第二話
蝕日者のジルバ 〜 Eclissi ballare il jitterbug 〜
(後編)
第三章 A CONSPIRACY IN THE MORGUE 地下墳墓の陰謀
白いマズルフラッシュが爆発した。
同時に、強烈なロー・キックが、ベリーニ神父の右脚に食い込んだ。
バキバキバキッツ。骨の砕ける生々しい音を、迸る絶叫が追った。
「うぐぎゃああ!!」
後は悲鳴にもならない。ベリーニの唇から泡が飛び出し、自分を見下ろした長身の影を、涙目で見上げる。
「・・・・・・!」
ベリー二は歯の根も合わない。痛みよりも、恐怖が凌駕していた。神父になって二十数年、自警団長をして数十年になるが、これほど凄まじい暴力には出会ったことがなかったのだ。
「よう、兄弟」
長身の男は端麗な顔に、涼しげな笑みを浮かべた。左手にはライフル・ブラスターが受け止められていた。そして、右手に掲げた黒いリヴォルヴァーの銃口からは、まだ青白い硝煙が棚引いていた。
「アーチ・・・!」
ジンはそう言った後、二秒ほど二の句が継げなかった。
アーチはライフル・ブラスターを地面に転がし、素早く白衣の埃を払った。
「相変わらずアドリブに弱いじゃないか」
「やかましいっ!何してんだ手前ェ?随分と派手な登場ブチかましてくれるじゃねえか」
ジンは、相棒の無事を喜ぶ機を失ってしまっていた。《ブラックホーク》の鋭い嘴は、標的を失ったまま、空を睨んでいる。
トリガーを引く、直前だった。
絶妙のタイミングで、別の銃声が割り込んできた。シングルアクションのトリガー・プル速度を上回るブラスターがあり得ないとすれば、同じパウダーガンしかない。その中でも、初速スピードで44マグナム弾に対抗出来るヤツは、ほんの一握り。
その時点で、ジンの胸中に妙な予感が湧いていたのだ。
フルメタル・ジャケットの357マグナム弾を擁する黒い蛇《キングコブラ・バニッシュメント》。
ミスティは、、ダブルアクション・リヴォルヴァーの黒い銃身を見据えた。クラシカルで流麗なジンのパウダーガンに比して、《キングコブラ》は名にし負う、ハードで厳つい感を受ける。
「アナタ、たいした嘘つきね。何が実弾撃ったこともない、よ」
ミスティは、複雑な面持ちでアーチを見た。
ベリーニの弾傷は、肘を掠めていた。
《キングコブラ》を構えてから発砲までの速度を考えると、ダブルアクションの重いトリガーを、シングルアクション扱い以上に軽々と引いているのは明白。
しかし、繊細な神経の行き届いた発砲の割りに、相手の脚を平気でへし折ってしまう、この男のセンスは理解し難いものだ。
「言ったろ。無駄弾を撃ちたくないって」
アーチは悪びれた様子も無く、言った。
「じゃ、アナタ私の代わりにその男と勝負出来る?」
ミスティは嗾けるような上目遣いで、アーチを凝視した。手強い視線を受け流すだけの余裕は、アーチには充分ある。
「何でこう、血の気が多いんだろうな。キミといい、あのアンポンタンといい」
アーチは、ジンを指差した。
ジンは面白くない。まったくもって、面白くなかった。
久しぶりに相棒の顔を見たかと思えば、既に出し抜かれている。そのうえ、相棒は男装の凛々しい美女に馴れ馴れしい口をきいているではないか。
自分はやんちゃ姫のお守りに手一杯だというのに。
「手前ェ、そのべっぴんとお近付きってことは、つまりクロウ家の犬ってことだな!?」
ジンは噛み付くように言った。ズチャ、と重い金属質の音と共にピーチィの背中が脇に弾き出された。《ブラックホーク》のフロントサイトが、アーチの鼻先に向けられた。
「そう、決め付けるなよ。だから血の気が多いっていうんだ」
アーチは笑っていたが、《キングコブラ》は既に威嚇態勢に入っていた。
グリップを修正する為に一旦指が離れ、カカッ、と乾いた音を立てて、銃はアーチの右手の中で軽やかに回る。グリップが決まると、黒光りする図太い銃は、五本の指で象った狐の形の中に収まった。
「さていっぺん、その血ィ抜いたろーじゃないか!」
アーチはスタンスを大きく開いて、声高に言い放った。
「上等だ!」
野生の黒鷹と猛毒の蛇王が対峙するがごとく、二挺のパウダーガンが一直線に並んだ。
二人とも正気だとしたら、とんでもない大馬鹿者同士だ、とミスティは思った。相棒同士の挨拶にしては、命懸けのいいとこだ。どちらが血の気の多いヤツなんだか。
ファスト・ドロウでは明らかにシングルアクションの方に分がある。
最初の一発が決まれば、44マグナムを被弾した射撃手は、もう次のアクションに移れない。素人目にも、殆ど百パーセントに近い確率で《ブラックホーク》の勝利が見えるというものだ。
ところが、アーチには、この至近距離で初弾を交わす自信があるというのだ。成る程、ベリーニにロー・キックをかました時のスピードは、驚嘆に値する。
初弾をはずせば、《ブラックホーク》が次にハンマーを起こすまでに、《キングコブラ》の牙はその喉笛に食らい付いている、というヴィジョンが見えてくる。
しかし、どちらが勝っても只では済まないことだけは、予測が付いた。
両者がそれぞれホルスターに銃を収めた。
ゴングも合図も無用だった。
青天に、銃声が轟いた。
ピーチィは、固く両目を伏せた。喉が渇き切って、声も出ない。
「・・・えっ!えっ!」
ピーチィが目を開いた途端、それは怒涛のようにやって来た。《砂漠の黒嵐》などでも、ギガントの群れでもない。ダチョウの黒い群れが押し寄せてきたのだ。ゆうに、二十羽はいる。
「お嬢ちゃまあー!」
ダチョウの上から、だみ声が飛んだ。頭巾のように黒い日除け帽を被った集団が、ピーチィに向かって来た。義賊《ベイビー・フィンガーズ》だ。
「なな、何やの!エッグ・ノグ」
あっという間に、ピーチィの両腕が掴まれ、ダチョウの上に引き揚げられた。
エッグ・ノグと呼ばれた小柄な老人は、白い鯰髭を垂らしていた。思いも掛けない腕力で、ピーチィの華奢な身体をひょい、と抱え上げる。
「ど、どうする気ィやの?離してえな!」
「決まってまんがな、お嬢ちゃま。さ、アジトに帰りまひょ」
「いやーっ!」
ピーチィは、冥府に連れ去られる姫君よろしく叫んだ。呆気に取られたのは、その場に居合わせたジンとアーチ、ミスティの三人である。
事態が飲み込めるまで、三者共に十秒は要した。
「おい!ピーチィ」
ジンは、尻尾をふりふり進んでいくダチョウの後を追った。
「あの、バカ・・・」
アーチはホルスターから抜き掛けた、《キングコブラ》を戻しながら言った。そして、不承不承ジンの後を追う。
「アーチ、お前何とかしろ、その逃げ足で」
「ダチョウに敵うかってんだ。長距離は苦手なんだよ」
二人は苦し紛れに、はにかんだ笑みを交わした。同時に足が止まる。ダチョウ軍団は、遥か地平線に近付いていた。
「畜生め・・・」
沈む夕陽がせせら笑うように、ジンのサングラスに照り返った。
アリスのバールは、常連客で埋まっていた。土曜の夜である。
『モジト。ライ麦の収穫は好調。このところ雲は無し。光至らず。空腹亭』
