『DIO・FIRE!』

 第三話
 〜不帰の砂漠のスクエア Il recluso deserto danza in quattro coppie
(前編)



 ひたすら、荒野を行く二人の男がいる。
 一人は己の生きる場所を求め、一人は己の死に場所を求めて。
 第一章 THE SIDESHOW TIME  サイドショウ・タイム

 エスト(極東)では三か月ぶりの雨だった。しかも、この砂漠地帯での降雨時間は短い。風呂に入る間もない素早さで、脱兎のごとく雨雲は過ぎ去ってしまう。
 通り雨に見舞われるという、その数パーセントに満たない確率に当った不幸者が、ここに二人いた。
 ホリー・ディプシーは、診療所の窓を次々と閉めて歩いた。ベッドが二つだけの小さなアムビュラトリオ(診療所)に過ぎなかった。五分と掛からない作業である。
 作業を終えたその足で、最期に戸締りを確認しに玄関に向かった時、ホリーは戦慄した。
「…!」
 目の前にずぶぬれの若い男が立っていた。かなりの長身で、ぐっしょりしているがここらでは見掛けないビオンディ(金髪)。しかも白衣を羽織っていた。
「あ、あなた!」
「悪いが、少し雨宿りさせてくれないかな?この土砂降りではバイクでも移動出来ないんでね」
 男は遠慮なく言うと、ずかずかと処置室の奥へと廊下を歩き出した。
「い、一体…!」
 言い掛けたホリーの言葉を遮ったのは、男の笑顔だった。
「オレは流しの医者さ。ここは診療所だし、ついでに薬なんかも分けてもらえると有り難いんだけどな。水が悪いとガスター系統がやっぱ重宝でね、すぐに売れてしまう。それとテトラサイクリンを」
 ホリーは、べらべらと捲くし立てる男の顔を見て、一瞬声を詰まらせた。
 鄙には稀な美男子ぶりだ。少々日焼けしているが、明らかに純粋の白人。少しも嫌味のない整った顔立ちで、天真爛漫とまではいかないが、古いヨーロッパ時代の映画俳優のような、健康と頽廃の入り混じったきらきらしさが滲み出ていた。
「入るよ」
 茫然としたホリーを他所に、男は書斎兼用の薬剤室へ入った。薬棚一つに、電子機器が並んだ殺風景な小部屋である。
 男はジュラルミン・ケースを事務机の上に置き、パソコンを取り出す。背後の薬棚は侘しいばかりだ。
「インムニタ・コンテニメント(免疫抑制剤)か」
 薬棚の中から任意に取り出した緑の小瓶には、そう書かれていた。
 男は、その小瓶を白衣のポケットに突っ込んだ。そして、濡れた髪を気にしながら、浴室へ向かった。
「シャワーを借りるぜ」
「お湯は今出ないんだけれど」
 タオルを持ったホリーが浴室に視線を遣った時、既に男は素っ裸になっていた。衣服を無造作に床に投げ出す。
「何時までそこで突っ立ってるんだい?」
 男の声に促されて、ホリーは慌ててタオルを差し出した。
 傍若無人ともいえる男の行動は、ホリーにとって腹立たしい物ではなかった。むしろ吉報だ。
「…じゃあ、あなたが?」
 男は答えるまでもないといった風情で、シャワーの栓を捻った。ホリーを見遣る横顔に、才気走った冷たいものが浮かんだ。
「温かいものでも用意するわ」
 ホリーはそれだけ言って、浴室の扉を閉めようとした。その細い手首を、男の手が掴む。ホリーは、迸るシャワーの水にずぶ濡れになりながら、男の腕の中に収まった。
「何をするのよ・・・」
「キミが温めてくれるほうが、オレは嬉しいね」
 ホリーは、ぼんやりとしたまま、男の体から匂う甘い香りを嗅いだ。とにかく、濡れた服を脱いでしまいたかった。

 世界は二分されている。
 大洋と大陸。北半球と南半球。昼と夜。男と女。持てる者と持たざる者。
 そして、チエーロ(楽園)とディアスポラ(荒地)。
 ディアスポラと呼ばれる荒野の町まちは、限られた資源を掘り尽くしてしまうと、住人総掛かりで大移動する。町の名前は残るが、ゴーストタウンだということが少なくない。地図もガイドも役に立たない。
 そうした町まちにも、ヴァティカンは駐在員を残しておく事がある。例えば、世界を巡回視察する特務巡検使との交信をとるためであり、間諜の動きを知るためでもある。
 ホリーは、一週間前にこのディアマントス近郊を、ヴァティカンからの派遣員が通過することを知らされていた。
 彼が、町唯一の診療所で本部との連絡をとらねばならない事も。それはヴァティカン・インクィジション(異端審問所)所長、グレナデン・サフィール枢機卿の言によっていた。
 電波状態の著しく悪いディアスポラでは、通常の電話も特定の場所でなければ利用出来ない。ましてカルタ・テレフォニカ(カード式電話)など。
 ホリーは、ポットにココアを入れながら、いましがた抱かれた男のことを考えた。
 男は、数日間風呂にも入ってないだろうに、不思議と良い匂いがした。人の顔立ちや声はさほど、人間の五感に訴えるものではない。体臭は、記憶に残る。
 男は派遣員といったが、いかめしい軍服を着ているわけでも巡検使のバッヂを付けているでもない。
「あの白衣…クローチェ・アルジェント(銀十字軍)のもの?」
 ヴァティカンミニステッサ(国防省)の五軍のうちの、聖堂騎士団がクローチェ・アルジェント(銀十字軍)にあたる。今は他の四軍共に解散、解体され、聖十字軍に統合された。
 男の白衣の左腕には、確かに銀色の腕章が貼り付いていた。
「それにしても、元軍医とはね…」
 ホリーは漠然とした疑念を抱きながら、ポットを揺すった。

「ごきげんよう、ドットーレ・アーチレリー・ブールヴァルド」
 落ち着いた女の声が聞こえてきた。極東から遥か数千マイルを隔てた、ヴァティカン科学アカデミーからの便りだ。
「やだなァ、あらたまった挨拶なんてよしてくださいよ。相変わらずお美しいな医局長」
 パソコン画面に映し出された女の顔に向かって、アーチはウインクして見せた。
 自分の師匠というべき人物に対して、この屈託の無さ。思わずカッサンドラ・ブルーネレスキ博士は、破顔してしまった。
「あなたの色男ぶりも健在だこと。何だか日焼けして、ますますセクシーになったじゃないの」
「医局長、ボクは親愛なるあなたの為にいつも自分の総てを磨き続けてますから」
 アーチは、自信たっぷりに答えた。
