(一) 三本木

 遠近(おちこち)に常夜灯の火明かりが滲む春宵。月は朧の五つ時、遠くに梵鐘の音が鳴り響いていた。
 馴染み始めた時喜久(ときぎく)の白い腕(かいな)が寅蔵の逞しい首筋に縋った。
「ひとつお願いがあんのどす、旦那はん」
 鼻に掛かったような、やや甘ったるい声が寅蔵の耳穴にじかに吹き込まれる。悪い気はしない。
 何だ、と寅蔵が答えると、時喜久は細面の白い顔を少し傾けて、じっと寅蔵を見据えた。はっとするような黒目の光に吸い寄せられそうに感じられた。
 思えば三月ほど前、この双眸に惹かれるようにして寅蔵は時喜久の後をつけていた。大きく抜いた襟から覗く項と振り向き際に送った秋波(ながしめ)は、商売気を差し引いても余りある色香が漂っていた。所用の帰りとみえて、町家の妻女風の紅縞子の着物に丸髷だった。だが、三本木の置屋、三好屋に入っていくのを見て、寅蔵は躊躇わず心を決めたのだった。
「斬って欲しいお人がおりますんえ」
 寅蔵は、不意に現実に引き戻された。
 成る程とうか、と諾々と返答出来るような頼みではない。多少の金子くらいなら、と思っていたが、そうではない。
「御無理を言うてるのはわかっとおいやす」
「しかし、訳を訊かんことにはのう。これでも会津様御預の身分によって、事と次第によると」
 寅蔵は口を噤んだ。時喜久はあい然様で、と緋襦袢を正し、床の上に正座した。
「そのお人はうちの兄様をお斬りにならはったんどす」
 時喜久の実家は、仏光寺通りにあった曲物屋で、兄妹が幼い時に両親を流行病で亡くした。多少の借金があった為に、兄の伝三郎は知り合いの錺(かざり)職人のところへ住込み奉公へ行った。
 それで時喜久も長屋のおかみさん連中の手伝い(てったい)をしながら細々とやっていたのだが、或る日突然に裏長屋にやくざ者が押し入ってきた。
「伝三郎がうちから十両ほど借りを作りよったんでなぁ。あんさんにも働いて貰わなあきまへんな」
 と、強面の男達が言った。どうやら伝三郎兄は、賭場で借金を作ったらしいということが、時喜久にも飲み込めた。抵抗する余地はまるで与えられなかった。
 幸い、三好屋は所謂女郎屋ではなく、器量のよい時喜久にいちおうの芸を仕込んでくれた。お蔭で今日の時喜久がある。
 ところが、いけないのは伝三郎の方だ。
 結局、博奕にのめり込んだが為に職人修行も疎かになり、親方の元を去った。
 その後は大坂へ行ったという噂も聞いたが、行方知れずのまま数年が経った。
「兄様がひょいと現れはったんが、一昨年の暮れどした」
 八坂はんのおけら火を貰いに行った帰り、見覚えのある若い男が三好屋の表に立っていた。時喜久は、それが兄の伝三郎であると直ぐに判った。
 むしろ、気付かなかったのは伝三郎のほうである。無理もない。十四、五の娘だったお菊が三本木の芸妓、時喜久姐さんになっているのだ。兎に角中に入れて仔細を尋ねると、伝三郎はありきたりの転落者のような生活を送っていたのだということが、判った。
 多少の技術は身に付いたので、人手の足りなさそうな職場を訪ねて行く。ひと月位は真面目に働くが、やはり一度覚えた博奕の味は忘れられない。注ぎ込んだ給金を元手に何とかしようと通い詰めるが、借金が嵩む。そうなると、逃げるしかなかった。
 ところが、やはりふと捨てるようにしてきた妹のことが頻りに思い出され、恥知らずと罵られるのを覚悟で京に戻ってきたのだという。
「初めはうちも兄様を恨んどりやした。何でいわれもない借金のかたに売られなあかんのか思うて。けど、兄様の貧相ななりを見とるうちにだんだんと、こう胸が苦しゅうなってきて」
 時喜久は胸乳のあたりに両手を置いた。
「たった二人の兄妹やおへんか。せめて兄様の借金返すくらいはしてあげんと思いましてん」
 寅蔵は黙って聞いていたが、実のところこういう話には滅法弱かった。
 商売柄、作り上げた身上話などする芸妓が殆どである。芸妓とはそういうものであって、素性などどうでもよいわけであるから、客もそれを聞いて楽しむ。島原の太夫といっても本当に京の生まれなのが幾らもいるわけではない。京の女と遊ぶ、という一時の夢を金で買うのが男の本懐なのだから、それでよい。
 しかし、時喜久の話がまったくの嘘事だとは寅蔵には思えなかった。黒い双眸の訴え掛ける様なぬめった光の所為なのかもしれない。