ジンとアーチは、同時にテーブルの上に出した紙切れを読んだ。
「この通りだ。確かに《空腹亭》に行ったぜ」
「オレもだ」
そう言い合って、ジンとアーチは顔をお互いに見合わせた。けらけら、とアリスの笑い声が聞こえる。
「あんたたち《空腹亭》ってのは二軒あるんだよ」
「えっ!」
「兄ジャンニと弟マリオで、先代の店を暖簾分けしたんだよ。ジャンニはでっぷりした愛想がいい方で、マリオは痩せた無愛想な方」
アリスはそう言って料理を担ぎ、カウンターを出た。
「するってえと、オレ達はまるで別の依頼を別の店で聞いてたってことか?」
「お前の依頼主はデイジ・・・いや、あの義賊のお嬢ちゃんで」
「お前のがクロウ家」
「どういう事だ?」
二人は、声を合わせた。先に顔を背けたのは、アーチの方だった。
「協会の手違い?いや・・・」
プレミオーロ協会が、賞金稼ぎに直接指令を送ることはない。然るべき手段、例えば、新聞広告や広報に暗号を使って知らせる場合が殆どだ。
「或いは何れかが偽造されたものって可能性もある」
「全く同じ文章をどうやってだよ?暗号は協会の事務員か、教皇庁の一部職員しかしらないんだぞ」
一方は「《用心棒求む》。モジトの空腹亭へ来られたし」。もう一方は、「《優秀な若い医師求む》。モジトの空腹亭へ来られたし」。
アーチは首を捻った。
ジンは、アリスの運んで来たブラディー・マリーのダブルに、タバスコをめい一杯ぶち込んだ。皿の上に乗ったソーセージ・サンドの上にたっぷりとケチャップを掛け、豪快に齧り付く。
「しかしお前、オレの目の前でよくそんなモン飲み食い出来るな」
二杯目のカンパリ・オレンジに唇を付けながら、アーチが眉を顰めた。ネクタイを緩め、高く組まれた膝上には丸めた白衣が置かれている。
「パンのパサついたハンバーガーとか、質の悪い油で揚げたポテト・スティック、香辛料で誤魔化した古いロースト・ビーフ・・・ゾッとするな。俗悪過ぎる」
「・・・・・・」
ジンは黙々と、ソーセージ・サンドに食らい付いていた。店内の喧騒も耳に入らないかの様子だった。
「ファースト・フードを蔓延させたのは、旧世界のアメリカ人の罪かも知れんな」
「いちいち、オレの食いモンに文句付けんなよ!」
ジンは、タンブラーの底を、ドン、とテーブルに叩き付けた。
「唾飛ばすなよ。ケチャップが付飛び散るじゃないか」
「やかましい、偏屈どスケベのイタリアン・フレンチ!」
「そういう偏見に満ちた言い方はよしてくれ」
「偏見に満ちてるのは、手前ェの方じゃあないか。さっきから黙って聞いてりゃ、ファースト・フードがどうのアメリカ人がどうのと・・・」
「オレは食い物に文句を言ってるんじゃなくて、食えりゃ何でもいいって姿勢が気に食わないんだよ。貧困な精神文化の根源だ」
「何を意味不明なコト言ってやがる」
「女なら何でもいい、取り敢えず穴がありゃいいって姿勢と同じっていうんだ」
「手前ェが言えたクチかよ!その口で!」
テーブルにダチョウの手羽焼きと、サボテンのピクルスが置かれた。二人の間を割って、アリスがワイン・ボトルを差し出す。
「この店で揉め事は御免だよ。只でさえ、あんた達が来てからごたごたしてんのにさ。これ飲んでおくれ。あたしのおごりだよ」
アリスはそう言って笑い、カウンターの内側に戻った。
「仲良くしなよ。世の中の持ちつ持たれつなんだからさ」
「済まないね、アリス」
アーチの殊勝な言葉を聞いて、ジンは可笑しくなった。
「しかしまさか、お前がクロウの所にいたとはな・・・」
アーチは、慌ててジンの口を押さえた。もがもが、とジンはソーセージ・サンドの欠片をアーチの掌に吐き出しそうになった。
「にゃにふんだほ。いきなひ・・・!」
「黙れ、ジャン・カルロ・クロウの名前が出ただけで、殺されかけたんだ。邸にいるって判ったら、お前も只じゃ済まんぜ」
アーチは、声を潜めて言った。ジンは、横目で店内を見た。客の誰も、二人に気を払っている様子は無かった。
「心配しなさんな。ここはクロウ家派も反対派も関係無いトコだからさ」
アリスは言った。
「でもジャンニの店は反対派、マリオの店はクロウ家派で、兄弟仲までおかしくなっちまってさ」
「オレは関係無い、余所者じゃねえか」
ジンは、二つ目のソーセージ・サンドに齧り付きながら、椅子の背凭れに踏ん反り返った。
「関係無いとは言えないぜ。お前はあの野性味溢れたバンビーナ、義賊《ベイビー・フィンガーズ》の頭領の用心棒としてな」
「あれが義賊なモンかねぇ」
呆れるジンに、アーチはすかさず突っ込み続けた。
「まーたまた、流行の援助交際ってヤツか?」
「バカ言え。小遣い稼ぎに決まってるじゃねえか。一日一万ダッシュ。でなきゃ、誰があんな小便臭い小娘のお守りなんざ」
ジンは、がば、と激辛ブラディ・マリーを胃袋に流し込んだ。五臓六腑に染み渡る辛さと熱さだ。
「一日一万ダッシュねえ。・・・悪くないか」
「な、だろ?オレと代わるか?」
「やだね」
アーチはにべもなく即答した。
「ふん。そりゃ、そうだな。一日一万ダッシュじゃ、追い付かないか。お前は大きなお邸のでかいベッドでぬくぬくと眠り、ハンバーガーみたいなチンケなモノじゃなくて豪華な晩メシを食い、《聖水》も飲み放題。可愛いメイドにお給仕して貰って、ついでにケツでも撫でて。その上あんなナイス・バディのネエチャンでもいたひにゃ・・・」
ジンは恨めしそうに唇を突き出した。アーチは、腹を抱えて笑った。
「よく喋ったなぁ、お前にしては。ミスティ・サファイアのこと?・・・さぁ、オレもよく知らないんだけどな。いろいろとけしからん女だが、さすがに用心棒だけのことはあるぜ」
「ああ、腕はな」
ジンは空のタンブラーを舐めた。アーチは、テーブルに肩肘を付いて、ジンの顔を舐め上げるようにじっと見た。男でも気恥ずかしくなるような、人を惹き付ける視線だ。
「お前、あの女をシルヴァー・ブレットだと疑ってるのか?」
「判らん」
ジンは逡巡混じりに答えた。
「だが、違っていても、同じパウダーガン使いなら、何か知ってるかも知れん」
「オレにはそうは思えないがな」
アーチは皮肉な笑みを浮かべた。ジンは、むっつりして、肩を竦めた。
「そもそも、何かをタダで喋ってくれるようなタマじゃない」
「よく知らないって言ったクセに、知ったような言い方を・・・」
「あのテは身体にモノを言わせるのがいちばん。あれは見掛け以上に、男なしではいられない身体に違いないぜ。オレには判る。あのぴちぴちしたケツを見たか?」
「うーん。確かにいいケツしてたよなぁ・・・」
「だろ。後ろから攻めて、って感じ。お前、どうにかしてみるか?」
「ナニをよ?マジで出来んのかよ?」
アーチは首を傾げた。
「閑話休題。しかし、ジャン・カルロ・クロウ、わけ判らん自警団だけじゃなくて、用心棒を雇ってるってことは、よほど敵が多いと見えるな」
ジンは、まんじりともしない気分で、ジャン・カルロ・クロウのところだ声を小さくして言った。
アーチは、少し考え込んだ様子で、ワイン・ボトルを傾けた。