「ところで、例のサンプルは如何がでしたか?」
「ああ、ギガント巨人体の体細胞ね。特筆すべきところはなし。ただの肥大細胞よ。あなたの所見通りだわ」
 一月前に、ヴァテイカン科学アカデミー所属の医局へ向けてアーチが発送した物。それは、モジトのギガントから採取した体細胞である。
「生殖細胞も必要でしたかね?」
「その必要はないわ。環境調査局の水質検査もクリア。ウイルスは発見されていないわ」
「《聖水》はシロ、ということですか…」
 アーチは腕を組んだ。オリーヴグリーンの瞳が、一瞬黒味を帯びる。
 人間のギガント化―死後、体細胞が巨大化、硬質化し、別の生物として再生する。怪物化する現象。多くの学者の仮説では、ギガントウイルス(仮称)なるものが引き金で遺伝子の配列異常が起り、発症するものと考えられている。
 既に二十世紀後半から提唱されてきた《ウイルス進化説》は、定番となり、遺伝子病の基礎知識として誰もが知り得ている。
 ウイルスが宿主に別の遺伝子を運び、進化させる。この過程においてバクテリオ・ファージは、いわば突然変異体として進化に失敗したウイルスのことである。ギガント化も、病原体ウイルスの一種が原因だという。
 とはいえ、このギガントウイルス仮説の最大の欠点は、ウイルスそのものが発見されていないということだ。
「遺伝子のベクター(運び屋)であるだけの無生物、ウイルスそのものを水から単離することは困難。大腸菌なんかのバクテリアかプランクトンが宿主となっているに違いないと考えてみたんだけど」
 カッサンドラ博士は、言った。
「ところが、いなかったんでしょう?」
 アーチは、退屈げに前髪を掻いた。ふと、診療所には似つかわしくないベルガモットの香りがごく僅かだが、アーチの敏感な鼻粘膜を刺激した。
「では、私から質問するわ」
 カッサンドラ博士は、静かに赤い唇を開いた。しかし、その優雅な大ぶりの唇から紡ぎ出された言葉は、あまりにも淡々と流れる。
「あなたの考えだと、数千万年前の太古の水にギガントウイルスが存在したことになるのよ。恐らくは、その水を飲んだ過去の人間が大勢いる筈。彼らはギガントになったの?ウイルスのそもそもの出所は何処になるの?」
「おお」
 アーチは、パソコンの画面に向かって、両手を上げた。
「そう、矢継ぎ早に言わないで下さいよ」
 アーチは肩を竦めた。
「ギガントウイルスそのものが、水の中にいるとは思っていません。ウイルスは元から、人間の腸内細菌なんかに存在するんです」
「断言していいの?」
「ポリオウイルスもそうでした」
「そうだったわね。あなたには愚問だったわ」
 カッサンドラ博士は、アーチが二十二世紀末に再流行したポリオウィルスβに関する論文を書いていたことを思い出した。
「しかし、もう一つ問題が」
 アーチは身を乗り出した。
「死後、ギガント化するということがです。細胞分裂がなくなった状態で、つまり宿主の生命活動が停止した状態でウイルスが増殖することは有り得ないでしょう」
「その通りよ」
 カッサンドラ博士は、深く頷いた。その落ち着いた、年齢の割りには若々しい顔に緊張が微かに見える。アーチは、微笑を浮かべた。
「私自身はこう考えますがね。ギガントウイルスが活動し始めた人間は、何らかの要因でウイルスの数が一定数まで増殖すると、仮死状態に陥る。その後、すべての体細胞が巨大化してしまうまでウイルスは増殖。仮死状態になる要因は脱水症状かもしれません。細胞の巨大化に体液の量がついていかないんでしょう。解剖の所見では、脳は水分不足の為に萎縮しています。…問題は、一体何がウイルスの増殖を誘発しているか。あるいはヴィルレント(溶菌性化)させているか」
「で、あなたは水の方を調べろと?」
「ウイルスの存在ではなく、むしろ微量元素とか」
 眉間を押さえたアーチに、カッサンドラ博士は小さく呼び掛けた。
「《聖水》の一件は、法務省では解決事件とされているわ。これ以上の追究は医局では出来ないのよ」
「…はァ、まるでお役所なんだな、これが。いいでしょう、別をあたってみます」
「別?」
「あなたの好かない異端審問所のお偉いさんの、血縁ですよ」
 と、溜息を吐いたアーチは、やにわに丸椅子を蹴倒すと、白衣の下から《キングコブラ・バニッシュメント》を抜いた。
 357マグナム弾を擁する黒いリヴォルヴァーの銃口は、戸口に立っていたホリーの顎の下に当てられた。
 ガシャン。
 陶器の砕ける音と共に、ココアの甘い香りが立ち上った。
「……」
 アーチは、片足で薬剤室のドアを蹴ると、ホリーに顔を近付けた。
「立ち聞きを咎め立てするわけじゃない」
 ホリーの切り揃えた漆黒の髪に、アーチの吐息が掛かった。
「ここに、UP(国際警察)か国連軍のヤツが訊ねて来たな?少なくとも数時間前にだ」
「し、知らないわ」
 ホリーは、アーモンド型の黒い眼をアーチに向けた。
「気障ったらしい香水の匂いがする。ディアスポラでこんな香水をつけるヤツはいない。うえ(上層都市)の人間だけだ」
 アーチは、ホリーの眼差しを受け流した。ホリーは、思い切った行動に出た。《キングコブラ》の銃口に右手の人差指を押し当てたのだ。
「何処の生まれだろうと、患者は患者。それを診察するのが私の仕事だわ。たとえあなたの言う、UPか国連軍のヤツだとしてもね」
 沈黙が流れる。
 啖呵を切ったものの、内心アーチの反応を恐れていたホリーは、大息を肩で殺していた。
「…よく言ったじゃないか」
 アーチは《キングコブラ》を下ろした。
「同じ医者として尊敬するよ。キミ」
「ホリー・ディプシーよ」
 ホリーは漸く息を吐いた。
 アーチは、手早くパソコンをジュラルミンケースに片付けると、《キングコブラ》をホルスターに仕舞った。
「じゃな」
 ホリーは、早足で出て行こうとするアーチの背中を追った。
「何か他に言う事があるんじゃないの?」
「ああ?」
 アーチは肩越しに苦笑を返した。
「今度会った時は、夕食でもどう?キミ、なかなか魅力的だったよ」
「何言ってるの!」
 眉を吊り上げたホリーに、アーチは右手を振った。ドアが閉まる寸前、ホリーの待っていた答えが返って来た。
「悪かったね、ココア」

