(四) 御陵衛士
二月も半ばになんなんとする。だが、外は未だし凍れる宵闇である。春の訪いは遅かった。
「ねえ、催促するようで申し訳のうおすけど」
時喜久は寅蔵の盃に酒を注ぎながら、上目遣いに言った。
「あのことか。悪いがまだ判らん」
寅蔵は、時喜久と目を合せないようにして答えた。暮れから正月のごたごたで、寅蔵はすっかり失念していたといってよい。件の島原流漣騒動は、表面上は然程隊内を揺るがせていない。しかし、それぞれの幹部の腹の内、いや平隊士の関係にまでも影響していることは確かだった。
永倉は一見して判るように近藤、土方らの間に見えざる垣を造っていたし、当然永倉を慕う隊士らも口にこそ出さねど不満の色を面皮の下に隠している。永倉が常日頃、新選組の有り様に警鐘を鳴らし、「我々は上下関係でなく同志なのだ」と鹿爪らしく時には疾呼していることも、寅蔵は入隊当初から知っていた。
いつぞや、京都守護職・松平容保公に近藤の振る舞いに対して異議を申し立てた建白書を提出したことがあったというが、さもありなんと思われた。
「永倉さんは、いいとこの跡取りだったからそんな事が言えるのさ」
と、先月のいつだったか、ほろ酔い加減で沖田が夜勤の寅蔵に話し掛けた。謹慎が解けた永倉、斎藤の両人と祗園で飲んで来たらしかった。帰り掛けに四条橋のたもとで土佐者らしい浪士二人と斬り合いになったと、沖田は些か興奮気味で言ったのを覚えている。
「近藤さんにしろ土方さんにしろ、裕福な家とはいえ士分とは違うからなぁ。私だって足軽の息子ですよ。歴としたお侍で学があって、抑えつける者がいなかったから言えるんですよ。そりゃあ自ら恵まれた境遇を飛び出して、剣の道一本で生きていこうとした永倉さんは尊敬してますけどね」
沖田は時々、こういうことを誰にでも言ってのける。
兎に角、育ちのいい永倉は腹蔵がない。腹が立つ時は腹が立つ。機嫌が直れば素直に人一倍実直に仕事をこなす。実に判りやすい。
しかし、判らないのは斎藤一という男だ。謹慎が解けても、それまでと全く変わりが無い。いつものように見廻りに出、剣術指南をこなし、別段あれから伊東派と親しく飲みに行ったりする様子もない。
尤も、伊東は謹慎明けて正月十八日には新井忠雄ら数名と九州へ出張に出掛けてしまった。何の為の出張か平隊士には関係ないのだが、専ら遊説であるとの名目だけは聞いて寅蔵も知っていた。だが、密かに伊東一派が分離独立を狙っての下準備ではなかろうか、と原田らが噂しているのを耳にした。
寅蔵の胸が俄に騒いだ。
「もし伊東派が新選組を離れるようなことがあれば、当然藤堂平助は付いて行くだろう。すると、ますます伝三郎殺しの真相が掴み難くなる」
斎藤は兎も角、先に藤堂に訊くしかない。
幸い、寅蔵の唐突な質問にも、藤堂は冷静に耳を向けてくれた。
「随分昔のことのように思えますね、禁門の変の前ですよね」
色白の顔が曇った。何か思い当たる節でもあるのだろうか、と寅蔵は訝った。
藤堂の手は、薄っすらと自分の眉間に残る刀傷をなぞっていた。池田屋事件で額を割られた後、初めての見廻りだった、と藤堂は呟くように言った。
「久々の隊務でした。宿院たちを連れて浪士を捕縛に行った時のことでしたか。なら、あの時は誰一人として私の隊の者は人を斬ってはいません。長州の密偵が逃亡したというので、生かして連れ戻さねばならなかったんですよ」
藤堂の言葉に、寅蔵はぎくりとなった。斬人のことは一言もいった覚えが無いのだが。
「驚かせてしまいましたか?」
藤堂は柔らかく笑った。
「田中さんが人を探しているようだと、人伝に聞きましたので」
「誰かがその事を?」
「宿院や尾形さんが言っていました。いえ、告げ口というのではありません。無礼かと思ったのですが、私の方から聞いたのです」
藤堂は頭を下げた。寅蔵は、手の平にじっとりと汗を掻いていた。
「まさか我々があなたの仇というわけではないでしょう?あなたは加賀の出だし、長州などに縁故があるというのでもないでしょうし。わけがおありなら、よければお聞かせ下さいよ」
飽くまで穏やかな藤堂の口調に、寅蔵は却って肝を冷やした。若いのに度胸が据わっているというのか、さすげに「魁先生」の異名をとるだけの事はある。伊東が可愛がるのも無理はなく、近藤や土方らが信頼をおくのも当然だった。
寅蔵は、この男ならばと時喜久に言われたことを打ち明けた。
すると藤堂は、最初はやや面食らっていたものの、寅蔵を批難するでもなく、柔らかく諭すようにこう言った。
「けれど田中さん。やはりおやめなさい。たとえその女の兄という人の仇を探し当てて討ち取ったところで、新選組隊士であるならば、あなたは法度に叛く事になりますよ。『私闘ハ禁ズ』ですからね」