「まだ何とも言えんが、胡散臭いことだけは確かだな、あの邸」
アーチは、グラスに注いだ黄金色の貴腐ワインを一気に干した。
「何があっても、オレは知らねえぞ」
ジンはむっつりして、手ずからワインを自分のグラスに注いだ。
「しっかし、マジでオレを撃つ気あんのかと思ったぞ、あん時」
「仕方ないだろ、ベリーニをやっちまったんだから。ああするしかなかったんだぜ」
アーチは、軽く片目をつむって見せた。憎めない、天使の笑顔だ。
「調子のいいことぬかしやがって。・・・で、お前あの晩いったい何処にいたんだよ?」
ジンは、久しぶりのタバコに火を点けた。
「え?・・・ああ、思い出すのも忌々しいが、ガス欠でな。忍びないが《デアデヴィル》を置いて歩いてきた。回収に行かにゃならんな。ガス屋のクソ親父、舐めた商売しやがって。カード電話は壊れるわ、女は薄情だわ・・・」
アーチの返答に、ジンはがっくり肩を落とした。心配するんじゃなかった。何処までも、マイペースなヤツめ。
「それじゃ、アレを見たのか?」
「アレって何だ?」
「ギガントの群れだ」
アーチは首を捻った。少し、酔いが回り始めたらしい。
「死体の山なら見たぜ」
「死体?」
「オレが着いたのは昼前だったからな。清掃員がトレーラーに死体を積み込んでた」
「何も見なかったのか?町の外をギガントが歩いてる、とか」
ジンは、テーブルをはさんでアーチに詰め寄る。
「ああ。だけど、お前も妙な事言うね。知ってるだろ?東アジア太洋横断高速道路を下りて、ここに来るまでの間、道路以外は岩場だけ。ギガントの住処になりそうな湿っぽい場所なんかあったか?」
「どういう事だよ、それ」
ジンは頭を抱えた。
「オレに判るか」
アーチは、素っ気無く答え、調子付いたのか、ワインをなみなみと注ぎだした。
あの夜の光景を、ジンは繰り返し頭の中で思い起こそうとした。風向きを考えると、どうしても自分達がやってきた方向からギガントが襲来したとしか思えない。
ギガントが隠れていそうな場所が、何処かにあったとすれば、それは町の外ではない。
町の中にギガントが住み着いているというのか。
タバコの灰が、ほろりとテーブルの上に零れ落ちた。
モジトの町を数マイル西北に離れた渓谷に、《ベイビー・フィンガーズ》の砦があった。砂漠の入り口に当たり、通行人などついぞ見掛けない僻地だった。遠くに山脈を望む岸壁の一隅に、洞窟様式のアジトが造られて、十年余になる。
《ベイビー・フィンガーズ》のアジトは勿論、ここだけではない。
ディアスポラの各地にある。部下は各地に根付いて、頭領が各地を渡っていくという遣り方が、代々《ベイビー・フィンガーズ》では行われていた。
「もう堪忍してーな、爺ィ」
ピーチィは、半泣きになりながら、亡父オステンド・フィズの肖像を拝んでいた。日に焼けた父の顔は、満面の笑みを湛えている。
「辛気クサイねん、この部屋。何で死んでるおとーちゃんとにらめっこせなアカンねん」
「我慢しておくれやす、お嬢ちゃま。これも死なはったお頭の遺言ですよってに」
窓のない部屋の向こうにいるピーチィに、エッグ・ノグは話し掛けた。鍵は外から三重に掛けてある。
「ええか、爺。アホ娘が人さんに迷惑掛けるような事したら、この部屋に押し込めとくんやで。せやな、三日くらいでええやろ」
《ベイビー・フィンガーズ》の亡き先代頭領の遺言を思い出し、エッグ・ノグは涙ぐんだ。剥き卵みたいにつるつるした頭が、小刻みに震える。
「何で三日やねん!ウチもう反省したし、出してーな」
ピーチィは、猫撫で声で扉に擦り寄った。
「あきまへん!お嬢ちゃま、またやりますやろ?」
「ぎく」
ピーチィは、亡父の肖像を横目で伺いながら、項垂れた。八方睨みの壁画のように、避けても避けてもオステンド・フィズの視線はピーチィに向けられている。
「何でーな。ウチは悪い事しよう思うてやったんやないのにー。おとーちゃんも草葉の蔭から応援してくれる思うて・・・」
エッグ・ノグは、一瞬この孫娘のような存在ともいえる後継ぎ娘を哀れに思った。
「いや、やっぱりあきまへん。お嬢ちゃま」
「ふええ」
「よう考えてみなはれ。お嬢ちゃまがやらはった事は、仰山、他人様に迷惑掛けるどころか、危険に晒しとりまんのや。クロウ家のメイドに成り済まして人を騙し、トレーラー襲って飲み水を奪うて、挙句の果てに市場でドンパチ・・・。お頭が生きておられたら、何て言わはるやろ」
エッグ・ノグの言葉に、ピーチィは声を失った。
もし親父様が生きていたなら、雷鳴をも凌ぐ雄叫びを上げて、怒鳴り散らされる。いや、丸太棒みたいな腕でどつき回されるかもしれない。お尻百叩きか、ボウズ頭か、はたまた勘当か。
「か、勘当や!堂々と家出出来るんやったら、ウチ何でもするで」
「アホな事言うたらあきまへん。お頭は一生お嬢ちゃまを手放すまい思わはりまっしゃろな。《出来の悪い娘を他所へは出せん》言うて」
「うへえ」
パチパチパチ。矢庭に拍手が挙がった。
「まあまあ。お取り込み中、実に申し訳ないんだけどな・・・」
と、声を掛けたのは、ジン・スティンガーだった。
「ジイサンの言う事は尤もだ、ブラヴォー。お前、もちっと反省部屋にいるんだな」
「ドンパチの元凶はこいつやないの、エッグ・ノグ!見てなかったとは言わさんで」
ジンは、ひゅーひゅー、と空口笛を吹いた。
「何言うたはりますのや、お嬢ちゃま。この御方はお嬢ちゃまの命の恩人でっしゃろ?」
「ベリーニの人質になったのを助けてやったのは誰だよ?」
「ボケ、何ぬかすー!助けてくれたんは、男前のドットーレ・ブールヴァルドの方やんけ!」
男前の、という形容動詞はこの際無意味だ、とジンは思った。
「で、アンタ何しに来たんよ、いったい」
ピーチィの無慈悲な追撃に、ジンは仰け反った。この掌を返したような態度。小さくとも女、恐るべし。
「お前、用心棒をほっといてどういうつもりだよ?」
「ああ、アレ?契約はもう御仕舞いや。今までの分は払うさかいに、爺に請求書出しといて!」
ピーチィはそう言い捨てると、音を立てて寝転がった。
「え・・・」
茫然とするジンに、エッグ・ノグが話し掛けた。
「わざわざ呼び出して申し訳ありまへん。・・・ウチのお頭が迷惑掛けてえろうすんまへなんだ」
「いえ、とんでもない」
頭を下げようとするエッグ・ノグを、ジンは制止した。エッグ・ノグは卵そっくりの輪郭を引き攣るように歪めて、少し悲しそうな表情を見せていた。
何だか、この義賊の指南役を見た瞬間、ジンは胸の奥に懐かしさを感じた。《海の民》に流れる、東洋の血がそう思わせたのだろうか。
「お嬢さんを止められなかったのは、オレが悪いんですから」
ジンは、自分でも尻の穴がむず痒くなるような返答をしてしまった。
「いや、あんさんはここらの事情にも疎い筈やし、無理もあらへん。悪いのはうちらの方ですよって。堪忍や」
「いや、オレに謝って貰っても・・・」
「先代が亡くならはってから、余計に仕事仕事や言うて、危ない事ばっかりやらはりましてな。せやけど、まあ、あないなはねっ返りでも女の子やさかい危ない事はさせたらアカン思うて・・・」
