第四話
〜不帰の砂漠のスクエア Il recluso deserto danza in quattro coppie〜
(後編)
第三章 THE DEATH TRAP 罠
その時、老神父は若かった。
若さと希望と夢で、痩せた胸は膨らんでいた。
とはいえ、十代の最後の年にする事としては、《不帰の砂漠》の探索はあまりにも無謀過ぎた。
腰には飲料水用の小さなタンクとサバイバル・ナイフ。背負った寝袋とテントはぼろぼろになり掛かっていた。
毒を持ったサソリも、砂泥鰌もナイフとボウ・ガンで凌いで来た。だが、喉の渇きは癒えなかった。喉の渇きに苦しむ人間は、最後に口にした飲み物を思い浮かべるという。
今、老神父が思っているのは、一日前に飲んだタンクの中のエールだった。
日は沈み掛けていた。これが落ちれば、また静かな深淵から夜の魔物が浮かび上がる。流沙を避けて、焚き火出来る場所を探さねばならない。
三日間歩き続け、何も見当たらない。
きっと何かある、そう思い続けていられるのも、限界が近付いていた。
太陽が傾き出した。
地平線を見詰める老神父の目に、何か鋭い輝きの物が映った。思わず、走り出した。
荒涼とした砂漠。砂と太陽しかない、その世界にかつて老神父が見たものは、白い輝き。白い焔のように、夜の砂漠に広がる光の揺らめき。
それは、きらきらと波打って老神父の胸にせり上がって来た。
「海じゃった」
「海ィ?」
ピーチィは、首を傾げた。
「砂漠のど真ん中に海なんかある訳ないやん」
「海じゃ、海としか思えん」
次の瞬間、老神父は眩しさに視界を失った。失った視界は、二度と戻ることは無かった。これも、行ってはならない禁断の地に足を踏み入れた罰として、自らそれに甘んじる事にした。
視力を失った現在となっては、もう現実の砂漠がどうなっているのか確かめる事も出来ないが、網膜に焼き付けられた記憶だけは、拭い様が無かった。
青年は、眉を寄せて苦笑した。ピーチィの耳元で、こっそりと囁く。
「じいちゃんは、本物の海を見た事が無いんでね。想像だけでああ言ってるんだけど…」
「見た事無いんか。ほなら仕方無いけど」
灼熱の中で垣間見た蜃気楼とも考えられる。或いは、渇望が幻覚を見せる事もあるだろう。
「嘘は付いておらん。あれは海に違い無い」
「……」
ピーチィと青年は、顔を見合わせた。
「ちゃう!」
ピーチィは叫んだ。
「それは海とちゃう、もっと凄いモンや」
少女の頬が上気していた。お宝の匂いがする、その手のピーチィの勘は冴えているのだ。
空は黒曜石のように輝き、ラピス・ラズリのような金粉をちりばめていた。
ジンは、常に半歩前を行くホリーの背中を見詰めていた。無駄な体力を使わない為に黙っているのか、出発してからというもの、一言も口をきかない。
「《不帰の砂漠》までエスコートして頂戴」
ホリーの提案は、こうだった。
提案というよりはむしろ、恫喝に近いものだったが。
「《不帰の砂漠》にある物を確かめて来るのが、私の本当の仕事なのよ。検死医は只のアルバイト」
「オレを連れて行ってどうする気だよ?」
「あなたを待っていたというワケでは無いのだけれど、あなたみたいな無謀な男がいてくれないと困るのよ」
ホリーはバラの蕾みたいな唇をすぼめて、言った。無謀というのは、褒め言葉ととっていいのか、バカにされているのか。
「意味がわかんねえ!オレじゃなくたって構わんのじゃないか?」
「でも、あなたじゃないと駄目なのよ、きっと」
ホリーは確信を持って、答えた。そこまで言われると、ジンもこれ以上聞き返す気にはならなかった。もとより、面倒臭い事になると、自分の弁が立たない事を充分自覚している男だ。むしろ、黙っていた方がマシというものだ。
一面の砂。それも、年月を経ないで急激に外界からの変化に晒された土地。怨嗟が篭っていそうな只ただ、砂だけの地に何があるというのだ。
ジンの頭の中に、古い古い昔の童謡が流れ出した。
どんなに意識の外へ締め出しても、歌は独りでに記憶に甦り、顔の回りに小うるさくまとわりつく羽虫のように執拗に反復した。
