(四)
「先生、もう遅うなりましたし、うちへ来てお飲みにならはりません」
ひな菊は盛んに村井に酒を勧めていた。
「よし。悪ないな。けど、お前んとこにはまともな酒あるんやろな」
「此処と同じ丹波の酒を置いてます。酒樽やないですけどね」
昨日までは女中等が村井の長酒の相手をさせられていたが、今夜はひな菊がいるのでこれ幸いと座敷には近寄らなかった。
その日の係りはお杉であった。
「ほな先生、うち一足お先に帰らして貰います。お酒も肴も用意せなあかへんし」
ひな菊はそう言って帰って行った。勿論、宿の方へは後ほど村井が外出する旨を告げてある。
村井はさて、酔い覚ましにひと湯浴びようと、重い腰を上げた。
座敷を出ると、廊下をひたひたと歩く音がする。不審に思って湯殿に向かいつつ追うと、どうやら前を行く男はかねて付狙っていた浪士の一人らしい。此方も酔い覚ましだろうか、と思って村井は脱衣場へ降りた。
手拭を携え、その下に匕首を忍ばせて湯殿に入る。
誰も居なくなった座敷に夜具をのべに行ったのは、お杉だった。
「さてはひな菊のところへ行く前に湯を浴びて行かれるおつもり」
と覚って、お杉は黙って部屋を出た。
それから半刻余り経って、遅番の別な女中が湯殿の様子を見に行くと、脱衣場に灯が点っているのだった。
「誰ぞまだ入ってはるのやろか」
と訝りつつ声を掛けてみたが、返答は無い。
脱衣籠にも、浴衣も着物も無かったので、女中は灯を消して出た。
翌八日、六つ刻に火鉢を持って村井の座敷へ入ったお杉は、村井がまだ帰っていないので、「恐らくひな菊さんの所へお泊りの様子」と思った。朝餉の仕度は村井が戻ってからにしよう、と厨に告げた。
その村井が湯殿で発見されたのは、午前
(ひるまえ)のことだった。
湯殿の掃除にと入った番頭が見付けたのである。
脱衣籠に浴衣があり、村井らしい人影が見えたので「もし」と声を掛けてみた。
返事が無い。もしや睡り込んでいるのではないかと思い、湯殿の中へ入って行った。
起こして差し上げようと、腕に触れた途端、村井の上体がぐらりと揺れた。
「驚いたいうの何の。胸に匕首が刺さっとりましたんや」
番頭はその時の事を克明に思い出してか、青褪めた顔色になっていた。
当時はとにかく人を呼んで村井を引揚げ、湯殿を掃除して老医師を呼んだ。
何分、温泉宿というので他の宿泊客もおり、こっそりと始末がなされた。湯治場で人死にというのは厄介である。殺しの下手人も判らない。
奉行所に届けるのが筋だが、村井の身元は判っている。表向きは湯治客だが、京では泣く子も黙る新選組の一員ということを、女将は村井自身から聞かされていた。
そこで女将は、一先ず京の屯所まで使いを走らせた。
その日の夜には、果たして尾形俊太郎がやって来た。それで、村井の身元も保証されたというのは皮肉な結果といえた。
何しろ近頃は、御用だと言って宿代を踏み倒して行く客もいるのだ。女将としては事件もさることながら、其方も気掛かりだった。
しかし、表沙汰には出来ないので一々宿泊客を引き止めて検分するわけにもいかず、結局は例の浪士らもその日の午には出立してしまったのだという。
「成る程ははあ、この宴もどうやら村井の法要というよりは我々に対する口止め料のようなものか」
斎藤はそう解釈した。
芸妓も泊めない清潔な宿というからには、やはり外聞を気にしているのだろう。
そもそも新選組の連中の多くも脛に傷持つ身。わざわざ言い立てても何の得もないのだ、と斎藤は苦笑した。
「そやけど一つ気になることがありましたなあ」
番頭と老医師が顔を見合わせつつ言った。
「匕首で刺されとったんやが、湯殿には殆ど血ィが流れとりませなんだ。湯で流れたんや思うたんですけど、刃物を抜いても出ませんでしたし」
斎藤は聞き耳を立てた。だが、
「けど宴会やし、こういう話はもうやめときまひょか。お亡くなりになった村井様は御酒がお好きでしたさかいに、今夜はおおいに飲むのが供養いうもんですわ」
番頭はそう言って、話を打ち切った。ゆえに村井の死に関する話はそこで終いである。
斎藤は座敷を見渡した。
尾形も浅野も、猩々の如く赤い顔をしている。
「何をしに来たんだろうかね」
と、だんだん斎藤自身も訳が判らなくなってきた。
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