 黄金の滴りが、空から流れ落ちた。通り雨の後の、湿っぽい獣毛に似た匂いが、町を包んでいた。
 無人ガス・スタンドには、文字通り誰一人いなかった。
 ジン・スティンガーは、愛車《イケヅキCR‐X》を止めると、飛び降りた。
 色褪せたテンガロン・ハットのつばを弄りながら、ジンはガス・タンクのコックを開けた。滑らかな車体に映る西日の照り返しを、ジンは眩しそうに見つめた。
「およ?」
 ガソリンは、チューブから一滴も出て来ない。力任せに振ってみても、虚しいだけだ。
「そのガス・スタンドは壊れてるよ」
 通りの端から作業服姿の青年が、ジンに向かって声を掛けた。
 青年の脇には、小柄な老神父が寄り添うように佇んでいた。旧世界のいでたちに似た、だぶついた僧服だった。
 老神父は盲目らしく、両の瞼は皺の下に埋もれるように、垂れ下がったままである。
「壊れてるう?じゃ、ここからいちばん近い、他のガス・スタンドは何処にあるんだ?」
 ジンは、ブルー・ジーンズの腰に手を当てた。逆光にサングラスのフレームが照り返っている。
「んーと。五十マイル先かな」
 青年は、屈託無い笑顔で答えた。
「諦めるしかないぜ、兄弟」
 アーチレリー・ブールヴァルドがニヤリ、と笑った。アーチは《デアデヴィルXIX》のシートに跨ったまま、細長く伸びた両脚を持て余すようにしていた。
 何をぬかす、と言い掛けてジンはアーチを睨み付けた。アーチは黒いバイクのガス・タンクに肘を付いた。
「太陽電池バッテリーも三時間と持たない。ガスがなきゃ、お手上げってもんだろ」
 アーチは、おどけた風に肩を竦めた。
 無論、ガスといっても石油製ではない。原料は植物油か動物の脂を精製したものだ。あらゆる資源を掘り尽くした二十三世紀の現在、石油などという単語を覚えている必要すら無いのだ。
「いいじゃないか、ひとま一先ず歩いて行こうぜ。いい加減ケツの形が変わりそうなくらい、こいつで走ってきたんだから」
「置いてけってのか!」
「押して歩くんだよ」
 アーチは、柔らかい金髪を掻き上げながら小首を傾げた。オリーヴグリーンの瞳が、物憂く乾いていた。
 青年はその美貌を見て、覚えず顔を赤らめた。こんな整った顔立ちで、ケツと言う下卑た言い回しとは。
「…手前ェ、今度はその、ご自慢の長ーい脚の形が変わるぞ」
 ジンは忌々しげに相棒に向かって言い、革ジャンのポケットからマルボロを取り出した。素早くジッポ・ライターで火を点ける。
「あんた方、何処へ行きんさるね?」
 老神父がしゃがれ声で詰問した。まるで、二人の行き先を予見しているかのような口調だった。
「砂漠を通って、取り敢えず香港のチエーロ(上層都市)まで。特に当てがある訳じゃないが」
 ジンは、紫煙を細く吐き出して、老人を見つめ返した。老神父は、ややあって重々しい返答を持ち出した。
「いけん、いけんよ。それだけは。西の砂漠は《不帰の砂漠》と言うて、入った者は二度と戻って来られんのじゃ」
 ジンとアーチは、互いに顔を見合わせた。
「承知の上だと言っても、止めるのかい?」
 アーチは長い白衣のポケットに両手を突っ込んだ。
「あんた方も他の若者達と同じで、砂漠にあるモノがお目当てなのかのう…」
「じいちゃん」
 老神父の悲しそうな声を、青年が制止しようとした。
「やっぱり、あそこにはあるんだな、何かが。町の連中がバールで噂してたが」
 ジンは、咥えタバコのまま老神父に歩み寄った。老神父は、見えない両目でジンを見上げた。
「《不帰の砂漠》に向かった男の事は、知らないか?三日ほど前、この町のバールに黒いコートの男が訪れて、砂漠を渡る道を尋ねたと聞いた」
 青年が、黒いコートの男、という言葉に反応を示したのを、ジンは見逃さなかった。
「その男を追っているのなら、止めても仕方あるまい」
 老神父は、呟くように言った。そして、青年を促すようにして、先に歩き出した。
「どうする?もう行くか?」
 アーチの問い掛けに、ジンは首を振った。
「ピーチィはどうしたんだ」
「お嬢ちゃんを待つのか?何だかんだ言って、いい保護者っぷりじゃあないか」
 アーチは、心底愉快そうに笑った。ジンは厚めの下唇を突き出し、肩を竦め左頬に手を当てる。乾いた風の所為か、痛みを忘れた筈の三条痕が不思議と疼いた。
「るせい。ほっとくと、またあいつが騒ぎ出すからだ」

 旧中華人民共和国・広東省周辺。かつては千メートルの肥沃な平野を、広大な水田が占めていたこの地は、僅か二世紀半の間にコントロシオーネ砂漠という、不毛の土地に変化した。
 文字通り、ディアスポラの言葉でコントロシオーネ《捩れた砂漠》は、急激な大地の変動で生まれたという。
 何が砂漠を造形したのか、体験出来た者はとうの昔に皆、この世を去っていた。残るは今、沈黙の砂礫と風のみ。
「え?サングラスにテンガロン・ハットの長髪男と、長身で白衣の金髪男の二人組?…知らないな」
「目立つカッコの二人やねん。知らんか?」
「さぁ。いちげんの客は、目が潰れるほどいるからな」
 バルマンは、冷たくピーチィをあしらった。
 まだ子供だと思って、舐められているのかと感じると、ピーチィはむかむかした。
 白ダチョウを連れ、ピーチィは真昼間のバールを出た。
「アホンダラ!」
 振り返り、ドアを思い切り蹴り飛ばし、そそくさと駆け出した。
 町で一軒しかないという、このバールならきっと、二人が立ち寄っているだろうと踏んでいたのだが。
「ええ加減、ムカツクわ!ウチをほっぽって行くんやて、サイテーや」
 ピーチィ・フィズは苛々しながら、通りをのし歩いた。
「何で、ウチがトイレに行っとる間におらんよーになんねん!ガス入れてくるゥ?何でガス入れるのに丸二日も掛かっとんねん、アホ!」
 通行人は皆が皆一様に、見慣れない少女の方を振り返った。
 砂漠の町でダチョウを連れている姿は珍しくない。注目を浴びたのは、訛りのきつい独り言の所為だ。
 幾らアジア圏とはいえ、ラテン系混血人種が大半を占めるディアスポラでは、ポポロ・マリーノ(海の民)を自称する東洋系の少女は物珍しい旅人だった。
 ホット・パンツからすんなり伸びたピーチィの手足は、少年のものといっても過言ではないくらいに、肉が薄く細かった。