「つーきのー、さばーくをー。はーるーばるとー、たーびのおー、らくーだがー、ゆーきーましたー」
ジンは静けさに耐えかねて、突然に歌い出した。
「きーんとー、ぎんとのー、くーらーおいてー、ふたつーならんでえー、ゆーきーましたー」
自然と足取りがリズムを刻んでいく。
「きーんのーくらーにはー、ぎんのーかーめー。ぎんのー、くらにはー、きんのーかーめー」
ホリーは振り返った。優美な眉を顰めて、ジンを詰るような顔付きをする。
「なぁに、その歌?何語か判らないけど、古い歌なの?」
「昔の日本の童謡だ。《月の砂漠》だったかな」
「月なんか出てないじゃないの」
この童謡が記憶の淵の何処から浮かび上がってくるのか、ジンには判っていた。
顔の無い両親の記憶。母の歌を聞くのは、午睡の時と、就寝の時だけだった。それにしても、こうも自然と浮かび上がって来るのは何故だろう。
砂漠は既に、罠を解かれてあった。
それは、国境警備隊が動き出したのと同義だ。ホリーは、自分の筋書き通りに、警備兵の目をくらまして施設を抜け出した。
そんなささやかなトリックも長くは持たない。ホリーは予めその事を承知で、ジンを連れ出した。
ジンのヒップ・ホルスターに収納されている《ブラックホーク》が、その証拠だ。
サンド・バギーにも乗らないで、只ひたすら歩く。
何をやろうってんだ、何を。ジンは乾き始めた唇を舐めた。
鴉のしゃがれた鳴声が頭上を旋回していた。太陽に身体を灼かれ始めてから、二時間ほど経過しただろうか。
ジンは目を凝らした。
しかし、砂塵と強い照り返しにやられて、視力は確実に衰えていた。
一方、ホリー・ディプシーは、これが意外にもしっかりした足取りで進んでいた。
ジンは頭を振ってまた歩き出した。
昨晩は、焚き火を取った。毒虫がいない場所を探すのに一苦労したが、結局岩場を見付ける事が出来た。
「あんた、砂漠に何があるのか、判ってんだろう?」
ジンは、マルボロをふかしながら、訊いた。
ホリーは黙って首を横に振った。少女のような仕草だった。ジンはふと、ピーチィの蓮っ葉な顔付きと訛りを思い出した。
あいつ、きっと怒ってるんだろうな、今頃。
「何も聞かされていないわ。只、何があるのか見て来い、と言われただけよ」
「その、あんたに命令してる連中ってのは、国際警察とは全く関わり無いのか?」
「関係無いと思うわ」
ホリーは、防寒着を羽織った。砂漠の気温はすぐに落ちる。
「報酬が目的でやってんのか?」
「そうよ」
それ以外に何があるの、といった目付きでホリーはジンの顔を見た。
「あなたにも分け前をあげるわよ」
「なら、オレの相棒も呼んでやれば良かったのにな。あいつは女を口説く金も無くてピーピー言ってるから、死んでもやるぜ」
そう、とホリーは気の無い返事をした。愛想が無い。砂漠に出てから、やはりホリーは見違えて愛想が悪くなっていた。
「きっと、私達が今まで見たこともないような物があるんだわ。例えば、原油の泉とか、石炭とか…」
「失われた地下資源か」
そんな物は、ジン自身もお目に掛かった事が無い。それこそ、小学校の教科書に載っていた記憶がある。
失われた時代の、失われた動植物、鉱物資源。今も、何処かで石油を掘っている酔狂な輩がいるとは、聞いた事があるが。
「あんた、マジかよ?」
「バカバカしい事訊かないでよ。本気でなければこんな事しないわ」
ホリーは、照れ隠しのように思い詰めた口調で言った。
ジンは、二本目のタバコに火を付けた。焚き火目当てに、小さな羽虫が集まって来た。ジンは火口で、羽虫を焼いてみた。残酷な事をしてみたかったのではない。何となく、興味本位の仕草だった。
疲れの為か、ジンは程無くして睡眠に陥ってしまった。
月の砂漠を、はるばると
旅の駱駝がゆきました。
金と銀との鞍置いて、
二つ並んでゆきました。
金の鞍には銀の甕。
銀の鞍には金の甕。
二つの甕は、それぞれに、
紐で結んでありました。
童謡の節回しとそれに導かれる追憶が、際限も無くジンの脳裏で反復されていた。
灼熱もまた非情だった。
