(二) 西本願寺屯所
翌日から寅蔵に仕事が増えた。
入隊以前のことであるので、記録に頼るしかない。元治元年七月十五日に市中見廻りに出た者の記録を尾形俊太郎に見せて貰った。
この時見廻りに出ていたのは、日中が原田左之助、葛山武八郎、林信太郎以下九名。夜間は斎藤一、武田観柳斎、藤堂平助、宿院良蔵以下十二名であった。
近藤局長は前々日より大坂へ出向、それに伴って永倉新八、沖田総司らも同道している。副長である土方歳三も総長、山南敬助も屯所内にいた。
「何かあったのですか、こんなものが必要だなんて」
尾形は不審気に寅蔵に言った。諸士調役の尾形は、新選組内の出来事を逐一記録している男だが、それだけに寅蔵の急な申し出に異質な臭いを嗅いだのだろうか。
「うむ。人さがしをしておるのです。この日、見廻りに出られた方々にお聞きすれば何か手掛かりを得られるかと思いまして」
神妙な顔付きの寅蔵に、尾形はそれ以上の詮索はしなかった。日頃、寅蔵の素行が正しい為だろう。
記録によると、最も怪しい人物は夜間の見廻りに出た斎藤、武田らである。この十六名からしぼるとなると、なかなか難儀を極めそうだった。何しろ、禁門の変の四日前である。皆混雑したり殺気だっており、確かに記憶している者は少ないのではないだろうか。
しかし、一刀の元に伝三郎を斬り伏せることが出来る人物は限られてくる。相手は素人でも、うろたえられると斬り損なう。
「そう考えると、斎藤、藤堂、宿院くらいか」
武田には武芸の才がない。他の隊士ももう一つ不安が残る腕前だ。
当然の事ながら、本人に単刀直入に訊くのは危険だと寅蔵は考えた。まずは宿院だ。平隊士であるし、取っ掛かりもありそうに思えた。
寅蔵は、見廻りで宿院良蔵と組む日を待って、話し掛けた。
「ええ?七月十五日ですか。随分前のことなのでよく覚えてませんな」
と、宿院は首を傾けた。寅蔵が尾形に言ったように理由を言い、何でもよいので思い出して欲しいと頼み込むと、宿院は目を細めて唸りながら頭を掻いた。
「成る程事情は判りました。ですがね、こう毎日まいにち市中見廻りだ斬り合いだとあっては、いつどうだったかなど鮮明に覚えておりませんよ」
この男は嘘を吐いていない、と寅蔵は直感した。見た目にも口調にも表れている。朴訥な物言いもそうだが、正直過ぎて押しが弱い為に古参の部類であっても平隊士のままなのだろう。
「ああ、そういえばあの時」
宿院が不意に声を高くした。
「何かござったか?」
「尊攘派を三条河原まで追って行ったと思います。確か、藤堂先生が先頭で」
「詳しく教えて貰えまいか」
寅蔵が迫ると、宿院は少し身を引いた。
「あまり詳しくは。ただ、怪しい男が数人我々を待ち伏せていたようで。私は見廻りに出る前から、連中が潜んでいることを訊かされてましたので覚悟はしてました。藤堂先生と一緒行きました。もう一手は武田先生、斎藤先生の班でした」
宿院が言うには、班は藤堂と武田の二つに分かれていたという。員数の少ない方を藤堂、宿院とあと二人で追い、残る二班で多勢を追ったという。
「浪士は残らず捕縛しましたよ。奉行所に行けば判ります。男達は生きていないかも知れませんが」
六角獄舎に入れられた過激派浪士達は、禁門の変に際し、殆ど斬首された。町に火の手が上がり、獄舎から囚人が逃亡することを懼れた奉行所の独断での事である。
宿院は下手人ではないという可能性が高まった。だが、浪士達の話は多少の収獲と言えた。池田屋以前の尊攘派は刑に処せられているので、最早訊く事も出来ないということだ。