「失敬やわ。なんぼウチが可愛いからいうて、じろじろ見過ぎやで」
 ピーチィは、心ならずもどきどきしていた。自意識過剰になったらアカン、と自分の胸に言い聞かせる。
 ふと、足下を見ると、黒々と大きな影が後方から迫っていた。
「……え?」
 振り返って、ピーチィは絶句した。
 五メートルと離れてない後ろを歩いていた人物が、ピーチィの動きに合わせて立ち止まった。
 およそ身長二メートル半はあろうかという、スキンヘッドの大男だった。しかも、頗る付きで強面の。
 岩のように小高い獅子鼻を通り、頭部を斜めに横断する縫い目。猛禽類を思わせる灰色の瞳。全身はちきれんばかりの、鎧に似た筋肉に覆われている。赤い革のジャケットは、呼吸すればアンダーシャツごと裂けてしまいそうに小さく見えた。
 ピーチィはすぐさま、視線を集めていたのは自分ではなく、この大男だと悟った。
「あわわわ…」
 殆ど反射的に、ピーチィはその場を立ち去ろうとしていた。
「お嬢ちゃん」
 大男が、ドスの効いた重低音ヴォイスでピーチィに呼び掛けた。
「ウ、ウチは何もしてへんってば。堪忍や」
「慌てるな。何もあんたを取って食ったりしやしない」
 大男は厳つい顔に、強張った笑みを作った。
「あんたの探してる、テンガロン・ハットの男に興味があってな」
「ジ、ジンに何の用やの?」
 大男の目がキラリ、光った。
「ジン。ジン・スティンガーか?」
 ピーチィは、ハッと息を呑んだ。思わず口が滑ったという訳だ。
「やはりな…」
 大男の勝ち誇ったような余裕の笑みを、ピーチィは見上げた。鋼でなくば、白金と思しき歯並びが、剥き出しになる。
「こいつも、あのアホ二人と一緒や。一緒の匂いがする。とんでもなく血と硝煙の匂いが好きな、クレイジーや」
 ピーチィは、胸の内で叫んだ。背中に鳥肌が立った。
 大男は、靴底を踏み躙って、向きを変えた。三百五、六十ポンドはありそうな巨体だが、身のこなしは軽い。
「ジンに会ったら、伝えておいてくれ。アイアン・クロー(《鉄の爪》)ロブ・ロイが、地獄から甦って来たとな」
 ロブ・ロイは右腕を上げた。
 ジャキン。
 ジャケットの袖口から、鉄の爪が四本、飛び出した。薄い切先は黒光りし、長さ四十センチはあろうと思われた。
「……げ!」
 ピーチィは、二度目の絶句を味わった。
「こんなん、不合理な脅しや。恐過ぎ…!」
 遠ざかるロブ・ロイの大きな背中に向かって、そう叫んでやりたかった。あの鉄の爪さえなければ。

 日が落ちて一時間が過ぎた。
 何処から飛んで来たのか、蝙蝠の小さな群れが、ジンの頭上を翳めて行った。
 国境地帯である。旧台湾と、現中華人民共和国ディストリクト(特別行政区)を隔てる境界が、目の前だった。《不帰の砂漠》を越えれば、香港がある。
 尤も、ここを越えて香港へ行く者は、皆無に等しかった。
「かつてここが海峡だったって、知ってるか?」
 アーチが地平線を眺めつつ、言った。
 ジンはジャケットの下から、漆黒の中で鈍い光を放つ、大ぶりのパウダーガンを取り出す。シングル・アクション・リヴォルヴァー《ブラックホーク・ディオ・ファイア》。
「ああ。小学校で習った」
 小学校、という言葉はおよそ状況に不似合いな単語だった。ジンはアーチに並んで、地平線を見やった。
「環太平洋大地震の後に海底が隆起して、台湾島は大陸にくっついた。後に砂漠が残った、という顛末だが…」
 アーチの台詞が終わらないうちに、ジンは駆け出した。
「飛べ!」
 アーチが叫んだ。
 絶妙のタイミングで、ジンは垂直に飛ぶ。足下には、鋼糸よりも強かなレイ・ビームが張られている。触れればブラスターの熱の比ではない、超高熱が足首を切断する仕掛けだ。
「ウーノ・ドゥエ・トレ(一・二・三)のリズムで飛べ!」
 アーチは微かな光を見ながら、ジンに指示を送り、後を追った。単純に視力が良いというのではなく、通常の人間では見えない筈の赤外線などを、僅かながら肉眼で認知出来るというのだ。
 毎度の事ながら、ジンは相棒の人離れした能力を不思議に思い、同時に感謝する。
「着地はつま先だけにしろよ」
「一々、るっせえんだよ!」
 と、言いつつも、逆らう訳にはいかなかった。何しろ命が掛かっているのだ。クリスマス前に焼き鳥にはなりたくない。
「おおっとう!」
 ジンのブーツが白煙を上げた。砂地に足を取られそうになった。
走り出してから、まだ三分と経っていない。
 普通なら、ここらで国境警備兵の登場というところだが、そのような気配は微塵も無かった。
「トラップか。それとも、噂通りに《不帰の砂漠》の本領に任せるってえのか?」
 ジンは訝った。まだまだ、砂漠の入り口である事だけは確かだ。
「ラストだ!」
 掛け声と共に、ジンは砂を蹴った。最後のレイ・ビームを越えて飛ぶ。見上げた空に、銀の蜘蛛の巣が掛かった。
 否、蜘蛛の巣ではない。モリブデン鋼を細く縒り合わせた捕獲用ネットだった。忽ちのうちに、不覚の念がジンの頭を過ぎった。
 動けなかったのではない。動かなかったのである。アーチの指示を失った瞬間、身動ぎ一つも危険に変わったからだ。
「ジーン!」
 十数メートル南で、アーチが叫んだ。
 ジンは哀れ、鋼網に見事ラッピングされてしまった。
「イッラ・ディ・ディーオ(何てこった、神よ)!」
 アーチは巻き舌も高らかに、白衣の下から漆黒のリヴォルヴァーを抜いた。見えざる敵に銃口を向け、ハンマーを落とす。
 《キングコブラ・バニッシュメント》は、その主と共に、完全威嚇体制に入っていた。
 ぶわっと、白い砂埃が舞い上がった。煙幕だ。撹乱物質が混ざった煙に、アーチは噎せ返った。一時的だが、まともに浴びれば視覚を失ってしまう。特に目が見えれば見えるほど、過敏反応を呼び起こされる、細かなレシフェリン(冷光)が含まれていた。
 その中を黄色い光が数本錯綜した。
「閃光弾か!」
 ジンは煙の中で、トリガーを引いた。決して、闇雲では無かった。
 思わず伏せたアーチの残像を頼りの、発砲だった。
 ドズゴーン。
 二発目は、十五度西に上半身を捻る。
 ドズゴーン。
 砂の上に鈍い音が落ち、微かに血の匂いが風に紛れて飛んだ。二人の警備兵が、遠くで倒れた。