情けない、怠けた体に対する罰だ、きっと。ジンは唾の塊を吐き出した。
既に、スキットルの水は殆ど飲み干していた。草も生えない鍋底のような岩盤は、ところどころひび割れて、砂礫の原と化している。遥か彼方の山並みは、陽炎のように揺らいで見えた。
ジンは、交互に運ぶ自身の足から目を離さなかった。
「…何?」
ジンは、つと立ち止まって、顔を上げた。汗だくの顔が、直射日光に歪んだ。
「ホリー!」
叫喚が虚しい空に響いた。ジンは再び、胸が裂けるかと思うくらいに大声を上げた。
「ホリー!何処行く気だ?」
だが、ホリーの返事は無い。目の前で揺れている人影は、ホリーの背中では無い。もっと、大きく黒く禍禍しい者だ。
黒いマントを翻した男。
恰も、ワタリガラスの黒い大きな羽根を翳したが如く、布は微風に靡いていた。
ジンは、そのいささか大仰な立ち姿を見て、呆然と立ち尽くした。不思議と興奮も無ければ、緊張も無いのは何故だ。自分が想像していたのに反していた。
驚嘆の声すら出なかった。
ジンは、思考が停止したかのように、ただ男の影を追って歩き出した。殆ど駆け足だった。
身を隠そうにもあたりには、自分の影さえも遮る物が無い。
「シルヴァー・ブレット!」
ジンは前方の人影を見据えたまま、足を速めた。男が振り向いた瞬間、パウダー・ガンを抜く覚悟が充分に出来ていた。
男は帽子を脱いだ。ジンと同じテンガロン・ハット。蓬髪は太陽の光に晒されて、白く光っていた。
男が振り返った。
ジンは、息を止めた。
熱く乾いた空気が、ジンの胸に勝手に入り込んで来た。思わず項垂れる。
黒いマントの男は、《神鎗》シルヴァー・ブレットでは無い。
「…ジャバー・ウォック師匠!」
何故、ここにいるんだ。そう言おうとして、ジンの喉は貼り付いた。渇き切って、その名を呼ぶので精一杯だった。
ジャバー・ウォックの瞳は無感情にジンを見詰め返した。
《ブラックホーク》の銃口が下がった。
「う…あ…」
ジンはパウダー・ガンを腰のホルスターに収めようとした。しかし、身体の平衡をすっかり失っていた為に、出来なかった。そればかりか、口を半開きのまま、砂地に突っ伏してしまった。
砂漠の真中に刑場があった。古い昔に使用されたものと思われる、荒れた岩場は、夥しい頭蓋骨の堆積で、白く輝いていた。
遠目に光と映ったのは、これだったのか、とアーチは舌打ちした。
ともあれ、休憩することは出来そうだ。
夏の星座が傾き始めて数時間。夜に違いなかった。
「不気味なところね」
ミスティが、疲れた膝を押さえながら呟いた。
「国境を越えようとした人間が処刑された所?」
「いや。国境警備が出来たのは最近の話だろう。これはもっと古い物だ。少なくとも、一世紀は経ってそうだぜ」
「昔の刑場が何でこんな所にあるの?砂漠が出来てから、こんな物造る必要があったって事なの?」
「オレに訊くなよ」
「それも、そうね」
「…それより腹減ったな」
アーチは、なだらかな斜面の岩場を見下ろした。
絞首台の跡と、磔刑用の組み木の朽ち果てた破片で、何とか薪は準備出来そうだった。
岩場に上がったのは、自分が、というよりもミスティの疲労を案じての事だった。
夜っぴて歩いたものの、何処をどう行ったものか、ジンの足跡を知る事は出来なかった。
最初サンド・バギーに乗ってみたが、砂地にスタックしてしまい、結局は数時間も経たないうちに乗り捨てる羽目になってしまったのだ。
仕方なく二人して、ぶらぶらと歩いた。
そして、丸一日が過ぎたところだ。
ミスティの疲労はほぼ限界に近付いていた。行き掛けにテンガロン・ハットを持って来たのは正解だった。少なくとも日射病の危険を逃れる事は出来たが、昼夜ぶっ通しで歩いた肉体の疲労は否めない。
それでもミスティは自分から薪を集め、一ヶ所に積み上げていった。背中を向けたミスティの、夜目にも白い剥き出しの腿と尻が眩しい。アーチは座り込んだまま、その様子を眺めた。
「うーん。悪くない眺めだね」
「バカ」
ミスティはむっ、として言いながらも、悠然と火を起した。青い炎が走って、薪はめらめらと燃え出した。
