第二十六話
 〜A SON OF A GUN
(後篇)


第五章 ありふれた戦慄  KILL IS TENDERNESS 
 
 (4)

 墓所の真北は行き止まりの筈だったが、その事は全く問題にせず、恰も予め通路があったかのようにアーチは進んで行った。警邏の人間もいない。その事は、ミスティとバルテュスに奇妙な違和感を与えた。
 只の不法侵入であるならば、警備員は予め墓所にいた。いや、今も冷たい床に転がっている筈だ。だが、いたという気配もない。端から警備の人間などいなかったと考えるのが自然だった。
 煤けた壁に長いシルエットが三つ並んでいた。影はそれぞれがくっつき合ったり離れたりしながら縮んで行った。現実の三人は奇妙に一定の距離を保って、カタコンベ(地下墳墓)を通り過ぎた。
 最も新しい階層のみが、現在墓参の信者が行き来するところであり、今し方通ってきたところは中世の墓所をそのまま流用した古い階層である。埃っぽい空気が薄暗がりに舞っていた。
 花崗岩を積み上げた白い階段は、何処へ繋がっているのだろうか。ミスティは先を行くアーチの背中を凝視していたが、振り向いては貰えない。尤も、気付いていてもわざわざ振り返ることはないだろう。
 軽口を叩かないアーチが不思議だというわけでもないのだが、どうしてもミスティは馴染まなかった。そして、懐かしい感情が湧かない自分もおかしい。つまり、この男に再び見(まみ)えることを待ち望んでいなかったということだろう。その理由は判然としている。だが、言葉にすることは恐ろしくて出来なかった。
「これって……」
 不意にバルテュスが呟いた。墓所の位置から見て、だいぶ北東に進んだだろう。そして、階段は上の階層に向かっている。
 大聖堂の真北だろう。とすると、各枢機卿らの執務室や個室のある棟ではなかろうか、とバルテュスは想像した。これは中世の隠し階段として非常事態に使用されたものなのか。
 錆び付いたドアに辿り着くと、不思議なことにアーチは音も立てずにその扉を押し開いた。恰も絹のカーテンを押し退けるような仕草だった。新鮮な空気が流れ出すと同時に、ミスティは瞠目した。
 そこにはいまだかつて見たこともなければ、まして触れたこともない不可侵の領域が開かれていた。隠し扉は案外ありきたりな場所にあったのだ。クローゼットに見せ掛けた扉が後ろ手に閉められた。
 白い簡素なリネンの下で、はっと息を呑んだのは痩せたイタリア人の風貌を持つ男だった。
 その力ない瞳を見た瞬間、ミスティは人物を悟った。
「イル・パーパ……」
 呟きは虚しかった。
 アーチは無表情のまま寝着姿で半身起こしかけた教皇に歩み寄った。そして、まるで兎でも絞め殺すみたいに首に手を掛けた。
 くぐもった声が洩れて、イル・パーパの両腕から力が抜けた。死んだのではない。それは案外安らかな表情と胸の動きで明白だった。
 まるで蝋のように黄色く萎んだ教皇の顔色はとても三十代後半の、若さを残した男の風貌とは思えなかった。少なくとも特務巡検使の拝命を賜った時に見た、あの時の教皇ではない、とミスティは感じた。酷く憔悴し、或いはこのままではいつ果てるとも知れない病人にしか見えなかった。眼窩の周囲は黒ずんで、頬はげっそりこけていた。シーツの上の両手は枯れ枝に似ていた。
 アーチはそっとベッドから後退し、ミスティとバルテュスを振り返った。
「重度の肝硬変だ。間も無く肝ガンに推移するだろう。具合が悪ければ腹水も溜まるようだ。移植するしか手の打ちようがない」
 噂は真実だった訳である。ルチアーニも固く口を閉ざしていたのだが。
「理屈で言うのは簡単だが、当の本人に手術に耐えうる体力が残っているかどうかも怪しい。この通り、不眠に悩んで少しの物音でも目覚めてしまう状態だ」