「はァ」
エッグ・ノグはおよよ、と目頭を押さえた。ジンは二の句も継げないで、暫く途方に暮れてしまった。
ピーチィは薄明かりの下、突っ伏したまま、うとうとしていた。泣き疲れて転げ回っているうちに、反省部屋で眠ってしまったようだ。
「・・・お金なら、爺に貰うてや」
ピーチィは、気怠そうに言った。ジンの気配は、動かなかった。ピーチィは、最早突っ掛かる様相などまるで無く、むしろ雨宿りしている蝶のように静かだった。
「取ったら、さっさと帰ったがええで。ウチ、もう関係ないし」
「えらくあっさり言うんだな。家出反抗娘も卒業か」
ジンは、呟くように言った。
「何とでも言うて。何もかも、失望や」
「聞いたぞ、爺から。お前、親父様の為にすいげんをq取り返そうとしたんだってな」
ピーチィは、がばと跳ね起きて、ジンの声がする方へ、振り向いた。
「爺のヤツ、余計な事喋ってから・・・」
クロウ家の水源は、元々モジトの町民全員の物だった。それを決めたのは、他でもない《ベイビー・フィンガーズ》の頭領オステンド・フィズだった。
「水源自体を掘り当てたんは、おとーちゃん達や。義賊仲間で取り決めを作ってな、この町の住民が自由に使えるのは勿論、近辺の町にも水路を開こうって言うとったみたいや」
「それを破ったのが先代領主・・・ボナンザ・クロウ」
ピーチィが黙って頷く気配を、ジンは感じ取った。
「クロウのヤツも澄ました顔してるけど、元は盗賊やで。闇商人上がりのな」
「どういう手を使ったか知らんが、成り上がった」
「おとーちゃんは、曲がった事が嫌いな性格やったから、きっとクロウを見限ったんやと思う」
沈黙が流れた。
ややあって、ジンは、へっへっへ、と大声で笑った。
「何やの、その笑いは。アンタもクロウ家に行ったらどないやのん。ここの用心棒はクビやで」
「おっかねえよ、あんな怖い連中がいる所。それに、金は頂かない」
「アホな事言うてんと」
ジンは、カカカ、と小さく笑って、反省部屋に背を向けた。
「お前が水にこだわった理由が判ったんでな。気が向いたら、呼んでくれよ。金を貰うのはそれからでも遅くはねえよ」
「何処行くん?」
ピーチィは思い余って、切羽詰ったような質問を投げ掛けた。黙ってこのままジンを帰してしまったら、いけないような気がした。
ジンは歩みを止めた。
「町に戻る」
じゃ、とジンは右手を挙げた。ピーチィは、再び呼び止める機会を失ったまま、扉の隙間を見詰めているだけだった。
腹立たしいのか、悲しいのか判らない気分だった。
「ボクは後何日生きられるのかい?」
出し抜けな質問に、アーチは一瞬面食らった。
「三日くらい?」
トリルビーは優雅な眉間を寄せて、切ない表情を見せた。アーチは、その枯れ枝みたいな細い手首の脈を取りながら、少年の顔を見詰めた。
「誰がそんなウソを言ったんです?あなたのお父上ですか?」
「・・・・・・・」
アーチは、トリルビーの瞳の中の雲を見逃さなかった。
「でたらめを信じちゃいけませんね。御当主ともあろう御方が」
そう言われて、トリルビーはクスリ、と笑った。
「先日は四時間も外に出られたでしょう。そのうち、もっと長いこと出られるようになりますよ」
「そうかな」
トリルビーの腕が震えるのが、アーチの掌に伝わった。手指は、熱を佩びて温かい。昨晩からの微熱は下がっていない様子だ。
「いい加減信用して下さいよ。オレはこう見えても、ヴァティカン科学アカデミーの研究員でしてね。教皇の手当てもしたことがあります」
アーチは少年の手を両手の掌で包んだ。
「・・・ありがとう」
自信の無さそうな小さな呟きが、トリルビーの唇から洩れた。恐らく生まれてこの方、殆ど人に礼など言った事がないのだろう。
トリルビーの診察が終わった後、アーチはこっそりと裏庭へと出た。
今し方、クロウ邸は、客人を招いての晩餐会が終わったところだ。何れもモジトの町の名士と呼ばれる連中で、先代ボナンザ・クロウと縁の深い人間ばかりだ。
「・・・とはいえ、ジャン・カルロの予言が現実のものになったら、オレは何をしに来たのか判らんな」
アーチは独りごちた。事実、トリルビーの容態はかんばしいとは言えなかった。食事量も減っているし、眠りがちだ。何より、あの肥大した心臓の色は赤黒いを通り越している。しかし、三日の命ということはないだろう。
さて、クロウ家の利権のお零れに預かろうという連中は、既に夕餉の間を出ていた。ダンス・ホールと客間にそれぞれ解散して楽しんでいる最中だった。
アーチは邸内に向かった。渡り廊下から眺めるダンス・ホールは昼間の明るさだった。
サルサを踊っているのは、ジャン・カルロで、相手は目を剥くようなきわどい衣装の女達。
「踊らないんですか?先生は」
若いメイドが、すれ違い様に言った。両手に抱えた籠には、客が使った絹のナプキンが山と積まれていた。いなくなったデイジー、つまりピーチィの代わりに、この娘が汚れ物を片付けているのだ。
「一人では踊れないだろ」
アーチは、メイドの手を取り、音楽に合わせてサルサのステップを踏んだ。メイドは、落とした籠を拾う暇も無かった。
「わ、私踊ったことなんですう」
チャチャチャ。
「つま先、土踏まず、かかとの順に体重を移動させて・・・筋は悪くないぜ」
アーチはニューヨーク・スタイルで二拍目からステップを踏む。
「この集まりは何の為なんだ?」
「よ、よく判りませんわ」
リズムに合わせて、お互いの身体が触れ合うくらいに近付く。アーチの左腕が、メイドの腰を自分の脚の間に引き付けた。
「あ、あの・・・」
「ジャン・カルロの縁故の者が多いようだが」
次のステップで顔を見合わせた時、アーチの口唇が、メイドのふっくらした唇に触れそうになった。
「に、日蝕が・・・」
ひっ、と若いメイドは声を上げた。バサァ、と黒い塊がメイドの頭に掴み掛かった。
(ぎゃっ)
鴉が、声を上げた。アーチは、銀色の大鴉を払い除け、素早く《キングコブラ・バニッシュメント》を抜いた。
(何を、するつもりだ)
「レディに向かっていきなり失礼だぜ。せっかくいい雰囲気だったのに」
フギンは樹上に避難すると、赤い目を光らせて、アーチを見据えた。
(・・・・・・)
「丸焼きにされたくなかったら、さっさと塒に帰るんだな」
(おしゃべり女め)
フギンは言い残して、飛び去った。
アーチはダンス・ホールのある建物を抜け、裏庭のいちばん北側にある通用口へ向かった。邸の外へ出る為だ。アーチが滞在中、唯一立ち入ったことがないのは、そこだった。
警備の男を麻酔銃で眠らせるのは朝飯前で、さりげなく壁際に立たせた格好で眠らせて置く。警備員が持つカード・キーでドア・ロックを外せば、建物の外に通じる路に出られるのだ。
「・・・・・・」
だが、警備員はカード・キーを持っていなかった。
「キーの在り処を教えてあげましょうか?」
アーチは、間髪入れない速さで、声に反応した。顔を見るまでもなく、女用心棒の声だ。アーチの両手は壁に、右膝はミスティの脚の間に入り込む。
「いやに、殺気立ってるのね」