 元治元年六月の池田屋斬り込みにおいて、新選組はその名を一躍京洛に轟かせ、噂は江戸にも届いた。近藤勇以下四名、とくに最初に池田屋に斬り込んだ部隊は勇名を馳せた。しかしながら、隠れた功労者は実は組の抱える精鋭の監察方であった。
 彼等は特に目端の利く山崎烝らを筆頭に、京の町に精通しており、これはと睨んだ人物や宿屋などを片端から検挙していった。とはいえ、急務である為に、滅多にあることではないが手違いも起こった。
 時に、尊攘派の従える密偵というのは曖昧な立場の人間を使うことがある。ゆえにそれを新選組が怪しんで捕縛し、詮議に及んだ際、実は只の町人だったということも何度かあった。
「兄様は壬生狼(みぶろ)に斬られやしてん、池田屋斬り込みのあと」
 時喜久は、きっと唇を引き結んで言った。凍えた表情だった。
「すんまへん、『みぶろ』なんて言うてしもうた。今は田中はんのお仲間ですのにな」
 時喜久は、寅蔵に少し頭を下げた。
「いや、しかしおれは九月の入隊なんでな。その時は知らなかった」
 寅蔵は、ばつの悪い思いをした。何しろ、池田屋事件を聞きつけて入隊を願い出たのである。食い詰めた脱藩素浪人の寅蔵が、再仕官のあてもなく京坂を渡り歩いていた時、新選組の羽振りのいい噂を知った。
 腕一本で食うにはこれしかない、と賭けたのである。
 その寅蔵の剣技が高く買われて、今や撃剣師範となっていた。
「その頃は兄様も博奕をやめよう思うて、また職に就いとりやした。たまたま請けおうた簪が出来たんでお店に納めに行った帰りどした」
 時喜久は伏目がちに襦袢の裾を弄いながら、言った。小間物屋の富士屋三条寺町筋にある。伝三郎は言われた品を親方から預かって、富士屋まで届けに行った。その帰り途、三条小橋を渡り、南へ少し下ったところで伝三郎は背後から斬られた。一刀で絶命していたそうである。
「うちが行った時には、町方のお役人が来とりました。兄です、言うたら顔色変えはりましてな。『この男は長州の密偵によって新選組の御方が斬られた』と」
 寅蔵は、妙だと思った。詮議もなく斬り捨てるのは、当人が尊攘派と確かな時であって、それさえも相手が抜刀しなければいきなり斬殺することはない。まして、伝三郎は職人であって、たとえ密偵の疑いをもってしてもその場で殺すことは考えられない。
「それは、新選組の名を騙った辻斬りとは考えられんだろうか」
「うちもそう思いました。なんぼなんでも問答無用でそないな無体なことしはるやろかて。せやけど、奉行所の人はそう言い張るのどす。何や知らんけど新選組のお人に言いくるめられてんのやろか、と思いましてんけど」
 時喜久は眉を顰めた。奉行所が、尊攘派を庇い立てるということはない。よって、やはり新選組の手に拠ると考えていいのだろう。
「兄様は本当に長州者とはかかわりは無かったのか?」
 へえ、と時喜久は頷いた。
「博奕はやめとったけど、その時の連れで長州に近い人がおったかどうかまでは知りまへん。ただ、京のお店はみいんな長州を贔屓にしとります。節季払いやのうで、その都度払うてくれるさかいに。そういうお客がおったかもしれへん」
 寅蔵は、天井を仰いだ。
「斬り手は判らんのか?どういう斬られ方だったのだ」
 時喜久は、ちょっと思案し、長い溜め息を吐いた。寅蔵自身も、言ってからしくじったと思った。実の兄の死に様を事細かに話せというのは残酷だろう。
「すまぬ、立ち入り過ぎた」
 いえ、と時喜久は頭を振った。役人の検分では、伝三郎は背中を右肩から腰にかけて深く袈裟懸けに割られていたという。
「兄様の仇をどうか探しとうせ」
 時喜久は顔を両手で覆った。
 
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