第三話
〜不帰の砂漠のスクエア Il recluso deserto danza in quattro coppie〜
(前編)
第二章 WE ONLY PASSED EACH OTHER 我々はすれ違いのイキモノ
一週間前。
ローマ市内・ヴァティカン市国。
城壁に囲まれた、わずか四十四ヘクタールの面積の極小国家は、一九二九年のラテラン条約以来、この形を貫き通して三百余年。
例えば、詩人は言うだろう。
「おもちゃの王国」と。
だが、その実は地球の大半ディアスポラを掌に収めた、巨大国家の首府だった。
教皇宮殿から視線を移すと、サン・ピエトロ寺院のイル・クッポローネ(クーポラ)が目に入る。クーポラを望む北側に行政庁はあった。
行政庁の地下に、その部屋はあった。
会議を終えて慌しく、《鏡の部屋》に入って来た壮年の男は、後ろ手に扉を閉めた。
「お久しぶりですわ、おじさま」
ミスティ・サファイアは、ブーツの踵を付け、恭しく敬礼した。
「おお、アルテミスか」
と、答えたのは、グレナデン・サフィール・カルディナーレ(枢機卿)。鬼所長と呼ばれる、インクィジション(異端審問所)の長でもある。
ラテン十字に四枚の翼を意匠とする巡検法務省の紋章。背中にそれが大きく標された制服姿の姪は、化粧気も殆ど無い。妙齢の女の美しさは漂うが、仕草や表情は並みの男よりも凛々しい、と枢機卿の目に映った。
「堅苦しい挨拶はいい。半年振り…だったかな?」
「七ヶ月、お会いしてませんでした」
ミスティは仏頂面を提げて、伯父の前に歩み出た。二人並べば、ミスティの方が僅かに背が高い。
「いや、お前がここに来たという事は、あの男に遭った訳だな」
「…それは、ドットーレ・アーチレリー・ブールヴァルドの事ですの?」
無論、とグレナデン・サフィールは得意気に頷いた。
「フランス系の変わった名字ですわ。もしかして、先に教皇報道秘書だった東洋哲学者ガブリエル・ブールヴァルド卿の血縁ですか?」
ミスティは訝った。
「唯一の内孫だよ。父上は、サイバノイド(人工生命体)研究の第一人者、生物遺伝子工学者ジャック・フィリップ・ブールヴァルド。彼自身は、カッサンドラ・ブルーネレスキ博士の秘蔵っ子でね。十六歳で博士号を取得したディ・ジェニオ(神童)だ」
グレナデン・サフィールは、ミスティの怪訝な顔を見た。
「医局長の?」
ミスティの表情が、一瞬あどけない少女の顔になった。
カッサンドラ・ブルーネレスキ博士といえば、ヴァティカン科学省医局長であり、アカデミー専任教授でもある女性科学者。病理学では一人者である。
「初耳ですわ。…でも、彼は自ら《レミンカイネン》(再生促進型強化人間)だと言っていました。医局長が御存知無い事はない。まさか、そんな事が有り得るんですの?」
ミスティは、焦燥を隠しながらも、淡々と言葉を続ける。
「《レミンカイネン》など、上層都市にも存在しませんわ」
「そうだ。《レミンカイネン》などいない」
プロテスタント国家の擁するチエーロ(上層都市)といえども、遺伝子工学の純然たる成果、強化人間の存在を明らかにしていない。UN(国連軍)には、強化人間のみで構成された特殊部隊があるというが。
「まして、超倫理的な科学主義を捨てた筈のヴァティカンが…」
「お前の言う通りだ。表向きはな」
グレナデン・サフィールは、低い声で答えた。二の句は、叡智の塊とも言うべきこの枢機卿の口癖のような台詞だった。
「しかも、東洋哲学者の孫が《レミンカイネン》だなんて・・・」
ミスティは口篭もった。
枢機卿は頭を振り、破顔した。話の核心に触れる言葉は発しないらしい、とミスティは読んだ。
「ところで、美男は心ばえが悪いのが相場だが、あの男は例外でな。なかなか見かけによらず好い男だろう?」
「ええ、それはそれは。しかも、世界遺産級のポジティブな思想の持ち主ね」
ミスティは、かなり遠慮深く皮肉を言ったつもりで、黒い眉を顰めた。
「ハハハ。あの男に何を諌言しても無駄だぞ」
「でも、おじさま。そんな下らない話の為に、私を呼んだ訳ではないでしょう?」
「用件を早く言え、というのか。まったく、無愛想なことよ」
「おじさま直々のご教授のお蔭か、私の無愛想はおじさま似だと、母がよく言ってましたわ」
法務局を出たミスティは、軍用コートを羽織った。
神経質な伯父貴の顔を思い出している。
「何故ヴァティカンまで呼び戻しておいて、またこの国境くんだりまで行けと?他にも巡検使はいるというのに。おじさまの考えることはさっぱり判らない」
ミスティは、濃い眉を顰めた。
「それもまた、あの非常識で無鉄砲な…一言でいえばバカ二人組の為なんかに、何で私が」
そして、ぶりぶりと歩き出したミスティの背後を、誰かが尾行していた。ミスティが歩けば、背後の気配も動き、止まれば気配も静まる。
しかし、それを尾行と呼ぶには、あまりにもあからさまで、稚拙だった。
「お嬢ちゃん」
ミスティは矢庭に、体を百八十度回転させた。
ピーチィは、息を呑んで立ち止まった。
咄嗟のことで、ピーチィは言葉に詰まってしまっていた。ちゃんと台詞も考えていたというのに。ジンの馬鹿が感染ったとしか思えなかった。
隠れる場所も、助けてくれる通行人もいない。
「アっ、アンタを追って来たんとちゃうからね!」
ピーチィは、恫喝のつもりで言った。右手には、催涙弾を装填したモデル・ガンが握り締められていた。
「法務局から銃声がしたから…!」
「ジン・スティンガーだと思った?それは残念だけど」
ミスティは、ニッコリと微笑んでピーチィに手を伸ばした。右手を素早く掴み上げる。動けば関節技が、ピーチィの腕を軽くへし折ってしまうだろう。
「あいたたたた!何すんねん、このビッチ(売女)」
「子供はそういう言葉は使わないの!イホ・デ・プータ(この売女)…こう言わないとね」
ミスティは、ピーチィの右手からモデル・ガンを取り上げた。ピーチィの頬に押し付けられた、弾力ある二つの膨らみが、少女から殺気を奪った。
「う…」
場数が違いすぎる。いや、場数だけでなく全てが。ミスティの全身からは、香水の甘くエキゾチックな香りが馥郁と漂っていた。しなやかな雌豹を連想させる匂い。
ピーチィは自分が悲しくなった。
「あんまりや、アンタ。アンタの所為でウチら《ベイビー・フィンガーズ》一家は離散になってもーたんやで」
ピーチィは半べその顔を上げた。茶色い瞳が、複雑な感情を込めてミスティを見据えた。
「仕方無いわ。それが私の仕事だもの」
ミスティは静かに言った。
「私でなければ、いずれ他の誰かが査察に入ったわよ。世の中そういう構造になっているのよ、悪いけど」
「うううううーッ」
ピーチィは絶句した。腹が立つのか、自己嫌悪になったのか判らなかった。
「落ち着きなさいって。私にもアナタより少し上くらいの妹がいるのよ。生意気な年頃なんだから」
「アンタの妹と一緒にすんな」
ピーチィは奥歯を噛み締めた。ミスティは微笑を浮かべたまま、ピーチィの手にモデル・ガンを戻した。
「ところで、アナタがここにいるってことは、あの二人も近くにいるって事でしょう?」
ピーチィは首を横に振った。
「あいつ等、ウチを置いてばっくれてもーたんや。多分、国境までは行っとるような気もするんやけど…」
「国境?また偶然だわね。私もそこに用があるのよ」
ミスティは軍用コートの裾を翻した。
ヒースの咲く丘。ディアスポラにこんな潤った地域があったのかと思うと、ジンは物悲しい心地で胸が満たされていくのを感じた。
若くて恋をしていることは、とても素晴らしい。
このなだらかな丘陵を何時までも眺めている事と同じくらい、素晴らしい。たとい仮令、現実が真っ黒な墓場だとしても。
棺桶に半身突っ込んだままのオレは、どうなる?オレの七年間は。
ジンは短い三分間余りの時間に、限り無い回想に耽った。
「待たせたな」
ロブ・ロイの声が響いた。
《鉄の爪》が右手から伸びていた。切先は僅かにカーヴを描いていた。捕えた獲物を逃がさない、ライオンの爪。
「ちっとも、待っちゃいないぜ」
ジンは出来る限りの大言を吐いておくことにした。生きているうちしか、喋れないのだ。
「…良い面構えだ」
ロブ・ロイは、破顔した。
「だがお前、生き延びるつもりはあるのか?」
そう訊かれて、ジンは口篭もった。考えた事も無かった。というより、むしろ銃を握るときは何時も、最悪のことが真っ先に頭に浮かんだ。
最悪。それは、デッド・エンド。アーメン。
それ以外に何を思うというのだ。都合の良い事ばかりを考えていたのでは、本当に御終いだ。
「死相が出ているぞ」
銃声が薄暗い開拓地に轟いた。マグナム弾の炸裂音は裂け目の入った岩壁に反射する。
ロブ・ロイの身体はゴムマリのように、軟らかく撓って、弾丸を避けていた。若かった。
ジンはもっと若かった。判断力に欠けるところは、若さの所以だった。
ロブ・ロイは、ジンは二発目のトリガーを引く迄の僅かな時間に、殆ど条件反射的に懐に飛び込んだ。コサック・ダンサーが舞うように力強く飛び、強靭な赤い筋肉に覆い尽くされた体が、それこそ弾丸さながらに、ジンの上半身にぶつかった。
「ぐあああああ!」
血飛沫が、ジンの利き目に撥ねた。
ジンの左頬を抉った《鉄の爪》は、空気を裂いて唸った。顔面といい胸元といい、血塗れのまま、ジンは片目を開け、サイトを絞った。
躊躇いなく、《ブラック・ホーク》のトリガーは引かれた。
ドグアン。
弾はロブ・ロイの脇腹に命中した。完璧に失策だった。ど真ん中、胸のど真ん中を狙っていたつもりだったが、片目のサイトで狂ってしまったのだ。
八つの時にパウダー・ガンを両手で握って以来、八年間。顔に傷付けられたのは初めてだった。
「手前えェ!」
ジンは、三発目を放った。弾丸は《鉄の爪》の二本を吹き飛ばした。
死相が出ているぞ。死相が。
ジンの頭の中を、ロブ・ロイの言葉が呪いのように駆け巡っていた。
再び、《鉄の爪》はロブ・ロイのダンスに合わせ、ジンの肉体を串刺しにした。今度は左太腿だった。神経が千切れる程深く、食い込んだ《鉄の爪》が引き抜かれるまで、ジンは生きた心地がしなかった。
「ああああああ…!」
ジンはよろめきながら、グリップを直すのに精一杯だった。脂汗で、右掌がずるずると滑り、木製グリップと銃身の隙間が薄い皮膚に噛み付いた。
「どうした、それまでか?」
ロブ・ロイの勝機が目の前に見えた。後一回、死のステップを踏めば、確実に《鉄の爪》はジンの心臓を抉り取る。
ジンのイメージは、既に自身を殺していた。鮮血を噴き出しながら、草花の上に倒れる自分と、心臓を鷲掴みにした勝者ロブ・ロイの顔が。
何でこんなところで?何でこんな麗しい場所でオレは死ななきゃならんのだ?