アーチはジュラルミン・ケースから出した非常食を二つに割り、ミスティに手渡した。空腹だった二人は、無言で非常食を平らげてしまうと、する事が無くなった。
炎を差し挟んで、アーチはぼんやりと眠気を感じながら、ミスティの半開きの青い目を見ていた。
「訊いてもいいかい?キミが国境まで来た理由を」
「仕事に決まってるでしょう」
ミスティは素早く、つっけんどんに応えた。その言葉で、アーチは一気に眠気が覚めた。
「これよ」
ミスティは、コートのポケットからカルタ・テレフォニカ(カード式電話)を取り出した。
「おじさまからよ。壊れた物は、弁償しなくていいから、これを使うようにってね」
仏頂面で言う、ミスティを見て、アーチは失笑した。
「わざわざ、こんな下らない用事の為に、アナタ達を探して歩くなんて」
「てっきり、オレに惚れたのかと思ったんだけどな…」
「ホントにいっぺん脳天撃ち抜いてあげた方が良かったみたいね」
ミスティはどすの効いた声で言うと、両腕で膝を抱えた。アーチは、焚き火に手をかざしながら、ミスティの横顔を見詰めた。
「やれやれ、お嬢サマってのはこれだから」
「どういう言い草よ、それは」
「そのまんまさ」
アーチは、やに下がった笑みをミスティに向けた。
「伯父サマに言われるままに来たんだろ?ここには」
ミスティはそう言われて、口篭もった。
「悪口垂れておきながら、伯父サマには逆らえない、か?」
「肉親である前に上司だからよ」
アーチは、朽木を枕代りに頬杖を付いて横臥した。静かな微笑が目許に現れていた。
「…ホント根がクソ真面目なんだな、キミらは」
「キミらって?」
「ジンもキミも。自分を律したり、駆り立てたりして生きてるのって、疲れないか?」
「疲れないかって訊かれても、自分をコントロールするのは自分の中にある不文律だわ。今更生き方を変える訳にはいかないでしょ」
アーチはハハハ、と小さく声を立てて笑った。
「だから真面目なんだって。こうあるべき姿なんて、先に作るもんじゃない。振り回されるだけだぜ」
「振り回されてなんか、いないわよ」
ミスティは独り言のように呟いた。
目の前にいるこの男は、相棒が何をしていようが、少なくとも、表面上は冷ややかそのものだ。勝手にしたら、てな具合だ。
お互いに詮索し合わないのが得策、みたいに見える。詮索の必要が無いのかも知れない。
「勝手に言わないで。そもそも、アナタ、おじさまに近付いて、何の魂胆があるの?」
ミスティはアーチの横顔を睨め付けた。
「オレがお近付きになりたいのは、キミの方だ。実際、頼みたい事もあったんだが・・・」
「何を?」
ミスティは、血走った眼の端をきっ、と吊り上げた。アーチは、炎越しにその瞳を見た。疲れて、瞳孔が開いている。
「・・・寝たほうがいいぜ。疲れただろ?」
アーチは其処らに落ちている小枝を、焚き火にくべた。火の粉が一斉に舞い上がった。
ミスティはコートの襟を掻き合わせた。小首を傾げる。
「眠らせてやろうか?」
「眠くないわ」
「そうかい?無理はするなよ」
アーチは、そう言って《キングコブラ》をホルスターから取り出した。ジュラルミンケースから、試薬瓶を出して並べる。そして、シリンダーを掃除する間、無言だった。357マグナム弾を分解し、何やら細工を始めた。
カッチ、カッチ。規則的な金属音だけが、無声の砂漠に響く。ミスティは、じっと炎を見詰めている。
だが、見詰めているうち、幾許もせず瞼が下がった。下がってしまうと、最早、ミスティは目を開けなかった。静かに寝息を立て始めるミスティの頭を自分の膝上に下ろしてやった時も、ミスティは身動ぎ一つしなかった。
「…素直じゃないねぇ。ホントに伯父サマの言いなりってだけなら、砂漠まで付き合う必要なんてなかったろ」
アーチは困惑気味に眉を曇らせ、ミスティの耳元に呪文みたいに囁き掛けた。疲労は次第に重く背中に圧し掛かりつつあった。
焚き火を背にしているうち、夜の涼気が和み始めた。