ミスティは、低く喉を鳴らした。猫を思わせる上目遣いの大きな瞳が、ぬめぬめと光って、アーチの碧眼を捉えた。
今夜の女用心棒は、身体に食い込むばかりの、黒い鹿皮のボディ・スーツに、同じく黒いローハイドを素肌に直接着けている。踏まれると、失神しそうな踵の高いブーツ。そして、腰の辺りまで大きく切れ込んだビキニラインが、目の毒だ。
「アナタのお仕事は何?本分を忘れちゃいけないわ」
「オレに忠告してくれてるのかい?」
アーチは声色を静めて、問い返した。
「私はアナタが何を考えているのか知りたいだけよ。教えてくれたら、カード・キーを出してあげるわ」
ミスティは、高圧的に言った。壁に背中をぴったりと押し付け、剥き出しの内腿で、アーチの長い右脚を抱え込む。こちらが本業なのではないか、と思うくらいに淫靡で、巧妙な動きだった。
「オレの考える事は、お館様の命に関わる事だけさ」
ミスティは、息を呑んだ。
「トリルビーは日蝕までに死ぬ。ジャン・カルロはそう言ってるわ」
「それとあの鴉達はどういう関係があるんだ?だから、日蝕がどうしたっていうんだい?さっき、日蝕のことを言い掛けたメイドが襲われたぜ」
「私は只の用心棒よ。何も知らないわ」
「・・・ともかく、約束は守ってくれよ」
アーチは、壁に両手をついたまま、言った。無意識のうちに鼻翼が膨らんでしまう。ミスティの、噎せ返るような甘い体臭の所為だ。
「他に隠し事がなければね」
「キミがお館様を守っているのは、外部の暗殺者からでも、カルロスみたいな町の荒くれ共からでもない。ジャン・カルロの毒牙に掛からないようにする為だ」
アーチは、ミスティの青い瞳の中に暗い光を見た。
「キミに要求されていたのは、凄腕だって事だけじゃない。女が男を黙らせるには・・・。違いないだろ?」
ミスティは答えなかった。答える代わりに、しなやかな冷たい指先がアーチの喉を撫でた。アーチの一瞬の逡巡は、密着したミスティの胸元まで伝わった。
男の急所は何も金的だけとは限らない。だが、さすがに喉仏を潰すほどの凶行を犯す短慮は、ミスティには無かった。
「アナタみたいなタイプは長生きしそうもないわね」
「オレもそう思う」
「臆病なくらいでちょうどいいのよ。生きていく為にはね」
ミスティの両手が、アーチのシルクシャツ越しに下方へと這って行った。十本の指先が、衣越しにアーチの縒り合わされた鋼糸みたいに無駄の無い筋肉をなぞった。
「カード・キーは、私が失敬しておいたわ。探して御覧なさいよ」
そして、ミスティは自らボディ・スーツのジッパーを臍の下まで下ろした。
弾力ある水蜜桃みたいな乳房が、半ば以上露わになった。
胸の谷間、涙の落ちるところに重たげな銀製のロザリオがぶらさがっている。
化粧っ気のない整った顔に、眩暈するような悩ましい肢体。
ミスティは、アーチの首っ玉を引き寄せた。プルトニウム・コアみたいに危険な双丘が代わる代わる、アーチの固い胸に押し付けられて、せり上がる。
「どう。早く探したら?」
吐き出す言葉は冷たいが、吸えばすぐ、熱く応えてきそうな赤い唇が、アーチの耳元で蠢いた。
「じゃ、遠慮なく」
アーチは、くびれた腰を引き付け、自分の膝をきつく締め付けている、すらりとした腿の内側に、掌を滑らせた。
ミスティは、小さく喘いだ。囁くような低い声は、次の瞬間、声にならない呻きに交代していた。
《キングコブラ》の銃口が、まるで鎌首をもたげた蛇のごとく、ミスティの下腹部に押し当てられていた。
「・・・・・・!」
「どう。オレの黒光りする、ぶっといヤツは」
極めて下卑た言い回しで、アーチは恫喝した。ミスティは、瞬間的に呆気に取られた。
「・・・判ったわ。カード・キーを渡すから」
諦念を込めて、ミスティは頷いた。どっ、と冷や汗が溢れ出る。
「取り敢えず、物騒なモノをどけてよ」
ミスティの予測では、台詞が終わったと同時にアーチは股間を押さえ、もんどり打って廊下を転げ回っている筈だった。
が、突き出した左膝は、敢え無くアーチの右腕に抱えられた。両腕は諸共に後ろに回され、下腹部には、まだ《キングコブラ》が目を光らせていた。
「いい加減大人しくしてくれよ。マジでオレの実弾をぶち込まれたいなら、離れで待ってろ」
ミスティは、恥辱と恐怖に戦慄いた。銃のフロントサイトが、腿の付け根に押し付けられる。只の脅しではないらしい。
「・・・・・・」
息を呑んだまま、ミスティは観念して、カード・キーを抜いた。それは、ガン・ベルトの内側に貼り付けてあった。
アーチは、静かに《キングコブラ》を引っ込めた。
「じゃな」
右手を高く挙げ、アーチはミスティの身体を離した。
「アナタ・・・サイテーよ」
ミスティは火照った内腿を擦り、腰が抜けたみたいに壁に凭れ掛かるのが精一杯だった。
月は無い。
人一人が通れる程の小径の両側には、フェンスが張られていた。触れれば感電する、というようなものでは無かったが、高さ五メートルはゆうにある。
獣道を踏み固めたような地面を、アーチは慎重に進んだ。灯りは使い捨ての蛍光ライトのみ。半径一メートル程が青白い火に照らされていた。
小径が続く間は、アーチの身長と同じくらいに草丈が伸びて、周囲からこの秘密の場所をうまく隠していた。
町を呑み込んでいる砂礫の海が、嘘の様に思える緑だった。小径を抜けると、アーチは足早になった。潅木が紡ぐ小枝の波は、あーちにのしなやかな腿を打った。倒木の朽ち掛けた幹は、脛に当たった。
目前に、黒い岩盤に囲まれた過去の石舞台。雨も降っていないのに濡れた岩は、甘い水の匂いを放っていた。
ドルメンにも似た石の小部屋に、アーチは導かれるようにして、足を踏み入れた。黒曜石と思しき磐の坑道が続く。
「洞窟・・・?」
進むにつれて、不穏な感覚がアーチの神経を刺激し、脳幹を揺さぶった。鳥肌が立ち、手の甲に血管が浮き出した。昂ぶっていないにも拘らず、心臓が早鐘を打つ。喉元から飛び出しそうだ。
異様な寒気が肌膚を包み、頭部だけが熱い。無形の妖魔が手を触れてくるかのようだ。
覚えず、身震いした。
「う・・・この匂いは」
(・・・来タな)
不意に湧き出した話し声に、アーチは周囲を見回した。不気味な影だらけの黒い壁で、他には何も見えない。
「フギン?いや、ムニン?」
(若いノ・・・)
低い声が直接語り掛けるのは、アーチの耳の奥だった。
アーチは、瞳を凝らした。闇に慣れた虹彩に映ったのは、もやもやと大きな何者かの影だった。形は定まらず、ただぐにゃぐにゃと幻影が動いているように見えた。
(こノ町を出テ行けト言ったノに・・・)
「そいつは初耳だな」
アーチの肩先に、影が纏わり付いた。指先の毛細血管までが、縮み上がった。恐怖とは違う、恐怖よりももっと人間の本質を突くような嫌悪感が、アーチの神経を支配していた。
(・・・お前、あノ時ノ男ではなイな)
影が動いた。
「あの時?お人違いなら、自分で言うのも何だが、多分あんたが知っている男よりは数段男前だと思うぜ」
(何ヲしに来タ、美しイ若者ヨ。ここハ、お前ノいルべき所でハ無イ)
