態は判らないが、一般的に見てやや血色が悪いと思しき印象にでもない。
何処かで見た顔。
そして、澄ましていればかなりの美貌と言って差しつかえない男の面差しに、常人にはない凶々しい存在を見たからだった。殺気という明確な目的を持った意志ではなく、憎悪という凝縮された思念でもない、だが出会う者総てに震撼を与えるだろう表情が男の中から滲み出ていた。
生まれ付いての殺戮者―。
そんな言葉が相応しかろう。優しい顔をしたまま、子供の首でも圧し折りそうな。
なるほど悪魔の具現化は、筋肉隆々の魁偉な姿よりもこんな風情の男に相応しいだろうか。
男はまるで、ミスティとバルテュスの存在を無視したかのような所作で大股に歩き、立ち止まった。インマヌエル18世の墓に覆い被さるように腰を折り、上から新たな花束を置いた。そのまま動作の流れで朽ち掛けた花束を抜き取ろうとした右手が止まる。
ミスティ・サファイアが素早く《パイソン・シスタームーン》を抜いていた。男の頤下に銃口がぴたりと当てられていた。
「22時以降は墓所はヴァティカンの職員以外立ち入り禁止になっているわ」
男はミスティの目を見ていない。ミスティもまた男の目を見ていない。
「即刻立ち去りなさい。さもないと、衛兵を呼ぶだけじゃ済まないことよ」
それはそれは、と男は初めて喋った。バルテュスほどの美声ではないが、印象的な中低音だった。
「しかし、まだ除籍されていなければ、オレもここの職員であることを主張してもいいかな。異端審問局長代理どの」
「アナタがヴァティカン科学アカデミー医局嘱託職員のドットーレ・アーチレリー・ブールヴァルドであるという証拠があるのなら」
ミスティは銃口を突き付けたまま、下手な台本でも読むようにはっきりと言ってみせた。
バルテュスは聞こえるように大きく息を吐いた。ブルーネレスキ博士を狂気の区域に追い遣った元凶の男。そして、この男がレミンカイネンという恐るべき生来の強化人間なのか。
ミスティが異端審問局長代理であることも男の既知だというのは、かなり不気味だった。いつ知ったのだろうか。
「証拠がなければ、場合によってはその優男顔が吹っ飛ぶわ」
滅法強気を言いながら、ミスティが内心引け腰なのをバルテュスは敏感に覚った。気迫負けというのではない何かが、ミスティを恐れさせているのだった。
男の右手が動いた。《パイソン・シスタームーン》のバレル(銃身)を掴むとほぼ同時に、左手でミスティの首を鷲掴みにした。バルテュスは反射的に身構えたが、ミスティの鋭い視線が次の行動を制した。
ミスティの手袋をはめた左手指からブルースティールの銃が離れる。アーチの右手が《パイソン・シスタームーン》の重みをさり気無く受け止めた。
そして、器用に片手でシリンダーを落とし、ミスティの眼前に向けた。
「弾も装填しないでどうやって吹っ飛ばすのか、教えてくれよ?」
余韻を挟まずミスティの左腕がアーチの頬を張り飛ばす、という筈だったがそれは目前で儚くなった。代わりにバルテュスの拳が撥ねる。だが、幼児の頭ほどあろうかという異端審問官の鉄拳は潰えた。バルテュスの動きに注意を払っていたでもないように見えて、あっさりとアーチの右手は拳を受け止めた。受け止めただけでなく、長く骨張った五指が包み込んだ。
しまった、と臍を噛んだ時には僅かに遅かったようだ。
とてもその痩せ肉(じし)から発散されるとは思えない握力で、バルテュスの拳が砕かれる。乾燥し過ぎたビスコッティを食むような鈍い音がした。それ以上の暴力は発揮されず、アーチは指を開いた。
前もって牽制しているのにわざわざ身を以って試さないと判らない愚かな男、とでも言いたげな緑の瞳がバルテュスを漸く注視した。
「安心しろよ。大菱形骨(だいりょうけいこつ)と有頭骨と有鉤骨(ゆうこうこつ)は折れただろうが、基節骨と中節骨は外しただけだ。骨がくっついても変形はしない」
人を食ったような解説だった。だが、肉食獣の一撃を食らった猟犬のようにバルテュスは用心深くなった。
「どうやって此処へ……」
ミスティは首を捉えられたまま、喘ぐようにして言った。本当はその前に幾つか聞くべき事がある筈だが、言えなかった。アーチはバルテュスから目を逸らした。
「それよりも何故、パウダーガンに弾を籠めていないのかキミの口から聞きたいね」
半ば恫喝に似た言い回し。ミスティは侮蔑に似た溜め息と共に答えた。
「鉛弾はイル・パーパの墓所に物騒過ぎる」
「確信していたからだろう」
アーチは畳み掛けるようにミスティの言葉を遮った。
「オレが現れることを。さもなくばディアーヌか」