何時間が流れたのか、アーチにも判らなかった。もしかしたら、ほんの数分かも知れないし、数日のようにも感じられた。
アーチは暗がりで、がば、と撥ね起きた。
「…ねえ」
「ん…ううん」
自然に起きたのではない。起されたのだった。
ミスティの青い瞳が、アーチの目の前にあった。ほんの一瞬だがアーチは驚いた。
焚き火はもう、チロチロと小さな炎を燻らせているに過ぎず、首筋に小寒い空気が漂った。
アーチは、左掌に握ったままの《キングコブラ》のグリップを、正す。そのまま眠ってしまったのだ。
「何かあったのか?」
「ひどい男ね。私を無理矢理眠らせたでしょ!」
ミスティは既に、アーチの膝上から起き上がっていた。
冷たい岩肌の上に、アーチの背中は押し付けられていた。
自分の長い脚に並んで、ミスティのローハイドの間から剥き出しの太腿が密着した。実に悪くない。
「あ?…悪かったかい」
アーチは小さく肩を竦めた。オマジナイの効果はゼロどころかマイナスだ。寝起きのクセに元気過ぎる。ミスティは、そんなおどけた身振りを無視して腰を捻った。
「…来る」
「え?来る、ってオレに言われてもなぁ。タンポンならケースの中敷の奥に入ってる…」
アーチは寝惚け眼のまま、上半身を起こし掛けた。
山脈は黒く煙っている。
空は真っ暗だった。雲も流れていない。その闇色と澄んだ空気は、誰もの自然に回帰する本能を呼び起こした。ミスティとて例外では無かった。
アーチは右手だけ伸ばして、地面に放り出したままの、無防備な《キングコブラ》を拾い上げた。
「冗談ぶっこいてないで」
嘆息と同時に、ミスティは跳ね起きた。驚異の反射神経で、弓形になりながら、《パイソン》を抜く。
金髪の頭越しに、獣の双眸が光って見えたからだ。
否、獣ではなかった。
轟音が重なった。
《キングコブラ》の357マグナム弾は、アーチの眼底に白いマズル・フラッシュを灼き付けて飛び去った。
《パイソン》のシリンダーが、回転した。空薬莢が飛び出す。
「ロブ・ロイ…!」
アーチは運動神経全開で、仁王立ちになった。
はだけたシャツの胸元からは、鋼よりもしなやかで丈夫な筋肉質の胸板が、しどけない感じに露わになっていた。前髪を掻き上げる余裕さえある。
「ぐふふ…ぐふっ」
ロブ・ロイは、不敵な忍び笑いを洩らした。まるで、毛皮を纏ったギガントのように青白い顔色だった。銃弾は二発とも命中していない。
やはり、銃を拾い上げる時間だけ遅れたという感が、アーチの胸に残った。
アーチは右腕を地平線に合わせて上げ、《キングコブラ》のフロント・サイトを見詰めた。
だが、《鉄の爪》ロブ・ロイは、その巨体には不似合いに颯爽と踵を返した。ロブ・ロイは、白骨を蹴散らし、猿のように岩場を掛け降り出した。
「なっ…!」
ミスティは身繕いをすると、《パイソン》のリロードに取り掛かった。マグナム弾を掌に落とし出し、代りに九粒散弾を詰め込む。
「おいおい。何始めようってんだ」
「ぼさっとしてる場合じゃないでしょ。あいつを追うの。ジンの居場所まで導いてくれるわ」
ミスティは自信たっぷりの口調で、リロードを終える。乱れたブルネットを一振りして、テンガロン・ハットを被った。
凛々しく勇敢な女特務巡検使の出来上がりという訳だ。領民を苦しめる悪党輩を一網打尽、美しき侠女ミスティ・サファイアここに在り、か。
「…ヤー了解」
アーチはげんなりした。
気が付くと、ジンは柔らかい枕に顔を埋めていた。枕と思ったものは、女物の上着だった。
涼しさが感じられたのは、胸と額の上に濡れた布が置かれているからだった。
「…起きないで」
ホリーは、ジンの顔を覗き込んだ。女医の表情は微かに安堵を含んでいたが、それでもぞくりとする冷たさに満ちていた。
ジンは首だけを動かして、辺りを見回した。
砂漠の真中には違いなかったが、少なくとも今自分が横たわっているのは、砂礫の上では無かった。
僅かに頭を覆う影は、乾いた岩盤で、足元には枯草が堆積していた。
「おバカさん!砂地に倒れるなんて、無防備もいいとこだわ。すんでのところで、砂泥鰌にやられる羽目だったわよ」
