(三) 島原・角屋
京の町に霰の様な小雪が散らついている。慶応二年の大晦日であった。
あれから、寅蔵の探索は思うように捗らない。時喜久に話を持ち掛けられて、はや三月余りが経っていた。三好屋に行けば、時喜久に会うことになるが、どうしてもその件は進捗が悪いと報告せざるを得ない。いつもかつも同じ返答では、寅蔵も心苦しかった。
自然とそのようなことから三好屋に行くのが週に一、十日に一、二十日に一、という具合に遠退きつつある。
そんな事を漠然と考えながら、寅蔵は伊東の軍学講義を聞いていた。
「如何しましたか、田中君」
伊東の柔和な笑顔が寅蔵を見た。顔は笑っているが、目に冷たさのある伊東の麗顔を見ると、冷や汗が出て来た。底冷えのする時期だというのに。
「ぼんやりするのなら、武田君のところへでも長沼流を習いに行かれると宜しい。私の講義を聞きたくとも部屋に入りきらぬ者や隊務を外せない者も大勢いるのです。以後、心してお聞きになるように」
役者のように通る声だった。寅蔵は不思議と叱責された恥ずかしさも恐れもなかった。常に道理が通っており、対人に気を遣う伊東の物腰は洗練されていて快い。山南敬助が人々を抱合するような優しい人格で慕われたのとは異なる、何処か人に自信を与え、颯とした気分にさせてくれるような人物だ。少々、他人を信じすぎるきらいがあるが、それも伊東の毛並みの良さからくるのだろう。
寅蔵の腕を認め、入隊を許可してくれた土方は、見るからに伊東と反りが合わないようであるが。
少なくとも伊東はいっぱしの武士である。名字帯刀、そこらの貧乏旗本など問題にならないほど分限者の家柄とはいえ、近藤も土方も所詮は農民の出自である。常陸志筑藩郷目付の息子であり、水戸で神道無念流を学んだのち、江戸で北辰一刀流の伊東誠一郎道場に入門し、其処の娘婿となったという。文武にすぐれた才人であり、道場を解散してまで京にやってきた志もまた見上げた心意気だと、寅蔵は感じ入っていた。
伊東の尊攘論は過激ではない。
公家連中を担ぎ出している過激派浪士たちとは異なっている。聞いているうちに成る程幕府を何が何でも守株せねばならないという考えは固陋に過ぎず、もっと広い目で世の中を見詰め直さねばならないという気がしてくるのだった。
部屋を出ると、藤堂平助に呼び止められた。
「田中さん、近頃熱心じゃないですか」
一瞬、寅蔵は戸惑った。あの事が頭を掠めたからである。
「ああ、軍学のことですか」
と、寅蔵は年下だが八番組組長の藤堂に丁重に答えた。
「伊東先生のお考えは、非常に明快でいらっしゃる。『大開国論』でしたかな。やはり今後の日本は朝廷を中心に、徳川
(とくせん)だ御親藩だと一部の権勢にすがるのではなく、一旦開国して強藩らが力を合せてから異国に立ち向かうのが宜しいかという気がしますな」
藤堂は、寅蔵の考えに頷いた。元が伊東道場の弟子であるゆえに、藤堂には学問も気品も備わっていた。
「どうです田中さん、明日は伊東先生を囲んで新春の宴を催そうと思っておりますが、貴方も来られては?」
是非に、と言い掛けて寅蔵は口を噤んだ。酒宴に出るのは吝かではない。そちらかというと、酒は好きな口だが、戸惑いが走った。
伊東甲子太郎を囲むということは、鈴木三樹三郎や服部武雄、加納鷲雄ら腹心を連れての会となる。いわば、伊藤閥に首を突っ込んだ形になってしまう。寅蔵自身は派閥そのものに興味が無いし、近藤派か伊東派かのいずれかと問われれば答えに窮する。かといって、無関心を装って酒だけを相伴に与るというわけにも行かぬ。行けば恐らく、土方は寅蔵を伊東派に与したものと見做すだろう。それはそれで、今後肩身の狭い思いをせねばならなくなりそうで煩わしい。
「何か御用でも?」
「ああ、いや」
咄嗟に時喜久の顔が浮かんだ。
「構いませんよ、田中さんもお忙しいでしょう」