 アーチは、ベッドサイドに散らばったカプセルを指差した。睡眠薬と思しい。
「でも何故アナタが教皇の病状を知っているの?しかも個室に立ち入り出来るなんて」
 と、ミスティは言った。途端に、アーチは火がついたように低くくつくつと笑った。
「オレは自己再生能力を持ったフォーティファイド(強化人間)だろう。尤も、肝臓は人間の臓器で唯一再生機能を持つがな」
「……アナタが教皇のドナーになるというの?」
 ふん、とアーチは少し困ったように鼻を鳴らした。眉尻が下がる。だが少し愛嬌を浮かべたその表情が曇った。
「オレの肉体など切り売りしてなんぼの代物に過ぎない。血も目ん玉も胃袋も。だがな」
 アーチは、ミスティの食い入るような視線から顔を背けた。ちらりと教皇の寝顔を見る。
「この男は拒否した」
 静かな声だった。
「汚らわしい強化人間の臓器など提供されるくらいなら死んだほうがマシだというつもりなのかどうか、真意は判らないがな」
 淡々と抑揚の無い口調で語りながら、眼差しに依然として暗いものが宿っていることをミスティもバルテュスも感じ取っていた。
 漸く、ミスティの中に譬えようも無い憤りが湧いてきた。今この時までは何をどう感じていいのかさえ、実のところ判らなかったのだ。そして、目の前の男が何をしようとしていたのか、本当に戻りたくて戻ってきたのかとふと思った。
 総ては仕組まれた茶番。それを逆手に取ってやろうとしていた自分が、実は踊らされているのではないかと、ミスティは血が引いたような気がした。右のこめかみがチリリと痛い。
 アーチは軽く顎を引いたまま、仄暗い明かりの下でミスティの青い双眸を凝視していた。
 何を言おうとしているのか。バルテュスの口を挟む余地の無い、真摯で不気味なアイコンタクトがしばし続いた。
 アーチの瞳が瞬きを繰り返す。やや血走った白眼が動き、寝室のドアをほんの僅かな時間だけ見止めた。ミスティは唇を引き結んだまま、鼻から大きく息を吸い込んだ。そして、ゆっくりと吐き出しながら言う。
「深夜まで職務に励まれまして痛み入りますわ、モンシニョール」
 軽快にドアが開く。猫のようにしなやかに、かつ舞台の主役のように大胆に入ってきたのは、灰色の目をしたイタリア人聖職者、アルフレード・ティレリだった。

 枢機卿はミスティ・サファイアの方だけを見て、軽く息を吐いた。右手に洒落たステッキを携えている。
「好奇心の強い猫は殺されるという言い伝えを御存知かね、シニョリーナ。猫を女、と置き換えてもいいだろう」
「総ての事は察しがついておりますわ」
 ミスティは、満更はったりでもなく答えた。
「ドットーレ・ブールヴァルドを刺客に差し向けたのは貴方。これで、彼をアドリア海から引き揚げたのも貴方ということがはっきりしましたわね」
 アーチは黙したまま、あるか無きかの薄い笑みを浮かべ、枢機卿とミスティを伏目がちに見ていた。
「左様。ディアスポラ全域は兎も角、イタリア周辺には常に私の息の掛かった密偵が配置されているのでね。君がヴェネツィアに着いた時には、既にこの男を港から引き揚げていた」
 ティレリは顎をしゃくって、アーチを指した。それからひと月余の経過は想像に難くない。
 ふん、とアーチは皮肉に鼻を鳴らした。
「巧く他人の行動を利用する男さ。オレがディアーヌの居場所を把握してキミに知らせた時、我々はこの男の手中で転がされていた。ブルーネレスキ局長も含めてだ。局長が確保して離さなかった妹の身柄をキミが救い出し、教皇庁に連れ戻すこともお見通しだった」
 ミスティは胡乱な気持ちので、アーチの言葉を聞いていた。