ホリーは意図したよりもかなりきつい言葉で、ジンを怒鳴り付けた。
砂泥鰌。けったいな名前だが、闇サソリと双璧をなして恐ろしい砂漠の小悪魔だ。成虫は大人の人差指ほどの形状で、ミミズに似て薄桃色。見掛けに寄らず肉食家で、哺乳類の内臓が大好物らしい。人間などは、その体孔に侵入して中から食い破るという。
それはもう、肛門からも鼻孔からも、耳孔からも。食い付かれないようにする為には、砂漠で裸にならない事だ。
しかし砂泥鰌よりも、脱走劇以来はじめて見るホリーの感情に、ジンは驚いた。
「悪ィな…」
とはいえ、ジンが漸く喋れたのはたった一言だけだった。
「急に銃を抜いたかと思ったら、走り出して倒れたのよ」
「男は?黒いコートの男は…」
ジンは呟くように、言った。
「男などいないわよ。砂漠に人っ子一人も」
ホリーはテンガロン・ハットをジンの頭の上に置いた。やはりというべきか、あまりの暑さに幻影を見ていたようだ。
それにしてはいやに生々しい表情だったじゃないか。黒いコートの男。ジャバー・ウォックだと勘違いしたのも幻の所為か。
「オレも毒を盛られたんじゃあなかったのか」
ホリーは、ジンの皮肉には反応しなかった。手を額に翳しながら、地平線の方を見遣る。日没までに、まだ数時間ある。太陽は南西に傾きつつあった。
「ここから先は本当に何も無いわ」
「何も無いって、何で判るんだよ?」
「航空撮影で砂漠の様子を見せられたのよ。何も無かったわ」
ホリーの言葉に、ジンは納得がいかなかった。
「何も無い所に行けってのか」
ジンは不満を隠さずに、ホリーを見上げた。ホリーは息を呑んだ。
「何も無いっていうのは見掛けだけよ。でなけりゃ、国境越えを試みて死んだ連中に、何の意味があるの」
ホリーは、ゆっくりと立ち上がった。バギー・パンツは汗でぐっしょりと湿っていた。
「もう行くのか?」
「時間が無いわ」
「時間が無いって、あんたの決める事かよ」
ジンは帽子のつばを摘んで、身体を起こした。まだすんなりと立ち上がるには、少し辛い。背筋を伸ばすと、頭の芯がくらくらした。
既にホリーはジンよりも、二メートルは先に進んでいた。
「…痩せ我慢しやがって。ふらふら歩いてるじゃねえかよ」
ジンは吐き捨てる唾も無いので、足元の石ころを蹴り上げた。石は音も立てずに、空を飛んで行った。
昨晩の刑場よりも夥しい白骨が、砂に埋もれていた。
ミスティは愕然とした。
笑いが込み上げてきそうだ。
「…夜通し歩いて、また骨の山に行きつくなんて」
「お笑いだぜ」
と、アーチがすかさず応えた。
白骨化した無数の野晒しは、沈黙の底からミスティとアーチを見上げた。朝まだきの薄闇の下にキラキラと輝く砂礫の中で、まるでそれは白い貝殻のように透き通って見えた。
「ロブ・ロイは?」
アーチの問いに、ミスティは右手を挙げた。
「あそこよ」
ミスティの指先を延長すると、大男の背中に行き着く。ロブ・ロイは、ジン・スティンガーを発見していなかった。
先刻からじっと砂漠に立ち、遠くを見詰めるような面持ちでいるのだ。何か思うところがあるのか、それとも何の目算も無くジンが来るのを待ち受けているのか。
何れにしても、正気の沙汰とは思われない。
アーチは、前髪を上げた。
長く伸ばした前髪に言及しなかったのは、そういえば、ミスティと過去にはジン・スティンガーくらいのものだ。
アーチはふと、考えた。訊かれれば、「変わった髪形の方が女達の話題になるからな」とか、「左右の視力が違うんでね」とか、それなりの答えを捻り出しただろう。
その最大の理由は、アーチ本人に訊かずともジンもミスティも判っている。
パウダーガン使いのみが知る、照準の問題を。
視力があり過ぎて近距離のサイトがブレるのを防ぐ為以外に、隻眼を装う理由は無い。
アーチのオリーヴ・グリーンの両眼は、各八・〇以上の視力をフルに活躍させていた。地平線上や水平線上の障害物を見分けるのは、お茶の子さいさいなのだ。
だが、ジンの姿は何処にも見つからない。
アーチは一分程眺めて、断念した。ミスティは張詰めた表情を、アーチに向けた。
