(六) 本満寺

 新選組隊内では、既に寅蔵の脱走は知れ渡っていた。最も驚愕したのは近藤局長に他ならなかった。剣術指南の寅蔵は品行方正、有為の士として一目置かれ、近藤の信頼も厚かったのであるから、その落胆も激しかった。
「だが、奴は前々からちいとばかし勤皇論に熱を上げるような節もあったがな。まさか伊東らの処に走ったわけじゃあるまい」
 土方が訝った。傍らに控えていた山崎烝が目配せした。
「田中さんが長円寺を訪ねたという形跡はありません」
 監察方の言う事に間違いない。しかも九州遊説の直後、分離独立した伊東を接触したということもないだろう。
「ただ、一昨日斎藤さんと擦れ違ったあと、様子を窺っていましたら、田中さんが現れたんです」
「田中が?」
 山崎は仔細を土方らに語った。二人が抜刀し、何ほどか遣り取りがあったあと、斎藤が橋を渡って帰ったこと、あるいは寅蔵が行方を眩ましたこと。
「申し訳ありません。面が割れてしまうと案じて躊躇っとりますと、いつの間にやら巻かれてしまいました」
 山崎は頭を下げた。ただ、寅蔵の向かった方角は鴨川沿いの上手(かみて)であることだけは判っている。
「確か、田中には三本木に馴染みの芸妓がいたな」
 土方は思い出した。だが、三好屋を探りに行った山崎の返答は芳しいものではなかった。
 三好屋の女将は、時喜久という芸妓がかれこれもう数日暇を貰っているという事を告げ、竹屋町の長屋も示してくれたのだが、其処は蛻の殻だった。
 脱藩者である田中は、元々大坂に居た。頼る者があるとすれば大坂へ向かうのではなかろうか、ということで伏見の船宿や丹波口の旅籠に数名の密偵を張らせておいた。
 そんな折、四月十四日の早朝に西本願寺を訪ねてきた小坊主があった。寺に坊主が訪ねて来るのは当たり前のことだ。しかし、小坊主は小声で門番に新選組の方にお取次頂きたく、と言った。
 慌てて土方が羽織の袖に手を通しつつ、面会に出た。容姿端麗の副長を見て、小坊主は一瞬顔を赤らめたが、そんな様子には全くお構いなく土方はやや野太い声で用件を質した。
「はい。実は一昨昨日からうちの宿坊にお侍様を匿っております」
 小坊主は、寺町の本満寺から来たと言う。
「何やら理由ありで人をお待ちということで、十二日の八つ時まで待たせて頂きたいと仰っておられたのですが」
「今日は十四日だろう」
「然様で。どうやら約束を反故にされたのではないか、と当方の住職も申しておりますが、出て行かれるご様子がございません」
 小坊主は言った。顔を上げるのが恥ずかしそうでもあった。
「そういった訳で、私どものほうから新選組へお引取り頂けまいかとお願い参上した次第です」
「その男、新選組の者と名乗っているのか?」
 はい、と小坊主は答えた。寅蔵に間違いない。土方は腕組みした。