「そのうえで、この男はブラッド・ワルドーフを使い、サフィール枢機卿の命を狙いかつオレを消すことにした」
「伯父様を?」
 ミスティにとっては、初めて知る事実だった。この男呼ばわりされても、ただ不敵に微笑を浮かべているだけのティレリの存在が薄気味悪い。
「無論、その後の展開もシミュレートされているわけだ。オレがむざむざキャプテン・ブラッドに蜂の巣にされているわけも無い。返り討ちにしてやったさ。しかしどのみちオレがやられたところで絶対死は有り得ない。つまり、いずれにしてもオレはまんまと無抵抗で捕縛されてしまったというわけだ」
 アーチはそう言って、枢機卿を見遣った。飽く迄冷ややかな眼つきだった。
「何の為に―そう言いたげな顔だな、局長代理どの」
 ティレリはおどけたように言った。
「愚問は無用。何故なら、元々彼等兄妹は我々のものだからだよ。我々が生み出した人造人間。いうなれば、私は親も同然」
 その瞬間、アーチは顔を背けた。バルテュスだけが、アーチの眉間に刻まれた憎悪を見た。
「伯父上から聞いているだろう、フォーティファイド(強化人間)の存在意義を」
「年寄りの思い出話だけでしたわ」
 ミスティは、吐き棄てるように言った。
「ふん。早い話が人殺しの道具に過ぎないな。自分らが手を汚さずに他人を抹殺する為の」
 口を挟んだのはバルテュスだった。一人、蚊帳の外にいた気分であったが、どうにも首を突っ込まないといられないこの男の性分だった。
「異端審問官、その通りだよ。そして我々がこのイル・パーパの寝室にいることが何よりの私からの回答だ」
 ティレリを除く若い三人が、ゆっくりと顔を見合わせた。何処か諦念を包み隠すような、アーチの表情が如実に物語っていた。
 教皇暗殺。
 見るからに病膏肓に入った教皇を弑逆するのは、その病原でも殺戮兵器でもなく人の手で。人の手で造り出された強化人間が手を下すのだ。ミスティは、全身の血の気が一気に足下から抜け出すような心地に襲われた。何という、大胆かつ戦慄に値する計略だろう。毒殺や事故死に見せかけた暗殺ではなく、人の手で縊り殺すという最も原始的で確実な選択。何の言い逃れもアリバイも不必要なまでに明らかな。
「お分かりかね?」
 ティレリは満足気に、ミスティの表情を読み取った。
「……そして、貴方が教皇の玉座に取って代わろうというおつもりなら」
 ミスティは左手を閃かせた。パウダーガンが抜かれる。トリガーに指を掛けるよりも速く、ミスティの左頬にもう一つの銃口が向けられる。緊張を覚えつつ目を泳がせた先に、黒光りのする銃身があった。久々に銃を握る男の姿を見た。
 アーチは無言のまま、《キングコブラ・バニッシュメント》をミスティに押し当てていた。奇妙な対立のトライアングルが生まれる。其処に、バルテュスが水を差した。
「貴様はどういうつもりだ?次期教皇のお袖に縋るつもりか?それともこのおっさんにケツでも貸したのか」
 わざと下卑た言葉で挑発すると、アーチは目を細めて言った。
「あんたもそういう趣味か?そんなに欲しけりゃ、後でゆっくりと手前のでかいケツの穴に鉛弾でもブチ込んでやるぜ」
 ティレリは二人の男の遣り取りなど意にも介せず、涼しい顔だった。絶対の自信がこの男を支配している。何処からとも無く湧き上がる不気味なその自信を打ち砕かない限り、ティレリを殺したところで無意味だと。ミスティは思った。
「だがどういうわけだ、ドットーレ・ブールヴァルド。私の意思に逆らって此処までこの二人を連れて来たというのは」
 さぁな、とアーチは小さく答えた。
「展開がどうあれ、第三者の目撃談があるほうがオレにとっては有利そうだと思ってね」
