(五) 五条橋詰
四月十日ばかりが過ぎた。寅蔵は非番の昼日中、丸太町通を鴨川沿いに南へ下っていた。
時喜久の元を訪ねて三好屋へ行くと、一昨日から休んでいるのだという。女将はなかなかその理由を言わなかったが、寅蔵が執拗に上り框に腰を据えているので商売にならないと思ったのか、仕舞いにはこう言った。
「竹屋町の方に裏長屋がありやす。そこへ行ってみとくんなさい」
寅蔵は神妙な面持ちで歩いた。女将の言うような長屋があった時、心が弾んだ。裏店の連中が住んでいて、明らかに武士とわかる寅蔵を見るや、女房連中は露地の奥へと引っ込んだ。西陣ならば機を織っているのだろうが、この界隈では寄り合って話をするしかすることはないのだろう。
寅蔵は、己の様子が女房連中の恰好の噂話になるのだろうと思うと、重い気持ちになった。しかし時喜久に会わねば気が済まないことも判っている。
やはり帰るべきかどうかと迷っていると、長屋の一つから女が出て来た。
後れ毛が解れていたが、項が長く白い女。
「田中はん」
時喜久だった。手桶に手拭を入れ、茫然とした顔付きで寅蔵を見た。化粧の華やかさは微塵も無いやつれた顔色の悪い年増女が其処にいた。時喜久は、少し顔を赤らめた。
「いややわ。こんなみっともない顔見られて。ほんまお喋りやわ女将はん」
時喜久は、諦めたように溜め息を吐いた。そして、長屋の裏にある井戸まで行き、手拭を洗った。その姿を、憑き物でもついたかのように見ている寅蔵だったが、やがて時喜久が手招きした。
長屋の一隅は外の陽気に比べてしんとしていて、何処か冷ややかな空気が漂っていた。木材の湿った臭いがする。
「どうぞお上がり下さい」
語尾が長引く京言葉で、時喜久が促した。狭い畳の上に夜具が敷かれており、子供が寝かされていた。丸い頬が真赤になって、荒い息が聞こえる。
「うちの子ですねん」
時喜久は固く絞った手拭をl子供の額に置いてやる。その仕草は、寅蔵や他の客に酌をするような艶冶な動きではない。まさしく母親のそれだった。
寅蔵は、思いがけず己の幼子だった時分、母の姿を思い起こした。
「隠すつもりやおへんかったんやけど」
時喜久は、ぽつりと言った。寅蔵は最初面食らったが、それも当然なのかもしれないと考えた。時喜久も寅蔵自身と同じほどの年だが、女にしてみれば結構な年増だ。十九、二十で所帯を持ち、子を生していれば五つ六つの子がいてもおかしくはない。
「一昨日からえろう高い熱が出ましてん。何や風邪かしらん」
時喜久のやつれた横顔を素直に美しいと思い、いとおしくさえ感じた。だが寅蔵は言葉にせず、懐から幾許かの金子を取り出してそっと差し出した。
「済まん。これで一先ず薬を買うか医者を呼ぶようにしてくれ」
「お気遣いのう」
時喜久は金を押し戻そうとした。だが、寅蔵は時喜久の冷たい手に金を無理矢理握らせた。土間に下りてから、寅蔵は言った。
「おぬしの兄様を斬った男がわかった。今夜そいつを斬りに行こうと思うのだ」
時喜久は、えっと声を詰まらせた。
「おわかりにならはったんどすか」
ああ、と寅蔵は低く沈んだ声で言った。とても意気揚々と手柄を立てに行くような気分にはなれず、またそのように顔色を作ることも出来なかった。目の下が黒く落ち窪んだ寅蔵の強張った顔を見詰めながら、時喜久は不安を口にした。
「旦那はんでも躊躇うような腕のお人どすか?それとも」
寅蔵は答えなかった。
「斬ればわしは新選組を抜けねばならん。おぬしに言っても詮無いが、遣り遂せようがそうであるまいが、刃を交える以上は法度に叛く事になる。早い話が死ぬやもしれんが、生きていたとしても京にはおれんだろう」
時喜久は暫し寅蔵の顔を見て、そしてまた床の中で熱に喘いでいる子供を見て頷いた。
「判りました。うち旦那はんについて行きます。こんなこぶ付きでもよろしゅうおしたら」
「こぶつきだなんてとんでもない」
寅蔵は途端に、初心な童子のように顔を赤らめた。そして、時喜久に手筈を伝えた。
今晩中には長屋に来られないかもしれない。子供の熱のこともあるし、斬人ののち様子を見て待ち合わせをする。場所は寺町本満寺。十二日の夜八つ時ということにした。
四条木屋町を下り、鴨川の流れを左手に見ながら斎藤はそぞろ歩いていた。一杯引っ掛けているので心なしか気分も軽い。