オレの死に場所はここじゃない。
ジンは猛鬼のように唸り、ハンマーを起こした。
「ジーザス!」
叫びになった祈りの声に、四四マグナム弾の悲鳴が被さった。
ロブ・ロイの巨体が後方に吹っ飛んだ。二発のフルメタル被甲弾を真っ向から浴びれば、生身の人間は元の姿には二度と戻れまい。
ジンは、左足を引き摺りながら、ロブ・ロイにとどめをさす準備をした。
処女弾をシリンダーに装填する。熱い銃身に触れても、温度を感じないほど、両手は血が煮え滾り、アドレナリンが暴発していた。
ロブ・ロイの下腹部と鳩尾に一発ずつ並んだ穴から、どっと血液が流れ出してきていた。
「引導だ」
ジンはロブ・ロイの額に銃口を向けた。キリキリッ、とシリンダーが回転した。まだあどけなさを残したジンの顔が、何かを堪える苦痛に歪んでいた。
「必ずここに当てろ。楽にしてやるには、そこしかない」
師匠の冷徹な言葉が甦った。ジンは片目を瞑り、再びトリガーに指を掛けた。
「パウダー・ガンを握って以来、オレが生きたい、と思ったのは、その時が初めてだったと思う」
ジンは、左頬を撫でた。敢えて形成手術を施さなかった三条痕に触れる。
独房と呼ぶには、清潔過ぎるその部屋は、隣同士の壁が薄いのが唯一の欠点だった。公共機関がこういう所で金をケチっているのは、今に始まった事ではない。
光が射すのは、天井にめいいっぱい寄った小窓のみ。扉は強化防弾ガラス製で、オートロック・システムだった。決まった時間以外は、規約違反者は部屋を出られない。
結局、国境警備隊の精鋭は、ロブ・ロイを取り押さえることが出来なかった。
ロブ・ロイが残したものは、施設の壁面にあった。
I'm back!Bro.(戻って来たぜ、兄弟。)
この血文字だけだった。現れた時と同じように、ロブ・ロイは忽然と姿を消した。スタンレーが現場に急行した時は、巨体は砂漠から既に遠ざかっていたのだった。
「最早、何でロブ・ロイとやり合ったのか、よく覚えちゃいねえんだ」
ジンは壁に向かって、独りごちた。
「稼がなきゃならんかったからだろうとは思う。確か、あいつは少ないが《賞金首》だった」
頭をぼりぼり、と掻く。
「仕留めた時、確かに額を撃った。それは間違いない。だのに、何であいつは生きていたんだ?」
「…さあな」
壁越しに、アーチが答えた。
隣合う部屋は左右対称になっていた。アーチもジンも、ベッドの上で、見えない相手に向かって喋っていた。
「オレは化け物研究家じゃないぜ。一度死んで、生き返った人間の事は判らない。本人にでも聞くんだな」
アーチは、ベッドの上に仰臥していた。クッションの下に腕を回し、脚をクロスさせたまま、考え事に耽っていた。
今回のように警察に拘留されることも、今まで無くは無かった。
ところが、今のジンは妙に落ち着きが無い。その理由はあの《鉄の爪》の男の存在以外に何者でも無い、とアーチは感じていた。
「…お前は考えた事ねえのか?銃を握った時、自分が死ぬかも知れないってよ」
ジンは、ベッドの上に胡座を掻いた。
「全く無いとは言わないが、オレの頭はお前と違って、根が楽観的に出来ているからな。考えてる暇があったら、撃つ」
アーチは続けた。
「オレは自分を守る為にのみ、パウダー・ガンを使い始めた。自分の身を守る必要はあっても、誰かを殺す為じゃない。結果的にはどうあれ、目的はオレ自身が生きていく為だからな」
「医者のくせにひでェ野郎」
アーチは、軽く瞼を閉じた。ジンは、白い壁を見つめた。
それは詭弁じゃねえのか、とも思ったが反論してもしょうがない。
「モンゴロイド。お前のケツが青すぎるんだよ」
「……ふん」
「で、お前もし、アレ没収されたらどうすんだ?今更、廃業ってワケにはいかんだろ」
今度はアーチが質問した。この会話もスタンレーは聞いているのだろうか。監視カメラが作動中なのは、百も承知だが。
「オレにはまだ追うものがある」
ジンは強く頭を振った。
《神鎗》シルヴァー・ブレット。
曖昧な、男だか女だか得体の知れないイメージが、ジンの脳裏で渦巻いていた。その蟠りが、消えるまでは、少なくとも。
「好きにしな。オレ自身は構わないぜ、別に。本業あるしな。さんざん人を殺して置いて、今更随分と勝手な事をほざくんだが、普通の暮しも悪くはないんじゃないの?ってな」
アーチの意外な台詞に、ジンは一瞬戸惑った。
「お前ならどうするってんだ?」
「好きな女と一緒に暮らす。飲んで食って踊って、毎日飽きる程ファーレ・ラモーレ(ファック)して、ボロボロ子供作ってオヤジになるのも結構な事だぜ」
「らしくねえ。ケッ、何言ってやがんだ?噴飯モノだよ。お前にはおよそ似合わねーぜ、そんなの」
「ハハハ」
アーチは渇いた笑いを洩らした。まるで、似合わない事に憧れるのが人間の愚昧さであり、可笑しさだ、とでも言いたげな。だが、言葉に嘘は無かった。
ジンは、相棒の顔が今どんな風なのか、想像してみたが、上手くいかなかった。
「ご機嫌如何なものかしら。昨晩は、さんざん暴れ倒した御二方」
麗しい声がA24室とその隣室に響いた。水の潤いを想起させる涼しい声だった。
強化防弾ガラス製の扉の前に立っているのは、華奢で小柄な女医だった。
「ジン・スティンガー?」
ホリー・ディプシーが、再び声を掛けた。
昨夜、ジンとアーチを素っ裸にして、身体検査と称し、さんざか調べ回した女医だ。
ジンは久方ぶりに女の前で、丸腰の裸体を晒してしまったのだが、こういう裸になり方は、やはりノー歓迎だ。
何しろ、あの後ケツの穴まで裏返しにされたのだ。ドラッグを隠し持っていないか、危険物を体内に埋め込んでいないか、スキャナで隈なく点検された。
身体検査という名目がなければ、只の変態趣味だと思ったくらいの、徹底ぶりだった。
「腕は認めるわよ、貴方たち。何しろ十五名の隊員を一人も殺さずに、のしてしまったんだから」
ホリーは淡々と、言った。
「お褒めに預かって光栄だね」
ジンはベッドの中から、右手だけをにゅっと挙げた。
「朝飯の後の尿検査か血糖値測定か?オレはまだ糖尿病じゃないけどな」
ホリーは、検査結果の印刷されたカルテを二枚手にしていた。
血液検査、尿検査、DNA照合検査の結果が記されていた。ホリーはジンの言葉を無視して、事務的にカルテを見つめた。
「ジン・スティンガー。あなたは間違いなくIDカードの人物本人ですわ」
ホリーはアナウンスみたいに淡々と言い、一歩進んで25室の前に立った。
ベッドの小高い膨らみは、微動だにしなかった。朝食には、殆ど手を付けた跡もない。不味い栄養食は一切拒否、という抵抗なのか、只の低血圧で起きられないのか、ホリー自身には判断の付きかねるところだった。サー・スタンレーの助言がなければ。
「起きて頂けるかしら?ドットーレ・ブールヴァード」
もそもそと、シーツが動いた。
「ブールヴァルドだ」
ガラガラに渇いたバリトン・テナーの声が、ホリーに返ってきた。ホリーの得意げな表情を見て、アーチは憮然とした。
「あなたも間違いなくIDカードの本人ですわ」
「あ、そ」
短く答えて、アーチはまたシーツを被ろうとした。ホリーはわざと、大きく溜め息を吐いた。
「……」
アーチは、ホリーの顔を一瞥すると、静かにシーツを被った。
「気分が悪いの?それとも機嫌が悪いの?」
ホリーはシーツの膨らみに声を掛けた。アーチは答えなかった。
一方、ジンはまんじりともせずに、息を殺してホリーの片言隻句に耳を澄ましていた。
「朝食にまったく手を付けていないなんて」
「……」
沈黙が流れるのみ。
「一切食べないというのなら、いずれ無理に点滴を打つか注射するまでよ」
「…寝不足気味で胸が悪い。キミが言いたいのは、何なんだ?」
アーチは終に、ホリーに口をきいた。観念したのではない。お喋りを止めさせる為だった。
「やっと、口を聞いてくれたのね。さすが、強情なイタリアン・フレンチだわ」
ホリーはアーチの顔をしげしげと、品定めするように見た。
「昨夜さんざん眺め回したじゃあないか。今まで抱かれた女にも見せたことがないようなトコロまで」
アーチは、饒舌を取り戻した。
ホリーは含み笑いをクク、と零した。やな女だねェ、とジンはシーツの中で呟いた。
「単刀直入に言うわ。あなたの体に興味があるのよ。勿論、医師としてなんだけどね」
「何だよ、それ」
ジンはまたしても、シーツを被ったまま独りごちた。
ホリーはカルテをひらひら、させていた。
「不思議だらけなんですもの。特異体質にしたって、レイ・ビームを肉眼で判別するなんて、人間業とは思えないわ」
ホリーの黒い瞳に、微かな歓喜が宿っていた。好奇心の神だった。
アーチは、女医に覚られないように小さく息を吐いた。
国境という所は、此の世の果てなのかも知れない。
外では、砂漠がどんどん気温を上昇させていた。
ミスティはカード・キーをスキャナから抜き取った女性警備員に一瞥をくれ、一人で指揮官室に入った。
東向きの大きな窓には、分厚い臙脂色のカーテンが引かれていて、その前に細長いシルエットがあった。
「これは、ジウディーチェ・アルテミス・サフィール」
スタンレーは縁無し眼鏡の上に手刀を形作り、最敬礼した。
ドアが開く前から、スタンレーはずっとその姿勢だったのだろう。御苦労様ね、とミスティは小馬鹿にしたように小さく呟いた。
ミスティは机の二メートル手前で立ち止まった。
革のブーツの踵同士がぶつかり、小気味良い音を立てた。
「あなたの口から自分の本名を聞くと、虫酸が走るわ。ジウディーチェ(検察官)という呼び方もね。悪いけど、ミス・サファイアと呼んで頂けないかしら?」
ミスティは、焦慮を押さえつつ、最小限に失礼な言い方で提案した。
「了解」
スタンレーは右手を下ろし、肘掛椅子に座った。
「いずれカルディナレッサ(枢機卿)になられる御方に安っぽい口を聞いても、お叱りを受けませんか?」
アーモンド色の瞳を一点に据えたまま、スタンレーは器用に上半身を捻り、脚を組んだ。
その一点は、ミスティの濃いブルーの瞳の間にあった。
「構やしない。伯父貴も含めて枢機卿連中は、ああ見えて俗っぽいのが大好き人間なのよ」
「ごもっとも」
初対面の人間に、穏やかではない態度。上から物を言えるのは、巡検法務省と伯父サフィール枢機卿の後ろ盾のお蔭のくせに、とスタンレーは思った。
それは、モニターでこの来訪者を確認した時から、感じた事でもあった。
来訪者は、黒馬に乗った若い女だった。
ディアスポラの人間は、高価な馬を乗り物にはしない。
今時、乗馬がまともに出来る上層都市の人間など、数える程しかいない。
となれば、自ずと相手の身分が見えてくるものだ。