 そう言って、トリガーを引く。《キングコブラ》のマズルが白く光った。撃たれたのはミスティではない。357マグナムの直撃を受けて、アルフレード・ティレリの肉体が後方へ吹っ飛んだ。寝室のドアに背中からまともに当たり、糸の切れた操り人形のように不自然に屑折れる。だが、血は流れていなかった。
 低い唸り声を搾り出して、ティレリが腕を床につく。床に転がったステッキを取ろうと腕を伸ばすがアーチの動きが早かった。左足でステッキを踏付け、まだ熱い銃口をティレリに見せた。
「防弾プロテクターをはずさない様に撃った。年寄りの体には幾分堪えただろうが?」
「貴様、こんなことをしてただで済むと思うな」
 使い古された台詞を紡ぎ出すティレリに、アーチは暗澹たる眼差しを向けた。
「あんたに恩を売られる筋合いなどこれっぽちもない。そんなに教皇を殺したくば、あんたが自分の手でやればいい。パウダーガンを貸してやる」
 アーチはグリップを持ち替えた。ティレリの額に脂汗が滲んでいた。微かに手が動いた。
「さあ」
 だが、ティレリは震える手を肩から上の高さに上げる事は出来なかった。
 アーチは再びグリップを直すと、立て続けに二発、ティレリの胸目掛けて撃ち込んだ。床の上で老人の身体は踊った。だが、弾は防弾着に阻まれて肉体を傷付けることはない。
「アナタこれ以上……」
 思わずアーチの腕に組み付いたミスティは、絶句した。アーチが見せた瞳の色には、グレナデン・サフィールと同じ澱みがあった。数多の人間に対する遣る瀬無い恨情の澱は、この男にも溜まっていたのだ。
 アーチは左手でミスティの頤を掴んだ。
「出て行け」
 非情な五指の爪が、ミスティの白い喉に食い込んだ。
「いいな、今すぐ二人とも、この部屋から出て行くんだ」
「何だと?」
 バルテュスは無事な右手でアーチに掴み掛かろうとした。その鳩尾に衝撃が走る。長いストロークの蹴りが、バルテュスの左胸の下を突いた。バルテュスの巨躯が床に尻餅をつく。
「あんたらに選択肢は二つしかない。出て行くか、死ぬかだ」
 アーチはくぐもった声で言った。
 此処まで呼び寄せておいて勝手な言い分だ、とバルテュスは憤ったが、やはり逆らう気は無かった。やおら立ち上がり、後手に錆び付いたドアを押し開け、ミスティに目配せした。
 反駁の言葉を失ったミスティは、後退った。床にもんどりうっているティレリは、相当のダメージを受けていると見た。
 バルテュスが先に戻り、ミスティは追うようにして教皇の寝室を後にしようとした。ドアが閉まる瞬間、ミスティは数秒だけ強い力で引き戻された。
 振り返った目前に、アーチの蒼褪めた顔があった。
「あいつに伝えてくれよ」
 アーチは幾許かの言葉をミスティの耳元で呟いた。ミスティは頷きながら、青く濡れた双眸でアーチの表情を見詰めた。男の少しこけた頬に指を這わせる。
「オレは多くを喋り過ぎた。反省してるよ」
 バカね、とミスティは手を離した。指先が震えた。これ以上触れたくなかった。甦った男の感触は、まるで虚実のように思えた。否、長いこと温もりを感じてはいけなかった。
「少しは上手くなったのかしら?サルサ」
 アーチは首を傾げた。
「もう少し時間をくれないか」
 白い歯が口角の上がった口許から零れた。静かな笑みだった。そして、ドアがゆっくり閉じられた。
 花崗岩の階段を下りるミスティの頭上で、鈍い銃声が三つ続いた。
 ああ、と覚えずミスティは頭を抱え、そのまましゃがみ込んでしまった。冷たい地下水の滴が首筋を伝うまで、ミスティは身動き出来なかった。

 第六章(1)へつづく

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