「妙だと思わないか?」
「何が?」
「あれを見ろよ」
アーチが示した場所には、シロフォンのように繊細な白い薄い骨が転がっている。ミスティは目を細めて凝視した。
「よく見えないけど、鴉か何か鳥の骨?」
「屍骸を啄ばみに来る鳥の骨が何で、その屍骸と一緒にあるんだろうな」
その疑問は、程無くして解かれた。
《鉄の爪》ロブ・ロイは、不意に動きを見せた。
砂漠のその辺りをぐるぐると回っていたかと思うと、一歩踏み出した。
次の瞬間、砂煙が上がった。赤い熱線がロブ・ロイを貫いた。
「ブラスター?」
熱線銃に似た光は、ブラスターでは無かった。それは砂の中から一瞬だけ現れた。ミスティは、目の錯覚かと思ったくらいだ。
「何なの?」
ロブ・ロイが立ち上がり、歩き出した。何やらなぞるようにしてゆっくりと歩き出す。
ロブ・ロイの膝上から白い煙が上がっていた。肉の焼ける嫌な臭いが立ち込める。
「何処行くのよ?」
ミスティに黙って、アーチはやにわにロブ・ロイを追って歩き出した。
最初はまっすぐに、いったいどんな遠くまで歩き続けるのだろうと思ったところ、やがてカーヴを描きはじめる。
まるで円を描いているみたいに。
円弧を描き始めたところで、アーチは引き返し始めた。ロブ・ロイは、まだ歩き続ける。
息一つ切らさずに、アーチは戻って来た。しかし、額に汗の玉が浮いていた。
「トラップだ」
「国境警備とは無関係の?」
「もっと原始的な作りだと見た。動く物体に反応するのか、震動感知式なのか。熱感応式ではない事だけは確かだな」
ミスティは腕組みして、ロブ・ロイの姿を遠目に追った。
「何処まで続くのかしらね…」
「さァな」
アーチはその場に座り込んだ。日中の暑気にやられて、疲労が限界に達していた。白衣の裾が、砂地に貼り付いた。
「今、何考えてる?」
アーチはミスティの姿を眩しそうに見上げた。逆光で顔はよく見えない。
「アナタと同じ事を考えてるわ、多分」
「昨夜の刑場、そして目の前にあるデス・トラップ。どちらも遥か昔、同じ時期に出来た代物じゃないかってな」
ミスティはしっかりと頷いた。
額から流れ出した汗を拭うのも忘れて、アーチは砂が描く地平線を見詰めた。
地平線の向こうに、豆粒大の何かが見えて来た。
そして、背後からは聞き慣れた訛りの強い言葉がアーチをどやし付けた。
「あんたら、何やっとんの!?」
「…よ!お嬢ちゃん」
アーチは振り向きもせず、力無い右手を挙げた。
ピーチィはむっとした顔付きでアーチの前に回った。
「元気だな」
「ウチにはダチョウがおるさかいにな」
白いダチョウは後ろ足で砂を蹴上げている。興奮気味のようだった。
ピーチィの視線は、目下アーチに向けられているばかりだ。時折、遠巻きにミスティの方を見遣り、小声で言った。
「何であんたとあの女が一緒なんよ」
「神が与えたもうた機会でな」
アーチは、十字を切りながら眠い目を擦った。その頬をすかさずピーチィの両手指が思いっきり抓った。
「アヤシイ。あやしい、怪しい、アヤシイ!」
「ひょ、はだせよ…離せ。二人して、ヘトヘトになってまで夜っぴて歩いて、これ以上何があるってんだ。クソ面白くもない!いや、クソも出ねえの」
「ホンマやろうな?」
アーチは黙って深ぶかと頷いた。ピーチィの視線はまだ、疑惑を捨て切っていなかったが。
やがて、地平線が白み出したのに気付いたのは、ミスティだけだった。
「どうするよ?」
ジンは自問自答した。太陽は速いスピードで東から昇り始めた。嫌な予感がした。
だが、予感が神経を支配してしまうまでに、ジンの身体は動き出していた。逡巡はこの後に及んで無意味だ。
砂地を蹴って、飛び出す。頭の中では、何故かアーチの声でカウントが聞こえていた。
地雷を踏んだみたいに、砂が暴発した。黒い長虫のような姿が一瞬ちらついたかと思うと、ジンのブーツの先が黒焦げを作っていた。
巨大な砂泥鰌ではない。砂泥鰌が熱線を吐き出す筈が無い。
「チッ」
間髪入れずに、ジンの背中を次の赤い線がかすめて行った。