藤堂は柔和に笑んで去って行った。どうやら、それとなく藤堂には寅蔵の考えが伝わったらしい。
正月は廓も茶屋も一帯休みであった。寅蔵は、ああは答えたものの、時喜久の処へは行かなかった。
正月四日の朝である。十番組組長、原田左之助と土方がやいのと廊下を喧しく歩いていた。
「おう田中。ちょいと力貸してくんな」
気風のいい美丈夫である原田が立ち止まって言った。
「これですか?」
寅蔵は刀を振るう真似をした。土方が、少し首を捻る。
「そいつあ事と次第によるが、左之助と寅蔵なら任せておけるか」
土方のやや血走った白目が天井を向く。
どうやら、元旦から島原の角屋へ飲みに行った連中が、三日三晩戻って来ないというのである。座頭は伊東である。総勢三十名ばかりを連れて行き、その日のうちに戻って来たのは藤堂ら数名であった。新選組では、隊士の放縦を防ぐ為に門限を設けていた。たとえ役付きの者でもこれを犯せば切腹間違い無し。
「とりあえず呼び戻さねばならん。お前ら二人抜刀して出て行きゃ、奴等酔いも冷めるてえもんだ」
土方は腕組みして言った。
かくして角屋に登楼した寅蔵と原田は、宴会の様子を見るや呆気に取られた。
伊東は袴も脱いで着流し姿もしどけなく障子に寄りかかり、盃片手に太夫とふざけ合っていた。その傍らで、これも顔を真赤にして手酌をしている永倉新八。永倉の奥で馴染みらしい目立って艶な太夫の酌を受けているのが、斎藤だった。
「おいおい新八よォ」
左之助が眉を八の字にした。すると、伊東がいち早く気付いた。
「これはこれは。貴公らも如何かな。まずは新年の挨拶から」
太夫を突き放すようにして、伊東は這い進んだ。日頃折り目正しい伊東が、畳の縁を踏まないどころか酔払い同様の振る舞いをするなど、寅蔵にとっては驚愕以外の何でもない。
「そろそろ近藤局長のお怒りも極限ですぞ、伊東先生」
原田が屈み込んで伊東の顔を覗き込んだ。
「どうせ切腹。それならとことんまで飲んでやろうと思ってな」
伊東の目は据わっている。全身から酒臭さが発散されており、奈良漬のようだ。思わず寅蔵も仰け反った。
「帰りましょう、先生」
寅蔵が言うと、伊東は空の盃を差し出し笑みを浮かべた。そして、そのまま突っ伏してしまった。それ今だ、と原田が倒れた伊東の体を担ぎ上げる。すると、永倉も立ち上がって加勢した。こちらも酔っているが、力を貸せるだけの余裕があるようだった。永倉の表情には、何処か漸く酒宴から解放されたという安堵の色が見えた。
「斎藤も」
永倉の呼び掛けに、斎藤もゆるりと席を立つ。部屋を出る時、ふと寅蔵の方を振り向く。斎藤の目は少し赤かったが、酔ってはいなかった。
「何で副長がお前等を寄越したか当ててやろうか」
寅蔵は、一瞬心の臓を鷲掴みにされたような気がした。
「万が一の事があれば、おれ達を斬る。土方さんにそう言われたんだろう?」
斎藤は太夫に未練たっぷりに見送られつつ、静かに笑った。
「考え過ぎだ。正月から廓で刀を抜くなんざ無粋な事は幾ら何でもやらねえよ」
寅蔵には判らなかった。永倉もだが、斎藤の真意が。生え抜きの試衛館組とはいえないにしても、この二人は歴とした近藤派ではないのか。いや、伊東は生え抜きでないからこそ二人を誘ったのだろうか。
その考えの裏には、派閥をより強固なものにしようとする意図が見えなくもない。
すると、伊東は捨て身の覚悟で近藤を試そうと賭けたのか。腹心の幹部もろとも伊東を斬る事が出来るかどうか。
果たして伊東、斎藤は三日の謹慎、永倉は六日の謹慎という処分が下った。この賭けは伊東の勝ちだったようである。
何故永倉だけが六日も食らったのか、寅蔵の知るところではない。いやむしろ、斎藤が三日に軽減されたと考えるのが自然なのかも知れないが、その事については誰も異論を挟まなかった。
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