『DIO・FIRE!』

 第五話
 〜シルヴァー・アイズ・アンダー・ザ・ムーン vampiro del HongKong
(前編)


ひたすら荒野を行く二人の男がいる。
一人は己の生きる場所を求め、一人は己の死に場所を求めて。
第一章 HONG KONG JIVE ホンコン・ジャイヴ 

 銀の月が、見詰めている。
 流しのギタリストが、名も無い挽歌を歌うバール。その安酒場の路地裏は、奥まった歓楽街の一角になっていた。
 不景気風は《砂漠の黒嵐》同様、何処にも及んでいる様子だった。インフレなど今に始まった事ではない。
 とはいえ、立ちん坊の女達すら姿を見掛けないというのは、どういう事なのだろう。暗がりにはゴミ箱を漁る犬の姿すら無い。
 カタン。
 鳥篭の扉のように並んでいるフランス窓の一つが、少し開いた。
 薄明かりが外に洩れる。一筋の光がピーチィ・フィズの頬を照らした。
「あっ!」
 音も無く、ペンダントの鎖が切れた。ピーチィは慌てて石畳の上に弾け飛んだペンダント・ヘッドを拾おうと腰を屈めた。
「ふん、子供かい」
 窓の中から呟く声が聞こえた。複数の女の声だった。窓はさっきよりも激しい音を立てて閉まった。
 ペンダント・ヘッドは建物と建物との間にある狭い溝の方へと転がった。
 それを素早く白い大きな手が拾い上げた。
「気を付けろよ」
 男の声に反応して、窓が再び開いた。今度はもう少し大きく。中低音の優しい声の主を一目見ようと、女達は窓の隙間に群がって来た。
「ほおう」
 女達は瞠目した。大粒のサンゴをあしらったペンダント・ヘッドは男の掌から少女の手へと移るところだった。その手指の長さ、流れるような優雅な動き。
 手の持ち主の天使みたいな容貌に、呆気に取られる。このまま男を見詰めていたら、女達は永遠に大きく口を開いたままだろう。
 夜目にも映える亜麻色のビオンディ(金髪)、その下の深いオリーヴ色の瞳。高く秀でた鼻梁と上品な口元が、いかにもここいらには不似合いな美男子ぶりだ。腰から下が素晴らしく長い。黙っていても匂い立つ若い男の甘い体香。
「おおきに!」
 ピーチィは大きな瞳をより大きくして、アーチレリー・ブールヴァルドに礼を述べた。
「礼はいいから、貸して御覧」
 アーチは腰を屈めて窓灯りの下でピーチィの細っこい首に両手を回し、千切れた鎖を取ると、器用に指先を使って繋ぎ直した。
「おかーちゃんの形見なんや。今となっては、ウチの唯一の金目のモンやけどな」
 桃色サンゴは旧世界の頃から貴重品として高く取り引きされたが、二十三世紀の現在では、涙の粒ほどでも家が買えてしまうくらい高価になっていた。海ではもう、こんな美しいサンゴは滅多と無いのだ。
「今となっては、か。そのうち誰かがピーチィにもっと似合う宝石を見つけてくれると思うぜ」
 アーチは再びピーチィの首にペンダントを掛けてやった。まるで昔のキャバリエ―レ(聖堂騎士)にエスコートされているみたいな満足を、ピーチィは味わった。
 とはいえ、ピーチィはうっとりする暇もなく、アーチに背中をどつかれた。
「ほらほら、ボーっとしない。教会はすぐそこだ」
「痛いやないの、もう!アンタ只でさえバカ力なんやから」
 ピーチィは歩き出した。荷物の大半はアーチが背負っていた。
「ねえ、おにーさん。あたい達と遊んでってよ」
「つれないじゃないのさ」
 窓から女達が首を突き出した。三人の女は、何れもアーチよりは年上に見えた。中の一人は、暗がりでも小皺が見える程の大年増だ。寝支度に掛かっていたらしく、皆が皆しどけない薄物姿を曝け出していた。
「おにーさん、こないだどっかで会ったことなあい?」
「余程、客が無いと見えるな。アンダー・ホンコンといっても、こんな宵の口から街が真っ暗なんて不景気過ぎるじゃないか」
 アーチは唇の端に微笑を浮かべた。商売用といっても差し支えのない作り笑顔だった。
「何もあたいら好き好んで閉じ篭ってるワケじゃないよう、ねえ?」
「そうだよ。あんな事がなきゃさあ…」
 女達は顔を見合わせ、口篭もった。その顔色からして、不吉なニュースを匂わせている。何がしか商売の糸口にならないかと日頃から、鵜の目鷹の目に各地の街中を見ているアーチは、取り敢えず気になった。
「おにーさん、興味ありそうだね」
「まあな」
「一ダッシュにもならん話なら訊く必要ないで」
 女達に近付くアーチを見上げ、ピーチィはすかさず釘をさす。
「判ってるって。で、あんな事ってなんだい?」
「一週間ほど前の話さあ…」
 年上の女が、窓から身を乗り出した時、部屋の奥から老女の濁声が響いた。
「おかーさんよ。まーた与太話してんじゃないよって。客取らないならさっさと寝ろって」
 後方から二人の女が言った。
「しゃあないねえ。あんた、話が聞きたかったら客になって貰うしかないねえ」
 女は困ったような、それでいて嬉しそうな表情を見せた。ピーチィは、おもむろに不機嫌な顔付きで女を睨み付けた。客になって貰ったら困る。
「悪いが、オレはこれから行く所があるし、そんな金持ってないぜ」
 アーチは、横目でピーチィを見ながら答えた。
「ウソでしょう?おにーさん、お医者じゃなくて?」
「流しの医者に金などあるかい。オレの薄給を聞いて驚くなよ」
 女達はキャッ、キャッと年に似合わぬ嬌声を上げた。
「幾らなのさァ」
「月五万ダッシュ」
 女達はそれぞれ、お互いの顔を見合わせた。
「ウソじゃないのさァ」
「今時、お医者でそんなの?普通はその倍だよ」
 アーチはそれには答えず、再び歩き出した。白衣の裾が夜風に翻った。

 その女が賑わう酒場へ入って来た時、客達は格別の関心を示さなかった。酒場に一人でやって来る女といえば、相場は決まっていた。そういう類の女客は、大抵しこたま飲んだ男を引っ掛けて、何処かへしけ込むのが常套。
 店主とて、咎め立てしない。むしろ暗黙の内に、契約じみた関係になっている事も少なくない。
 女はある程度の時間が来ると店に入り、男を飲ませて出て行く。或いは、通りを歩いてめぼしい男の気を引いてから店に入り、商売の準備に掛かるということもある。
 店主にとっては、そうした女はいい客引きにもなっていた。
 ジン・スティンガーも他の客と同様、今はさして女に興味を持たなかった。
 ジンは、カウンターの中央に腰掛けていた。店はカウンターの前を通り過ぎて、右奥がホールになっていた。カウンターで一人飲んでいるのは、ジンと陰気な男の二人だけだった。
 かく言うジン自身も、異邦人の雰囲気を充分に発散させているという点では、陰気な男かも知れない。
 夜だというのにサングラスを掛けたままで、左頬に三条痕をくっきりと見せている容貌は、厳ついとはいえないまでも、一風偏屈な男に見える。
 三杯目のバーボンは、ジンをほろ酔い気分にさせていた。いつもなら、ボトル一本でもどうも無いのだが、今夜はさすがに疲れているな、とジンは自分に言い訳した。