「お館様の主治医だ。屋敷の中にいて何処が悪い?」
アーチは、臆せずに言った。
(・・・お前ガ・・・)
「トリルビーを治療すると都合が悪い、とでも言いたげだな」
アーチは、思ったままを呟いていた。まるで、黒い靄に操られているみたいに。
(ふフフ、フふほほッ)
「ところで、あんたのその言葉は・・・パローレ・ソプラ・アンティコ(超古代語)?」
(ハっ。・・・そう言うお前ハ、タダ者でハなイな・・・ひあァ・・・)
低い声は、震えるように小さな奇声を発した。黒い靄は、忽ちアーチから離れていった。文字通り、靄が掻き消えるように。
不意に、視界が開けた。
あるか無きかの微妙な風邪に乗って、アーチの背中を押した、見えざる手の正体は、そこにあった。
アーチは、信じ難いほどの高さを持った空洞の中に、自分が立っている事に気付いた。中央に見える卓状の列石は、祭壇に見えた。
その奥に、匂いの源はあった。
底知れぬ深さと黒さを湛えた水。直径約二十メートルはある、ぽっかりと開いた空洞に、水は湧き出ていた。
「これが《聖水》の源だってのか」
こんな事があろうか。海抜二百メートルはあるこの渓谷の中で、アーチは列石の間に踏み込んだ。水源を赤黒く照らしているのは、岩盤だった。
岩盤の色といい、形といい、それはまるで赤紫に変色した胎盤にも似て、抉り出したばかりの心臓にも似ていた。
黒い水は、掌の上で無色に化け、アーチの喉を潤した。
「これは・・・」
アーチは瞠目した。
気配が動いた。
と、同時にアーチは泉に顔を埋めた。すんでのところで、回し蹴りの一撃を後頭部に食らうのを避けた。
「とんだご挨拶じゃないか」
アーチは濡れた顔を上げた。息付く暇も無く、第二弾が繰り出された。今度は仰け反るしかない。鼻先に待っていたのは、スティールを仕込んだごついブーツの先だった。
顔面への直撃を避ける為、両腕を隙間無く合わせ、アーチは半身を起こした。
ガツ、と鈍い音が冴えた空気に谺した。
「思ったより頑丈なヤツだな」
驚嘆した声の主は、ジャン・カルロだった。スティール・ブーツの衝撃をまともに顔面に食らえば、御陀仏だ。
しかし、ジャン・カルロは、優位に立っている者の強みをあからさまに誇示して、声高に笑った。
その浅黒い顔が、どす黒い怒りに隈取られた。こめかみに浮いた血管が波立っていた。
「どんな手を使ったか知らんが、あのじゃじゃ馬の口を割らせたのはお見事だ。だがここはガキの遊び場じゃない。とっとと帰るのが身の為だ」
ジャン・カルロの脇には、《ピンク・レモネード》の何れも大柄な男達が寄り添っていた。スティール・ブーツの大男が、歯茎を剥き出して笑った。ブラスターのガン・オイルはしない。飛び道具無しだ。
「その坊ちゃん面にしちゃ、なかなかのモンだったがな」
ジャン・カルロは、過去形で言った。
「そうやって、あんたが医者達を追い出したワケだ。尤も、戻ろうと思っても、身体が動かなかったんだろうがな」
アーチは、湧き出る哄笑を隠さなかった。
「この減らず口が!」
言うが早いか、スティール・ブーツの先が、アーチの脇腹を蹴り込んだ。命中すれば、肋骨が粉砕されるか、脾臓が破裂する。
アーチはごぼ、と血の混じった水を吐き出し、立ち上がった。男達の背に、一瞬、戦慄が走る。
「貴様・・・」
さしものジャン・カルロも、少しは面食らったらしい。
この若い医者は上背こそあれ、決して筋肉隆々ではない。むしろ、痩せぎすだ。だが、骨一つ折れていない。
「化け物め・・・」
ジャン・カルロは、アーチの膝に蹴りを入れた。よろめいたところへ、再び蹴り込んで、血に塗れた秀麗な顔を睥睨した。その高慢な鼻梁を、熱した鉄の靴底で踏み躙ってやりたい、と言わんばかりに。
「そういえば、貴様、銀十字軍にいたってな?軍医といっても、只怪我人を診るだけじゃなかろう?」
「どういう意味さ?」
アーチは、唇の端を拭った。
「最近、ここらでヴァティカンの捜査官が動いているという噂を聞いたが・・・」
ジャン・カルロの言葉が終わらないうちから、アーチは腹を抱えてククク、と笑い出した。
「このオレが?ヴァティカンの回し者か、と訊かれてハイと答えるどアホがいるってか?」
アーチは、構わず笑い続けた。ジャン・カルロの顔色が、どす黒く濁った。
「その頑丈な身体が何よりの証拠だ。上層都市のヤツらでなきゃ、ヴァティカンの犬以外に貴様のような強化人間など有り得ん」
ジャン・カルロは勝ち誇ったように糾弾した。
「こいつはオレ達とは違う、ランクの低い輩だ!強化人間など殺してしまっても構わん」
そう思うなら思え、だ。と、アーチは目を伏せた。何も知らない連中は、強化人間の身体能力を舐めている。だが、誤解を解く手間を掛けるほどの連中でもなければ、黙って殴られる方が楽だ。
「出来るモンなら、煮るなり焼くなり好きにしろ」
アーチが唆すまでもなく、《ピンク・レモネード》団のリンチが始まった。
「悪く思うなよ。御命令だ、キヒヒヒ」
斜視の小男が甲高く笑った。目の前の男を、口も聞けない程叩きのめしてしまう事が、彼等の務めだった。殺しも厭わない。
男達は、蹴りと殴打の応酬をさんざんアーチの全身に与えた後で、洞窟内の窪地に放り出した。
「ちくしょ、アバラがいってやがる」
アーチは、身動きが取れず意識だけがはっきりする中で、最悪な失態を確認した。《キングコブラ》が抜かれているのだ。
とはいえ、一つだけ予想違いがあった。てっきり、ジャン・カルロにオカマを掘られると踏んでいたのだが。その趣味は無かったらしい。
「大事なトコが無事で済んだだけ、マシか・・・」
《ピンク・レモネード》団が去って、半時間ほど経っただろうか。
アーチの身体は、ぐったりと麻痺したみたいに気怠かった。
物音一つ無い。
「おい・・・」
呼び掛けてみても、誰も答えない。超古代語を操っていた、あの声の主も現れない。一体、何だったのか。
岩盤には、ごく僅かな隙間があって、儚いまでに憔れた白い月の欠片が、南の空に姿をちらつかせている。その青白く細い光のみが、アーチの頬を象牙のように照らしていた。
「どういう事なんだ・・・」
追い出すなら、町の外まで運び出せばいい。徹底的に痛めつけるなら、嬲った挙句に死ぬまで叩きのめせばいい。お誂えに、ジュラルミンケースと白衣まで用意してくれているではないか。
にも拘らず、何故こういう形でアーチを放置しておいたのか。
その答えはじきに判明した。
オオオオオウウウウルルルウウ。
いつか聞いた不気味な泣哭が、アーチの全身を震撼させた。風は無い。何者かの呻きだ。それも、一人や二人ではない。泣き男が大勢集っているみたいだ。
アアオオオウウウウルルウウ。
声は近付いて来る。叫ぶ声に、また別の声が呼応する。四方から声が絡まり、ユニゾンは恐怖への前奏曲を奏でる。
空気がざわついた。アーチは鳥肌すら立たない。喉の奥が渇きに強張っていた。声も出ない。
来た。
地響きを立てて、青白い亡霊の塊が湧いてきた。それは、おぞましい現実となり、巨人の群れが暗闇の中から現れた。