無礼な小娘赤頭巾をどうしようか、と考えあぐねている狡猾な狼のように、スタンレーはミスティを値踏みしていた。
「こんなにお美しい方だとは、思いも寄らず。嬉しい限りですよ。アポ無し査察とは、少し強引ですがね」
スタンレーは、飽く迄紳士的に言った。
どんな不躾な視線にも、雑言にも慣れたミスティだけに、却ってスタンレーのような粘着質タイプは、やり難い。
「勘違いなさらないように、予め言っておくわ。私達の機関に中途半端な人道主義や、事勿れ主義はありませんの。つまり、私が若いからといって、アナタ方に対して配慮の無い対応をしようが、知ったことでは無い、というのが巡検法務省の姿勢ということよ」
ミスティは立て板に水、のごとく言い放った。
「了解」
スタンレーは両手の指を組み合わせた。
早い話が、野放しにした小娘一人が何をやっても機関は寛大な判断を下すという訳だ。巡検法務局の管轄がカトリックの総本山にある、というのもあながち頷けるではないか。
中世のインクゥイジション異端審問所さながらの遣り方だな、とスタンレーは苦笑した。
「…それにしても、酷い有様ね。集団食中毒でもあったの?」
ミスティは腰に手を当てたまま、スタンレーの顔を見据えた。表情は殺してある。
「ああ、棺桶の事ですか?一昨晩、二度も不法越境者がありましてね。その後始末ですよ」
スタンレーは些か不本意、かつ悲壮な表情をチラ、と見せた。
「派手に暴れたワケね。で、連中は何処に留置しているの?」
ミスティは少し訝りながら、質問を投げた。
スタンレーは、その言葉を聞いてニッコリ笑った。頬に少年じみた笑窪が出来た。
「A棟の個室に。審査が終わるまで、少なくとも一週間は拘束を受ける事になりますが」
スタンレーは、《鉄の爪》を持った大男を取り逃がした事は、喋らなかった。
「まさか、ジン・スティンガーとアーチレリー・ブールヴァルドの二人がやったというの?」
「うちの部下達をですか?いえ、そんなことは」
スタンレーは、顔色も変えずに首を振った。ミスティは、軽く溜め息を吐いた。
「まァ、あの二人が、わざわざ自分を不利に追い込む必要は無いか。アナタも承知だと思うけど、二人を殺したりしたら、国家予算並みの保険金をアナタがたが肩代わりしなければならないって事よ」
「勿論」
スタンレーは余裕の表情を作った。ミスティの言葉をいち早く理解したと見える。
ジンとアーチの何れもが教皇の勅命で行動しているという事だ。その生命を簒奪すれば、只事では済まされない。
「尤も、その前にヴァティカンの意向が絶たれる事態は避けなければ」
「ほう。つまり、貴方は彼らの保護者というわけですな」
スタンレーは、ミスティの反応を待ってみた。しかし、ミスティは敢えて無視した。
「ご安心を。審査の結果が芳しくなくとも、保釈金を積めば出られます。一人五百万ダッシュ程度です」
「国際警察は、いつから営利主義になったのよ?」
ミスティの皮肉に対して、スタンレーは首を傾げただけだ。
「…ところで」
と、ミスティは大きく息を吸い込んだ。誇らしげな胸が隆起した。
「《不帰の砂漠》に関して、少しお聞かせ願いたいわ」
「ほう、あなたも興味をお持ちですか?私も、赴任したばかりで大した事は知らないんですが」
スタンレーは、依然、謎めいた微笑を浮かべたままだった。薄い唇が中性的だ。
「いいでしょう、説明いたしますよ」
スタンレーが指を鳴らすと、ドアが開いた。
女子職員が、紅茶の乗ったトレイを運んで来た。時計は既に午後三時をさしていた。
ディアマントスの町名の語源は、言うまでもなくダイアモンドから来ている。
だが、地質学的にも歴史的にも、この地域でダイアモンドが採掘されたという記録は無い。ダイアモンドの加工が行われていたという訳でもない。
かと言って、町を創った人間がディアマントスという人物だったというのでもない。集落そのものは数世紀前から存在していたが、町制が施行されたのは、ほんの数十年前の話なのだ。
それこそ、国境警備の駐屯地が出来るというので、俄かに町という名称が付いたようなものだ。
地名は古くからあった。だが、由来も判らない程のものだった、それだけのことだ。
《不帰の砂漠》は、ちょうどディアマントスの北東、かつて大都市サンパウロが存在した場所に相当する。
「砂漠が出来たのは二十一世紀。原因は巨大隕石の衝突だと言われています」
スタンレーは、ティー・カップをソーサーの上に正しく置いた。
「百万都市を消すほどの巨大隕石の圧力が、環境に変化を齎した。ここは、かつて二十世紀は緑の大地だったんですよ。水稲の生産地として」
「まるで、見てきたように言うのね」
ミスティは口角を歪めた。その赤い唇は、見ている者を嘲笑しているのか、誘惑しているのか、判断しかねる感覚を呼ぶ。何れにしても、相手の視線を集めることには変わり無かった。
スタンレーもまた、この魔術に惹き付けられていた。蓮っ葉な女は好かない、気位が高いのも好かないが、気が強い女は、見ていて厭きないものだ。
「私が聞きたいのは、ここに何があるのかという事ですわ。アナタの博覧強記を確かめたい訳ではないわ」
ミスティは、ずけずけと言った。
「何があるかを知りたい?何故ですか?」
スタンレーは、ミスティの強気な口調を気にも留めず、穏やかに訊き返した。
「特務巡検使として、ディアマントスの不法越境者が増加する原因を」
ふふ、とスタンレーは小さな笑いを洩らした。ミスティはやや、むっとしながらも黙っていた。
「貴方が想像されている程、ここは愉しい所ではありませんよ。生憎と」
「では、何故アナタみたいな男がこんな辺境にいるの?何も無い只の田舎なら、こんな大仰な施設を建てる必要も無かったのでは?」
ミスティは組み替えた脚を下ろした。スタンレーの静かな面差しを、詰難するかのように、見つめる。
だが、流石に《鉄仮面》と謳われる男は、微塵の動揺も見せなかった。
「単なる嫌がらせですよ、上部の」
スタンレーは前屈みになって、ミスティに自分の顔を近付けた。オー・デ・コロンの匂いが、ミスティの鼻腔に否応無く入り込んだ。歓迎出来ない闖入者に、ミスティの小鼻が膨らんだ。
「やっかみそねみは、貴方も体験されたでしょう?大人しく謹慎していれば、私ももうじき本部へ戻れるというわけです」
「大人しくしていれば、ね」
ミスティは皮肉を込めて言った。
「自分の実績に傷が付くような事は揉み消す?」
スタンレーは、大きく息を吐いた。
「飽く迄、お疑いという訳ですか。ま、職業柄当然でしょうな」
ミスティは、ソファに仰け反るようにして、背を付けた。胸の前で、大きく十字を切る。
「ディアスポラの法を守るのが、私達の任務ですから。何人たりとも、阻害することは神に許されませんわ」
スタンレーは、にんまり、と笑った。
「神父殺しの貴方に、神を語る資格などあったんですねえ」
「……」
ミスティは相手に気取られないよう、深く呼吸した。
一と月前、モジトの町でベリーニ神父と助祭が殺害された事は、あっという間にミスティの経歴に加筆されていた。ミスティの身分を知っている以上、スタンレーがその事を知っていても、不思議は無い。
「いや、失敬。貴方がたカトリックは積年、屍山血河の上に、いまある強大な宗教帝国を築いてこられたのでしたな」
「ここで宗教戦争をやってる暇など無いわ」
ミスティは冷ややかに、応えた。
「施設を案内して下さる?」
「了解」
スタンレーは短く返答した。プラチナ・ブロンドを靡かせてすっく、と立ち上がり、ミスティをドアの所までエスコートした。
洗練された自分の立ち居振舞いに酔っているのか、と思う程、スタンレーの頬には、自信に満ちた笑みが溢れていた。
ホリー・ディプシーは唸った。
何も無い。特別変わった事は何も無かった。
ホリーは机の上に放置したままのプレパラートや、シャーレをがしゃがしゃ、と隅に追いやった。遠心分離機の電源は入れっぱなしだった。
「どう、得心はいったのかい?」
アーチは、皺だらけになったシルクシャツを、裸の上半身に、無造作に羽織った。
ホリーは、昨夜のアーチの淡々とした態度を思い起こした。
「診療所で会った事は言うな」
と、オリーヴグリーンの瞳は語っていた。無論、何故ホリーがここで監察医をやっているのかも、アーチは聞かなかった。
「スタンレーについて来た医師が急病で帰ったのよ。辺境で医者がいないから、私が代役をね」
そう、ホリーは自分から喋った。
「得心いくわけないわ」
ホリーは鋭い目で、きっ、とアーチを睨んだ。
アーチは細長く、それでいて鋼の束みたいな筋肉を縒り合わせた腕を、シャツの袖に通しているところだった。
シャツのボタンは上から三つ目まで外して、アーチは最後に銀の十字架を、自分の首に掛けた。
「どうして、何も無いのよ。普通の人間と変わり無いじゃあないの?血液も、体細胞も、筋肉も…」
ホリーはヒステリックな口調で、言った。
「普通の人間なんだから、当たり前だろ。ナニのほうも常人の範囲内だったろ?」
アーチはゴキゴキ首を回し、肩を解した。M R I(核磁気共鳴イメージング)を通された際の凝りが、残っていた。
ホリーのアーモンド型の瞳が、猫の目みたいに光った。何処か、この女医にはエキセントリックな雰囲気があった。執着心が激しいと言うべきか、科学者とは、得てしてそういうところがある人間が多い。
寧ろ、アーチのような淡白な男の方が、珍しいのかも知れない。
アーチは診察台から、ゆっくりと立ち上がった。
ホリーの後ろに回り込み、頭の上から女医の顔を覗き込む。ホリーは、一瞬ビクリと、肩をそびやかした。
薄っすらと、脂の匂いがする。オー・デ・コロンもつけていない男の体臭にしては、つつましく甘く、誘惑的な汗の匂いを、ホリーは深く吸い込んだ。記憶に残る匂い。
アーチは、自分の両腕を、軽くホリーの華奢な胸の上に交差させた。触れるか触れないかの微妙な感覚を、この男は、本能的に心得ていた。
そうしながら、アーチの左脳はホリーの実験室を隈なく分析しに掛かっていた。
部屋の南側面の大半を占める、大きな冷凍庫。意味不明のラテン語が書かれたプラスチック容器には、様々な液体が満たされている。
検死医の部屋にしては、何かごったがえしている印象を免れなかった。
アーチは、無意識に何か喋らずにはいられなかった。
「それとも、また試してみるかい?」
フフフ、とホリーは鼻で笑った。顔を上げると、アーチの端整な面差しが目の前にあった。少し身動ぎすれば、互いの唇同士が触れそうな位置にある。
「この間のセリフは社交辞令じゃないって言いたいワケ?」