 誰かが女に声を掛けた。
「おうネエチャン。シケた顔してねえで、こっちへおいでや」
 アバタ面の中国系大男がジョッキを片手に、女を手招きした。その時初めて、ジンは女の風貌を見た。
 背はスラリと高く、いやに首の細長い、どちらかと言えば痩せ肉の女だった。髪はとても黒く長く、漆黒の闇を溶かして出来たみたいに光を黙殺していた。反対に顔色は抜けるように白い蝋細工に近かった。明るい光の下で見れば、もっと美しいのだろうが、今は不健康を通り越している枯れ果てた美人としか見えなかった。
 女の黒いドレスに包まれた小高い胸がすう、と息を吸い、ジンの脇を通り抜けて行った。歩く速度は思いの外、速かった。
「さァさァ、こっちだ座れや」
 アバタ面の男と連れのコマネズミみたいな小男が女をテーブルにつかせた。
「マスター、このネエチャンにも何か飲みモンをな」
 店主は返答の代りに男達をじろりとねめ付けた。体は動かさず、右手だけを伸ばしてシェイカーを取り、紫色のリキュールを注ぐ。
 ジンはくい、とバーボンを干してからカウンターに両肘を着いた。
「マスター、あの女知ってんのかい?」
「…さァ、見ねえ顔だな。ここの街の女じゃない」
 マスターは一言だけ言って、カクテルを作り始めた。
「ふ…ん」
 ガラン、ガラン。
 店のチャイムが鳴り、若い女が入って来た。燃えるような赤毛の女だった。目はぱっちりとして青い。人目を引く、露出度の高い服を身に着けていた。胸ぐりは深く、偽物のタトゥーが左胸の上に赤く花開いている。ちょっと見の、蓮っ葉な感じを売り物にしているようだ。
 女は癖のある長い髪を肩の上で揺らしながら、つかつかと店の中程まで歩いた。
 客はほんの一時、女の方を一顧した。だが、見慣れた顔だと知って、また談笑に戻る。
 女は店内を見回し、初めて見るジンの顔を見て微笑した。
 ジンはてっきり、女が商売を仕掛けに来るものだと思っていた。マルボロを咥えたまま、ジンは女にサングラス越しの視線をくれた。魅力的な女に見詰められるのは、悪くない。
 だが、予想に反して、女はアバタ面達のテーブルまで進んでいった。
「よう、マルドじゃないか」
 コマネズミが仁王立ちの女を見上げる。
「馴れ馴れしい口をきかないでよ。サイッテーね、あんた達」
 サイテーという言葉遣いに、ジンは我が事のようにドキリとしてしまった。
「何の事だい?」
 アバタ面が首を傾げる。
「この間、あんた達があたしに紹介した男だよ!おねんねして金も払わず行っちまったんだよ」
「ほおう。よくある話じゃねえか」
 ガハハハ、と二人は大声で笑った。女の口ぶりからして、二人の男は女衒をやっているらしかった。
「よくある?ふざけんじゃないわよ」
「お前さんがドジっただけのこった」
 アバタ面は、顔を顰めた。
「そういう時の為にあんた達がいるんじゃないのさ。さ、前金出しな」
 赤毛の女は、さっと右掌を男達の間に差し出した。
「前金?んなモン一切貰っちゃいねえよ。オレ達は」
「ざけんな!」
 女はテーブルに靴の踵を掛けた。今にも蹴倒す勢いだ。
「紹介料の半分よこしな!」
「知らねえな。言われたって、れてもオレ達ゃなあ」
「あの男とは、たまたま路地で会っただけだよ。宿が見つからねえって言ってな」
 マルドと呼ばれた女は、それでもキンキン声で何かをがなり立てた。
 他の客はいつもの事のように、まるで無関心だ。この店に限らずよくある事らしい。
 マルドは暫くアバタ面達を口汚く罵っていたが、やがて矛先は同席している無口な女の方へと向いた。
「何よ、あんた。見掛けない顔だね。ここいらのシマはあたしらのモンなんだよ。誰に許可を得て商売してんだよ」
 女は、マルドの捲くし立てる声にも反応しなかった。両手にタンブラーを持ったまま、視線すら合わそうとしない。
「返事は無いのかい?え?失礼だね…ったく」
 マルドは腰に手を当てたままふんぞり返った。
「…ふふ」
 女は無表情のまま、低く笑った。
「うふふふふ…」
「なっ、何だい。気持ち悪いわね、この女」
 マルドは一歩後退った。女は虚ろな目のまま、唇にだけ笑みを浮かべていたかと思うと、やにわに立ち上がった。
 木椅子は真後ろに倒れ、女は猿のように素早くテーブルの上に飛び乗った。あっという間に、女はアバタ面の頬肉に食らい付いた。
「ううぎゃああああ!」
 アバタ面の絶叫が店中に響いた。女は頬に食らい付いたまま離れ様ともせず、真っ赤な血を滴らせながら、ニタリと笑う様は、まるで悪鬼そのものに見えた。
 アバタ面が、痛みとショックで顔を必死に振るったので、頬肉はごっそりと千切れ、女の歯の間に残った。
「ううあああ…!」
 大男に随従して、客達も声にならない叫びを上げた。女は観衆の中で食い千切った肉を嚥下した。ゴクリ、と喉を通る音まで聞こえる。
 血を迸らせてのたうつアバタ面に向かって、女は凄惨な笑みを見せると、跳躍した。
 ぐわっ、女の口裂は、耳まで裂けるかと思う程開いた。脂ぎったアバタ面の首筋に食らい付く。
 客達は凍ってしまっていた。つい一瞬前は、何が起こったのか判断できなかったのが、今は既に恐怖に支配されていた。
「屍鬼。いや吸血鬼!」
 誰もが心の中でそう叫んだ。だが、言葉に出来なかった。
 そして、暗黙の了解の裡に、アバタ面に尊い犠牲者になって貰う事で、頭が一杯の人間が大半だった。女が、自分の倍以上の太さを持つ大男の腕を捻じ曲げ、血を啜る奇怪な音が、響いた。
 カタン。
 椅子を動かしたのは、マルドだった。その音がきっかけで、客達はどっと動き出した。我先に、店の出入り口目掛けて走り出す。
「マスター」
 ジンはテンガロン・ハットを頭の上に載せた。
「ちょいと店のモンぶっ壊すかも知れねえが、構わないかい?」
 店主は、黙って頷いた。ジンの左腰から鈍い銀色の光が撥ね上がり、グラスを跳ね飛ばした。固い音が弧を描いて、透明の破片が砕け散る。
 降り掛かる飛沫を避けながら、客達は走る。
 ジンの右手に握られた《ブラックホーク》が、十・五インチの銃身を躍らせた。
 三メートル足らずの距離だが、一瞬のサイトは確実に行わなければならない。ブレを少なくする為、ハンマーを撥ね上げた。
 ドゴゴオオン。
 半地下の為、必要以上に射撃音が反響してしまう。
 チン、と渇いた音を立てて、エンプティ・カートリッジ空薬莢が床に跳ね落ちる。
 女は至近距離にもかかわらず、難無くマグナム弾を避ける。通常の人間とは思えない反射速度だった。
「やっぱり、化けモンか!」
 判るや、ジンは軽々カウンターの上に飛び乗った。
 アバタ面は既に絶命していた。コマネズミは、カウンターに背中を貼り付かせながら、両脚をじたばたさせていた。腰が抜けたらしい。
「あ、あわわわ!」