「ご尤もであります。しかし藤堂先生、もし仮に隊士であるならば、その者こそ一町人を斬殺するという非道を行ったこと。士道不覚悟に思います」
確かに、と藤堂は言った。
「ならば田中さん、こうしましょう。私も協力しますから、探し当てた暁には、その者が隊士なら局長の詮議にかけて処分を頂くというのでは?」
寅蔵は口篭った。藤堂の提案は全くの正論である。だが、それでは時喜久の本意ではない。
相談したのはやはりまずかっただろうか、と些か後悔もしながら、寅蔵はその場は適当に濁して別れた。
そういうわけで時喜久にはこの経緯を語るわけにはいかない。いずれ藤堂の方から何らかの発展の様子が齎されるか、なるようにしかならなくなってしまった。つくづく自分という人間は密偵には向いていないという事が判った、と寅蔵は酒を呷った。
三月十三日、伊東が屯所に帰還した。そして、十九日、御陵衛士を拝命した伊東が新選組を離隊することとなった。異様なまでのはやい動きに、屯所内も色めきたった。
孝明天皇陵を護衛するという御陵衛士は、山陵奉行・戸田大和守の支配下に入るがゆえ、正式に新選組という地位を離れることになる。だが、表向きは伊東らは新選組の中にいるということになっていた。
寅蔵は、この急な展開に驚きを隠せなかった。
御陵衛士の成員は、伊東甲子太郎、鈴木三樹三郎、篠原泰之進、服部武雄、新井忠雄、藤堂平助、阿部十郎、加納道之助(鷲雄)、清原清、富山弥兵衛、橋本皆助、毛内有之進、中西登、内海二郎、斎藤一。
「斎藤までもが。どういうことだ」
寅蔵は、やはり正月、伊東が永倉、斎藤と膝を交えて切腹覚悟で飲み続けたというのは、こういうことだったのかと愕然となった。あの時、藤堂に誘われるまま角屋へ行っていれば、と考えると複雑な胸中を抑え難かった。
しかし自分が新選組にとどまり、藤堂も斎藤も離隊してしまうのでは甚だ都合が悪い。その前に何とか問い質さねばならない。
「藤堂さん、あの件はどうなりましでしょうか?」
すると藤堂は木刀を振るっていた手の動きを止めて、寅蔵を見た。
「ああ――すみません。実はまだ判っていないのです」
月代に薄っすら浮かんだ汗を手拭で拭いつつ、藤堂は心底申し訳なさそうに頭を下げた。
「いえ。元々は私の請負ったことですので」
「明日からは私も御陵衛士ということになりますので、協力出来なくなりますが」
藤堂は言った。寅蔵は一つの機を失ったようである。
花散らしの雨が降り出した頃、斎藤一が本願寺の屯所に戻ってきた。白地に縞の袷に、黒の仙台平という洒落た出で立ち高足駄で露地を歩いてくる。寅蔵はその様子を通用門の外から見ていた。斎藤は番傘を差し、北小路通をまっすぐに西本願寺へ向かって来た。
煙るような雨にぼんやりと浮かぶ斎藤の姿が、一葉の墨絵のようにも見えた。
寅蔵は軽く会釈しようとして、ふと斎藤が立ち止まったのに気付いた。
「斎藤先生」
寅蔵は、傘の下から覘く斎藤の青白い顔を見詰めた。
「お聞きしたいことがあります」
「おれに?」
斎藤は、柿渋の番傘を傾けた。とても寅蔵より年下、藤堂平助と同い年の男とは思えない風情だ。
「四年前の七月十五日です。三条小橋の南で町人が斬られたのを御存知ですかな?」
うむ、と斎藤は唸った。やや厚めの唇が歪む。
「知らんな」
答えが低く返ってきた。
「おれに訊くのは筋違いというものだぜ」
斎藤はいつになく軽妙な調子で言った。こういう時の江戸弁というのは、いやに他人を突き放したように聞こえる。だが斎藤は、判らないとは言わなかった。
「町人を斬った覚えは無い。少なくとも二本差しの連中しかおれは斬らん」
「長州の密偵ならば?」
「斬るだろうな」
あっさりと、斎藤は答えた。
「愚問を致しました。失礼仕りました」
寅蔵は深く頭を下げた。斎藤がその脇を通り過ぎようとした。ほのかに甘やかな香りがする。酒の匂いと微かな白粉の匂いだった。斎藤の武士としての居ずまいは正しいが、女好きというのは本当らしい。
「平助にも同じことを訊いたな」
寅蔵は、愕然となって振り返った。だが、既に斎藤は背を向けて門を潜っていた。
寅蔵の確信は虚しいものとなった。伝三郎を斬った男がすぐ傍らにいる。しかし、今ここで刀を抜くわけにはいかなかった。
藤堂にも、見事に嘘を吐かれたのだ。己の人品の穏やかさを利用して、寅蔵から真実を聞き出し、斎藤に告げた。
今更、斬手が斎藤だと知ったところで、誰も口出しも手出しも出来ない。土方の命令なのであろう。だからこそ、誰もがだんまりを決め込んでいる。
小雨が力なく寅蔵の肩を穿った。
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