「アホたれ!オレを殺す気か!」
 アーチは半分笑顔を崩した表情で、立ち上がった。砂塗れの白衣を払う間も惜しく、アーチは長い前髪を振り乱し、《キングコブラ》を乱射した。
 ドウドウドウドウッ。
 ダブル・アクションの重いトリガーを、ものともしない指の力で、アーチは、三五七マグナム弾を立続けにはじき出した。
 星空の下に、空薬莢の流星がキラキラとさんざめく。
 警備兵は、姿を明らかにする間も無く、コマ落としのごとく次々と倒れていく。
「こっ、殺すな、バカ!」
 ジンは叫びながら、網の間から遠方を狙っていた。黒紫色の空の下に、人影が複数浮かんだ。パウダー・ガンにまるで臆することなく、影はジンとアーチに近付いて来た。
 ひゅるっ、と空を切る音が尾を引いて流れた。アーチの両腕を瞬く間に宙で金縛りにしてしまったのは、モリブデン鋼の網ではなく、インドの飛翔武器チャクラムに似た形状の手錠だった。
「な…!」
 手錠を投げたのは、厳めしいシルバー・グレイの制服と、長い防寒コートに身を包んだ、かなり長髪の、まだ若い眼鏡の男だった。男の頬には、緩い笑みが浮かんでいた。
「ウェルカム・トゥ・アゥワ・ボーダー(ようこそ、国境へ)」
 男は、訛りの無い見事なイングリッシュを高らかに喋り、両手を広げた。
 アーチは、口腔内に突然湧き出した唾を、砂の上に吐き捨てた。生理的に受け付けないタイプに出遭うと、自然と酸っぱいものが込み上げて来る。
「手荒い歓迎ときやがったな、色男。おおっと、自己紹介なんざうざってえモンは無しだ」
 ジンは《ブラックホーク》を構えたまま、若い男を見据えた。
「キミ達、なかなかの腕前だ。だが、国境規約は守って貰わないと、我われU Pの立つ瀬が無いのでね」
 男は、パキンと指を鳴らした。国境警備兵数名が忽ちの内に、ジンとアーチを取り囲んだ。言うまでも無く、兵士達の手には、マシンガン・ブラスターが抱えられている。
「…これで降伏しないといったら、砂漠で干物にでもされるってのか?」
 ジンは、漸く両手を下ろした。
「いいや。灼熱の太陽が上がる前に、ヘル・スコーピオン(闇サソリの毒)にやられるか、サンド・ワーム(砂泥鰌)の餌食になるのがオチだよ」
 男は冷ややかに応えた。
 ジンは砂の間で蠢いている黒い虫の陰を見た。尾を高く擡げた、掌に乗りそうなほどのサソリが、うぞうぞと活動し始めている。
「死にたくなければ…もう御分かりだね?」
 男の顔を見ずに、ジンは相棒の冷めた瞳を見つめた。アーチは両腕を上げたまま、一つ瞬きをしただけだった。

 鴉が黒い影を町の上に落とした。教会の尖塔に止まった鴉は、器用に腐肉を啄ばんでいた。何処から、その肉は運ばれて来たのか、誰も気に留める者はいない。
 教会は、例外無くディアスポラと呼ばれる地域の何処にでも存在した。
 ディアスポラ住人の九割方は、カトリック信者だった。否、カトリック信者のみが、ディアスポラに残っていた。
 世界に五十余りある、超近代都市。膨大な人口を擁するチエーロ(上層都市)は、カトリック以外、むしろプロテスタントの作った新しい国家の形と言えた。
 二十一世紀末、香港にチエーロが設置された時、紛争が起こった。
 ヴァティカンは、頑なにチエーロを肯定していない。
 楽園は無意味に創られる物ではない。
 ディアマントスを含む、この地方で唯一の法務局に、一週間ぶりの訪問者が来た。局員は皆、それまでめいめい読書に耽ったり、チェス・ボードを挿んで睨み合っていた。
 錆び付いた蝶番を鳴らして、その女が入って来た時、法務局はどよめいた。
 女は法務局という物騒で厳めしい場所を訪れるには、あまりにも若く美しく、魅力的だった。しかも、極めて堂々たる態度。
「バカーディ局長はいらっしゃるかしら?」
 女の、割舌の良いハスキー・ヴォイスが待合室に響いた。
「は、はいッ!」
 若い男の局員が答え、女の前に歩み出た。女の絶対的な威圧感は、誰何の余地を与えなかったようだ。
 黒い軍用コートの下の、同じく黒い鹿革のぴったりしたボディ・スーツに包まれたナイス・バディは、男女を問わず垂涎の的となった。長いブルネットを揺らし、長身の女は法務局の廊下を悠然と歩いた。
 まるで、軍服でも着せたら若い将校に見えるだろう。長い髪がなければ、美青年とも思える凛々しい美貌。
 若い局員は、時々女の方をチラチラと振り返った。
「あ、あのう…」
 女は両腕を胸の下で組んだまま、赤い唇を引き結んでいた。
「なあに?」
「今日は何の御用で、いらっしゃったんですか?」
 女は、むっとなった。
「アナタに用事は無いの。局長に用があると言っているのよ。余計な詮索は命を縮めるわよ」
 若い局員は、ビクリと肩を竦めた。自分とそう年齢の変わらないだろう謎の美女には、明らかに異質な雰囲気が漂っていた。
「局長、お客様です」
 局員はドアを三回ノックした。
「どうぞ」
 猟犬の唸り声みたいな返事が返って来ると、若い局員はドアノブを回した。女は、大股に歩いて局長室に入った。
 局員が下がると、女は軍用コートの紋章を見せ付けるようにして、それを脱いだ。
 口髭をたくわえたバカーディ局長は、女を見て一瞬瞠目した。この男並みに大柄な小娘が、巡検法務省本部から派遣されているエリートだとは、あまりにも意外過ぎた。
 だが、スーツの襟章は紛れも無い、純金のマスタングだった。
「お待ちしておりました。ミス・サファイア」
 それでも局長は恭しく、胸の前に手を当て頭を下げた。
「こちらこそ」
 ミスティ・サファイアは毅然とした口調で言った。オークの局長机の前にあるソファに、ミスティはどかっと座った。
「まず、お聞きしたい事があります」
 ミスティは、局長室を見回した。取り立ててどうという事は無い部屋だった。豪奢な作りでもなければ、オークの机も、最早何代もの局長が使い続けて、傷だらけの代物だった。
「ディアマントスで毎年、十数名もの行方不明者が出ているという報告が上がっていますわ」
 ミスティは、スーツの胸ポケットから、ミニ・ディスクを取り出した。局長机に歩み寄ると、おもむろにコンピュータにディスクを押し込む。
「御覧になって。これが国境査察にあたっている国際警察白書の報告です」