「何やってんだ、逃げろ!」
 ジンの声に、コマネズミは頷いた。四つん這いになって血飛沫の散った床を進む。女は、黒い瞳を燃やして、ジンを見上げた。
 撃つ事に躊躇いが無い訳ではない。
 しかし、店に入って来た時の佇まいとは、女は天地ほどの差を見せ付けていた。目の前で小さな牙を剥き出しにした女の顎から滴る鮮血と銀色の涎は、まだ女の食欲が満足していない事を無言裡に告げていた。
 青白い硝煙を上げて、《ブラックホーク》が発射される。
 44マグナム弾は、丁度女の胸部に命中して壁にめり込んだ。
 ごぼっ、と女はどす黒い血を吐いて、前のめりに倒れる。アバタ面の死体の上に。アバタ面は白目を剥いて、首の皮一枚を残した状態で死んでいた。無論体内の血液は女が吸い尽くしているので、傷口から血は殆ど流れていない。
 ジンは、カウンターから飛び降りると、コマネズミの首根っこを掴んで引き摺りながら、壁側を背に店のドアへ急いだ。
 女はまだぴくりとも動かない。
 とはいえ、時間の問題だ。44マグナムはジャケット・ホロー・ポイント。ブレス(祝福)を受けた銀の十字架を溶かして作った物では無い。果たして、吸血鬼と見える女に効く代物か。
 ジンは両開きの扉を背中で押した。右手の《ブラックホーク》は、何時でもファイア出来る状態にあった。
 ガラスの破片と血飛沫の間から、女の体が蠢くのが見えた。

 路地裏を抜けた所は小暗い森になっていた。闇の中をライトが照らし、激しいエグゾーダス・ノートが静寂を引き裂いた。
 ギャア、ギャア、ギャア。
 バサバサバサ。
 夜更かしの鴉が一斉に飛び立った。その喧騒しい羽音に、ピーチィはびくっと肩を震わせた。
「ひええっ!」
 アーチは、石畳の手前に《デアデヴィルXIX》を駐車した。黄色人種には嫌味なくらい長い脚を一跨ぎで、バイクを降りる。手早く二重ロックを掛けた。
「どこもかしこも辛気臭いカラスだらけだな」
 アーチの腕が、黙って少女の肩を覆う。訳もなく、ドキドキしながらピーチィは灯りの見える方向に向かって歩き出した。
 鉄格子の飾り門は、半ば枯れ掛けた蔓草に覆われていた。一瞬、訪問者を躊躇わせる雰囲気がそこにあった。歓迎ムードで無い事は明らかだ。
 日中ならまだしも、月の無いこんな夜は余計に薄気味が悪いというものだ。
 ギィ。
 錆び付いた音を立てて、門が開いた。苔生した石畳は整列していた。人一人が通る場所だけが、まるで線でも引いたかのように石の色をそのままに残している。
 呼び鈴は生きていた。アーチは声を掛けずに三度続けて呼び鈴を鳴らした。三分程待って足音が扉の内側から近付いて来た。予告も無しに扉が開く。
「夜分、申し訳ありませんが」
 アーチの方から話し掛ける。中から半分程顔を覗かせたのは、まだ若いとかろうじて呼べる年齢のシスターだった。シスターは、露骨に訝しげにアーチの相貌を見上げた。そして、やにわに目を見開いた。
 その驚きぶりは、尋ねた側が一後退するくらいだった。
「あなたはもしや…」
 アーチは黙って頷いた。
「シスター・アストリアから伺っております。中へどうぞ」
 やや陰気な目付きのシスターは、バーバラと名乗った。不細工では無いが、冷血動物を思わせる愛想の無さが鼻につく。アーチの鄙には稀な美貌を見ても、シスター・バーバラは何の感慨もなさそうだ。
「何かキッつそうなオバちゃんやなァ」
 ピーチィが背伸びして、アーチの耳元に顔を寄せた。アーチは、含み笑いを返す。
「実はああいうオールドミスに限って、落し易いってモンだ」
「落とすゥ?」
「お前もあと五年程したら判るさ」
 講堂に通じる回廊を通って進むと、修道女達の宿舎がある。教会自体がかなり古びた建物ではあるが、住居となっている建物はもっと古い。二十世紀以前に建てられた物に違いなかった。
「いかにも何か出そうだなァ」
 わざと低く呟くアーチの腕に、ひしっとピーチィがしがみ付いた。
「お、おどかさんといて。何でこないにお誂え向きに恐いんや」
「ハハ…」
 怯えるピーチィを見ると、十三歳とはいえ、まだまだ子供だな、とアーチは思う。
 自分が同じ年の頃も、ピーチィと同じく周囲が大人達ばかりの中で生活していた。恐い物など何も無かった。何も。死ぬ事さえも。
 常に自分という人間は孤独の海の中を自由に泳いでいた。大人という魚の群れをかいくぐって。それは、今も変わっていない。
 今、死ぬのは恐い。パウダー・ガンを初めて握った十五の時にそう意識した。他人を傷付ける事は、自分を傷付ける事で、他人を殺して初めて自分の死をイメージした。奈落の底への入り口のようにぽっかり開いた、心のある場所に、恐いという意識が放り込まれた。
 ピーチィも、何時かそういう時が来るのか。永遠に来ない人間はそれはそれで幸せかもしれない。
 暗い雰囲気は、落とした照明の所為だけではない。石造りの四面は何処と無く過去の匂いをさせていたし、空気も冷たい。頽廃の匂いが芬芬と漂うアンダー・ホンコンの中で、ここだけが中世そのままだった。
「昔はもっと、修道女もいたのですけれど」
 シスター・バーバラは振り返らずに淡々と言った。
「何人くらいいたのですか?」
「私の知っている限りでは、三十人程ですわ」
 三十人程の修道女が、地下室でテキーラを醸造して生計の足しにしていたという。
 奥の部屋は、それまでに通過してきた小部屋のドアと違って、両開きになっていた。薄暗い部屋の中から、ぼうっと現れた人影を、ピーチィは幽鬼かと思った。
「ひっ!」
 思わず小さな悲鳴を洩らしたピーチィは、慌てて口を噤んだ。
「マザー・ロウ。アストリアが申しておりました御方がお見えになられました」
 老婆は動き出した。体は大きかったが、背骨は既に曲がっていて痩せ細っている。八十がらみの年寄りにしては、矍鑠とした動きだった。黒い瞳は強い光を湛えている。
 その瞳が、アーチのオリーヴ・グリーンの瞳を食い入るように見詰めた。
 アーチの差し出した手が、枯れ枝のような指に包まれた。
 何かアーチの容貌に驚いたような感じも否定できないではなかった。それが証拠に、明らかにマザー・ロウは最初に発する言葉を探っていた。
「・・・アストリアの話に聞いていた通り、美しい男だの。ドットーレ・ブールヴァルド」
 マザー・ロウはシスター・バーバラとは違って、思った事を正直に言う性質らしい。
「で、シスター・アストリアは何処に?」
「アストリアはおらん」
 アーチは瞳を瞬いた。
「と、仰いますと?」
「アストリアは死んだのじゃよ。つい二週間程前に」
 バーバラは陰気な目付きをマザー・ロウに向けた。沈痛な色が見てとれた。
「死んだって。じゃ、オレの銃は…?」
「どういう意味やの?」
 ピーチィは不思議そうに横から口を挿む。
「オレの《キングコブラ》のメンテをしてくれる人間はいないって事だ」