バルテュスは俄かに現実味を帯びてきた左手の激痛に苛まれながら、あっとなった。金髪の何処かで見たことあるような男は、科学アカデミーの精神医療研究所に監禁されている若い女に似ていた。
「確かにマグナム弾の一発や二発じゃオレには効かないが、強化人間を素手で相手にするつもりだったとは恐れ入った。しかも、さして役にも立たない番犬付きで」
アーチはそう言うと、左手をミスティの首から離した。絹が纏わり付いたような柔らかい離れ方だった。
途端にミスティは身体を折るようにして、激しく咳き込んだ。口腔に溜まった唾が一気に流動し、気管に入りそうになったからだ。
「……キャプテン・ブラッドは?」
「さぁ。今頃ヴェネツィアの港で水揚げされるイサキやアンチョビの腹の中だろう。オレも一緒に流れていた筈だが、見ていないから確信はない」
淡々と語るアーチの表情には、死者に対する微塵の同情も憐憫も伺えなかった。
「アナタが殺したの?」という言葉が喉元まで出掛かっていたのだが、ミスティは呑み込んだ。過去の事実が自分に付き返されるだけだと思った。
「キミがいちばんよく判っているだろうが、あの男は元々は死人。死人に鉛弾を食らわせただけのことだ。生きてるオレの血肉を情け容赦なく抉り取ったのは死人の方さ。挙句の果てに上司にまで殺されかけたがな。まだ腹や胸に幾つか穴が開いたままだ。見てみるかい?」
アーチは漸く苦笑を押し上げた。だが、そこには以前の明るい皮肉は微塵も無かった。ミスティは呼吸が整ってきたものの、まともに視線を合わせる気になれなかった。オリーヴ色の瞳の奥を覗き込めば、身の毛のよだつような魔人でも潜んでいるのではないかとさえ感じた。
このふた月弱の間が遠い昔のように、この瞬間もミスティには思われた。人は差し迫った時に限ってそんな事を思うものだ。
目の前の男は瀕死でアドリア海を漂い、何処かの岸辺に辿り着いてローマまで来た。人知の及ばないことさえやってのけそうなこの男なら如何様にしたと言われても何となく納得が行く。だが、何の目的を果たしに。
趣味の悪いネクタイも締めず、従軍医の名残である白衣を失っている事が、ミスティの気になった。
「この間ここで私を襲ったのもアナタだと判ったわ」
アーチはコートのポケットに引っ掛けていた《パイソン・シスタームーン》をミスティに差し出した。受け取りながら、ミスティは新しい花の香りと爛れ往く花の香りを同時に疎ましく思った。
強い芳香を放つ花束が、何ゆえに置かれていたか。体臭を誤魔化す為に相違ない。幾ら無臭に近い人間でも、身体を密着させれば独自の体臭は相手に自己を知らしめる。自分を知らせたくない時、余計な香りで嗅覚を麻痺させておくに越した事は無い。
しかし、それが逆効果になる時もあるのだ。元来頭の回転のいい男が、そこまで考えずに白百合を小道具に使うとは思えない。わざとなのだ。わざと自分だと主張する為に。
「ディアーヌに会ったの?」
いや、とアーチは首を横に振った。
「でも、ディアーヌはアナタが生きていると確信していたわ。そのことを確かめたかったから、此処に来たのよ」
ミスティは偽らざる目的を言った。
「確信している理由はキミも判るだろう」
と、アーチは自らが余り多くを語りたくない風に短く答えた。
「アナタが生きていない場合、ディアーヌは檻から放たれていた。けれどディアーヌが囚われたままだということは、アナタが生存しているという裏付けになる。つまりいずれにしてもアナタ達のどちらかが動いている。いえ、動いていなければならないその理由は……」
ミスティは問わず語りに言った。バルテュスには今ひとつ要領を得ない遣り取りだった。兎に角、己の拳をいとも容易く砕いた男の本質を見抜くまでは納得が行かない。拳は僅かの間に内出血で赤黒く腫れ上がってきた。その痛みで半分気が散りながらも、バルテュスはある意味仕事以上に熱心に観察していた。
バルテュスは、不条理な暴力に対する怒りを裡に飼ってはいない。むしろ、拳を掴まれた瞬間に全身を駆け巡った戦慄に驚愕していた。
この禍々しく美しい生き物になら縊り殺されても厭わない。すすんで自らの首でも何処の箇所でも差し出したくなるような感覚さえ覚えたことだ。
「理由が知りたいというのなら」
と、アーチは言葉を区切ると、不意に歩き出した。カタコンベの深奥に向かっているのだった。
「おいで。見せてやるよ」
硬質なシルエットを持つ筈の革靴なのに、足音が殆ど無い。幽霊に導かれているのではないかと、ミスティは一瞬狼狽した。黄泉の国から帰ってきたのだと言われれば納得が行きそうな風情ではあるが。
最も初めに頭に浮かんだ言葉を仕舞い込んだまま、ミスティは黒いコートの背中を追った。
第五章(4)へつづく