 切り替わったディスプレイ画面を指差され、局長は渋々覗き込んだ。赤い折れ線グラフが、星座みたいに画面に浮かんでいた。
「ここ五年間の行方不明、及び無断越境、侵入者の状況ですが。実際はこの数字の比ではないのでは?」
 ミスティはずばり、の質問をバカーディに投げ掛けた。
「何の事でしょう?ミス・サファイア。私にはさっぱり話が見えて来ないのですが」
 バカーディは首を横に振った。ミスティは、青い大きな瞳を動かして、局長の顔をまじまじと覗き込んだ。美しい顔に皮肉な笑みが押し上げられた。
「見えて来ない?ならば、その節穴みたいな目玉を大きくしてあげるわ」
 ミスティは、長い右脚を突き出し、椅子の上に乗せた。
 レッグ・ホルスターから《パイソン・シスタームーン》を抜くと、素早くセフティを外し、トリガーに指を当てる。
 銃口は既に、バカーディのこめかみ顳?に押し当てられていた。
「法務局が不法越境者を見逃しているというのなら、上に報告する義務が私にはあるのだけど…」
「と、とんでもない!」
 バカーディは慌てて、ミスティの冷酷かつ不敵な笑みから逃れようと、身を捩った。
 昔の記録映画か、或いは娯楽映画のリメイクでしか見た事がない三十八口径リヴォルヴァーが、自分に付きつけられている。バカーディは一瞬、現実を疑った。
「モデル・ガンではないのよ。私はニセモノは嫌いなの」
 ミスティは、バカーディの考えを読み取ったかのように言い、トリガーを引きざま、バカーディの後ろの窓めがけて、《パイソン》をスライドさせた。
 ガッシャアアン。
 木っ端微塵に砕け散る強化ガラスの破片が、バカーディの背中に降り注いだ。
 バカーディの心臓の鼓動が、一気に三倍速にはね上がった。
「何人も立ち入るな!法務局での特務巡検使の命は絶対だ。判っているな?」
 ミスティは、ドアの向こうで右往左往している局員に、怒鳴り付けた。
 気配で局員達が硬直するのが、すぐに判った。
「手っ取り早く言うわ。ここを二人の越境者が通らなかった?私が知りたいのは、それよ」
「わ、判りません。まことに申し訳ないのですが、町を行き来する者の顔までは」
 バカーディは首を固まらせたまま、言った。
「何の為の法務局なの?はん、役立たずね」
「…はっ、恥ずかしながら、申し上げますが。実務を行っているのは国際警察の国境警備部隊でして、私共は名前だけの法務局なのです」
 バカーディは恐れ入って、声を上げた。熱い銃口が再び押し当てられたが、最後だ。
「名前だけですって?…まあ、よくある話ではあるけど」
「国境警備部隊には逆らえません。何しろ、《不帰の砂漠》を警護している連中なのでして…」
 ミスティには、聞き覚えのある地名だった。
「ほう。警護とは、どういう意味なのかしらね」
 バカーディは引き攣った表情のまま、ミスティの質問に対する答えを捜していた。
「教えて頂けるでしょ?警備部隊長の名前くらい」
「…エグゼクティブ・インスペクター・スタンレー。若しくは《鉄仮面》のスタンレー。サー・キール・ロイヤル・スタンレー」
 バカーディは、緊張のあまり掠れ掠れになる声で応えた。

「ドットレッサ・ホリー・ディプシーよ」
 女医は、にこやかに笑みを作った。
 しかし、その笑みは何処か作り物めいているように、ジンの目には映った。
 目尻の吊り上がったアーモンド型の涼しい瞳。黒髪は顎の下で一ミクロンの狂いもなく切り揃えられていた。明らかに東洋系の血が半分以上混じっている。それも、中国系か韓国系の。
 何故か、それだけでジンはほっとした。
 物々しい国境警備施設の、無機質な感じはどうにも頂けない。しかし、東洋人の顔を見て安心を得られるのは、やはり自分の血の所為だろうか。
 二十五歳は越しているかも知れないだろうが、卵型の小さな顔はとても若く見え、肌は十七、八の少女と殆ど変わり無く張りがあった。
「まず、服を脱いで」
 ホリーは、静かに言った。
 ジンは一瞬、鼻白んだ。
「美人にそう言われると、脱がざるを得んな」
「身体検査に決まってるわ」
 ホリーは、にべもなく冷たい口調で答えた。
 所持品検査は既に終了しており、ジンとアーチはそれぞれ個別に小部屋に通されたのだった。
 ジンは、渋々ジャケットを脱いだ。ブーツを脱いでから、ジーンズに手を掛ける。
 どれもこれも、いい加減着古されていて、砂埃と汗が混じった臭いをさせていたが、ホリーは嫌な顔一つ見せず、ジンの脱いだ服を籠に放り込んでいった。
「洗濯でもしてくれるのかよ」
「検査の間にはね」
「そいつは有り難い」
「不潔にされると困るからよ。それと、衣服をもう一度チェックする為にね」
 またしても、ホリーは飽く迄、無感慨に事務的に言った。ジンは、あっという間に全裸になった。ホリーは、丸裸のジンを凝視するでもなく、無視するでもなく見た。
「サングラスもよ」
 ホリーはジンの顔から、サングラスを毟り取った。
「あなた東洋系ね、純粋の」
 童顔だとも、日本人だとも言わなかったが、ホリーの目は明らかにジンが純血日本人である事を見抜いているようだった。表面上の事項に関心が無いから言及しないだけなのか。
「…その頬傷もそうだけど、何故、身体の傷に形成手術を施さないのかしら?」
「傷?」
 ジンの身体は、見たところ五体満足で、言う事無しだった。とはいえ、十数年のプレミオーロ生活であちこちが怪我の名残を見せてはいた。
 脇腹の肉が抉れた痕、肩口の弾痕、右親指指の付け根の裂傷、左膝下の鉤裂き。細かいもの一々含めれば、枚挙に暇無いほど。
「傷が男の勲章だなんて、今時、流行らないわよ。その流行遅れも甚だしい格好といい」
 ホリーは本気で、疑問を抱いているようだった。
「アナタの相方は医者じゃないの?手術くらい、すぐ出来るでしょうに」
「あいつは病理と小児科専門でな。しかも、相棒からも治療費をふんだくろうってヤツだ。誰が、あいつに金なんか払って、手術して貰わにゃならねえんだっての」
「気の毒ね」
 と、ホリーはジンの手首をむず、と掴んだ。
「気の毒ついでだけど、痛いの我慢してね」
 ホリーは注射器のついた管を引っ張り出し、有無を言わさずジンの腕に突っ込んだ。