「地下室に道具類をそのままにしてあるでな。悪いが、自分で好きに使っていっておくれ。何分急の事で、連絡が行かなんだとは思うが」
 アーチはマザー・ロウの言葉に些かげんなりした。
 連絡も何も、現にアーチ自身はモバイル・パソコンを携帯している。世界中何処にいてもヴァティカンの指令から逃れられないようにだ。それが、どうして何の一報も無いのだ。
「アストリアの急死については、そなたに話したい事もあってな」
「はあ、何でしょうか」
 シスター・バーバラはマザー・ロウに目配せした。
「さ、食堂の方へどうぞ。何か温かい物でも召し上がって下さい」
 アーチはまんじりともしない気分で、シスター・バーバラの後に付いて行った。

 コマネズミは、首を上げると、闇に向かって甲高い声を上げた。
「ふっ、ふわああ!後生だからやめてくれえええ!」
 夜を見詰める瞳には、先刻の女が映っていた。無表情な女の顔の下半分は血塗れだった。
「やかましいっ!黙れ」
 ジンは手袋を脱いで、コマネズミの口に押し込んだ。
「大声を出したら、却って気付かれるじゃねえか、バカ!」
 コマネズミは、汗臭い革の手袋の猿轡を噛まされて、藻掻いた。どうやら正気は取り戻したらしい。だが、あまり嬉しいものではない。何ヶ月と手入れしていない革手袋の臭気が如何に常軌を逸しているか、ジンは我が事ながら落胆した。本気で新しいのを買い換える必要がある。
 酒場から一斉に逃げ出した客達は、既にめいめいの家か何処かの宿にでも入り込んだのだろう。街頭には、猫の子一匹いやしない。
 不気味だ。まるで、モジトの町でギガント相手に闘った時を思い起こさせる静けさと、悪意に満ちた夜の街角。
 ジンは、《ブラックホーク》のセフティは外したまま、左手に握り換えた。懐から取り出したマルボロを咥え、更に奥を探った。
 しまった。愛用のジッポが無い。
「どうやら店に置いて来ちまったみてえだな。あんた、持ってるか?」
 コマネズミは、猿轡を噛まされたまま、首を大きく横に振った。ジンは舌打ちした。一服も出来ないのかよ。
 レンガ模様の壁を背にしたまま、ジンは少しだけ移動した。無論、コマネズミも一緒だった。《ブラックホーク》のトリガーに指を掛ける。
 相手の胸倉を掴んで顎の下から銃口を当てる準備は出来ている。
 ぬっと現れたのは、小高い女の胸だった。勢い、ジンは女の胸を掴み上げてしまった。
「ひっ!」
 声を詰まらせたのは、女の方だった。ジンは慌てて女の口を押さえる。ほの暗い街頭の下で見ると、先刻のマルドという赤毛の女ではないか。
「なっ、何すんのよっ」
 マルドは咄嗟に、ジンの腕に噛み付いた。
「いででででっ!」
「いつまでムネ掴んでんのよ!このどエッチ」
 平手打ちさえ飛んできそうな勢いだった。
「ケチケチすんなよ。減るモンじゃなし」
 ぶうつくジンに、マルドは右手の掌を返して見せた。
「千」
「何だそりゃ?」
「ムネに触ったら千ダッシュよ」
 冗談抜きの表情で、マルドはジンの顔を睨み付けた。
「偶然で、千も取られんのかよ。ふざけんな」
「当然よ。あたしの体は商売道具なんだからねっ。只で触るんじゃないの!」
「くそったれ!」
 ジンは咥えたままのマルボロを噛み千切ってしまった。苦い味を残して、タバコは石畳に零れる。
「こんな事してる場合じゃねえ、あんた何しに戻って来たんだ?」
「あんたに関係無いでしょ。千ダッシュ払いなさいよ、早く」
 マルドは一歩も譲らない。右手を差し出したまま、ジンから目を逸らさない。こんな状況で商売熱心なのもどうかしてる、とジンは忌々しく思いつつ、懐の財布に手を掛けた。
「ちなみに一晩一万だからね。オプション付けたらプラス五千からだよ」
「オ、オプション?」
「コスチューム・プレイとかよ。ナースとか、巡検使とかの制服ならあるわよ」
「じゅ、巡検使…?」
「そ。需要があるからねっ。びちっとしたボンデージスタイルの女巡検使に扱き使われたい男ってのも結構いるんだわ、それが」
「ほー、それはそれは」
 満更興味が無いわけじゃないが、とジンは思ってしまった。
「いや、そんな金あるか、バカ!」
 たとえ余裕があったとしても、この女に金を払って寝るつもりなど毛頭無くなったというものだ。コマネズミはニヤついていた。ジンは、振り返って一睨すると、コマネズミは顔を背けた。
「早く!」
 マルドは柳眉を逆立てた。ジンはサングラスの下の目を細めた。
 やにわにマルドの肩を押し退け、壁を離れると、《ブラックホーク》を発砲させる。
 ヅギュアン。
 一発で仕留めた。後方へ吹っ飛んだのは、酒場にいた黒髪の女だった。マグナム弾は見事、女の鳩尾を貫通していた。女は黒い瞳をかっと見開いたまま、薄笑いを浮かべて倒れていった。
 どくどくと風穴から溢れ出した鮮血は、女の物ではなく、アバタ面か他の誰かの血であろう。
「しっ…死んだの?」
「これ以上死にはしない。何しろ、もともと死んでるんだからな」
「……」
 マルドの空色をした瞳が、曇った。突然現実に引き戻されたみたいに、恐怖の念が満ち始めていた。

 アンダー・ホンコン。
 近代都市ホンコン特別行政区、つまり上層ホンコンと対照的に付けられた渾名がそのまま、旧都市の呼称になってしまった。旧市街ともいう。そこには、二十世紀の頃の色彩が色濃く残っていた。
 そのアンダー・ホンコンに異変が起こり始めたのは、一週間ばかり前の事だった。
「生ける屍が出たのです」
 シスター・バーバラは淡々と述べた。
「死者が生きている?おかしな話ですね」
 アーチは目の前に出されたホット・ワインに唇を付けた。程よくアルコールが蒸発し、湯気が立ち昇っている透明なグラスと赤い液体は、アーチの優雅な容貌を引きたてる小道具にも見える。
「早い話が、吸血鬼ですわ」
「へえ」
 と、アーチは余り気の無い返事をした。テーブルの上には温め直されたポトフとレンズ豆の煮物が並べられているが、アーチは一切手を付けていなかった。細胞分裂が最も活発になる午後十時以降、食事は採らない事にしていた。
 一心不乱に食事しているのは、ピーチィのほうだった。何しろまだ育ち盛りである。
「確かに旧市街は、上と違って旧世界の香りに満ちているとは思いますが。吸血鬼とは、また如何にも…」
 言い掛けて、アーチは唇を歪めた。シスター・バーバラが、嗜めるような眼差しをアーチに送っていたからだ。
 ギガント(巨人体)、ルポ・マナッロ(獣人)、ペスケ・ル・オーモ(魚人)…。遺伝子変異に拠る様々な亜人間はお目に掛かった事があるが、吸血鬼だけはさすがのアーチレリー・ブールヴァルドも直接見た事は無い。
「四十年前じゃった」
 マザー・ロウは言った。
「わしがラヴェンナの修道院におった頃、吸血鬼が出没したという騒ぎがあった」
「古都ラヴェンナなら、そういう逸話はあるかも知れない」