 捕方が本満寺に到着した時、寅蔵はいつものように静かな風情で宿坊の一室に正座していた。永倉や島田魁らが促すと、
「暫しお待ちくだされ。句を書き付けたいのです」
 そう言って、硯と筆を出した。書き終えると、何の抵抗も無く部屋を出、隊士らに囲まれながら西本願寺へ向かった。何処か憔悴の色さえ浮かべていた顔付きに、安堵が見られた。
 寅蔵は一室をあてがわれ、そこで一昼夜を明かした。
「局ヲ脱スルヲ不許」
 この法度に叛いたゆえ、詮議の間も無く寅蔵は切腹という取り決めとなった。
 慶応三年四月十五日朝のことであった。
 蝉の声が夏木立から雨のように聞こえるようになった頃、斎藤一は光縁寺の門を潜った。本堂を右へ回り、裏手の墓地へ向かうと、新旧の墓石の間に赤い着物の女の姿が見えた。
 寅蔵の墓前に膝を折っているやや年増の女が、ふと顔を上げた。斎藤は、夏羽織の下で組んだ両腕をゆっくりと下ろした。
「あんたが田中のおんなか」
 低い声に、時喜久は一瞬怯んだ。何という目付きの昏い男だろう。
「約束通りにあんたが本満寺に来ていれば、田中は今頃ここに居なかったかもしれんぜ」
 斎藤は目を細めた。じりじりと、油蝉の声が犇いている。時喜久は上目遣いに斎藤を見据え、立ち上がった。
「あの人は、お侍はん、あんたを斬ろうとしなはったんやね」
 柔らかいが棘のある声色に、斎藤は五条橋詰の斬り合いを思い出していた。
「何で斬っておしまいにならへんかったんどす?」
 詰るような声で斎藤に言う。時喜久の肌上に玉の様な汗が浮かんでいた。薄っすら紅を差した唇が、固く結ばれている。
「いっそ、あっさり斬り結んで雌雄を決しておしまいにならはったほうが良かったんちゃいますか」
 それは違う、と斎藤は思ったが口にしなかった。逃げるにしろ捕縛されて切腹を申し付けられるにしろ、寅蔵の武士の本懐を尊重すべきだと考えたからである。
「どうやらあんたの思い通りになったじゃないか。あんたは本当は田中を殺したかったんではないかい?」
 斎藤は冷たく言った。
 元治元年七月十五日。暑い日だった。
 池田屋事件後、長州遠征軍から放たれていた密偵が捕まった。長州藩士・井上辰之助ともう一人は福原越後の家臣、渡辺九八郎だった。
 壬生の屯所で例の如く尋問が始まった。殆ど拷問といっていいだろう。渡辺九八郎は苦悶に耐え切れず泣き喚きながら、十六条にわたる情報を述べたのち、最後に必死の形相で土蔵の床に額(ぬか)づいた。
「なにとぞ、一命だけはお助け下され。飯炊きなりとも召し使い下され」
 捕虜としての斬首を拒んだのだ。武士として死ぬよりも、どん底でもよいから生きたいという愚直なまでの願いに、一同は呆れた。或いは、真実の気持ちに感じ入った者もいたかもしれない。新選組の連中の大半は食い詰めた浪人の出なのだ。
 だが、例外を赦す訳にはいかない。
 井上と渡辺の二人を本陣に連行しようとする途中のことだった。
 どうした不首尾か、後手の縄が切られ、両名は逃走した。
 井上のほうは元来の敏捷さからか、追っ手から逃げ遂せたようだったが、渡辺はそうはいかなかった。数刻の追跡劇の末、三条小橋を下ったところで追っ手に見付かり、斬り伏せられたのである。
 斬手は斎藤一。
「おれが斬った男は町人でもなければ伝八郎という職人でもない」
 斎藤が抑揚の無い声で言うと、時喜久は目の前の男の青白い顔を見据えた。
「……そうです。うちは渡辺九八郎の妻です」
 そうか、と斎藤はまた昏い目をして言った。人相が悪いのではなく、心に闇を飼っている者の目付きだった。
「あんたらは命乞いをしたうちの人を斬り殺して、それで何とも思うてへんのやろ」
 時喜久の甲高い声が、墓地に響いた。既に三本木の芸妓の顔付きではなく、渡辺九八郎の妻女、お菊の顔であった。
 斎藤にあるのは、些か心外なことを言われているという思いのみである。
 武士として死ぬ誇りを打ち捨てて、地面に這い蹲り、なおかつ往生際も悪く脱走までした男には何の同情も湧かない。屈辱を舐めてまで守り抜こうとするものがあり、それが朝廷でもなく、幕府でもなく、お家の為でもなければ、武士の本懐でもない。
 斎藤の眼前にいるやつれた女であり、子供である。斎藤には、途方もなく遠い存在に思えた。
「それが仕事だ。他に一々何を思う」
 斎藤は時喜久に半身を向けたまま、歩き出そうとした。すると、時喜久は素早く懐から短刀を閃かせた。逆手に握ったその刀で、斎藤の肩目掛けて刃を突き立てようとした。
 斎藤は時喜久の細い手首を掴んだ。思い掛けない膂力に、時喜久の手指が開いた。鈍い音を立てて、石畳の上に短刀が落ちた。
「何やの、何すんの、離してえな」
「寺で騒ぐと迷惑だ」
 時喜久は顔を叛けた。斎藤が手を離すと、時喜久は顔を両手で覆って泣き崩れた。
「嫌いや。男はみいんな大っ嫌いや。佐幕も長州もなんもかもみいんな一緒や。自分勝手で建前ばっかりで、口ばっかりで大嫌いや!」
 時喜久の、凝脂のような項が震えていた。
「うちは田中はんを死なせとうなかった。ただ、怖うなっただけや……うちは長州の人間の女やってん。ばれたら嫌われる。それだけはいややってんや」
 ならば何故寅蔵に亭主の仇を討たせようとしたのか。斎藤は、内心腹立たしくも覚えながら、ぼんやりと蝉の声を聞いていた。
 これだから女は面倒臭いのだ。「下らない事であたら命を縮めやがって、田中の大馬鹿者めが」と、斎藤は胸中で毒づいた。
 田中寅蔵の切腹理由については、過激な攘夷論を唱えた為に長州者と内通しているのではないかという嫌疑を被った、というのが新選組内外における流伝とされた。
「なに、そうしておくことで万が一にも御陵衛士に靡いたり、私的に薩長と通じる隊士を他にも作らないまでよ」
 土方は厳しい口調で言った。伊東側への見せしめということにもなるからだ。
 ところが、このあと六月十三日、京都守護職邸で惨劇が起こる。新選組が幕臣に取り立てられるとの報せを聞き、佐野七五三之助、茨木司ら十名の隊士が異議を申し立て、伊東ら御陵衛士に走ろうとした。嘆願書を持って訪れた守護職邸で、彼等は頓死した。その経緯は詳らかにされていない。
 結局は、土方の寅蔵に対する処分も意味を成さなかった。
 もとより、寅蔵が先を予見すべくもない。
 その辞世の句、

  何(い)づかたも 吹かば吹かせよ醜(しこ)の風 高天原はまさに吹くまじ
  四方山の 花咲みだる時なれば 萩もさくさくむさし野までも

 新選組の威風も、幕運とともに急激に冷えつつあった。

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