(六)
初冬の天候は変わりやすい。丹波地方は、丹波霧といってこの季節になると郷中一面乳色の霧で覆われることがある。こうした特徴ある地形が農作物の作付に適しているのだといわれる。
夜になると、昼間までの陽気が嘘のように俄かに冷え込んできた。
「これはもしかしたら、降るかわかりませんねえ」
と、女将は斎藤らに言った。生まれも育ちも丹波の女子が言うのだから、間違いは無いだろう。
「では、冷え込む前にひと入りして来よう」
尾形に誘われて、斎藤も湯に入ることにした。湯殿へ行くと、既に先客がいて、それは浅野だった。
「やあ、浅野さんもですか」
「明朝は京へ戻らねばなりませんのでね」
浅野は答えた。
斎藤は掛け湯で軽く身体を流してから、湯船に足を入れた。冷えた身体に慄えが来るような温かみを感じた。時間が遅いのだろうか、他に客はいなかった。
「私には謎が解けましたよ」
尾形は出し抜けに言った。
「何のですか?」
斎藤は顔を洗いつつ、訊き返した。
「村井君の死です――彼は殺されたのではありません」
えっ、と斎藤と浅野が同時に振り向いて尾形を見た。
「しかし、現に匕首を突き立てられていたのでは」
と、浅野が言った。尾形は頷く。
「それは死後です。犯人は村井君が亡くなった後、それを確かめてから刺したのですよ」
尾形は湯船から出て、手拭を置き、糠袋で身体を洗い始めた。
「なかなかの知恵者です。村井君は翌日八日に発見され、死んだことになっているのですが、既に七日の晩には此岸にはいなかった。この湯殿の中でね」
「だが、見回りの女中は誰も入っていないのを見澄まして灯りを消していますよ」
と、斎藤。
「如何にもそうですが、女中は湯殿まで覗き込んではいません」
尾形は少しだけ湯船の方を見遣った。
「それが犯人の目の付け所です。この寒空の下、誰も裸で湯に浸かりに来ようなんて思いません。脱衣場に何も置いてなければ、湯殿に人はいないと見るでしょう」
「成る程」
「村井君はひな菊を帰した後、確かに此処へ来たのでしょう。そうして村井君が酒の酔い心地で眠くなったのを見計い、そっと着物を隠した者がいる」
「何の意味でですか?」
「村井君を生きていた、ひな菊のところへ行ったと思わせる為ですね」
すると、浅野がうふふと低い笑声を洩らした。
「浴衣を隠したくらいで、この暖かい湯殿の中で死ぬものかね?」
まあそうです、と尾形は至って沈着な声で肯定した。
「ですが、村井君が寝込んだのを見て湯を止めた奴がいるのです。湯を止めると同時に、代わりに水を流し込んだ。ほら、女中部屋の隣に湯溜め小屋があるでしょう」
尾形は首を捻って、湯気の向こうを見詰めた。見える筈もないが、そこには確かに源泉に地下水を混入する仕掛がなされている。その故に、湯は一定の温みを保っていた。
「村井君は眠っていた為に、湯が水に換えられたことに気付くのが遅れたのです。気付いた時、いや目覚めるとほぼ同時に彼は死んだ」
「何故?」
浅野が問い質した。
「少々医術の心得がある者なら判ります。泥酔した人間が急激な寒暖の変化に晒されると、心臓に麻痺を起こすことがあるとね。よく鴨川の河畔で真冬に酔客が凍死しているあれですよ」
斎藤は、心なしか背筋がぞっとするのを感じた。
湯が冷たくなって来ているような気がする。
「犯人は村井君が死んだのを見澄まして、再び湯を引き入れ、浴衣を戻しておいて、彼の胸に匕首を突き立てた。恰も浪士一味の誰かを狙って返り討ちに遭ったと見せ掛ける為に」
「ならば最初から匕首で一突きにすれば面倒は無い筈だろうに」
「然様ですが、それは出来ません」
尾形は手を動かすのを止めて、糠袋を置いた。
「犯人はこの湯の花温泉に居てはおかしい人物だからです。うっかり村井君に顔を見られ、大声を出されては厄介ですからね」
「そいつは誰なんだい?」
浅野は岩場に掴まり立ちしながら、喘ぐように訊いた。
「湯を止め、浴衣を隠したのは女中のお杉でしたよ」
尾形は嘯くように答えた。
「お杉は下男からちょくちょく小屋の悪戯のことを訊いて知っていましたからね。しかし、お杉には村井君を殺す動機など何一つない。あの女は金を握らされて、真犯人の言うがままに動いただけでしょう」
斎藤は湯船から立ち上がった。
「おい、本当にぬるくなってきたぞ」
さっきまで熱かった湯がみるみる水に変わって行く。だが、浅野は岩肌にへばり付いたまま、微動だに出来ないでいた。
「おや、また誰か悪戯しているんでしょうかね」
尾形は目を丸くした。そんなわけがない、と斎藤は慌てて湯船を飛び出した。
「如何です、浅野さん?あなたが村井君に味わわせた冷たさはこんなものだったでしょうか?」
尾形は苦々しく、薄らいでいく湯気の向こうの人物に向かって問い掛けた。
浅野は黙っていた。言葉を忘れ、ただ湯面が澄んだ地下水に取って代わられて行く中を、放心したようになっていた。
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