 アーチは、茶々を入れた。
「本当じゃよ。わしは、夜中に徘徊する吸血鬼の姿を見かけたよ。修道院の扉の隙間からな。助けを乞う人が、何度か尋ねてきた」
「聖水や十字架は効きましたか?」
「知らんよ。騒ぎはすぐに収まったでな」
「デマにしては、そりゃ手が込んでるな。医者としての興味はありますがね。吸血鬼の遺伝子も調べてみたい」
 マザー・ロウは即答の代りに、アーチの瞳をじっと見詰め返した。
「しかし、吸血鬼など一体何処から来たのですか?」
「左様。そなた達も同様、何処からやって来たのかはわからぬが」
「イヤだな、オレ達は砂漠を渡って来たと言った筈ですよ」
 アーチは苦笑した。ピーチィも、ふとスプーンを止める。
「《不帰の砂漠》を渡って来たなんて、俄かには信じられませんわ」
 シスター・バーバラは顔を顰めた。
「しかも、オートバイを担いでなんて」
「信じないなら、それも結構」
 マザーは小首を傾げた。満更、アーチが嘘を吐いているようには思えなかった。この些か浮世離れした容貌の男を見ていると、夢で見た事さえも現実のように見えるかも知れなかった。

 一月余りも前の夜だった。乾いた風が通り過ぎた夜更けに、教会を訪ねた一人の男があった。
 男は旅人だった。身形からしてすぐに流れ者と知れた。黒く古びたマントは、太陽の熱と光線に晒された結果のみが黄色く変色しており、目深に被った帽子のつばのところも同様に色褪せていた。衣服は殆ど、黒一色といっていい。痩身で背は高く、見た感じは厳ついところなど一つも感じられないといった風情だった。
 応対したのは、シスター・アストリアだった。
 アストリアは男の形を見て、堅気の人間では無いと覚った。無論、アンダー・ホンコン自体の堅気の人間の分母は少ないので、こうした訪問者は珍しい事では無い。
「宿を頂きたいのだが…」
 男がそう切り出した時、それは確信に変わった。商人なら市街の馬食宿じか酒肆にでも泊まるだろうし、一般の旅人でもそうするだろう。金が無いのでなければ、人目を憚る必要のある人間に違いなかった。
「申されましても、私共は女ばかりの修道院です故」
 アストリアは口篭りながらも、続けた。
「その、殿方をお泊めするのは何かと…」
 男はアストリアの顔を見詰めた。覚えずアストリアは背筋に何か異様な感覚が走るのを覚えた。
 男の目は薄い灰色をしていた。見様によっては銀色にも光って見える色だった。今まで見た事がないような淡く寒々しく、そして何処か淋しげで人を誘うような色彩。
 恐ろしいまでに透き通った青灰色に、アストリアは一瞬魅入られた。
「奥に院長がおります。相談して参りますので、暫しお待ち下さいませんか」
 アストリアはそそくさとマザー・ロウの元へ走り、男の来意を告げた。マザーはしかと聞いてこう答えた。
「結論から言えば、お泊めなさい。但し、裏の人足小屋を遣って貰うしかないね、気の毒だが」
 アストリアは無性に嬉しくなった。玄関扉まで飛ぶようにして戻ると、男を迎え案内したのだった。
「男は十日ばかり、ここに滞在しておりました。別段、旅のあてはなかったそうで、宿と食事の礼にと、力仕事をやってくれたのは非常に助かりましたが…」
 そう言って、シスター・バーバラはマザー・ロウと顔を見合わせた。アーチはホット・ワインを干してから、一息吐いた。
「どんな人相の男でしたか?」
「そう、・・・不気味な感じのする男でしたわ。端整な顔でしたが、人間離れした雰囲気があるような。何処か只ならぬものが垣間見えたんです。男を御存知なのですか?」
 いえ、とアーチは軽く首を振った。シスター・バーバラの、探りを入れるような目付きに、アーチは閉口した。
「知った人間かと思ったんですが、勘違いのようです」
 ピーチィは、アーチの顔を見上げた。アーチは静かな視線を返しただけで、何も言わなかった。
「でも、今から思えば私達のカンは正しかったのですわ」
 バーバラは、張詰めた表情を二人に向けた。
「男が旅立つという日、アストリアは朝から起きておらんかった」
 マザー・ロウは重々しく口を開いた。
「てっきり、昨晩遅くまで書き物をしていたようなので、寝過ごしとったのかと思うたが、バーバラが部屋に入った時、アストリアはベッドにもおらなんだ」
 そして、部屋に書き置きがあった。
「修道院を出て還俗する、という意味の言葉が書き連ねてありましたわ」
 バーバラは言葉を濁した。
「つまり、男と駆け落ちした訳ですね、事の成り行きから考えると」
 アーチはあからさまに言った。シスター・バーバラは、口幅ったいように顔を顰める。自分の口からも、他人の口からも、駆け落ちなどという言葉を聞きたくは無い。
「アストリアは旅の男を待ち伏せて、町外れまで出ていたのでしょうな。翌日、黒ずくめの男と若い女の二人連れが町を出て行くのを見た、という者がおってな」
 マザーは物語でも語るみたいに、淡々と述べた。
 駆け落ちは珍しい事では無い。修道女とて女である以上、そういう事は昔からあった。厄介にも、障壁があればあるほど命懸けになるらしい。
「男女の仲ばかりは、如何ともし難いのう。どう思う、そなた?」
 マザー・ロウは神秘的とも言える微笑を浮かべて、アーチに問い掛けた。
「さァ。医者といってもそればかりは、どうも」
 アーチは屈託無い笑顔で答えた。ピーチィには、殆ど要領を得ない話だ。
「冗談じゃありませんわ。アストリアはそれで自分から死を呼び寄せたのです。彼女だけでなく、この町にも!」
 シスター・バーバラは強い口調で言った。

 アストリアの死体が国境際で発見されたのは、彼女が教会から姿を消して五日目の朝だった。
 死に顔はとても静かで楚々とした生前そのままを留めていたという。
 只、不思議なことに全身の血が殆ど失われており、首筋に鋭い噛み傷が残っていた。二つの黒い孔は、まるでピューマの牙が食い込んだかのように大きく開いていたという。
 慣習に倣って、死体は即座に埋葬された。
「検死もせずに埋葬するなんて、非常識もいいとこだ」
 アーチは、半ば呆れたように言った。シスター・バーバラは、当然の事のように頷いた。
「検死医などこの町にはいませんわ。町医者は五人ばかりいますけど、医者といっても、検診出来ない老人ばかりですの。病人が出たら隣町まで出掛けるんです」
「…御苦労なことで」
 その日から奇妙な出来事は起こったのだ。
「夜半、講堂の方で物音がしますので、物盗りか何かだと思い、様子を見に行きました。すると、廊下は泥だらけ、階段も、そして…」
 講堂の隅の暗がりに立っていたのはアストリア本人だったという。
「身も凍る心地でしたわ。今朝埋葬した人間が甦ったなんて、信じられましょうか?」
「そりゃ災難でしたね」
「与太話をしてるんじゃありません。真面目に聞いてください」