「あいでででで!」
「大袈裟ね」
 ホリーは、暴れるジンを睨め付けた。
 何で、身体検査なのに血液まで採取されるんだ、しかも素っ裸で。DNA検査の必要があるほど、ここの国境は厳重な警備なのか。
「キミのような医者が、何でここにいるのかと思えば…」
「国境越えする人間は少なくなくて、ね。本来は検死医なのよ」
 ホリーの瞳が訝しげに、間近でジンの顔を見上げた。
「頬の傷くらい取ったら?」
「いや」
 ジンは首を横に振った。
「こればっかりは、無理だな…」

 キール・ロイヤル・スタンレーは、手袋を脱ぎ、しなやかな両手で金属の重厚かつ無機質な感触に浸っていた。
 最大十・五インチバレルの銃身を持つルガー・ニューモデル・スーパー・ブラックホーク・レプリカ。通称《ブラックホーク・ディオ・ファイア》を実際に見たのも、手にしたのも初めてだった。
「恐ろしくシンプルな構造だ。かつ芸術的。相当使い込まれているようだな」
「……」
 ジンは押し黙ったまま、スタンレーから視線を逸らせていた。自分の愛銃を他人にべたべた触られるのは、自分の女を他人に寝取られる以上に、胸糞悪い事だった。
 命にも等しい愛銃を。
 後で必ず痛い目に遭わせてやる、気障なイングリッシュ野郎。ジンは思った。
「キミの顔に書いてある。オレのオンナに触るんじゃねえ、って?」
 スタンレーは、ジンのむっつりした横顔を、愉しそうに眺めた。
 ジンとアーチが警備部隊の拘束を受けてから、約二時間が過ぎようとしていた。
 無論、IDカードをはじめ、二人の所有物は総て差し押さえられ、保管室に放り込まれた。国境規約違反の拘束が解けるまでの、期間だ。
 そして、この特別室での尋問調査が始まった。
 中央に尋問用の長いソファ。その前に肘掛椅子。壁を背にした書記官が一人。
「危険物は無論、拘束終了後、本人立会いの上で廃棄される事になっている。さて、このパウダーガンの処置なんだが…」
 スタンレーは椅子から立ちあがった。国際警察の警視を顕すバッヂが、制服の胸ポケットに光っていた。
「エグゼクティヴ・インスペクター。いや、サー・スタンレー」
 呼び掛けたのは、さっきまで沈黙を守っていたアーチだった。
「そのキングス・イングリッシュ。貴方は、生粋の英国人であらせられるようで」
 アーチは含みのある言い方をした。形の良い唇だけが、薄い笑みを形作っていた。オリーヴ・グリーンの双眸は、むしろ嘲りに白く彩られている。
 スタンレーは振り返り、アーチを睥睨した。
「それが、どうかしたか?」
「いえ、別に。まさかまさかこんなド田舎で、ハイソなイングリッシュを拝聴できるとは思ってもみなかっただけですよ」
 アーチは明らかに揶揄をまじえて言い、脚を高く組み替えた。
「…ユーロ・コミュニスト(ヨーロッパ共産主義者)め」
 スタンレーはアーチの涼しげな表情を横目に、呟いた。
「ったく、反吐が出るぜ。ヴァティカン帝国には誰一人として、コミュニストなんかいやしないってのに」
 アーチは、唇の端を歪めた。スタンレーは、その言葉には取り合わなかった。針路変更だ。
「我われは、ヴァティカンの雇われ人。国際規約で承認されているプレミオーロなんです。あなた方にとっては、まあ、ディアスポラのゴミ掃除をやってくれる代理人、というワケですよ」
 アーチは、一つ一つ噛んで含めるような、口調で言った。
「成る程、キミがネゴシエイター(交渉人)の役回りをしているのか」
 ジンに比べて、見るからに食えない雰囲気のする、この若い医者の方が、理論的には遥かに手強いとスタンレーは見た。
「相棒はどうも世間ズレしてなくて、アドリブに弱いんでね。話は戻るんですけど、パウダーガン使いから銃を取り上げるという了見は、一体、如何なものですかね?」
「まだ、没収と決まった訳ではない」
「オレはともかく、相棒はパウダーガン無くしては食い扶持も困る状態でしてね。ヴァティカンからの、薄給も貰えない」
 ジンは、アーチの言葉に多少ムッとしながらも、聞き入った。さっさと発言してくれ、と思っていたのだ。
 時世や歴史に疎いジンとはいえ、旧大英帝国とユーロ共同体圏が過去数百年、互いに反目し続けている事くらいは知っている。
 つまり、イングランド人スタンレーにとって、イタリアン・フレンチのアーチは宿敵に近い。
「アンシャン・レジーム(旧体制)のコロニアリーノ(植民地主義者)め」「コミュニズム(共産主義)のレミング(烏合の衆)め」と、代理戦争をやり合ってもおかしくはない。
 そういう教育のもとで育った両人は、無意識のうちに対立するというものだ。
「兎に角、審査が必要だ。審査の結果如何によっては、返却か没収か」
 スタンレーは、ジンとアーチの座っているソファに向かって、ゆっくりと歩み寄った。縁無し眼鏡の奥から、酷薄そうな明るいアーモンド色の瞳が覗いた。
「キミ達はそれぞれ、実に、興味深い経歴の持ち主だ」
 スタンレーの言葉は、尋問の為の出鱈目では無い。その事は、ジン自身もよく判っていた。
「ジン・スティンガー。キミは、国を喪った純粋日本人だそうだな。そして、アーチレリー・ブールヴァルド。ヴァティカン国防省、元クローチェ・アルジェント軍医。御祖父は哲学者ガブリエル・ブールヴァルド。父上は遺伝子工学者ジャック・フィリップ・ブールヴァルドだったかな」
「今のオレは、ヴァティカン科学アカデミー研究員だ。じいさんやオヤジは関係無い」
「これは失敬」
 スタンレーは言い、くすんだプラチナ・ブロンドを揺らした。背中まである長い髪が撓った。
 とはいえ、国境を無断で越えようとしたのも兎も角、警備兵を攻撃したのは論外だ。もし警備兵に死者が出れば、確実に賞金稼ぎのライセンスは剥奪され、国際裁判沙汰になっているところなのだ。
「国境規約を犯したのは何故だ?」
 ジンは、膝を震わせた。ニコチンが切れ掛かって、苛々する症状が生じていた。
「迷子になったんだ、って理由は通じるのか?」
「笑止」
 スタンレーはすかさず、答えた。書記官は、どんな馬鹿馬鹿しい遣り取りでも一言も洩らさず、記録する。無言でペンを走らせている音が響いた。
「どアホ…」
 アーチは呟いた。両手首がベークライト樹脂で拘束を受けていなければ、ジンの頭を殴り倒しただろう。