しかし何よりこうして夜半に巡回を兼ねて歩いていても、誰一人として擦れ違う者が斎藤をじろじろと無遠慮に見咎めたり遠巻きにしない。新選組の隊服を着ていないということの効果は、意外と大きいものである。
酔払いがぶらりと横辻から躍り出た。斎藤と肩が触れ合う。
「おっとすんまへんなあ」
無礼者、と刀に手を掛けて斎藤は男を睨んだ。若旦那風の酔払いは深く頭を下げ、金の入ったと思しき包みを斎藤の懐に押し込んだ。斎藤はそれを押し返すようにつつ、袂に入れていた紙片を男の指の間に滑り込ませた。そのまま振り返らず、二つの影は遠ざかる。
斎藤は、銀子を包んだその紙を、如何にも数を勘定するかのように確かめた。新選組との連絡は、常時このようにして変装した山崎烝を通じて行っていた。
五条大橋西詰の付近まで来ていた。橋を渡って東詰に御陵衛士の屯所、長円寺がある。
ふと、斎藤は正面から向かってくる人影に気付いた。大柄な侍であるということはわかったが、月の円い夜ゆえに提灯を持って出なかった。雲が現れた闇空では、誰とも容易に知れない。
だが斎藤は少しづつ歩を進めながら、男の歩き方で正体を知った。
一間半ほどに両人が近付いた時、斎藤は抜刀した。相手の方が僅かに早かったかもしれない。だが、素足に高足駄を履いていた斎藤の踏込みは、男のものより速かった。
上段から肩口へ振り下ろす。刃と刃が合った。長くは力押しせず、離れると、斎藤は肩まで伸びた束髪を払うように振り返ってにやりと笑った。
「何のつもりだ、田中」
寅蔵は答えなかった。もとより答えるつもりもない。寅蔵は黙したまま、身を少し屈め、再び刀を振りかざした。斎藤には賺
(すか)し手が通用しない事は百も承知である。ならば正攻法で行くのみ。寅蔵は右袈裟に斬り掛かり、かわされると剣尖を返して胴へ打ち込もうとした。
斎藤は大仰な動きではなく、少し後退った。下段で寅蔵の剣を受け、近間で撥ね返し、車に回すと寅蔵の横っ面を襲った。
咄嗟に飛び下がろうとした身の崩れを突いて、斎藤は剣に左八双の斬心を見せる。
「木刀と真剣ではまったく違う」
寅蔵は、斎藤の剣を思い知った。天然理心流の持つ先手先手の技ではない。取らせたように見せて、気付けば斎藤の有利に引き込まれている。
「貴様、新選組の者が御陵衛士と斬り合うlことがどういう意味か知っての乱心か」
斎藤にしては、珍しく正論を吐く。
「おれは新選組の田中寅蔵に非ず。一介の武士として、貴方に挑んでおるのだ」
ふん、と斎藤は鼻を鳴らした。そして、誘いを打つと見せかけて素早く刀を収めた。
寅蔵は毒気を抜かれた。真向微塵に打ち込もうとした剣が、空振りに終わってしまった。
「馬鹿馬鹿しい。とっとと失せろ」
斎藤は不機嫌な声音で言った。黒目が闇のように暗い。寅蔵は、急に瘧のような震えが背筋に襲ってくるのを感じた。斎藤への恐れというのではなく、見抜かれた事への羞恥だった。
「おれには貴様を斬る理由がいくらでもある。だが、貴様を斬る気はない。それだけだ」
斎藤は、あっさりと背を向けた。寅蔵はやや躊躇った。躊躇った後で突進した。斎藤は、恰も寅蔵の動きを予測していたかのごとく振り返り、刀が振り下ろされる寸前、右足で寅蔵の鳩尾に蹴りを入れた。朴歯の高足駄が強かに食い込み、寅蔵は後ろにのめった。
いい加減にしないと、次は本当に殺す、と言わんばかりの斎藤の形相に、寅蔵は気圧された。
「何故だ」
何故、斬ろうとしない。
その問いは斎藤には届かなかった。大股で橋を渡り去る後姿を見遣りながら、寅蔵は膝をついた。無論、寅蔵にこの時の斎藤の思慮や境地など知る由も無い。
斎藤は斎藤で、土方の命により御陵衛士に新選組の間者として潜り込んでいた。細心の注意を要する仕事であるゆえ、その事は幹部しか知らぬ事情であった。寅蔵のこうした行動は横槍もいいところであって、分離直後の今ごたごたを起こすと斎藤の立場も危ういどころか、両組織の対立も已む無しだ。
寅蔵は、唇を噛んで立ち上がった。最早、帰還すべくもない。図られたと感じた時から、斎藤を斬ることだけを思ってきた。
御陵衛士に泣き付くわけにもいくまい。屯所には書付を残して出奔してきたのであるから。
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