 シスター・バーバラはアーチの返答を嗜めた。
「ええ。それで、シスター・アストリアは本当に生き返ったと思われたのですか?」
 アーチは、面倒臭さそうに両手を開いた。
「判りませんわ。顔色は死人そのもので、目付きも定かでは無かったみたいです。勿論、裸足で土塗れになっていましたわ。血こそ流れていませんでしたけれど、爪もぼろぼろになって…」
 惨い様相を想像して、ピーチィはうっぷ、と口元を押さえた。
「何か探し物をしていた様子でした。あちらこちら、掻き回されていましたから。私が急いでランプを取りに出ましたら、既に逃げておりましたわ」
 シスター・バーバラは、睡眠もそこそこに朝一番にマザーにこの事を報告した。マザーの判断で墓を掘り起こす事となったが、バーバラにとって、それは何にも増しておぞましい事だった。死者の棺を暴くなど、神への冒涜とも思えた。
 果たして、アストリアの死体はあった。埋葬された時の姿のままではあったが、手足は泥だらけだった。
「吸血鬼になってしまったのじゃな」
 マザー・ロウは静かに言った。ピーチィは、声も無く震えた。食堂の影に映ったマザーの影がいびつな形に歪んで見えたのだ。
「それから四日ばかり、アストリアは夜な夜な墓から出てきては、教会内をうろついていました。ぷっつりと姿を消したのは一週間程前です」
「その日からじゃよ。旧市街に吸血鬼が現れたという噂が流れ出したのは」
 マザー・ロウはアーチの無表情な顔を見詰めた。瞳だけは薄明かりに光っている。何か異論でもあるかのようだった。
「吸血鬼は確かにいるのです。アストリア以外に、何人か町の者が犠牲になっている筈です」
 バーバラは、言った。アーチは、途端に怪訝な目付きをシスター・バーバラに向けた。
「あなた、そいつ等を御覧になったんですね?シスター・バーバラ」
「ええ。嘘を吐いてもしょうがないでしょう」
「だとすると、吸血鬼の親玉がまだこの町にいるんじゃないかと」
 アーチは首を傾げた。
 マザー・ロウとシスター・バーバラは顔を見合わせた。
「まだ、おるって?」
「そう」
 アーチは余裕に満ちた穏やかな表情で、二人を見た。軽く二杯ひっかけたホット・ワインの所為で顔色も良く、男振りに磨きが掛かって見える。
「…となると、尚更そなたには頼まなければなるまいな。吸血鬼を倒して、アストリアを探し出し、あの子の魂を救って貰えないだろうか?」
 マザー・ロウは悲痛な光を湛えた目をアーチに向けた。アーチは暫く暗い壁を見詰める振りをして、頬杖をつき、何か考え事をしていた。ややあって、マザーの正面に向き直ると、商売気たっぷりの笑顔を作った。
「報酬は幾らですか?」
 アーチは歯に衣着せぬ言い方で、交渉を始める。マザー・ロウとシスター・バーバラは、きょとんとした顔でアーチを見詰め返すだけだった。
「これはヴァティカンを介さない私的な仕事だ。本来はアルバイトの申告をしなきゃならないんですが、今回は黙って…ということで。オレをプレミオーロと見込んでなら、当然無報酬という訳にはいきませんよ」
「そうは言っても、あなた神に仕える信徒が報酬だなんて」
 シスター・バーバラは眉を顰めた。
「実費で請求するだけですよ。モノ欲しいだけなら、もっと実入りの良い仕事は幾らでもありますからね」
「まあ!」
 何て言い草、とでも言い掛けたのか、シスター・バーバラは怒りに頬を上気させて口篭もった。
「お嫌なら他をあたってみるか、紹介しましょうか。…さて、どうなさいますか?」
 アーチの形のいい唇が薄っすらと天使の笑みを浮かべた。

 半地下のビルディングは、いやに湿気が多く、打ちっぱなしのコンクリ壁がぬめって見える。建物自体は比較的新しい物には違いなかった。しかし、水捌けの悪い場所の所為で、老朽化も早い。まるで人間も同じだ。
 階段を降りる赤毛の女の頭を、ジンは見ていた。マルドは暗い中を平気で進んでいたが、ジンは初めての土地で不慣れな所為も相俟って、女の頭髪の色だけが頼りだった。
「あんた、賞金稼ぎかい?」
「まあな」
 ジンはぶっきらぼうに答えた。
「成る程ね。見たこともない銃なんか持ってるからさ。オマワリの持ってるヤツとも違うみたいだし」
 マルドは振り向いた。
「パウダーガンってヤツだ」
「へえ」
 銃の話には興味が無さそうなので、ジンは話を止めた。マルドは鉄の扉を開ける。洞窟みたいな棲家だ。コンクリの塔の冷え冷えとした地下室が、この女の家なのだ。
 マルドは、愛想良くジンを中に引き入れた。
「一応、あんたは命の恩人だからね。それに、今夜はあの騒ぎじゃ泊めてくれる宿なんてないよ」
 マルドは殺風景な居間を横切って、上着をソファに投げ付けた。
「座ってよ」
「ああ」
 ジンはぎごちなく進み、遠慮がちにソファに座った。
「心配しないでよ。あたしは家庭に仕事は持ち込まない主義だからさ」
「仕事?」
「要するに、ウチじゃ男と寝ないってことよ」
 マルドは明け透けに言った。
「あ、そ」
 ジンは溜め息混じりに言い、ソファに深く背中を埋めた。マルドはキッチンから持ち出したグラスとバーボンの瓶をジンの目の前に突き出した。
「どう?飲み直しよ。あんな妙な事になっちゃってさ。今日は店じまい。あたしも飲まなきゃ寝られないわ」
 マルドは白い歯を見せ、ぎごちなく笑った。心からの笑みに慣れてないみたいな笑い方だった。
 口の訊き方は世間ズレした中年女にも負けてないが、殆どジンと年は変わらないだろう。何処かまだ少女じみた雰囲気が微かに感じられる。
「あんた、どうもねえのか?酒場であった事」
「化け物女の事でしょ?」
 マルドは、男みたいに勢い良く足を撥ね上げて、向かいの椅子に座った。掃除してないと見えて、白い埃が立ち昇る。
「たまにはあるわよ。あそこまでのはさすがに初めてだけどさ。あたしらが安い女と見て、半分死に掛けた病気持ちとか、半魚人とかを紹介する女衒がね」
「さっきのコマネズミみたいなヤロウか?」
「まあ、そんなところね」
 マルドは何か思い出したようで、不愉快そうにバーボンをグラスに注ぎ、一つをジンに手渡した。
「不景気な顔はよしてよね」
「ここにも、ああいうのがいたのかと思ってな」
「何処にだっているでしょうよ」
 マルドは最初の一杯をくい、と一気に飲み干した。
「そういえば、あんたの名前聞いてなかったわ。あたしはマルド。マルド・スタウトよ」
「ジン・スティンガーだ」
「イカすじゃない」
 ひゅう、とマルドは口笛を吹いた。冷やかすな、バカ。ジンは呟いた。
「あんた、一人旅?」
 マルドは二杯目のバーボンに唇を着けた。ジンは漸く最初の一口を胃袋に流し込む気になれた。水の三分の一以下の値段で買えるだろう安酒ではあるが、喉の渇きを一時的に癒すには飲むだけだ。
「ああ」
 ジンは間を置いてから、答えた。相棒などいなかった事にする。