「別に、どう解釈してくれてもオレは差し支えないぜ」
アーチは、意味ありげな微笑を浮かべながら後退さった。
ホリーの右手が動いた。アーチの腕を捉えようとして、細い指先が弧を描いた。シルクシャツの感触が当り、長い腕は程なく離れた。
ガラス張りの向こうを、キール・スタンレーと、女巡検使が通り過ぎる。
「や」
アーチは天使の微笑みを、ガラスの向こうに投げ掛けた。
ミスティは、微かに瞬きしてアーチの方を見遣った。女医の姿には目もくれなかった。
見惚れるくらい、ミスティは毅然と凛々しく、また相反するようにとてつもなく、蠱惑的に映った。
「う…」
やにわに嘔気が込み上げ、眩暈がして、アーチは額に手を遣った。何故だか判らないが、一瞬悪寒が走った。
「しかし、一と月振りだってのに笑顔の一つも無いのかよ。嫌われるようなコトしたっけかな?」
「…法務省の淫売」
ホリーは、わざとアーチに聞こえるように独りごちた。
白い息がピーチィの小さな唇から、零れた。
陋巷の教会は、鐘すらも壊れていて、時を告げる者は、決まって夕刻に尖塔に現れる鴉一羽だけだった。
その鴉も、もうねぐらに帰って羽交いに嘴を突っ込んで眠っている頃。
青年は、ピーチィに淹れたてのホット・ミルクを手渡した。
「おおきに」
ピーチィは火傷しそうに熱い、甘ったるい匂いの液体を口に含んだ。
老神父は、瞼を閉じたまま、ピーチィの顔を見ていた。視覚として見えるのでは無い。
老神父の時計では、既に両目の光を失って、七十年が過ぎていた。
老神父は教会に住み、血の繋がらない孫ほどの歳の青年に世話をして貰っていた。
また青年は、老神父に付き添って八年ばかりになる。青年自身もまったく身寄りがなく、老神父を実の祖父のように慕っていた。
「この町から国境を越えた者は今までおらんからのう」
老神父がそう呟くと、青年は気の毒そうに顔を顰め、ピーチィを見た。
「じいちゃん、またそんな事…」
「事実じゃろう。だが、国境越えの前に恐らく警備兵が動いとるからな」
「無事だよ、きっと。キミのお連れさんは。それに、あの巡検使の方に任せておけば」
「ウチにはどうも信用出来へん、あの女」
ピーチィは、青年の言葉に素直には頷けなかった。
ミスティはピーチィをこの教会に預けて、一人国境へ向かった。
ジン達の行方を調べる、とはミスティは言わなかった。飽く迄、任務遂行の為に国境警備部隊を訪う、とだけ言っていた。
ジン・スティンガーとアーチレリー・ブールヴァルドの二人が、そう簡単に落命する筈は無い。何しろ、ヴァティカン勅命を帯びた、厄介プレミオーロ(《賞金稼ぎ》)を殺す勇気のある連中がいるかどうか。
とはいえ、ジンは迂闊に過ぎる。黒いコートの男をシルヴァー・ブレットと考えて追ったにしても、既に警備の網に掛かっているとは、思わなかっただろうか。
第一、その噂は本物だろうか。
尤も噂が本当だったためしは、この世界では奇蹟に近い事だが。
「せやから、もっと北に行ってからホンコンに入ろうって言うたのに。アホアホアホアホ」
ピーチィは今更ながら、呟いた。
老神父は、首を横に振っていた。
「国境警備は甘いものではない。実際、不法越境者は銃殺されても、文句は言えんのじゃて」
「じゅ、じゅ、銃殺ぅ?」
ピーチィは大きな目を、益々大きく開いた。瞼の裏がひっくり返りそうに見えた。
「けど、死んだら文句言えへんのは、当たり前やん」
ピーチィは、苦し紛れに老神父の言葉の揚げ足を取った。
「法務局は関知しとらんのでな、一切。国際警察の辺境警備局が直接管轄しておる」
「あいつら絶対死なへんと思うけど」
と言いつつ、動揺は隠し切れない。
「けど何でまた国境警備がそないに厳しいんやの?何かどえらいモンでもあるん?…その、《不帰の砂漠》って所には」
ピーチィの両眼が、切迫したように老神父を見た。その老神父の顔を、青年が覗き込んだ。
「…判らん」
「何やの、それ?《不帰の砂漠》って名前付けたんは、誰やのん?何かあるって、誰が吹聴してん?誰かホンマは何があるか見たことあんのちゃうの?」
ピーチィはテーブルに両腕を付き、一気に捲くし立てた。
「なあ?」
老神父は、ややあって、口を開いた。ピーチィの売り言葉には、全く取り合わない様子だった。
「あるよ」
「へ?」
「ほんの一瞬じゃが、わしは見た。《不帰の砂漠》にある何かを見たことがあるんじゃ」
老神父は、胸の前で両手の指を合わせた。枯れ枝のような指と皺だらけの顔とを、ピーチィは見比べた。
師匠は始終、テンガロン・ハットを目深に被っていた。紫外線を恐れているのでは無い。オゾン・ホールは最早存在しなかった。地球は厚い大気に覆われている。
ジンがその理由を知ったのは、もっと後になってからの事だ。
まるで、縫い取りでもしたかのような傷だらけの顔のジャバー・ウォック。
国籍も年齢も知らない。
サムライみたいに灰色の長髪を束ねて、腰に刀のごとく銃を差し込んでいた。やや三白眼気味で、いつも湿気たタバコを咥えていた。
言葉は、どちらかといえば、乱暴な喋り方だった。
その男がジンのパウダー・ガンの師匠だった。
初めて会ったのは、ジンが九歳の時だ。
ジン自身、ある一点を除けば、汲々と過去を振り返る性質では無かった。
しかし、味気ないまでに白い壁と天井を見詰めていると、不思議とジャバー・ウォックの事を思い出さずには居られなかった。
《ブラックホーク》を身に付けて眠れないのが、得体の知れない不安を生み出しているのか。
「ブラスター?あんなオモチャは、銃とは呼ばねえよ」
ジャバー・ウォックは、せせら笑った。
銃火器の主流となっている、実弾を使用せず、熱線を吐き出す銃、ブラスターが発明されて約二世紀。最早、パウダー・ガンはその存在すら忘れられかけていた。
一部のプレミオーロが、頑なに遠い昔のウエスタン・スタイルを模倣して使用しているというイメージが強い。
しかし、飽く迄ジャバー・ウォックはパウダーガンにこだわった。
「いいか、ジン。四五口径と三八口径以外のオートなんざ、男の扱うシロモノじゃあねえ。男になりたかったら、お前のジイサンが借金と共に残した、その《ブラックホーク》を使いこなして見せろ」
そう言って、ジャバー・ウォックは《ブラックホーク》の芸術的な流線型を飽かず見詰めていた。
ジャバー・ウォック自身が愛用していたのは、S&Wモデル二九という、大型ダブル・アクション・リヴォルヴァーだった。バレル銃身が最も長い部類の、《ブラックホーク》よりも重いものだった。
射台は、半分に切ったドラム缶をひっくり返した代物だった。
ジンは、師匠の指示通りに左腰を缶の縁にピタリ、と付けた。仕事は、《ブラックホーク》に弾を装填するところから、始まる。
「自分で入れるの?」
と、訊ねると、ジンは頭を怒突かれた。
「バカもんが。お前、今まで自分でリロードしたことも無いのか?何処の世界に、予め弾の入ったパウダーガンがあるものか。なくなったら、手前で入れてやるんだ」
マグナム弾の装填だけで、一と月の訓練を要した。リロードに与えられた時間は、十秒。十秒以内に、空薬莢をイジェクトし、次の新鮮な弾を挿入してシリンダーを戻す。
「無意味に時間を制限しているんじゃあない。余計な知恵を働かさない、最長の時間として十秒を想定している。それ以上あってどうする?」
どうする、と訊かれても答えようが無い。
「オダブツになりたくなきゃ、十秒以内を守れ。標的を撃つ事以外、何も思うな」
ジャバー・ウォックは、容赦無く言った。
祖父に手解きを受けたのとは、全く違っていた。その遣り方は、むしろ、余計な知識は腕を鈍らせると言わんばかりの、徹底した実践主義だと言えた。
まず、一三六〇グラムある《ブラックホーク》の重みに右手が慣れるまでは、地獄のような日々だった。腱鞘炎になりもしたが、それでも訓練を止めるわけにはいかなかった。
祖父の唯一の形見であるパウダーガン。本来は《神鎗》のものになる筈だったが、何故か手元に残った貴重な一丁の拳銃。
どうしても、この手で撃ちたかった。
ジャバー・ウォックは、教育という点では、容赦ない教師だった。リロードが十秒を数えるまでに短縮されて初めて、ジンはトリガーに指を触れることを許された。
それから、ドライ・ファイアが始まると思いきや、翌日からジャバー・ウォックはジンに実弾を撃たせた。
初めてアクションに入った時、とても片手ではトリガーを引ける状態では無かった。
「両手で構わん」
ジャバー・ウォックは、ジンの後方から声を掛けた。
九歳の子供には、一々ハンマーを親指で起こすシングル・アクションすら重荷となった。
シリンダーを閉じると、硬いがっちりしたロック音がした。
フロント・サイトのドットがターゲットの真中を探り、止まると、トリガーを引き絞った。ノッチ音がチッ、と相槌でも打つように鳴り、トリガーがほんの一瞬だけ、軽くなった。
発射炎で、目の前が真っ白になった時、ジンは利き腕が見えざる誰かの手で捻り上げられるような圧力と痛みを強烈に感じた。
同時に衝撃が全身を包んだ。
痩せぎすの小柄な体は、後方へ吹っ飛んだ。
着弾は確認出来ず。
「ミッシング・イン・ファイア(発砲後行方不明)だな。スタンスを直す必要がある」
ジャバー・ウォックは、淡々と評した。ジンは無論、自分で立ち上がり、尻に着いた土を払った。
ジャバー・ウォックはジンの右手を掴んだ。
「お前はなかなか、賢いじゃないか。グリップをずらして手の皮が剥けないようにしているな」
木製グリップだと、どうしてもフレームの金属との微かな隙間に皮膚を挟まれ、発射の反動で皮がめくれる事が少なくない。ジンは無意識に、それを避けていた。
「だが、手の皮が剥けようが、千切れようが、今はそんな心配をするな。お前がやらなきゃならん事は何だ?」
ジャバー・ウォックは、やさしく声を潜めてジンに質問した。ジンは、やや考えて、ジャバー・ウォックの顔を見上げた。
「…標的を撃つ事」
「いい子だ、ジン。その通りだ」
ジャバー・ウォックは微かに口元を緩めた。殆ど他人の前で笑顔を見せた事の無いジャバー・ウォックの、限り無く和やかな笑みだった。
ひょっとしたら、本当は子供が好きでしょうがないのかもしれない。数ある孤児の中で、ジンを選んだのは、単に愛情に飢えたハングリーな目付きをしていたからでも、稀少な純血日本人だからでもない。
素質も兎も角、或いはジャバー・ウォック自身何か愛情を感じる部分を、ジンに見出したからではなかったか。
ジャバー・ウォックは、いつもの表情に戻っていた。