《ブラックホーク》の肉厚なシリンダーが回転した。トリガーを絞る。ついシングル・アクションで対応してしまい、ジンは臍を噛んだ。
着弾は無し。ミッシング・イン・ファイア。虚しく銃声の名残が空に響いた。
ジンは慌てて後退した。これ以上生身で進むのは危険だと判断出来たからだ。
「レイ・ビーム?」
ジンはホリーの方を振り返った。ホリーは首を横に振る。
「ガーディアン。砂漠を守る者よ」
正確には、ガーディアン・ワーム・アーツという。二十一世紀半ばに開発された殺人兵器の一種だ。
その名称の通り、ガーディアンは蛇か砂泥鰌のように細長い巨体を持つ。首は十数本の分かれを持ち、各が感知した侵入者を熱線で攻撃する仕組みになっている。
ガーディアンは砂漠や湖沼などの危険地域に、兵士の代りに設置されていた。
実戦で使用されていたのは、二十二世紀初頭までだった。その存在自体はその後も知られてはいたが。
だが、今は何処をさがしても無いだろう。戦争での集団対人兵器使用は国際協定で廃止されてしまったのだ。
「やっぱり…」
ホリーは無意識の内に呟いていた。
「前世紀の兵器は総て廃棄されてしまった筈なのよ。先の国際連合集団虐殺防止条約、所謂セヴンス・ジェノサイド条約で」
二十世紀半ばに国連で採択された《集団殺害の防止及び処罰に関する条約》から約百八十年。世界は紛争と大規模な戦乱の度にジェノサイド条約を改正してきた。前回、徹底的にこれらの集団殺人兵器を抹消したにも拘らず、まさかこんな辺境に残されていたとは。
「辺鄙過ぎて手を出せなかったんじゃないのか?」
「そんな事無いわ。国連軍は北海の底やバイカル湖から、南極の氷の下まで漁ったのよ」
ホリーの言葉は、絶対的に響いた。
「けどあんた、わざわざこいつの存在だけを確かめに来たんじゃないだろうな!」
ジンは疑惑の眼差しをホリーに向けた。
「その通りよ」
「何ッ!?」
ホリーは冗談でも嘘でも無い、といった表情をしている。ジンは、何と言ったものか、瞬間困惑を覚えた。
「あんたの本当の上司ってのは、何処のどいつなんだよ。でもって、あんたが所属する組織は?」
「訊いてどうするの。少なくとも、国連軍と国際警察で無い事だけは確かよ」
ホリーは、上着のポケットから超小型カメラを取り出した。カード型で、IDカードと似た形状の物だった。
「国連軍がガーディアンを残しておいた理由、それも判るといいのだけれど…」
ホリーは、呆気に取られているジンを促した。
「悪いけどもう一度、ガーディアンを起こしてきて頂戴。記録を残しておかないといけないから」
「お、起こしてきてって、あんたなァ…」
ジンはあんぐり、と口を開けた。ホリーのきつい眼差しに動かされて、ジンは仕方なく再び《ブラックホーク》を握った。
「壊さないで」
「無茶言うなっての!」
半ばやけ気味になりながら、ジンはホリーに背を向けた。
朝日が射し始めた。
テキーラ・サンライズの色がそのまま空に溶け出している。薄桃色の上空から、グラデーションを彩って黄金が立ち上る。暗い緞帳が落ちていくように砂漠はその色を反射し、輝き出した。
まるで、大海原のように砂の線は畝を作り、波は白く光った。
渇望した旅人なら、ここを海か大きな湖だと見るに違いない。それほどに、砂漠は大きく異様なまでに輝いていた。
「何なんだ、この輝きは…」
ジンは思った。
振り返ると、ホリーも砂漠の描く大海原をじっと見詰めていた。
「まさか」
ジンは、走り出したかと思うと、スライディングの格好でガーディアンをかわし、左手を伸ばした。一握りの砂を掴んだ。
そのまま取って返したが、掌に残っていたのは、一つまみ程の砂だけだった。
「見ろよ!」
ジンは掌を上向きにして、ホリーの目の前に突き出した。黄白色の砂に混じって、眩い輝きを発しているのは、無色透明の小さな粒だった。
「ダイヤモンド!?」
ジンは、黙って頷いた。
砂漠の海はダイヤモンドの海だったのだ。
第四章へ続く
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