「何処から来たの?ここに入れるって事は、うえの生まれなんだろ」
「海を渡って西から。生まれは…さあ、覚えてないな」
「IDカードに書いてあるんじゃないの?更新出来てないの?」
 ジンは黙って頷いた。グラスの中の琥珀色が揺れていた。安酒も高級酒も、薄暗い灯りの下では大差無いように見えるのが不思議だった。
「どうでもいいけど、部屋の中でサングラスくらい取ったら?」
 ガタン。
 キッチンの扉が開いた。マルドは振り返った。無意識の内にジンの右手は《ブラックホーク》のグリップに掛けられていた。十数年来の癖は、室内にいても変わらない。
「…ママ、お客さんなの?」
 幼い声が響いた。マルドはアナウサギみたいに慌ててソファから立ち上がって、子供の頭を抱えた。
「コーディ。起こしちゃったわね、ごめん」
「あ、あんたの子供か?」
 ジンは両手を上げた。マルドは何の躊躇いも無く肯定の意思を表した。
「そうよ」
「そうか。家庭に仕事を持ち込まない主義ってのは…」
 ジンは納得がいった。マルドの両腕の中からジンを見上げている円らな瞳が、何らかの興味を示す光を放っていた。

 底部を覗く全面鏡張りの奇妙な物体に呑み込まれていくランチ。
 ホンコン・ヘヴン、つまりチエーロ(上層都市)ホンコンディストリクト(特別行政区)に入構する人間を運ぶ乗り物だ。
 一辺百キロメートル余の四角錐。考えて見れば不気味な建築物だ。
鏡張りの理由は言うまでもない。太陽熱と光線を吸収利用する為の物だ。
 ギゼのピラミッドのようだ。まさか遠い昔に流行ったピラミッド・パワーなるものを信じた建築家の設計じゃあるまいな、とアーチは思った。
 アーチは検問所のど真中にいる。
 IDカードのチェックを受けてから、AIDS、コレラ、マラリヤ、チェリー・ブロッサム(桜斑病)、アマゾン壊血熱、ネフライト(急性石腎症)等の国際法定伝染病の罹患検査、予防注射をされる。
 ヒヨコの性別検査さながら、人々はベルトコンベアー式に医務室に流れ込んで行く。自分の番が来て、アーチは不承不承、看護婦の後に続き医務室に入った。
 予防医は、アーチのIDカードから抽出したデータを見るなり、顔色を変えて唸った。
「…大変、失礼いたしました。ドットーレ・ブールヴァルド。検査は結構です」
「はっは」
 当然だろ、と言わんばかりにアーチはふんぞり返って医務室を出た。
「と、こんなところで威光を効かせてもしゃあないか」
 アーチは、羨望混じりの視線を尻目に入構ゲートを潜る。
 たかが三日ほどの滞在許可を得る為に、早朝五時から十時までこの有様だ。それでもズラリ並んだ人間の数は、いかにホンコン・ヘヴンが彼らに及ぼす利益が莫大であるかを物語っていた。
 IDカード無しでは、入構は困難を極める。
「ウチも行かせてえなー」
 と、ピーチィがダダを捏ねなくて助かった。ディアスポラの人間であるピーチィは、許可申請の為に、最低一週間は検問所で足止めを食らうのだ。
 昔大いに活躍したジャンボ・ジェット機のような機内に入り込み、アーチは指定席を探した。二列ずつの窓側の席には、既に商人らしき男が座っていた。
 男は肌の浅黒い、彫りの深い、一目で西アジア系の人間と判る風体だった。毛織物のベージュ色のコートに身を包んでいる。
 男の年齢は不詳だ。二十代のようにも、五十代のようにも見えた。特徴は右目の下の黒子だ。
 それまで、備え付けのモニターで新聞を読んでいた男は、アーチの影が差したのを機に、ギョロリと大きな目玉を剥いた。
 意外に懐っこい目付きだった。
「あんたも仕事かい」
「それ以外の何に見えます?」
 アーチは微笑を浮かべ、ジュラルミン・ケースをネットの上に乗せると、男の隣座席に着いた。男は口元に笑い皺を刻んで、アーチの顔を見た。
「例えば、恋人を迎えに行く。友達の結婚式に出席する」
「ハハ、そんな穏やかな顔に見えますか?オレは只の商売人ですよ。流しの医者です」
「流しの医者に恋人など要らない、かね?」
「まァ、女は金以上に天下の回りモノですな」
 サービス係の女が、ドリンクの入った紙コップをアーチに手渡して行った。アーチが視線を返すと、女は卒倒しそうに仰け反って顔を赤らめた。そして屡、瞬きしながらアーチの端整な横顔を覗いては、遠ざかって行った。
 やがて商人風の男は、機内サービスのドリンクを飲みながら、アーチに謎めいた笑みを投げた。
「…レイヴン・ホール(鴉の巣)を探しているね」
「……」
 レイヴン・ホールとはつまり、銃器の販売店の事を指す。それも、正規販売店ではなく、所謂モグリのだ。黒い鴉を弾丸に見立てての、商人達の隠語だという。
「その手だよ」
 男は不精髭の生えかけた顎をしゃくって、アーチの膝の上に置かれた右手を指した。
「中指の内側にグリップだこが出来ている。親指の付け根はどうだい?十年以上、大型のリヴォルヴァーを使っているね」
「仰る通りですよ。アンダー・ホンコンの知り合いが都合してくれる筈だったんですが、已む無い事情で。結局、上まで探し物に行くんです」
 アーチは男に右の掌を見せた。男はジャケットの内ポケットの中から、一枚のカードを取り出した。
「街に着いたら、ここの住所に行くといいよ。ワタシの知り合いが店をやっている」
「そりゃ、どうも」
 機体はあっという間にホンコン・ヘヴンの東入り口に着いた。乗客は次々に市街地へ向かって降りて行く。男はゲートを出て行く際に、アーチを一度振り返っただけだった。
 謎めいた笑みだけが、アーチの記憶に留まった。
「胡散臭さ…」
 アーチは呟いた。尤も、この御時世で胡散臭くない商人などいやしない。
 太陽光がガラスを通して一斉に降り注いだ。アーチは眩しさに立ち眩みがした。たった数キロメートル太陽に近付いただけというのに。
 検問所を出ると、アーチはタクシー乗り場を横切って、大通りを目指した。
 ホンコン・ヘヴンは一見、かつてのエキゾチックな情緒をそっくり残したままで、お誂え向きに観光的だ。その実、危険を孕んだ街であることも否定出来ない。上層都市建設に反対した過激派テロリストの残党も、きっと何処かに潜んでいる。
「あの男…」
 アーチは早足で、自動車道を横切る男の姿を見た。
 黒ずくめの男は、渋滞しているとはいえ、のろのろと進んでいる環境保全車の間を目にも止まらぬ早さで抜けて行った。まるで、車のほうが止まっているかのように見えた。
 通常の人間の早さではない。
 アーチは周囲を見回したが、誰一人として黒ずくめの男に気付いた者はいない様子だった。
「まさか、真昼間から吸血鬼は出ないよな…」

 路地裏に太陽の光が射してくるのは、正午近くになってから、そして光が萎えて行くのは午後三時過ぎくらい。
 その間に女達は洗濯をし終えてしまわなければならなかった。細いビスコッティーノみたいににょきにょきと生えた建物の間に、一斉に干し物が並ぶ様は、かなり壮観である。
