メメント・モリ(その1)
現代社会にもあるといえばあるし何ともいえないが、昔、人は生きている時も身分が異なった。死んだ時も死んだ後も区別されているのだ。
天皇(帝)の死は「崩(御)」という。
では徳川将軍の死は?
答えは「薨(去)」である。「薨(こう)ず」ともいう。
征夷大将軍は帝の配下であるので、諸侯と同列なのである。将軍は、死後正一位太政大臣を賜るが、従四位下権少将である松平筑後守も「薨去」で同じだ。
これは、中国の古典『礼記(らいき)』(注1)曲礼下の、
「天子の死は崩と曰い、諸侯は薨と曰い、大夫は卒と曰い、士は不禄と曰い、庶人は死と曰う」
に、基づいている。
言うまでも無いが、こんにち我々が日常の礼儀作法として使っているしきたりの根本は、この『礼記』や『周礼』『儀礼』などに依拠する。
それは兎も角、まず
「薨」は「夢」の省略と「死」で、その音は昏睡の時の声を表すという。
「崩」は山の崩れる様で、つまりその山とは神の降臨する聖地の山なのである。神を祭る代表者の帝のシンボルが崩れる、という意味なのだ。
諸侯はいい。だが、徳川家の直参に該当する御家人・旗本等はどう表現するかというと、やはり「薨」ではなく「卒」あるいは「逝去」などが妥当ではないか。
「卒」とは、「衣の襟を重ねて結びとめた形」で、死者の卒衣をいう。これは死者の魂が胸元から彷徨い出ないように、という礼からきた。礼儀に関する語なのである。
「逝」は、昔は単純に「往く」というだけの意味で使用されていたが、のちに「しぬ」という意味が生まれた。
「死」は会意文字で、人の残骨の形を示す。ということは、つまり字形からいうと大昔は人が死んだら死んだまま風化させてのち、その残骨を集めて葬ったのであろう。乾燥した土地ならではの風習だろうが、湿気と雨の多い日本では不衛生で無理だ。ちなみに「葬」は、草の間に「死」をくわえた字で、草原や草むらに埋めて葬るのである。
余談だが、「薨」には「夢魔にうなされて死ぬ」という原義がある。どうしてその字が諸侯の死に使われるようになったかという経緯はわからない。しかし、諸侯はそれぞれ国主だったり領主だったり、数多の戦を経たり、無理が祟って病気に苦しんだり、あるいは暗殺されたり、何か暗い事情も多かったからではないか?などと考えてしまう。
「不禄」は、あまり日本では一般的ではない。そもそも「士」はさむらいの事だが、日本人には「士大夫」と言われて「士」と「大夫」の区別が明確に意識されていないようである。「士」は下級役人あるいは、大夫に仕える兵卒の事で、陪臣などもこれにあたる。直参の下の用人などがこれに該当するだろう。
直参も大名も中間もいっしょくたにして「さむらい」と言ってるような感じで、日本人は「士大夫」と言ってしまう。という認識では、「卒」も「不禄」も区別の仕様が無い。
困るのは、郷士とか学者のような身分に対してだが、中国では学者は「士」に相当する。名のある学者や芸術家、詩人などの殆どは在野ではなく、皆官僚だからである。中には大臣という者もいる。
日本の場合、ややこしい時は「逝去」がやはり無難だろう。
また、年齢によって人の死の呼ばれ方も異なる。
未成年者の場合、二十歳前後なら「夭折(蚤夭)」という。
さらに細かく区別すれば、16歳〜19歳までを「長殤」、12歳〜15歳までを「中殤」、8〜11歳までを「下殤」と言う。(『説文』)
非命の死であるので、魂振りの法という呪儀を行って弔ったことから来ている。具体的にどうしたかはわからない。
「夭」という字は「わかい」という意味だは、象形文字であって元は若い娘が踊る姿であった。娘は巫女で、「若」の意もここから繋がっている。もとは神を楽しませる意。巫女のいちばん脂がのった時分は二十歳頃だから、若い死は「夭折」となったのか。ということで、「夭折」は乳飲み子や幼児には使えないのだ。
生後三ヶ月に満たないで死ぬことを「昏」といい、胎児が母胎で死ぬことを「トク(歹+賣)」という。
墓碑銘などを見ると、正確な年齢はわからなくとも、その人が何歳くらいで死んだかということが判ることもある。「殤」とあれば、少なくとも19歳に満たずに死んだのだとか。
たった一文字でも、人の死は生前の姿の一部を物語るものである。
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【注1】 『礼記』:五経の一。周の末から秦、漢時代の儒学者による礼に関する理論と実践との記録を集めた書。漢の宣帝の頃の戴聖という人物が記録したもので、伯父の戴徳の編集した『大戴礼』(だたいれい)に対して『小戴礼』ともいう。