「一発目を外すな。これがリヴォルヴァー、殊にシングル・アクションの鉄則だ。マグナム弾を浴びて、無事なヤツなどいない。ギガントですらだ」
ジンは、黙って師匠の顔を見上げていた。
「二発目は無いと思え。のろのろしていたら、相手のブラスターはお前の脳天をブチ抜くぞ。一発目で、急所に命中させろ。曲撃ちなど憶える必要は無い」
「相手もパウダー・ガン使いだったらどうするの?」
ジンは、素朴な疑問を口にした。
「そういう事もある。だが、兎に角一発目で勝負を決めろ。お前はこれから、ファスト・ドロウを憶えればいい。同じパウダー・ガンの勝負に勝つには、アクションの速さが勝る事だ」
実際、パウダー・ガン使いにお目に掛かったのは、ジンが考えていたよりも、機会が多かった。
何れ劣らぬ猛者ではあったが、ジンは師匠の鉄則を守株して、切り抜けて来た。ファスト・ドロウのような単純な技術で、果たして生き延びる事が出来るのか、ジン自身も一抹の不安があったが、師匠のポリシーは流石に理に適ったものだった。
そのジャバー・ウォックは、今何処にいるのだろう。
今も何処かで、ジンを育てたように、パウダーガン使いを育てているのだろうか。
ある日、ジャバー・ウォックが突然にジンの前から姿を消してしまって、既に七年が経過しようとしていた。
「……ケッ、オレとした事が辛気くせえ」
ジンは不意に眠気から呼び覚まされた。
窓は、月明かりで仄かに光っていた。
異様なまでに静かで、生命の活動を意味する空気の流れまでもが止まってしまったかのように感じられた。
「…おい」
ジンはベッドから、半身を起こした。
「おい、アーチ」
返事は無い。眠っているのか。
ジンは壁に耳を押し当てた。呼べども反応は無い。相棒のことだから、わざと黙っているのかとも思い、ジンは再びベッドに背中を預けた。
「いや…?」
何だか妙だ。微かに聞こえる衣擦れと乱れた呼吸音。最初、啜り泣いているのかとも聞き取れた。
もしかして、晩飯が不味かったので、ゲロでも吐いているのかと思った。何しろ今日の夕食は、アーチが犬の食事と称している、インチキな白身魚のフライとマッシュポテトの山だった。何処の海の沖で採れたか判らない、深海魚なのだそうだ。
「…うッ、う」
しかし、声は嗚咽でも嘔吐でも無かった。苦悶に耐える呻きだった。
「おい、どうした」
やはり返事は返って来ない。というよりも、声を掛ければ掛ける程、余計に苦悶は募るだけだった。ジンがそう気付いた時には、アーチの呻きは、25室の外でも、はっきりと聞き取れそうになっていた。
「誰か!」
ジンはベッドから、撥ね起きた。強化防弾ガラスのドアに両手を突いた。
「相棒の様子が変なんだよ!誰か、いねえのか?」
不幸な事に、ジンの叫びが聞こえる者は、A棟には誰一人としていなかった。廊下に虚しい響きだけが谺した。
「おおい!誰か!応えろよ!」
ジンは、ドアを叩き続けた。
初め、粉々に砕け散ったガラス片を、素足で踏む感覚があった。
頭痛は夕刻から始まっていたが、眠りに就こうとした今も、止まなかった。痛みは、足の裏から全身を突き抜けて、前頭葉に達していた。
「毒物だ」
アーチは、両の裸足を抱えて、その裏側を探った。背中を丸める行為すら苦痛だった。
皮膚は何とも無い。毒虫に刺された痛みも傷も無い。
「まさか、感染症なんぞ、オレにはない筈だ」
強化人間にして特異体質を自称するアーチにとって、外部からの細菌感染があるとすれば、抵抗力がゼロに等しい状態でしかない。つまり、有り得ない。
砂漠を歩き続けた疲れでも、日射病でも無いのは確かだ。
「一体、何の毒物だ…?」
震えているうちに、ゆっくりと睡魔が襲ってきた。
眠ってはいけない、そう感じつつも、アーチは瞼を閉じた。
夢の中で、アーチは病院の中にいた。見覚えがあるようで、見たことの無い場所だった。
何故なら、自分がいた何処の病院も緑に溢れてはいたが、そこは緑というよりはジャングルに等しく鬱蒼と黒い森だった。
病室にも処置室にも、誰もいない。廊下は蔓植物が這い回り、各室のドアに絡み付いていた。
アーチは、何かに憑かれたかのように、或る一点を目指して進んでいた。殆ど自分の意思とは無関係に、ストライドを描く両脚。
夢を見ながら、これはメスカリンの作用にも似ている、とアーチは感じた。もう一人の自分が、至極冷静な目で、何かを見定めようとしていた。
両開きのドアを覆う木々の葉隠れに、骸骨がぶら下っていた。
アーチは、ぼんやりと枝葉を見上げた。小枝が差し招くように、揺ら揺らとざわめいて、扉が開いた。
蔓を押し退けた。いとけない子供の頃、これに似た状況の古いアニメーションを見た記憶があった。
「まるで、眠り姫でも起こしに行くみたいだな」
僅かな隙間から、生温かい空気とともに、白い腕が伸びた。
「私はここにいるわ、アーチ」
柔らかな腕の感覚だけが、アーチの首に縋った。囁くような声が、姿も無く耳元に熱い息を吹き掛けた。
女の声は、繊細でもあり、痛々しくもあり、擦れてもいた。
不特定多数の幼女の声。患者の苦悶。看護婦の声。自分を育てた養母で、父の恋人だったレティシアの声。カッサンドラ博士、修道院のシスター、モジトの町のアリス、
女医ホリー・ディプシー、女巡検使ミスティ・サファイアの声。
そして、双子の妹ディアーヌ。
アーチは、身体の奥で何かが動き出すのを感じた。
風のような肉体が、アーチの上半身に圧し掛かった。ユリの芳香がする甘い吐息が、アーチの鼻先を擽る。
女の顔がアーチを覗き込んだ。
覚えず、アーチははっとなった。
自分によく似た亜麻色の長い髪。桜貝のように膨らんだ唇。青い瞳。翡翠がかった青い瞳。見たこともない筈の、成人した妹の顔。
「どいてくれ、ディアーヌ?」
喉に水銀が詰まったみたいに、アーチは半信半疑のくぐもった声を発した。
しかし女は、アーチが思っているような肉親の様相では無かった。妹の皮を被った、似て非なる化物。夢魔。
「妹だと?悪いが、お前の顔など覚えていない」
その間もしなやかな女の指は、否応無くアーチの引き締まった肢体をまさぐっていた。
形無き夢魔の執拗な愛撫は、アーチの理性を苛むべく仕組まれた罠に違いなかった。
「オレにはお前の相手をしている暇など無いんだ」
アーチは、言った。
女夢魔は啜り泣いた。
「いやよ、お兄ちゃん」
両手の指は、一層淫靡な動きを示した。しかし、アーチの肉体はいっかな反応を示さなかった。むしろ逆に、嘔吐を催す程の嫌悪感を感じていた。
夢魔はアーチの胸から下に唇を這わせた。背中を抱き、形の良い尻を揉み、革のズボンの前を撫で回す。アーチは、夢魔を突き放した。
「本当だ。死んだお前の顔なんか覚えているほど、オレは不幸じゃない」
「お兄ちゃん」
すると、夢魔は白い歯を剥き出しにした。夢魔の顔は忽ち変化した。瞬きすると、黒髪の美しい看護婦に変わった。また瞬きすると、東洋の趣がある面長の女に。
女が長い髪を一振りすると、鮮やかな赤が眼底に染みた。
アーチは、無言で女夢魔を突っぱねた。姿も無いのに、木っ端微塵に吹き飛んだ肉体が、弾けて嫌な音を立てた。ガラスが砕けるような鋭い音だった。
「だが、何故オレは自分の塩基配列を覚えていても、妹の顔すら覚えていないんだ?」
夢魔の呪縛から逃れると、吐き気は嘘のように静まった。
アーチは、綿のように疲れ切った下半身を引き摺って、手術室の扉を開いた。
目の前に、揺れ動く影があった。
蔓草に覆われた巨木がそこにあって、その根元には、長い金髪の人間が横たわっていた。
アーチの気配に応じてか、その腕が微かに動いた。
次の瞬間、鞭状のものが空を切り、アーチの腕を捉えた。まるで緑の蛇かハリガネムシのようなその生物は、アーチの手首を突き破り、壁に吸い付いた。
「ううああああああ!」
激痛は、手首を貫通されただけが原因ではない。蔓の先端は、注射針のように動脈に入り込んだ。
血管造影剤を注入するカテーテルを思わせた。しかし、それよりも遥かに太く、生き物みたいにそれは蠢いて、アーチの体内を侵食していった。
血管が食い破られる。さしものアーチも、これにはパニックを禁じえなかった。
蔓は、心臓を貫通し、頚動脈に侵入した。その動きは、このまま脳血管に入る意思を表していた。
「やめてくれ!やめろ!…ああああああああ!」
その時、手術台の上から、何かが起き上がった。
入浴の最中に、その大男がドアガラスを蹴破って踏み込んだ時、
ミスティ・サファイアは、迂闊にもバス・タブの中で眠気に襲われ掛けていた。
まさか、こんな砂漠の地で満足な入浴に与れるとは、思いも寄らなかった。砂混じりの水でも、シャワーがあれば御の字だった。
不思議なのは、やはり国際警察本部が、こんな辺境で贅沢させているという事実だった。それとも、客人に対する見栄か。
まさか監視付きではあるまい。
ミスティは、湯船の中で自分の両肩を抱いた。
まさしく、その瞬間だった。
無防備の事で、ミスティは一瞬何が起こったのか、判断がつきかねた。
「何者?」
反射神経の鈍麻を、ミスティは由々しい事と恥じた。一糸纏わぬ姿を大男の前に晒すのは、さして恥辱に値する事ではなかった。
ミスティは、ぬるくなった湯を撥ね上げた。
カーテンの下に隠していた《パイソン》を掴み上げる。マグナム弾の事を鑑みて、決して湿気の多い場所に置いてはならないので、用心を重ねてタオルに包んでいた。
大男こそ、先日砂漠に侵入を試みたロブ・ロイ。《鉄の爪》ロブ・ロイだった。
ミスティは、その右手に光る黒い鉄の鉤爪を見て、刮目した。
「あ…」
ミスティは、ロブ・ロイの事は微塵も聞かされていなかった。
「お前には、用は無い」
ロブ・ロイは吼えるように言った。ミスティの威嚇を歯牙にも掛けず、一枚岩のような大きな背中を向ける。
勢い、ミスティは湯船から飛び出した。
用は無い、と言われておめおめと引き下がる程、悍性の無い女は特務巡検使ではないというかのように。
廊下では、警報のけたたましいアラーム音が響いていた。
ロブ・ロイは、見掛けに似合わず、短距離走者のごとくまっしぐらに、廊下を突き進んで行った。
警備隊員達は、大男の乱入にびびりまくっていた。
ブラスターを抱えた手が震えて、トリガーを引けない者もいた。一昨晩の地獄絵のような光景が、彼等の脳裏を走馬灯のように巡っていた。
「もたもたしやがって!腰抜け共が」
ミスティは罵声を撒き散らしながら、裸足のまま突っ走った。
犀のように猛進するロブ・ロイもさることながら、素っ裸にバス・ローブを一枚引っ掛けただけの女巡検使の格好に、隊員達は目を剥いた。
戦乙女のような優雅さは無く、鬼神のような凄まじさだった。