 どの家の窓にも、小花が飾られている。
 路地に掃き固められた汚いゴミの山さえなければ、昔ながらの小ぢんまりとした下町風景といえた。
 懐かしい香りがする。太陽の乳臭い匂いと、スープの匂い。下町育ちのジンにとってはある種、寛げる匂いだった。
「おお、生き返るぜえ」
 と、ジンは満足げに独りごちた。モジトの町を出てこのかた一と月は、こんな穏やかな太陽の光を浴びたことは無かった。ここではどんな日当たりの悪い貧民窟でも、紫外線の悪影響無しにお天道様を拝めるのだ。
 清々しいレモンの匂いをさせて、コーディが走って来た。
「ジーン」
 コーディは洗い立ての茶色い髪を揺らしながら、キャッキャッと飛び跳ねる。
「よう、フロ上がりだな」
 ジンは咥えかけたマルボロを右手の中に戻した。レプリカのレンガ造りの壁に凭れ、ジンは両手を伸ばし、コーディを迎えた。
 シャンプーの匂いがジンの鼻先に溢れた。
「まあだ、濡れたままじゃないの。コーディ」
 バスタオルを手にしたマルドが、ジンとコーディを見下ろした。
「やあだ、やだ!」
 コーディはジンの腕の中から飛び出すと、マルドの脇を潜りぬけて走って行った。
「こぉら!」
「いいじゃねえか。風邪ひきゃしねえよ。天気もいい事だし」
「やんちゃ過ぎて手に負えないのよっ。最近は」
 再びマルボロを咥え直したジンに、マルドは困り顔をして見せた。
「で、あたしはそろそろ仕事に行くからさ、あの子を頼んでもいいかな?」
 マルドは自分の洗い髪を撫でながら、ジンにウインクして見せた。
 コーディは五歳。マルドが十六歳の時の子供だという。まだ知り合って一晩しか経たないというのに、ジンに対する格別な懐き具合は、只遊び友達が少ないからだというだけの理由ではない筈だ。
 父親の不在は、コーディをどれ程不安にさせているのだろうか。
 ジンには判らない。
 少なくとも、ジン自身は父性の存在は覚えている。
「女はタフだねぇ。夕べの今日だぜ」
 ジンは紫煙を燻らせながら、マルドの後姿を見送った。
 子供達の笑い声が路地の間から響いてくる。
「ジーン!」
 コーディが小さな手をめい一杯振っている。ジンは吸い掛けのタバコを惜しげも無く捨て、靴底で火口を消した。
 子供達は、コーディの呼び掛けでジンの周りに集まって来た。コーディは、誇らしげに鼻を鳴らす。
「ジンはすげえ銃を持ってんだぞ」
「すげえ銃って何なんだよ」
「警察官が持ってるヤツとは違うんだ」
「違うって?」
「何処にも持ってないじゃないかよ」
 コーディは、唇を尖らせ、ジンの手を引っ張る。ジンは弱った。
「あんまり子供に見せるモンじゃないんだけどなあ」
「早く!ボクがウソ吐いてるって思われちゃうよ」
「しゃあないなあ…」
 ジンはコーディに急かされて、仕方なく《ブラックホーク》の重い銃身をホルスターから抜いた。
 緑色を微かに帯びた美しい直線が、日光に晒されて輝く。シリンダー部分から、グリップ・フレームに至るまでの曲線は、女体を思わせる滑らかなラインを描いている。
 芸術品と呼んで差し支えないパウダーガンのフォルムは、年端も行かない子供達にも、感嘆の声を上げさせるに充分だった。
 暴発の危険防止の為、スゥイング・アウトさせ、44マグナム弾は総て抜く。セフティを掛け、両手を差し出したコーディにグリップを持たせた。
「重ーい」
 路地の向こうで黒い影が蠢いた。チッ、と白い閃光が散った。
 ジンは反射的に子供達の頭を押さえ、抱え込むと、受け身の態勢を取った。
「コーディ!」
 コーディはジンの叫びに応じて、身を伏せた。
 ドギャ。ドギュアンン。
 明らかにパウダー・ガンの銃声。音が聞こえた時には、既にレンガ風の壁は黒い孔を穿たれていた。青白い煙が立ち昇る。
「1・2・3…」
 胸の内で数えながら、ジンはマグナム弾をリロードする。こんな時こそ冷静さを欠いてはならない。泣き叫ぶ子供達を置いて、ジンは六発目をシリンダーに押し込むと、低い姿勢から駆け出した。
「なっ、何なのよジン!」
 マルドが戸口から身を乗り出し、叫んだ。他の窓からも、似たような格好の女達が顔を出す。
「危ねえ、引っ込んでろ!」
 ジンは路地へと飛び出した。右手の人差指は何時でもスタンバイOKだ。撃たれる事に、何故だ、どうしてだのと考えている余地もへったくれも無い。理不尽でもそれがバウンティ・ハンターの宿命だ。
 だが、黒い影は見当たらない。路地には無味乾燥な顔付きの通行人がチラホラと歩いているだけだ。
 確かに、いる。気配はある。息は殺せても、硝煙の匂いは誤魔化せない。ジンは瞼を閉じて息を大きく吸い込んだ。火薬の燻った匂いは、確かに右斜め後方から漂って来る。
「そこだ!」
 腰を捻り様、ジンはトリガーを引いた。
 ドズゴォオオン。
 マズル・フラッシュの後、44マグナムは行き場を失ったかのように明後日の方向へ飛んだ。
「なっ…!」
 そんな馬鹿な。
 ジンは右肩を貫かれていた。《ブラックホーク》の発砲よりも速く、相手の銃弾がジンの腕を捉えていたというのだ。〇コンマ六秒を誇るジンのクイック・ドロウを凌ぐ速弾だった。
 衝撃に煽られたジンの右腕は、もげそうに軋み撓んだ。もんどり打って地面に転がる。まともに石畳に背中を打ち付けた。
「うううあああっ!」
 ジンは横転しつつ、二発目を撃った。火事場のクソ力というヤツを振り絞っての事だったが、弾は虚しく緩慢な弧を描いて消えた。
 ドオン。
 再び相手のパウダー・ガンが轟音を上げた。反撃力を失ったジンは、まともに脇腹を裂かれる。
 ゴトリ。
 ジンの右手から《ブラックホーク》の銃身が離れた。白い煙を燻らせながら、銃口がぽっかりと開いてジンを見詰め返した。
「うぐああ…!」
 逆光で男の姿はよく見えない。
 黒い服。顔は。
 顔は見えない。もっと近ければ。あと五メートル。
「ううう!」
 ジンは《ブラックホーク》を投げ出したまま、横になって這い摺った。脇腹から流れ出す生温い血液が、手足の自由を奪っていく。掌はぬめぬめと滑った。
「…お、お前が黒服の男…?シルヴァー…いや…?」
 ジンは血反吐を吐いた。喉に血が引っ掛かって、声が出ない。
「……」
 男は無言のまま、後退していく。
 ジンは左腕を伸ばした。
「きゃあ!何してんのよ、あんた!」
 マルドの甲高い悲鳴がジンを正気付けた。
「血塗れじゃないのさあっ!」
 マルドは転がったテンガロン・ハットを踏ん付け、ジンの身体を抱え起こした。ジンは負傷しながらも、踏ん付けられたテンガロン・ハットにあっとなった。
「命より大事なモン…」
「何言ってんのよ!命以上に大事なモンが何処にあるってのよ」
 それは違うぜ、おい。とジンは言おうとして、失神した。

第二章へ続く

「前回までのSTORY」へ戻る