| 京都所司代というお仕事 |
| 意外と知られているようでよく判らない京都所司代のお仕事について、簡単にまとめてみました。 不勉強なのでじょじょに改訂していきますが、お気付きの点がありましたら御意見下さいませ。 ◆所司代のはじまり まず「所司代」というのは、「幕府の侍所の頭人(所司)の代官」を言います。「所司代」はそもそも室町時代には京と鎌倉に置かれていました。京都所司は、検非違使の職務であった京の市政と警察権を公使したのですが、所司が在京しない時に所司代が指揮をとりました。 いわば「京都市長」のようなものです。織豊政権以後、京都所司代(あるいは京都奉行とも)は、市政管理のみならず、都市再開発を行い、公家や朝廷を支配する機関ともなりました。京都が今も「太閤はん」を大事にするのは、この時に現在の都市の基礎が出来たからでしょうか。 徳川政権下では関ヶ原の戦直後に設けられ、畿内八カ国の司法裁判権、西国大名の監視機関としての権限も与えられました。京都守護職が登場するまでは、京および西国で最高といえる権威を持っていました。 市長、府警長、高裁裁判官……みたいな仕事ですか。 ◆所司代のお仕事 膨大な権限を持っていた京都所司代の具体的な仕事内容を箇条書きにしてみました。 所司代の幕府での位置は、 「溜間詰席」官位は「従四位下・侍従」で役高は一万石です。 ○朝廷、公家の監視 ○禁裏御所の事務、監督、警備 ○西国三十三カ国大名の動静監視 ○畿内周辺8カ国(大和・山城・河内・和泉・摂津+丹波・近江・播磨)の天領の訴訟等の管掌 ○二条城警備、監督 ○京都諸役人の統率(京都町奉行、奈良奉行、伏見奉行等) ○社寺の統括 ○京における神事、祭事事務(祇園祭の吉符入りやくじ引きなどに立ち会う) など。鶴屋吉信など和菓子の老舗などを上菓子として認可したりもしていたので、雑務も大変多かったかと。いまでも祇園祭の鉾のくじ引きは京都市長がやりますね。 しかし、公家諸大夫は最低で「従四位上」ということで、それらのひとびとを取り仕切る所司代が「従四位下」というのは奇妙なものです。公家社会恐るべし。 ◆組織と補完機関について 所司代を中心に東西両奉行所の与力各20名前後・同心各50名がその任務にあたり、補完機関として各町衆に自衛組織(年寄り制度・10人組、後5人組制度)を作らせ、犯罪の防止から法令の厳守までを町衆自身の手で行わせていました。これは秀吉以来の民間組織です。 ◆所司代屋敷 現在は京都市上京区の待賢小学校に「京都所司代上屋敷跡」の石碑が建っています。行政機関としての 上屋敷(二条城北御門前、藁屋町全域。東西222間半・南北81間半) 堀川屋敷(下堀川町〜中之町。ひまわり幼稚園〜駿台予備校、ホテルニュー京都西部。東西52間半・南北70間) 下屋敷(西院町〜中務町、小山町。東西210間・南北165間程) の三つを有していました。 さらに京都所司代与力・同心屋敷をふくめると広大な土地でした。 今は建物を見る事は出来ませんが、正木坂剣禅道場(奈良市柳生下町445)で菊の紋が入った瓦など、興福寺・一乗院と所司代玄関が組み合わされた建築が見られます。 ◆所司代になったひとびと 徳川幕府の初代所司代・奥平信昌の後、実質的には二代・板倉勝重から譜代(帝鑑間詰)の大名が任命される重要な地位でした。大坂城代を経て同職に就任することが、老中への足がかりとされました。 幕末では、こういう感じ。 酒井忠義(1843年−1850年)(1858年−1862年) 内藤信親(1850年−1851年) 脇坂安宅(1851年−1857年) 本多忠民(1857年−1858年) 松平宗秀(1862年) 牧野忠恭(1862年−1863年) 稲葉正邦(1863年−1864年) 松平定敬(1864年−1867年) 以後廃止。 ですので、外戚大名(親藩)の久松松平家の桑名藩が京都所司代というのもおかしな話ではあります。そうでなくとも既に定敬は溜間詰(侍従)でしたので。御家門である保科家の会津松平家が家格が合わないといって拒否したのは当然ですが、この人事は幾ら兄・容保の請願があったとはいえ、かなりのイレギュラーだといえます。 ◆松平定敬の主なお仕事 元治元年6.5 「池田屋事変」。所司代として桑名藩約100名を出動。 同 7.19 「禁門の変」。幕府連合軍として出動。下立売御門前などで長州軍3千を撃退。 同 10〜12 「第一次長州征討」。 同 12.3 水戸天狗党の西向を敦賀で迎撃。藩士400名出動。(定敬は京都残留) 慶応二年4 「第二次長州征討」。 三年10.15 大政奉還(五十名の諸藩在京留守居に慶喜の書付を宣言する) 12.10罷免。 その他将軍上京の警固など。 これは推測なのですが、定敬は川に縁がある土地を預っています。桑名もですが、京もそうです。実家の本籍のある美濃高須藩(現・海津市)は輪中を持つ水郷地帯で桑名に近く、幾たびとなく水害になやまされてきました。桑名も定敬がお国入りする寸前に高潮に見舞われています。そんな土地柄、藩士もおそらく治水の知識に深かったと思われます。たびたび氾濫する京の鴨川は役人に頼るまいという町衆が主に土砂浚いなどをやっていたようですが川の街でもある京を預るうえでも最適の人材登用ではなかったでしょうか。 ◆所司代のウラの顔 公家の監視をするにあたって、幕府が送り込んでくる密偵(伊賀者)を扱い、また自身も隠密を持っていたとも言われています。公儀隠密は「薩摩飛脚」などが有名ですが、京へもぐりこむので「雅客(宮飛脚)」と呼ばれたようです。おそらく守護職以上にこういうウラの業務が多かったのではないかと思います。事実、膳所藩や不穏な動きのある畿内の諸藩に密偵を送り込んでいます。 いずれにしても、密偵を操る若き所司代・松平定敬って姿が妄想入ります。実際にはそれどころではなくて、部下が仕切ってたんでしょうけど。服部半蔵とか。 |