ならばやはり面倒でも夜廻りに出た当人をあたるしかないのだろう。
翌日は隊務がなく、寒々としていた空も久々に澄んで、日中はぽかぽかと陽が照った。だが、寅蔵は三好屋に行くのはやめた。
「もう少し探索がすすまないと、時喜久には会えん」
だが、屯所の筋向いから三味線の音などが聞こえると、胸が躍った。あれは土方が手慰みにやっている長唄だ。江戸前調子のいい声が朗々と響く。時喜久は、もっと蓮っ葉で艶めいているが、趣味人の手習いなどとは比べようもなく上手である。
ふといつしか時喜久の事を考えており、脂の薄く乗った長い項や振り向き際の流し目、床での痴態をまざまざと思い浮かべてしまう。
そんな時の寅蔵は顔も赤く、手のひらにびっしょりと汗を掻いた。
「ううむ、いかん」
火照る下腹を制し、寅蔵は庭先へ飛び出すと、猛烈な勢いで竹刀を振るいはじめた。
暫く振るっていると、諸肌脱がねばならぬほど汗が噴出してきた。
撃剣師範が単身、竹刀稽古をしているのを見て、平隊士達が数名集まってきた。皆、暇を持て余しているのだろう。
かつては竹刀稽古など興味の無かった者さえ、顔を覗かせている。余程することがないのか、それとも、と寅蔵は頭の片隅で思った。
一年余前に山南敬助が切腹した。それに前後して、江戸より迎えられた伊東甲子太郎一派が台頭してきた。山南を慕っていた者の多くが、伊東に付き従うようになったのも必定である。武芸にもう一つ馴染まぬ者が、それまでは隊内随一の智慧者であった山南無くして頼る者は伊東である。
ここのところの隊内の人間関係は、寅蔵が入隊した直後のものとはまるで変わっていた。大まかには試衛館以来の近藤、土方の同朋と、新規参入した伊東派の二つに分かれる。本来、総長であった山南が存在したならば、こうした関係をうまくまとめられたのではないだろうか。
寅蔵はいずれにも属さない。属すつもりは無かった。己の剣技を生かせるのなら、場は何処にあろうと構わない。
平隊士らの後ろを、ふと背の高い男が通り掛った。寅蔵は、目の端でその姿を捉えた。
豊かな結髪を長く肩を越すほど垂らした男、斎藤一である。
「お相手つかまつろうか」
と、斎藤は低く言った。寅蔵は竹刀を下ろし、斎藤を見た。
斎藤は面長中高の整った顔立ちで、いつも余裕ありげに腕を組んでいた。土方や伊東のような如何にもという美男子ではないが、見ようによっては結構な男前といえる。無骨な印象の寅蔵に比べると優男だ。ただ、何処と無く人を食ったような微笑を時たま浮かべるのが、不気味だった。
寅蔵は、この男が苦手だ。
好悪とは別で、馬が合わないというやつである。恐らく、寅蔵が副長助勤で斎藤が平隊士だったとしても、きっと寅蔵は斎藤に一目置くだろう。そう思わせる何かが、斎藤一という男にはあった。
「撃剣師範が一人稽古とは、ちと勿体無い」
斎藤はそう言うと、平隊士から竹刀を受け取った。袴の股立ちを高くとり、襷を掛ける。実に武士らしいきびきびとした動きに、平隊士ばかりか寅蔵も目を見張るばかりだった。
足袋を脱ぐや、斎藤は裸足で庭に下りた。寅蔵も雪駄を脱いで裸足になった。
「斎藤さんの剣はね、得体が知れないんですよ」
いつだったか、沖田が言っていた。
「斎藤先生は何処の流派を修められたのですか?」
「さあ。無外流だったか一刀流だったか。で、うちの天然理心流に入門して、或る日ぷいといなくなっちゃったんで。あ、そうそう京に来て太子流をやってたそうですよ」