ミスティは走りながら、《パイソン》を斜に構え、発砲した。
ドギュン。ドギュン。
ロブ・ロイの脇腹をマグナム弾が、掠めていく。射撃手と被弾対象射の二個の物体が不定速度で移動している以上、命中率はかなり低くなっている。
ロブ・ロイは、走りながらも、《鉄の爪》を振るった。
隊員は鉤爪の猛攻を受け、血飛沫を浴びて後退った。木偶人形のように、三人の男が吹っ飛ばされた。
「何処を目指しているっていうの?あの男」
ミスティは訝った。
大男が向かっているのは、間違いなくA棟だった。キール・スタンレーが狙いではない。A棟にいる、闖入者達だ。
ゴワアアン。
A棟から、凄まじい破壊音が聞こえてきた。早起き鳥も首を絞められるような、轟音だった。
ロブ・ロイは、怯まずに進んだ。防火扉が降りたのか、爆破があったのかも判らなかったが、大男は無言で自動ドアを抉じ開けた。
「ロブ・ロイ!」
叫んだのは、ジンだった。24室のガラスを力一杯叩いている。拳の端の皮膚は擦れ、血が滲み出していた。
「……!」
濛々と白煙が立ち込める廊下に、立っていたのは、アーチだった。
ミスティは、口元を手で覆った。
信じ難い事だった。強化防弾ガラス製のドアが粉微塵に砕かれて、アーチの足下に散乱していた。まるで、金剛石のごとく、それは足下灯に照らされて、輝いていた。
中から蹴破ったのでなければ、こんな事にはならない。
至近距離でマグナム弾を放ったとしても、せいぜいひびが入る程度のものだ。そのガラスを素手で破る事が出来るのは、今のところ強化人間ぐらいのものだ。
だが、アーチは生身の人間であるという事が、女医ホリー・ディプシーによって証明されている。
ミスティは、目を瞬く他なかった。
「オレをここから出せ!」
ジンは喚き続けた。無駄だと判っていても、ジンはそうするしか手段が無い。仮令、解放されても、《ブラックホーク》が手元に無い今は、ロブ・ロイに敵う筈も無いのに。
「グフフ…」
ロブ・ロイは、不敵に笑った。そして、《鉄の爪》を振り下ろし、24室のガラスを力任せに叩いた。
鈍い音だけが、響く。防弾ガラスは割れなかった。
「畜生めが!」
ロブ・ロイは、拳をがんがんと、ドアに打ち据えた。ジンの鬼気迫る表情は、半透明のドアを隔ててロブ・ロイの目の前に在った。
その音を聞いているだけで、ジンはひょっとしてガラスが割れるのではないかと思った。
そう思うと、情けなくも、恐怖が胸中に芽吹いたのだった。
《ブラックホーク》を持たない自分は、ヒヨコと同じだ。猛禽の爪に一掴みにされて、一巻の終わり。
「ジィン!ジン・スティンガー」
「……」
「お前のその目を抉りとってやる!指をもぎ取ってやる!」
ロブ・ロイは、防弾ガラスに唾を飛ばした。並びの良い白い大きな歯が、歯茎ごと剥き出しになる。
荒い息を吐いた大男の顔が、ガラスに貼り付いた。まるで、ショウ・ウインドウの中のオモチャを欲しがる子供みたいに。
「二度とパウダー・ガンを握れない体にしてやるまでは、オレは死なねえ!」
「畜生、キチガイめ」
ジンは歯軋りした。その黒い瞳が、ロブ・ロイから一瞬逸れた。
ミスティは、躊躇わずトリガーを引いた。
弾丸は、ロブ・ロイの右肩に命中した。一瞬、ロブ・ロイの肩はビクリ、と痙攣した。《鉄の爪》がギッ、とガラスを掻き宙に浮いた。
どくどく、と流れ出す鮮血。
ロブ・ロイは、振り返った。狂気に似た形相が、大男の赤い顔を隈取っていた。
「貴様ァああ!」
ミスティは、背後の壁に叩き付けられた。
しかしながら、ミスティはすんでのところで縊り殺される運命を免れた。背中を強か打った衝撃で、唇から血が零れた。口腔を切ったのだ。
ひゅう、ひゅうという喘息のような声が、ミスティの喉から洩れた。
手足から、力が抜けていく。ジンが防弾ガラスを叩く姿が、ぼやけて見えた。
「ごほッ!」
そしてミスティは、三秒の後、解放された。
「ぬおおおおおおう!」
声を上げたのは、ロブ・ロイの方だった。
ロブ・ロイの灰色熊みたいな太い首には、アーチの二の腕が絡み付いていた。絵面からみれば、全く話にならない対比だ。華奢な色男のほうが、筋肉ダルマの大男を締め上げている。
ミスティは、噎せ返りながら二人の男を見上げた。
どちらも尋常でない事は確かだが、ロブ・ロイよりも、アーチの方が第三者的に見て明らかに異常だった。
人工頭脳のコントロールが狂ったアンドロイドみたいに、虚ろな瞳。オリーヴ・グリーンの瞳は、薄闇だというのに、瞳孔が収縮したままだった。
「まさか…」
何かの中毒症状を起こし、神経に異状をきたしているように見えた。
朦朧とした表情に、微かな喜悦が浮かんでいるのは何故だろう。
脳制御が出来ない状態で、体を動かしていたら、果たして結果どうなるだろうか。火事場のバカ力と同じで、思いも掛けない力が出るが、筋肉も骨も気付けばボロボロだ。
「やめて!」
ミスティは叫んだ。
しかし、その叫びはアーチの耳に届く筈も無い。
ロブ・ロイは、羽交い締めにされたまま、狭い廊下を投げ飛ばされた。三百ポンド近い巨体は、弾んで防弾ガラスにブチ当った。
ジンは、思わず飛び退いた。
ロブ・ロイの体は、その拍子に24室の中に転がり込んだ。ロックが解除されたらしかった。そうなると、檻に転がり込んだ猛獣のようなものである。
ロブ・ロイは、ほんの瞬間的に脳震盪を起こし、失神していたが、部屋の壁に踵を強くぶつけたショックで目覚めた。
にやり、とヤニ一つ無い白い歯を牙のように剥いて、ロブ・ロイはジンを睨み付けた。
「手前ェ…」
ジンは、腰を落として構えた。形ばかりのサブ・ミッション関節技しか身に覚えが無いのは辛いが、この際仕方無かった。ロブ・ロイの体力はかなり消耗されている筈だから、逃げ回って、関節を取る間合いを掴むしかない。
ロブ・ロイが立ち上がったところへ、すかさずアーチが躍り掛かった。ぼろ人形でも扱うみたいに、アーチはロブ・ロイの胸倉を掴み上げ、壁に叩き付ける。
ごつん、という鈍い音が狭い独房に響く。
ひ弱な人間なら、頚骨を折って死んでいるところだろう。これでは、まるで私刑だ。
「や、やめろ!アーチ!」
ジンは、覚えず叫んだ。
壁に血飛沫が飛び散った。ロブ・ロイの裂けた皮膚から返り血を浴びながら、アーチは一心不乱にその首を締め上げた。
「こいつ…」
まるで殺人機械のようだ。放って置けば、相手が死んでもなお叩きのめし続けるかも知れない。
それも、ロブ・ロイのように意志を持って相手を狙っているのでは無い。只、反射的に自分を襲う者なら誰でも、無差別に反撃の手を加える殺人手。
少なくとも、ジンの目にはそう映った。
ジンは、ミスティの顔を見た。ミスティは首を横に振った。
そして、何か決心したかのように女巡検使は立ち上がった。《パイソン》のハンマーを落とす。
アーチの脚、或いは左腕に狙いを付ける。
ミスティは大きく呼吸した。トリガーに掛けた指が、微かに震えた。
渇いた痰が、喉に絡まった。
ミスティは《パイソン》を捨てて、アーチの背中に取り付いた。
「何してんだ、バカ!」
ジンは呆気に取られた。慌ててミスティに加勢する。
何とか引き剥がさねばという思いと、二人の力とは必ずしも合致しなかった。しかし、意外にも簡単に、アーチはロブ・ロイの首から手を離した。
ジンは、ロブ・ロイのぐったりした身体を抱え起こした。
既に死んでいるので、アーチは執着無く大男を離したかに見えた。だが、ロブ・ロイは虫の息ながらも、生命反応を示していた。酸素不足で失神したらしかった。
「ううああああああ…!」
アーチは、その場に屑折れた。乱れたブロンドを掻き毟るようにして、頭を抱える。頭皮から、血が滲み出して来た。
「アーチ!」
ミスティは、その両腕を掴もうとした。が、振り払う力に叶う筈も無く、壁に叩き付けられた。
「うああ、やめてくれ!」
アーチは、衣服の上から、両腕の皮膚をこそげ落とすように掻き回った。まるでアーチの体内を異物が移動していて、それにつれて身体が序々に強張っていくかのように見えた。
「ジン!アーチの両手を縛って!」
「あ、ああ」
ジンはロブ・ロイの体を寝かせ、アーチに近付いた。
ビシュ。
突然、アーチは動かなくなった。
24室の扉の前に立っていたのは、キール・ロイヤル・スタンレーだった。真夜中だというのに、用意周到に制服を着込んだままの紳士は、沈黙したまま、ジンとミスティを見下ろした。
「…アナタ、この男に何をしたの?」
ミスティは、スタンレーの冷徹な表情を確認するや否や、眦を吊り上げた。
「おお、こわ。美しいレディがそんなお顔はよしたほうがいい」
スタンレーは、プラチナ・ブロンドをたゆたわせながら、皮肉に頬を歪めた。
ミスティの険しい貌が、スタンレーを露骨に詰難していた。
表情とは無関係に、バスローブの胸元から零れる双丘は、薄闇に青白く浮いて艶かしい。
「つまらない誤魔化しが効くとでも思ってるの?」
「何、猛獣を寝かし付けただけですよ」
スタンレーは右手の麻酔銃を下げた。
「訊いているのは、そんな事ではないわ。ドラッグを与えたんでしょう?」
ミスティは、スタンレーの縁無し眼鏡の奥を覗き込んだ。
「私は何もしていませんよ。もし、そうだとしたら、多分…」
「あの女ね」
ミスティは敵の名前でも言うように、忌々しげに言った。ジンは黙って、女巡検使と英国人の遣り取りを聞いているしかなかった。
コツン、コツン、コツン。
ハイヒールの靴音だけが、静まり返った深夜の廊下を揺り起こした。
ホリー・ディプシーは息を潜め、A24室の自動ロックを解除すべく、カードキーを取り出した。カード・リーダーにキーを差し込むと、音も無く鍵は開いた。
ホリーは慎重に、重いドアを押し滑らせ、僅かな隙間から猫のようにして室内に入り込んだ。
「そんなドロボウみたいな真似しなくてもいいだろ?」
ホリーは思わず、ひくっと息を呑んだ。カチリ、と音がして足元灯が点いた。
既にジンはベッドに腰掛けて脚を組んでいた。
「それとも何か疚しい事でもあんのかよ?」
その問いにホリーは答えなかった。薄明かりの下の黒い瞳は、まるでシャム猫の眸のように明るく輝いた。
「アーチの容態は?」
「私が見た時はまだ眠っていたわ」
ホリーは普通の大きさの声で喋った。ジンの方へ静かに歩み寄ると、猛獣使いのような素振りで見下ろす。
「普通に喋っていいのよ。ここのモニターは差し替えてあるし、音声もカットしてあるから」
ジンは上目遣いに、ホリーを見た。
「何の為にだよ?」
「あら、恐い顔。野暮な事は聞きっこ無しでしょ」
ホリーは歌うように言い、薄い唇に笑みを作った。色仕掛けだとしたら何の意味があるんだ、とジンは訝った。