薄紫色の風が、きな臭い油の香りを運んで来た。
リンゴン、リンゴン。
モジトの町の酒場という酒場が閉店だった。理由はどうあれ、安息日とされた日には、酒場の商いはおろか、家庭でも食前酒の一杯も出ない。前日の作り置きを食べるのみだ。
「女もいねえのか」
ジンは呟いた。街頭に立つ女も、この日ばかりは楚々と取り澄ました顔で、教会に行くのだ。
とはいえ、遊ぶ金も無いのが、ジンの懐の現状だった。奇特な娘が、声を掛けてくれるのを待つしかない。
老婆が、大通りを一人で歩いて行く。
「あんたも教会へ行きんさるね?」
「いや」
と、ジンは答えた。老婆は、首を捻る。
「オレは無神論者でね。エキュメニズム(諸キリスト教派一致運動)なら、参加しないよ」
「いつものミサじゃよ。今時、無宗教は流行らんぞ」
「流行で宗教なんざやるかい、ばーさん」
ジンは、老婆の背中を見送るだけのつもりだった。が、気が変わった。
酒を飲もうにも、酒場が開いてなきゃ、することもない。
ジンは、いそいそと老婆の後をついて行った。
ミサが始まる前に、ジンは教会の敷地を一回りした。墓地は小さく、ちんまりとした墓標が整列しただけのものだった。まるで、学習机みたいだ。
「墓参りの人間一人もいやしねえとはな」
ジンは呟いた。
アアオウ。
鴉が鳴いた。見上げた朽木の枝に、銀色の大鴉が止まっていた。バサバサ、と大音を立てて降りて来たのは、もう一羽の黒い鴉だった。
「あん時の・・・」
ジンは、思わず少年の姿を探した。
「何だ、まだいたのかって言いたいのかよ?」
ジンはサングラスの下から、鴉を睨んだ。銀の鴉は羽ばたきもしなければ身動ぎ一つもしないで、ジンを見下ろしていた。
「辛気クサイ野郎だな」
けたくそ悪い、と言わんばかりにジンは口腔に溜まった唾を吐き捨て、小石を拾った。鴉目掛けて投げ付ける。
カアァ。
哄笑に似た泣き声を上げ、二羽の鴉は飛び去った。
「だんまりを決め込みやがって。・・・いや、もともと鴉が喋るわきゃねえんだ。オレもどうかしてる。幻聴だ」
ジンは、自分に言い聞かせながら、墓場を離れた。
初め物陰から礼拝堂を眺めていると、ぞろぞろと見た顔が門を潜って来るのが見えた。
「《空腹亭》のオヤジに、あん時の客だ・・・」
尤も、《空腹亭》のオヤジといっても、兄ジャンニの方ではない。陰気な顔付きのマリオが、黙って礼拝堂に入って行く。神妙な顔付きで教会を訪れているのは、皆クロウ家派の人間なのだろう。
「お!」
ジンの視界を唐突に過ぎったのは、クロウ家の女用心棒の姿だった。礼拝堂の扉を押し開き、ミスティ・サファイアは信者達の中へと分け入った。
思わず、ジンは相好を崩して礼拝堂の窓にへばり付いた。
信者達の下手な賛美歌は、訛りだらけだ、オルガン伴奏もない。聞くに堪えないものだ。
誰もが、ミスティ・サファイアに注目した。とても、教会向きの格好ではなかったからだ。黒い軍用コートの下は、黒いぴったりとしたボディ・スーツ。剥き出しの腿が、艶めかしい。しかし、その足取りは将校みたいに大股で歩幅が正確だった。
ミスティが見詰めるのは、説教壇の神父だけだ。
神父ベリーニは、頃合を見計らって、両手を挙げた。
「主の祝福と尊い御心によって、結ばれている貴方がた」
「私も、アナタがたと結ばれているというの?」
ミスティは、徐に《パイソン・シスタームーン》を抜いた。寸分の違いも無いグリップ。セフティは予め、外されている。後はトリガーを引けば、ベリーニを昇天させる事が可能だ。
信者達がどよめいた。
「銃を下ろしなさい。ここを何処だと思っているのですか」
ベリーニは、聖職者らしい毅然とした口調を取り繕った。しかし、あの口髭はダミーだ。
「ぷ・・・」
ジンは、噴出しそうになった。
「教会に決まってるじゃないの。死人が出て、ここほど好都合な場所は他にないでしょう?」
ミスティは低い嘲笑を洩らした。ベリーニは、苦虫を噛んだような渋い表情を作っただけだった。
「私を殺しに来たというのか?」
「頭の悪い男ね。アナタの膝の上にあるモノをよこしなさい」
ベリーニは覚えず、肩を痙攣させた。若い大柄な助祭が胡乱げに、顔を覗く。車椅子のベリーニは、膝掛けを腿の上に載せていた。正確にいえば、問題のブツは、膝掛けと下位聖職者用短白衣の間にあった。
「何の事かね?」
ベリーニの傾げた首を潜り抜けて、357マグナム弾は祭壇の端に命中した。聖祭水差しが粉微塵になる。祭台は水浸しだ。信者達は、一斉に引いて行った。
「ドットーレ・ブールヴァルドのパウダーガンを返せ、と言っているのよ」
えっ、とジンは声を上げた。
不肖の相棒がどうかしたというのか。
「で、ドットーレ御本人は何処にいるの?」
「没道理な脅しはやめたまえ。私は何も知らん」
ベリーニは、角帽を直しながら、咳き込んだ。
ミスティは瞳を輝かせながら、《パイソン》のシリンダーを回した。
「お館様の命令だといっても?」
ベリーニは、言い逃れの手を失いかけていた。次の一手でチェック・メイトだ。
この虎の子のパウダーガンは、売れば五千万ダッシュは難くない、博物館でもお目に掛かれない代物だ。銃身にラテンクロスが描かれているところを見れば、然るべき所から出た逸品であることは間違い無いのだが、何故一介の医者風情がこんな物を持っているのか。しかし、何よりベリーニ自身の半身を不自由にした元凶がコイツなのだ。
その意味を含めて、ジャン・カルロから預かった《キングコブラ》。
「ああら、ホントにアナタが持ってたワケね」
ミスティの殺気に中てられた信者達は、蜘蛛の子を散らすように、一斉に後退った。
「その銃が、アナタに扱えるとでも思っているの?なら、トリガーを引いてみなさいよ」
ミスティは嘲笑いながら、挑発した。《パイソン》を握り締めたこの女、恍惚とした表情にさえ見える。
ジンは、思わずあんぐりと口を開けたまま、この光景に釘付けになった。ある意味、女がパウダーガンなぞ持っているのは、性的倒錯に近い。それに、何だ。この女になら、撃たれてもいい、と思わせてしまう気分は。
「まさか、ホントにシルヴァー・ブレットか・・・?」
ベリーニの顔面が朱に染まった。人差し指に力を込める。が、ダブルアクションのトリガーは、びくともしない。指が緊張の余り、吊っていた。
ベリーニは、仕切り直して、両の指を掛け、思い切り引いた。
ヅギュアアン。
弾は完全に明後日の方向に飛んだ。
派手にステンド・グラスが砕け、信者達は扉の向こうに逃げ去った。一刻も早く、殺伐とした場面からおさらば、という訳だ。
リヴォルヴァーはブレて、コントロールは無茶苦茶、強烈な反動で車椅子が滑った。説教壇から落ち掛けたベリーニを、助祭が支える。
チャンスとばかりに、ミスティは説教壇まで一気に詰め寄った。態勢を崩したベリーニの咽喉下に、《パイソン》の銃口を突きつける。
「次は脳天をブチ抜くわ」
ミスティの赤い唇が、静かな脅迫の言葉を吐いた。ベリーニは、瞼を閉じた。詰められたとあっては、最早打つ手も無い。しかし、パウダーガンは、右手から容易に離れようとしなかった。