「わーった、わーった。言えばいいんだろ?畜生め」
 スタンレーは、再び椅子に腰掛けた。
「まさか、《不帰の砂漠》にお宝捜しに来たとでもいうのか?在り来たりな答えでは、審査は通らないがな」
「お宝、ねえ。生憎だが、そんなウソ臭えモン要らねえな。オレが捜しているのは、黒いコートの男だ」
「黒いコートの男?」
「ああ。ディアマントスの町から、砂漠に向かって行ったというのを聞いてな」
 スタンレーは、縁無し眼鏡のつるを押し上げた。
「それは初耳だな。この五日間、砂漠を通った者は誰一人いない。勿論、空の上もだ」
「嘘ぶっこけ。ディアマントスから砂漠を抜けずに、どうやって西行するルートがあるってんだ?モグラみたいに、地下に穴掘って行くってのか?」
 ジンの道化た言葉に、スタンレーは小首を傾げた。
「兎に角、我われはキミの言うような男など見ていない。夢でも見ていたんじゃないのか」
「ざけんな!」
 ジンは勢い、ソファから立ちあがろうとした。だが、クッションが柔らか過ぎて、両手の不自由な状況では、不可能だった。スタンレーの、忌々しい股間を蹴り上げる事も出来ない。
「じゃ、手前ェ、シルヴァー・ブレットって名前に聞き覚えは?そいつを知らなきゃ、ポリとしちゃモグリだぜ」
「《神鎗》と呼ばれる、伝説のパウダーガン使いの事か?」
「伝説?伝説なんかじゃねえ!ヤツは現《神鎗》だ。間違いなく、生きてる。ヤツを捜してるんだ」
 ジンは、ブーツの先をバタバタさせた。
 スタンレーは、呆れ返った深い溜め息だけを残して、特別室を出ようとした。
「記録を忘れるな。ジャパニーズの方の精神状態は最悪だ、とな」
 スタンレーが部屋を出るのと入れ替わりに、警備隊員が四人入って来た。

 けたたましい警報が鳴り響いた。国境監視施設全域はおろか、国境警備隊の宿舎にも。
「緊急事態です、インスペクター!」
 女性隊員リンダ・アルバータインがスタンレーに駆け寄り、敬礼した。
「砂漠に侵入者が現れた模様です」
「何と、一晩に二回も国境破りとはな…」
 スタンレーは、さほど驚いた様子でもなく言った。
「先程の連中を見て、出動後なら組し易しと思ったのでしょうか?」
「我われが、そう甘くない事を教えてやるといい」
 スタンレーは静かに、リンダを下がらせると、特別室にとんぼ返りした。
 隊員達は、再び特別室を出て行った。無言のうちに、スタンレーは彼等を指揮していた。
 ジンはスタンレーの顔を見るや、哄笑を露わにした。
「お客さんだな」
 スタンレーは、黙ってモニターのスイッチをオンにした。ソファの前に現れたスクリーンに、灰色の砂嵐が映った。
「サイド・ショウ・ダウンだ」
 スタンレーは言い、肘掛け椅子の手摺に腰を掛けた。
「キミ達も観ておくといい。滑稽な寸劇だ」
 スクリーンが映し出したものは、砂漠に現れた一人の大男だった。
 男の、鎧みたいな全身からは、煙が上がっていた。レイ・ビームのロー・キックをたっぷりと受けたらしく、下半身を覆う革のパンツはずたずたになっていた。
 音声はカットされている。
「あれだけの傷を負いながら、立っていられるとはな…」
 スタンレーは、感心して呟いた。
「殺人光線をまともに浴びるなんて、只のアホだ」
 アーチは、鼻に掛かった笑いを洩らした。
「普通の人間は、キミのようなフォーティファイド(強化人間)の、化物じみた能力は持ち合わせていないというものだ。尤も、赤外線が見えたところで、我われからは逃れられんよ」
 スタンレーは、アーチに向かってたっぷりと応酬した。
 画面の中では赤い光線が錯綜していた。警備隊員の放つブラスターの熱線だった。
 既に、臨戦体勢の現在、レイ・ビームは遮断されていた。
 大男は、見掛けに寄らず敏捷な動きで、ブラスターの攻撃を交わしていく。
「掠りもしねえな」
 ジンは、何気なくスクリーン狭しと暴れる、男の動きを追っていた。カメラの望遠レンズが曇っているのか、わざとそういう画面にしてあるのか、男の顔はハッキリしない。無論、同じ制服の隊員達の区別も付きにくい。
 しかし、既視感というやつか。
 逸らそうとしても、目が離れない。
 男の動きのリズムには、見覚えがあった。何処かで見た、あの動き。脳髄の奥を揺さぶり、忘れ掛けた記憶を呼び起こそうとするかのように、男は動き続ける。
 まるで、ジンが見ているのを意識しているかのように。
「…ボクシング」
 ジンは独りごちた。蜂がダンスを舞うように旋回し、繰り出すキック。また、反対に旋回し、繰り出すパンチ。
 大男が繰り出したのは、只のパンチでは無かった。
 男の手指から伸びた爪は、完全に警備隊員の咽喉を貫通していた。声にならない叫びを上げ、隊員は砂の上に屑折れる。カメラが偶然、隊員の真っ赤に染まった傷口を、アップにした。
「アイアン・クロー…!」
 ジンは、咄嗟に叫んだ。
 男が右手に付けている武器は、《鉄の爪》だった。ジンの左頬が引き攣った。激しい痙攣が片頬の筋肉だけを、小刻みに震動させていた。
「あの男、知っているのか?」
 アーチは抑揚の無い声で、訊いた。
 ジンは、歯の根をガチガチと震わせていた。恐怖の為ではない。頬の痙攣で、上手く喋れないのだ。
「…ロブ・ロイ。《鉄の爪》のロブ・ロイだ」
 ジンはやっとのことで、大男の名前を発音出来た。
「ヤツめ、生きていやがったか…」
 ジンは苦笑した。冷や汗がどっと額に噴き出した。頬の三条痕が、熱を帯びたかのように火照った。
 スタンレーは小型マイクを拾い上げ、声の限り叫んだ。
「やめろ!やめさせろ!やめさせるんだっ!」
 画面では、スタンレーの絶叫も虚しく、血飛沫が上がっていた。音も無く、カメラに血糊がべったりと貼り付いた。
「滑稽な寸劇だな…」
 別段、クローズ・アップされた殺人劇が面白いのではない。《鉄仮面》スタンレーも流石に動揺した、というのがアーチには可笑しかった。
 最早、特別室でスクリーンを見つめているのは、飽く迄も冷めた距離にいる、アーチの左眼のみだった。
第二章へ続く

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