「でも、あなたは相棒思いね。真っ先に訊く事はあの男の容態なんて」
「当然だ」
鼻に掛けるように言ったジンの顔に、ホリーは剥き卵みたいな顔を寄せた。ジャスミンの芳香がジンの鼻腔を擽った。女医は巧みに薄闇の効果を利用している。視覚で得られない情報を、他の器官が補おうとして敏感になっているという事を。
ホリーは、声を一オクターヴ上げて、ククと笑った。
「何が可笑しいんだよ」
「あなたが思うほど、あの男は誠実では無いような気がするわよ」
「あいつの性格は、今更判り切った事だっての」
「そうかしら?隠し事もあるんじゃないの?」
「何がだよ。お互い喋りたくない事も一つや二つあらあ」
ジンの眼間がきつく狭まる。炯炯とした黒い瞳に、不撓の意志が表れていた。
「バカにすんな。あんたに何がわかるってんだ」
ジンは右足を上げ、ワゴンを蹴り飛ばした。
「日本人ってすぐ怒るんだから!聞いた通りだわ」
ホリーは身を捩って、ワゴンが壁に激突するのを止めた。幾ら音声をカットしてあるといっても、ワゴンをぶちまけたら派手な音がするだろう。
「あなた達には悪い事をしたと思うけど、試させて貰ったわよ」
「試すゥ?」
「闇サソリの毒を食事に混ぜておいたの」
と、ホリーは悪びれもせず、ケロリと言ってのけた。
「何と?今、何と言ったよ」
「毒を盛ったと言ったのよ。闇サソリの毒を少々ね」
砂漠に棲息し、夜間にのみ活動する黒い毒虫。体長十センチ足らずだが、その毒針に刺された者は一晩で発狂死してしまうという恐怖の昆虫。これもまた、病んだ大地が生み出した小さな怪物に違いなかった。
「てっ、手前ェこの…!」
ジンは、ホリーのブラウスの胸元を掴み上げた。
「致死量の三分の一を入れただけよ」
「何抜かす。三分の一って…まさか、それでアーチはあんな風に?」
「そうよ」
ホリーは言った。思いの外着やせする体型らしく、胸元から覗く膨らみは小高い。ジンは覚えずゴクリ、と生唾を呑んだ。
「どんな幻覚を見たのか知らないけど、かなりの効き目ねえ。あんなに暴れ捲るとは思わなかったわ」
「ウソぶっこけ、このアマ!」
ジンは思わず張り倒してやろうか、と右手を挙げ掛けた。が、結局右肩を上げただけに留まった。
「…が、女をぶつのはオレの趣味じゃねえ」
「特異体質はあなたのほうかしら?毒が効かないなんて。ポーチド・エッグを食べなかったの?」
ホリーはブラウスを直しながら言った。
「生憎だが、卵の白身の半熟だけは食いたくねえ」
「成る程ね」
ホリーは腕組みをした。アーモンド型の瞳が鈍く妖しい光を放った。
「でもあの男、毒が回るのも普通の人間の倍ほど速かったみたい。血清も良く効いたけど。それにしても、怪我の功名ってやつかしら。《鉄の爪》とやらも、うまく収拾出来た事だし」
ホリーは万事上手くいった、という嬉々とした調子である。ジンの不愉快な感情は益々逆撫でされた。
「フザけんな!一歩間違えたら、どうなってたか判ってんのかァ?」
ジンは怒りを露わにした。奥歯が軋る。
「ヤツはロブ・ロイを嬲り殺しにしてただろうな。でもって、防弾ガラスをブチ破ったあの力で、この施設もめちゃめちゃにしてしまう。勿論、あんたらも只じゃ済まねえよ」
ジンは、ビシリと人差指をホリーの目の前に突き出した。
ホリーは目を細め、首を傾げてくすくす、と笑った。
畜生、まるで本気にしちゃいねえ、この女。脅しも無効か。
ジンの指はのろのろと、自分の腿の上に下ろされた。
「あんたの魂胆は見え見えだ。最初から、全部仕組んでたんだろ?」
「見え見えだなんて…」
「アーチがああなってしまえば、ここらはめちゃくちゃになるからな。五月蝿い連中は、それに掛かりっきりになっちまう。例えばあの英国人ヤロウとか。その混乱に乗じて、オレに何の商談を吹っ掛ける気だ?」
ジンは捲くし立てた。
「強い男に用があるのよ」
ホリーは両手を差し伸べ、ジンの頬を掌で挿んだ。ジンは、一瞬虚を付かれ、目を丸くした。
「…どういう意味だよ。腕っ節をいうなら、相棒のバカ医者に頼むんだな」
ジンは言いつつ、説得力に欠けるな、と自省した。
ホリーのタイト・スカートから突き出した膝は、ジンのジーンズの股間に当っていた。嫌でも刺激が加わると、ジンは何とか腰を引こうと努力したが、顔はホリーの手の中に捕われている。足掻いても、どうにもなりはしない。
「度胸のあるのはあなたの方よ」
ホリーは満更嘘でもないような口調で言った。
「そろそろ、本題に入ろうかしらね」
いつもなら、一昨日来い、と言いたいところだが、我ながら、情けないと感じつつも、ジンは半ば諦めざるを得ない気分になっていた。
「二十分間。それが、アナタと私に与えられた共有の時間て事らしいわ」
ミスティはそう言って、タイム・キーパーをセットした。
目覚めて一番にそんな事務的な事を聞かされるとは、つくづくオレもついてないぜ、とアーチは思った。
幸いにも頭痛は消えていたし、拘束具も嵌められていなかった。
狭苦しい処置室の長椅子から起きてみれば、いきなり目の前に美女の長い肉感的な脚があった。顔も見ていないのに、何故美女と判ったのか。それは香水の匂いからだった。
「何から訊けばいいんだ?まず。手っ取り早くいこうぜ」
アーチは腹の上で腕を組み、長椅子に脚を伸ばした。長過ぎて、手摺から靴の先がはみ出してしまう。
ミスティは、黒いいかめしいロング・コートの下に、同色のボディスーツ、ぴったりしたローハイドという出で立ちで、アーチを見下ろした。
流石に室内でテンガロン・ハットまでは被っていなかったが、随分勇ましい格好だな、とアーチは思った。
「やっぱり何も覚えていないのね」
「全く覚えていないワケじゃないぜ」
アーチは衣服の上から両腕を擦った。幻覚とはいえ、ムズムズとした掻痒感が僅かに残っている。皮膚は引っ掻き傷だらけなのが、布越しにも判る。
「25室のドアを素手でブチ破ったのも、《鉄の爪》ロブ・ロイをのしてしまったのも、アナタよ」
「ああ。キミもジンもいた。身体中がひどい筋肉痛だな」
「そりゃ、そうよ」
ミスティは当然のように無感慨な応えを返した。アーチは顔を上げた。ミスティは半ば怒ったような顔付きをしていた。
「どうなの?あの女医がしたって事は判ってるんでしょ」
「まぁな」
「ホントにおバカね、アナタって」
ミスティは腰を軽く捻った。長いブルネットを垂らし、アーチの寝惚け眼を覗き込む。
「留置者の身柄の安全を守るのも、巡検使の仕事の一つだから。無意味に身体を危険に晒されたって訴える事も出来るわよ」
「面倒臭いこと言うなよ」
アーチは目を瞬いて、苦笑した。ミスティの深い青の瞳は、無口に頭上から見下ろしていた。こういう形でじっと見詰め合うなんて、かなり最低な状況だ。
「じゃ、自分に保釈金を出す?」
「オレのオフィシャルバンクの何処にそんな大金があるっていうんだ?ネクタイ一本買うのにも苦労してるってのに」
アーチは両手を挙げてバンザイの格好をした。ミスティは、にんまりと笑って見せた。
「薄給の前借がイヤなら、無利子で私のポケット・マネーを貸してあげるわ」
「嫌だと言ったら?」
「理由を聞きたいわね」
ミスティは腰に手を当てた。不服を露わにしている様子が、アーチには手に取るように判った。
「オレ、金を借りた女とはえっちしない主義だから」
アーチは真顔で言った。ミスティはかなり呆れた。冗談で話した訳では無かったのに、何て返答だ。この話はこれでピリオドだ。
「…バカっ面下げて裁判でも待つのね」
「五百万ダッシュの保釈金を、無償でくれるというのなら、話は別だぜ」
「もうその話は終わったの」
ミスティはぴしゃり、と言って背筋を伸ばした。アーチは目を閉じた。ミスティは長椅子から一歩下がって、周囲を見回した。
二十分間という条件付ではあるものの、処置室に監視カメラが付いているのも、会話が聴かれているのもすべて既知の事だった。
タイム・キーパーは残り九分を示していた。
「まだ八分四十秒あるわ。何か言う事は無いの?」
アーチは、そう言われて瞼を開いた。痛む両肘を伸ばすと、ミスティのブルネットの先に当った。
「悪いね…」
言い掛けて、アーチは唐突にげらげら笑い出した。それこそ、腹を抱えるほどの哄笑だった。ミスティはきょとんと両の目を開いたまま、アーチが長い脚をばたつかせているのを見ていた。
「オレ…」
また言い掛けて、言葉が途切れた。アーチは金髪を揺らしながら、くっくっ、と腹を押さえた。
「まだ毒が残っているみたいね。しかも脳細胞の中に」
「ああ」
息を切らしながら、アーチは漸く咳き込み、身体を横臥した。
「オレのアホさ加減ときたら、笑うしかない。キミの前でアホ面さらすしか能が無いんだからな。モジトじゃ、二度も助けて貰った上にケツの皮がめくれたのまでバレてさ」
アーチは応えを求めて、ミスティの方に顔を向けた。ミスティは問い掛けに応える気は無い。
「どうせなら、バカさらしたまま死んじゃう?」
ミスティの左手が、《パイソン》を抜いた。アーチは一瞬、心臓がどきりと動くのを感じた。
「…悪くないアイデアだ」
「でしょ?アナタはお目付け役失格って事で、マンマ・ミーアと泣いて戻るか、のたれ死ぬか。能無しに用は無い」
「で、キミがジンのお守りを代りにしてくれるってか」
「それだけは御免蒙るわ」
「オレもそれは気が気でない」
ミスティは艶然と笑い、アーチの金髪の中に《パイソン》の銃口を埋めた。ゆっくりと長椅子の腕木の部分に腰を下ろす。魅惑的な腰のカーヴが、アーチの頭上に影を落とす。
「あと五分足らず。お別れの儀式が必要なら、してあげる」
「法務省式のかい?」
「いえ、私の自己流よ」
ミスティは腕を伸ばした。右手に《パイソン》、左手は斜め上の壁際にある小さな突起物を掴んだ。
グッシャ。
金属とプラスチックのひしゃげる音がした。
ブーッ。ププププ。音声が途切れると同時に、映像も途絶えてしまった。
「処置室へ行け」
スタンレーは頬杖を付いたまま、気怠げに命令した。女性隊員リンダ・アルバータインは慌てて、敬礼も忘れ、すっ飛んで行った。
リンダは、表情を引き攣らせたまま、廊下を突き進んだ。六フィートはあるリンダの身長はスタンレーよりも、やや大きい。金髪をベレー帽の間に挿み込みながら、ひたすら早歩きに歩いた。
高揚して来た気分を抑え、処置室のドアを蹴った。
リンダは、次の瞬間、おおと嘆息を洩らした。
琥珀色の灯りが部屋を照らし出していた。しかし、処置室と名の付くそこに、人の気をそそる雰囲気は無かった。