沖田は嘯くように言った。寅蔵は、些か青くなった。まさかそんなに多くの流派をあの若さで会得出来るものなのか。沖田より二つも若いというではないか。
「でも、あれだけの腕を持ちながら目録も免許も一つも持っていないんですから、おかしな人ですよ」
沖田は、八重歯を見せて笑う。沖田も変わり者だが、斎藤はもっと変わり者なのか。
「田中さんも一度手合わせなさったらどうですか?私は、斎藤さんとはあんまりしたくないんですけどね」
「随分と手強いわけですね、沖田さんが嫌がるということは」
「斎藤さんと一緒で何を考えているかわかんない剣捌きだから」
沖田の言葉を思い出す。しかし、目の前の斎藤は殆ど隙の無い青眼の構えを見せた。寅蔵も倣って、相青眼になる。
この細い腕が、難剣を繰り出すとはとても思えない。
飽くまで穏やかな兵字の構え。寅蔵は息を呑んだ。
寅蔵が先に踏込み、剣先が合う。斎藤の竹刀は打ち払わず引き、摺り上げ面に移行した。受け手の寅蔵は、剣の重さを感じた。打ち込みは衝撃があるが、それが相手を仕留める業に成り得ないとなると、抜きが速い。かといって掠め打ちでないのが、剣が離れた時の己の腕の重さで知れる。
「手は読めた」
と、寅蔵は察した。寅蔵は、斎藤の右に回りこもうとした。構えを低くして半身を動かすと、斎藤は半歩退いた。すると、寅蔵は逆手に回った。凌いで半身を返した斎藤の左手首が鳴った。
「勝負あり」
平隊士の誰かが叫んだ。どっと喚声が沸き、寅蔵の周囲に若い衆が集まってきた。信じられないが、どうやら斎藤の小手を一本取ったらしい。寅蔵は漸く無我夢中の境地から脱する事が出来た。今更に汗が噴き出す。
斎藤はといえば、相変わらずしんみりした表情のまま、竹刀を隊士に返し、着物の乱れを直しつつ縁側に腰を下ろした。気の利く隊士が足湯を運んできた。
「己のほうから手合わせを申し込んで負けるとは、おれも些か情けない」
斎藤は苦笑を浮かべた。寅蔵も隣に腰掛ける。背の丈はほぼ互角だが、寅蔵の方が座丈は高かった。胸幅も厚い。斎藤は肩幅こそあるが、総じて痩せ肉だというのがよく判った。沖田も痩躯だが、この体躯の何処にあれほど強烈に打ち込む力があるのだろうか。
「いえ、隙の無い見事な剣捌きです。危ういところでした」
寅蔵は、勝った嬉しさを半ば隠すように照れ笑いした。隊士が運んできた湯で体を拭いていると、ふと左胸の下に泥が着いているのに気付いた。
裸足で土を撥ね上げたかと思ったが、庭全体は乾いている。このような高さまで撥ねが散ることはない。
寅蔵は、はっとなった。
背後に置かれた斎藤の竹刀を見る。僅かにその先に土が付いていた。
左小手を決めた時だ。隙の出来た胸元を斎藤の竹刀の先が狙っていた。しかし、打ち込まれる角度でないことを知り、思い切って左手首を打った。
「あれでは突きだが、そんな至近距離では無理だ」と、寅蔵は考えていた。
「真剣勝負なら、おれは今頃こうして足を洗うことも出来なんだな」
斎藤は、独り言のように言った。
寅蔵は急に汗が冷たく引いていくのを感じた。袷の袖に手を通す。左手首を落とされても、斎藤ほどの力があれば右手一本で寅蔵の胸を貫く事が出来る筈だった。
「この男は常に真剣に見立てた勝負をしているのだ」
寅蔵は悄然となった。勝利の清々しさは既に消え失せていた。沖田の言った言葉の意味が判ったような気がした。
(一)へ
(三)へ