(三) 

 斎藤が用を足して戻ろうとすると、「あの」と呼び止める声がした。
 見覚えのない女である。といっても『松風荘』に来ること自体が初めてであるので、周りは見知らぬ者だらけであるのは違いない。
「この宿で働いております、杉と申します」
 女は丁寧に名乗った。二十一、二の女中で、顔立ちは悪くない。目尻に黒子があるのが色っぽい。
「奥の間の尾形様のお連れ様でございますね」
 この辺の言葉遣いではない。この女は何処か余所から流れて、この温泉宿に辿り着き、働き出したのだろう。斎藤はとりあえず、「はあ」と答えた。
「女将から、先年当宿でお亡くなりになられた村井様のお弔いの代わりに、今夜は一席設けさせて頂きたいと」
「お気遣い有り難うございます」
「そのような次第で、芸妓なども呼び寄せております」
「成る程、それで先程」
 すると、お杉ははっと眉根を寄せた。斎藤の肩口に顔を俯けるようにして、小声でこう言った。
「あの。芸妓が皆様にお声をお掛けするかも知れませんが、当宿に泊めるわけには参りませんので、何卒御了承下さいまし」
 もし、女を所望するなら、芸妓の家で出向けということである。此処の温泉は、一切芸妓や流しの女を泊めないという決まりがあるのらしく、その清潔さを売りにしていた。名目は飽く迄湯治という客も多いので、無理もない。
 斎藤自身は女が目的でも何でもなかったので、只「然様にて承知致しました」と勢い答えたのみである。
 お杉はちらと廊下の奥を見遣って、
「特にあの、ひな菊という芸妓は男癖がようないとかで。羽振りの良いお客様には手当たり次第にしなを作っていると噂もございますので、お気を付け下さいましな」
 成る程、それで浅野にも声を掛けたのかな、と斎藤は思った。お杉は軽く頭を下げて、また戻って行った。
 女中という職業なら、こうした温泉宿にしろ料理屋にしろ、男客が気に入れば声も掛けられるだろうに、お杉は見た目に似合わず潔癖な女のようだ。
 ひな菊と言う芸妓が好かないだけなのかもしれないが。
 座敷に戻ると、尾形と浅野はしんみりと飲んでいた。
 温泉宿で京の政情を話したところで始まらないし、またいつ何処に尊攘派浪士が隠れていないとも限らないのだ。何も考えずに寛いでいればよい。
 霜月も初めになると、七つ刻になればとっぷり日も暮れる。
 暗くなった頃、膳が運ばれてきて俄かに宴の模様となった。
 宿の人々は女将をはじめとし、女中のお杉や男衆も集まってきて、代わる代わる料理を運んだり酒の用意を怠らない。
 芸妓のひな菊、それにあと三人程きれいどころがやって来る。
 人は大勢だが、斎藤には誰が誰やらもう一つ判らない。おまけにもって、昼から酒を聞こし召していたので、どうでもよいといえばどうでもよいと思えた。
 来客は宿の外からもあった。村の顔役のような連中もいれば、村井の検死をしたという老医師までもいた。要するに宴会の口実として、己等は呼ばれたのではなかろうか、と斎藤には思えた。
「それはそれで皆勝手に騒いでいりゃ、おれは独りで飲めるというものだ」
 斎藤はそう考えて、胡坐を掻くことにした。
 三味の音が流れ、酔っ払いが喉を唸らせている脇で勢い座談が始まった。
 どうやら、死んだ村井についてである。話を始めたのは、村井の遺体を最初に見付けたという番頭であった。
「折りしも一年前ですなあ」
 当たり前だ。そのつもりで女将に呼ばれたのだから、と斎藤は胸中で茶々を入れた。
 十一月の八日。つまり明日が村井の命日にあたる。泉州の実家では、盛大な法要がなされるだろう。
「村井様は七日の夜遅うまで……確か四つ刻頃までやったやろか。そこの三味弾いとるひな菊を呼ばはって、飲んでおられましたな」
 ひな菊はぽっちゃりと下膨れだが、田舎には稀な整った顔立ちに笑みを浮かべ、撥(ばち)を操っていた。年は多少鯖を読んでいるのかもしれない。
 成る程、村井の好みなのらしい。
 しかし、芸妓を呼ぶのも一種の隠れ蓑であって、実のところは例の尊攘浪士どもの様子を窺っていたのだろう。
 村井が潜行してから四日が過ぎていた。一行には動く気配がない。総勢四名にしても、決して安くは無い温泉宿で、日々安楽に飲み食いする余裕があるとは、余程に懐が暖かいとみえる。浪士らには必ず後ろ楯があって、そ奴らは大物なのではないか。
 手柄を立てれば出世の糸口となる、と村井は見ていたのである。

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