目の前に立っていたのは、《パイソン》を手にしたアーチの姿と、頭の上で後ろを組んでいるミスティの姿だった。その小さな頭には、《パイソン》の銃口が付き付けられていた。
「何するつもりなのよ、あなた!」
リンダが言ったのは、アーチに対してだった。アーチはニヤリ、と笑って唇を開いた。
「荒事はしたくないが、止むを得なくてな」
「要求は保釈?それとも他の何か?ヤケクソになってるワケ?」
リンダは声を低くして言った。右腕はショットガンタイプ・ブラスターを構えていた。無意識に熱圧調整用のレバーを引く。銃身を温めておけば、いつでも発射可能だ。
「オレと相棒の銃を返して貰おうじゃないか。大事な商売道具、いや、ヤツにはそれ以上の物らしいからな」
アーチは淡々と答えた。
「…何ですって?」
殆ど囁きとも取れる声で、リンダは言った。
「こんな事をしたら余計に罪が重くなるわよ。ブタ箱にブチ込んでやるから!」
「その前にオレの実弾をブチ込ん…う」
アーチは激痛の為、右膝を後ろへ引いた。ミスティのショートブーツの踵が、見事、膝の半月板に食い込んでいた。
「しょーも無い事言ってんじゃないわよ、おバカ。猿芝居がバレちゃうでしょうが!」
ミスティは小声で叱咤した。
「ち…」
アーチは咳払いして、再び仕切り直した。リンダは緊張しまくっていた。二人のこそこそ話には全く気付かない。
「銃を返して、それからどうするの?」
「それ以上聞いてどうする?この巡検使サマの命が惜しけりゃ、詮索は無しだ。この女が死んだら、あんた達国際警察の沽券に関わるのは言うまでもあるまい」
我ながら陳腐な台詞だ、今時田舎芝居の悪党でも、こんな事言わないぜ、とアーチは思った。ミスティが与えてくれたヒントとチャンスは素晴らしいが、それを生かし切れる台本を咄嗟にでっち上げるセンスまで求めるのは、無理があった。
「なァ、やめようぜ。オレこれ以上恥掻きたくないもん」
「今更何言ってんの、大根。マジになんなさいよ、マジに」
ミスティは落ち付かなく瞳を泳がせた。銃口を付き付けられた美女あわや、といった風情に。成る程、しらばっくれるのは男よりも女の方が一枚上手だ。
しかし、アンタそんなモンでびびる、タマかよ。アーチは内心毒づいた。
ピピピピピ。
タイムキーパーが時間を告げた。と、同時にドアが開いた。徒手で堂々と乗り込んで来たのは、誰あろうキール・スタンレーだった。
スタンレーは嘲笑を浮かべて、右手を挙げた。
「下がっていいぞ、リンダ」
リンダはえッ、と小さく疑問符を発し、それでも上官の言に従った。おずおずとブラスターの温まった銃口を下げ、大柄な娘は扉の前まで下がった。
「いい度胸してますな、お二人さん」
英国人は手袋を脱ぎ、拍手喝采した。本気で拍手しているのではない。本気だとしたら、少しばかり頭神経をやられているに違いなかった。
「こんな殺風景な部屋で下手な芝居はよしたほうがいい」
「チッ」
アーチは軽く舌打ちして、《パイソン》を下ろした。ミスティは黙って左手を出し、パウダー・ガンの重みを受け取った。
「バレるのを承知でやってんだから、いい度胸と言わずして何と呼びましょうか」
スタンレーは再び手袋を嵌めた。
「キミには負けるよ。フランス人の厚顔さには」
「フランス人、は余計だ」
アーチは、ミスティの背中をぽん、と押して一歩スタンレーに近付いた。スタンレーは、目に爬虫類的な悪意を浮かべたまま、首を傾げた。後ろ手から、魔術師みたいに一丁のパウダー・ガンを取り出す。
アーチはすぐに手を伸ばさなかった。確かに目の前にあるのは、《キングコブラ》ではあったが。
「キミの情熱に免じて、銃は返そう。ホリーのやった事も詫びたい」
「ホリー?ああ、アレね。ところで、もう一丁はどうした?」
アーチはスタンレーの右手から《キングコブラ》を受け取りながら、訊いた。スタンレーはその質問にも、相変わらず鉄仮面の相好を崩さなかった。
「私の予想通りなら、キミの相棒の手元に戻ってる筈だ」
「ジンの…」
アーチは顔をスタンレーから背けた。偶然、ミスティの視線とかち合う。
「それはまた、どういう意味なんだ?」
スタンレーは何かを計算しているような表情で、室内を見回し、リンダの強張った顔に目を止めた。ややあって、スタンレーはアーチの方に振り返った。
「…キミには一つやって貰いたい事がある」
ミスティ・サファイアは複雑な面持ちを露わにして、スタンレーの背中を見詰めていた。穴が開くほど。
《鉄仮面》キール・ロイヤル・スタンレー。
如何なる過酷な任務をも無表情さながら遂行するところからついた異名。本人にとっては、あまり名誉ある称号では無いのかもしれないが。
「ホリー・ディプシーを殺して欲しい」
そう言った時も、キール・スタンレーは表情を変えなかった。虫も殺さぬ穏やかな表情で。
ミスティは横目で、チラとアーチの顔を盗み見た。
アーチは無言でスタンレーから取り戻した《キング・コブラ》を白衣の下のホルスターに収めていた。
返事が無いのは、イエスと同義。
とは、アーチ自身の言葉だ。はい殺せ、と言われて諾々とやろうなんて、この男も普通じゃない。何処か人間としての箍がはずれているに違いない。
「まァ、他人の事は言えないか…」
ミスティは溜め息混じりに髪を掻き上げた。
A25室はもぬけの空だった。スタンレーがその事に気付いたのは処置室の悶着を見る少し前の事だった。
消灯時間、午後十時。それから約半時間後。モニター係から連絡が入った。
キール・スタンレーは丁度、国際警察本部からの連絡を受け取ったばかりで、残業中だった。
昨晩の騒動と侵入者の報告を提出する為の準備を行っていた。何故このような些末な仕事を《鉄仮面》ともあろう男が処理しなければならないのか。今更、そんな感慨は捨てていた。
あと二ヶ月もすれば、うえ上層都市に戻れるという指示があってからというもの、スタンレーはそんな事で一々腹を立てる必要もなくなった。
それよりも、スタンレーにはやるべき事がある。一つはディアマントスの法務局長が癒着している或る組織と、その目的を調査する事、今一つは《不帰の砂漠》自体が持つ謎を知る事だった。
「それとホリー・ディプシーと何の関係があるというの?」
ミスティは、スタンレーを睥睨しながら訊いた。
「バカーディ局長の事は既に調査済だ。優秀な貴方がたが同じ所に行き着くのも、そう遅い時間ではないでしょう」
「一々ムカツク言い方ね」
ミスティは、不愉快になった。出遅れたという点を抜きにしても、カンに触る、とミスティは思った。
アーチは最上の愛想笑いを作り、ミスティの気を和ませる為にウインクしてみせたが、手痛く付き返されてしまった。不毛だ。
「悪いが、まだ情報は売れない。結果的には貴方の進退に有利する情報だとは思いますがね…」
ホリー・ディプシーがディアマントスの診療所に赴任してきたのが約一と月前だった。前任の医者は高齢の為に隠居したばかりだった。
「診療所はディアマントスの町のもの。つまり貴方がたヴァティカンの管轄になる」
「そして、ホリーは元々、我々の警察病院に勤務していた」
スタンレーは言った。
アーチとミスティは視線を合わせた。
「これがどういう意味か、聡明な貴方がたはお分かりでしょう?」
「二重スパイ?」
ミスティが言い掛けた言葉を、アーチは無言で遮った。
大抵、国際警察に勤務する専門医は、何年かを僻地で過ごし、各国部署に赴任する。ホリーの場合も同じ経歴である。
彼等は、自分達の隠語で、ディアスポラに行く事を《降りる》と称している。
本部に戻っての勤務がエリートとしての当然の道筋だ。
ところが、ホリーは依願退職して、再びディアスポラの地に降り立った。
「ホリーの目的は本来の仕事ではないんでしょうな、恐らく」
「診療所にオーデコロンの匂いが残っていた。あんたの」
アーチは言いながら、自分のネクタイの端を弄んだり、結び直したりしていた。今日のは、カーマイン・レッドの透かし模様が入ったネクタイだ。グレイのシルク・シャツによく映える。
「探りを入れたにしては大胆じゃないか」
「こっそりやるのは私の趣味じゃなくてね。診療所での砂漠の動物の遺伝子研究というのは口実で、ホリーは我われに関係の無いところで《不帰の砂漠》を探ろうとしているようでしてね」
「だろうな。オレも美人なら兎も角、只の毒サソリには興味が無い。だが、だからって殺す必要はあるのか?」
アーチは素っ気無く、だが嫌味たらしく語尾を上げて言った。
美人のサソリなんかいるか、バカ、とミスティは呟いたが、その声はスタンレーには届いていない。
「我われに不都合があればの話だ」
「条件付きね」
「国境破りの罪もあれば、何しろキミの相棒が人質に取られている」
「そぉれは、どうだか」
ハハハ、とアーチは揶揄めいた軽い笑い声を立てた。
「あいつの事だから、鼻の下伸ばして、ついて行きますとでも言ったんだろうぜ」
アーチはネクタイの端をベルトの間に突っ込んだ。スタンレーの冷ややかな眼差しをかわして、オリーヴ・グリーンの瞳を廊下の壁に向ける。
「ホリーをとッ捕まえて、なおかつ《不帰の砂漠》の秘密が知れれば、あんたにとっては一挙両得。いや、昇進のオマケ付きかも知れないしな。でもって、ついでにオレ達を釈放する口実にもなる訳だ。あんたの考えそうな提案だぜ」
アーチは思い付くままに、喋った。スタンレーは、まだ喋り足りないと言った感じのアーチを見て、大きく息を吐いた。
廊下の奥のゲートが開いた。砂漠へと続く滑走路のような長いタラップが、斜め下方に伸びて砂地に突き刺さっていた。
空には満天の星が。
「トラップはありません、安心して降りて下さい」
リンダが右手を差し出した。ジュラルミン・ケースをアーチに向かって渡す。スタンレーはアーチとミスティを外へと促した。
「わ、私も行けっていうの?」
「当然です。《特検》ともあろう御方があんなフザけた猿芝居をして」
スタンレーは小声で、ミスティにだけ言った。ミスティは怒りと恥ずかしさで、カッとなった。
「あの男に何か金以外の借りでも?」
「失敬な。おじさ・・・上司の命令でなければ誰が!」
アーチは既に砂地を踏んでいた。程なくしてミスティも背中を押され、よろめくようにしてゲートを出た。見送るスタンレーとリンダは最敬礼をする。
「御無事で」
ゲートの扉が閉じられていく。
「付き合いの悪ィヤツだな、ったく」
アーチは横目で、スタンレーの慇懃極まりない敬礼の格好を見遣りながら、砂を蹴って歩き出した。
第三章へ続く
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