震える手で、ベリーニは右手を剥がそうとした。
ミスティは慎重に、右手を差し出した。
その時である。助祭の男が、ミスティのコートの裾を引っ掴んだ。
ミスティは、助祭の大力に引きずられて、床に背中を強か打ち付けた。
「うッ・・・!」
その隙に、車椅子のベリーニは告解室の裏手から抜け出した。助祭は一瞬、ミスティを振り返ったが、俄に立ち上がる気配が無いと見ると、ベリーニを追った。
「大丈夫かよ」
扉を蹴り込んで、ジンはミスティに駆け寄った。
「大丈夫、ですって?舐めたコト言うんじゃないわよ。外でずっと高みの見物してんなら、さっさと加勢に来て欲しいわね」
ミスティは、腰を擦りながら、ジンを睨付けた。
「立場ってモンがあるだろ、お互いに」
「形式主義者ってキライよ」
ジンは、そう言われて面食らった。しかし、否定している場合ではない。
「で、アーチがどうかしたのか?」
助け起こすジンの手を不要だと言わんばかりに、ミスティは勢い立ち上がった。《パイソン》を拾い上げて、告解室の裏手に向かう。
「昨晩から行方知れずでね。治療がお手上げでドロンしちゃったのかも、ってあの気障野郎が言うからよ」
「ジャン・カルロ?」
「他に誰がいるっての?」
「ほー」
ジンは、鼻の頭を掻いた。
「アナタの相棒でしょ、えらく関心が薄いのね」
「よくあるコトだっての。ここへ来るまでも、あいつどっかのネエチャンとしけ込んでたんだからな。オレの意見に不服かい?」
「おバカ。ジャン・カルロにしてやられたに決まってるじゃないの」
ミスティは、溜息を吐いた。ほとほと呆れる連中だ。ジンといい、アーチといい。脳天気過ぎる。
ジンは、ミスティの小馬鹿にしたような表情を見て、言った。
「だが、オレもあいつも一応、パウダーガン使いの端くれだ。《キングコブラ》を放り出して消えるワケがねえ」
確信のある口ぶりだった。
告解室の裏手には、住居である民家と倉庫があった。ミスティは迷わず倉庫に走り寄り、力任せに扉を叩いた。助祭のような大男なら、いとも簡単に開くだろう。
一歩引いて、ジンは強かに扉を蹴った。
「でやあああ!」
派手な物音と共に、内側の新張り棒が折れ飛んで、扉が倒れた。煉瓦造りの壁に当たった扉は、あっさりと粉々に砕けた。
「空気の流れがあるわ」
ミスティは小暗い倉庫の半地下に降りていった。車椅子で階段を下りる術は、誰かに担いで貰う以外に無い。
やがて、生暖かい空気が身体に纏わり付いた。ぞくりとするような冷気もないのに、ジンとミスティの皮膚は総毛立った。
朽ちた木材の壁面からは黴臭い臭気が漂い、この地下が非常に湿度の高い場所であることを示した。水源が近いのかも知れない、とジンは思った。方向的に言って、クロウ家に近い所に教会はある。
「ところで、あんた・・・」
ジンはおっかなびっくりミスティに声を掛けた。ミスティは音も無く振り返る。
「私は、アナタの捜している人物じゃないわよ」
「はぁ」
「悪いけど」
察しがいいな、とジンは舌を出した。あっさりと否定されてしまったか。
「それにしても、いやーな雰囲気だよな」
ジンは呟いた。ガス・ライターを点ける。青白い炎が点り、申し訳程度に暗がりを照らした。じわりじわりと、胸の奥底から締め付けられるような不安感を煽る場所だ。
「いやーな臭いもするわ」
ややあって、天井が開けた。
灰色にくすんだ天蓋は、二人の影を黒く燻らせた。
「うわ」
「地下墳墓・・・?」
石畳の上には、棺が並んでいた。それも相当数の。棺に駆け寄ったのは、ミスティだった。恐れも無く、蓋を押し開ける。だが、中身は空っぽだった。棺の中には、真新しい血痕があった。
「どういう事?それに・・・」
ミスティがジンの方へ振り返ろうとした瞬間、黒い影が棺の間から踊り出た。助祭の、二百八十ポンドは下らない筋肉質の巨躯が、ミスティの動きを止めた。
やにわに後ろから羽交い絞めにされ、ミスティは成す術もなく、大男の両腕の中に収まってしまった。
ミスティは、《パイソン》のグリップの角で、助祭の首を打った。助祭は、よろめきながら、叫んだ。その拍子に、大男はミスティを掴まえたまま、倒れ込む。
「司祭様。今のうちにお逃げください!」
その声で、ジンは《ブラックホーク》を抜き放った。顔をあげた方向に、車椅子の影が見えた。ベリーニは、地下墳墓の奥に向かっていた。
ドグオオオン。
暗がりに強烈な反響だけを残して、火薬の臭いが立ち込める。
「こんなトコで撃たないでよ、バカ!」
ミスティは押し潰されて息を切らしながら、ジンを罵倒する。助祭の丸太みたいな腕は、ミスティのからだを離そうとしない。
「何するの・・・」
ミスティは、仰向けにされ、平手打ちを食らわされた。如何なじゃじゃ馬でも、女は顔を攻撃の対象にされると、防戦一本になってしまう。助祭はその理論を知り尽くしているようだった。
「何してんのよ。ベリーニを追いなさいよ!」
「あ、ああ!」
ジンは我に返った。慌てて、地下墳墓を進む。
「地獄に落ちろ、マストゥルバーレ(マス掻き男)!」
ミスティは口汚く罵り、唾を吐き掛けた。即座に、助祭の大きな掌が口を押さえた。
《パイソン》が床に転がり、シリンダーを軸にクルクルと回る。口腔を切ったらしく、ミスティの唇の端から生暖かい血が溢れ出す。助祭は、ミスティの気丈な横顔を眺めながら、長いブルネットを掴み上げた。両足は、大男の膝に組み敷かれている。下手に動けば、骨折を免れない。
ミスティは《パイソン》を取ろうと、必死に藻掻いた。助祭の腕が、ミスティの右手首を力任せに、押さえる。
「うあああ・・・!」
ミスティの咽喉から、絶叫が迸る。
それに被さるように放たれた銃声。
銃声一発が、大男の命を奪った。
圧力から開放された白い脳味噌が、一瞬にして数メートル吹っ飛び、地下墳墓の祭台の上に弾けた。文字通り生贄を供物とする、祭壇となった訳だ。
天蓋の小暗い灯りの下に、男の白皙が映し出された。
吐き気を催すような腥血と体液の海の中へ、アーチはゆっくりと進んだ。その右手には、護身用ベレッタ・モデル21Aが握られていた。
「・・・下衆共が」
アーチは、その一言を腹の底から搾り出すまでの間に、まだ熱いベレッタをローハイドのベルトに挿み込んだ。
ミスティは、漸く半身を捩って、のろのろと起き出した。
「ア、アナタ、一体何処に・・・」
言い掛けて、ミスティは口元を覆った。左手を腰にあてがい、助祭の死体を見下ろした長身の男は、幽鬼のように見えた。全身から立ち昇る、饐えた血の臭い。それに混じって、蛋白質の化学変化した悪臭が漂う。
「よう」
アーチは、力無い笑みをミスティに投げ掛けた。
「待ち切れなかったかい?」
立ちポーズを決める為に、左手を脇腹に当てているわけではなかった。そうしていないと、腹圧を免れた内臓が、裂けた傷口から躍り出そうなのだ。
「・・・・・・!」
一瞬ミスティは、自分の腕の痛みも忘れた。
第四章へ続く
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