(一) 桑名藩主・松平定敬
近衛忠熈
(ただひろ)がはじめてその若者に接見したとき、
「眼晴
(ひとみ)のうつくしい男やな」
という印象を抱いた。
京の夏の蒸し暑い昼下がり、一際強い意志を宿した双眸が忠熈の心を捉えた。
松平越中守定敬
(さだあき)、このとき十七歳。桑名藩主となって四年足らず。ぬばたまのように黒い眸には絶えず白い光が点っていた。
青年とは、そういう生き物であるということを、老いの近付いた忠熈は心得ている。
しかし、忠熈の知る限りかつてこの禁裏に参内した若者で、斯様な眸の持ち主は殆ど無い。
「否、もう一人――ああ、肥後守はこの若者の兄でおざったか」
松平容保
(かたもり)のことである。定敬の異母兄容保は、既に文久二年の十二月、幕府の新たに設けた京都守護職の任に就いていた。
それより先に定敬のほうは京都警衛の職に与っていたのであるが、江戸城溜詰兼任ゆえ京には居付いていなかった。
容保は帝のおぼえも目出度く、見るからに律儀者である。
だが、忠熈がその異母弟である定敬に見たのは、その種の性情ではなかった。
「この男、いずれ数年のうちに幕閣の中心になるやろう」
親しくしておいて損は無い。水戸家とも血筋が近い。
忠熈自身はかつて烈公・水戸斉昭、島津斉彬ら一橋派と懇意であり、その為安政の大獄によって失脚、僅か一月半で関白職を罷免となった。
そののち、大老・井伊掃部頭直弼の横死等を経て幕府が強硬路線を緩めると、前年六月に再び関白の座に就いた。
ところが、朝廷内に公武合体ではなく攘夷の空気がひたすらつのってくるにつれ、段々に嫌気がさしてきた。
「こなたも五十を半ば過ぎてしもうた。欲をかいてもはじまらぬ」
という気持ちが増し、内覧を辞して二月余。詠歌の日々を過している。いずれ歌集を編もうと思う。
定敬の出現は、枯れてきた忠熈の心に小石
(さざれいし)が投げ込まれたように微かな波紋を起こした。
「しかし、愚鈍な大名
(おさぶらいしゅう)の多い中では何より機敏な若者や」
打てば軽やかに響く。忠熈は御用間においてさりげなく雑談を交わした。
「越中どのは歌はお好きか?」
「さァ、然程ではありませぬ」
率直なものの言い方であった。
「歌は肥後守のほうがお得意にございます。それがしは謡
(うたい)は好きですが、無作法者にてもっとも好むところは乗馬にございます」
忠熈は、ほうと唸った。如何にも負けん気の強い若武者である。さもありなん。定敬は少し窮屈そうな冠の紐を気にしながらはにかんだ。
「何となれば、我が藩はこの宮城の地警固という格別の任を賜ったのでありますゆえ、大事に備えて日々馬場にて鍛錬しております」
忠熈は、この二言三言の遣り取りで、定敬にいたく感心した。
文久三年六月のことであった。
参内からほどなくして、定敬は禁裏北の近衛邸に招じられた。六月十六日のことである。宮中における嘉祥
(かじょう)の儀式ののち、嘉祥菓子を振舞うというので近衛家の催す茶会に出席した。
嘉祥御祝儀は江戸幕府でも大々的に行われていた。太閤豊臣秀吉以来の行事である。定敬は本年は在京中なので出席出来ず、そのことを配慮しての忠熈の招待であった。
七種の嘉祥菓子を賞味しながら、忠熈が詠んだ歌を鑑賞する。
その席に一人の絵師が列んでいた。
岡田為恭
(ためちか)と紹介された。反っ歯の上方風な風貌の男であった。
「お初にお目にかかりまして。何とぞよろしゅうお引き回しのほどを」
四十がらみの為恭は、定敬に向かって言った。
「何だか貴族の割には商人
(あきんど)のような物言いだな」
定敬は、内心訝った。それもその筈で、あとあと忠熈が「あの男は貴族の株を買うた男での。もとは狩野永泰の息子だが」
京狩野派の後継者ということになる。だが、為恭は田中訥言
(とつげん)という土佐派の絵師に師事し、やがて大和絵に魅せられるようになる。今まさに大和絵復古の絵師として、日本各地に名を知られていた。
その平安朝趣味が昂じて岡田家という貴族の養子となった。自称していた冷泉姓が著名になり、そう呼ばれることが多い。
「小御所の襖絵を描かれたのは、冷泉どのでしたか」
定敬は言った。
安政二年に制作されたという清涼殿更衣図であった。先日参内した折に、兄とともに拝見した。
「然様にございます」
「いや、見事なものだ。鮮やかな色使いと構図の斬新さは単なる復古絵ではない。確か、さきの大老がご依頼なされた承久の乱襖絵も貴方の筆ですな」
「お褒めに預りまして光栄の至りにございます」
為恭は眉尻を下げた。すぐれた絵師にしては、何処か卑屈な物腰である。
忠熈は忠熈で、定敬の純粋な聡明さがますます気に入った。
「この若者が常時京にいてくれるならええがな」
と思う。定敬は近々また京を出立して江戸勤務に戻らねばならない。松平容保は生真面目でいい男なのだが、職務意識が強く、どうしても堅苦しいところが抜けない。定敬は若く闊達で伸びやかに育っている。常に衣服に焚き染めた香の心遣いも好もしい。
為恭が近衛邸を出たあと、四半刻ばかり経って定敬も辞した。帰り際、
「冷泉どのは、何ゆえ付け人を二人も付けておるのですか?」
定敬はふと疑問を口にした。邸内にいる間何となく気になっていた。公家は太刀持などを雇っているが、公家侍にしてはいやに物々しい男達であった。
「あれは新選組の連中やな」
新選組といえば、もとは将軍警固の為に江戸で集められた浪士集団である。それが諸々の経緯あって京に居残り、自警組織となった。京に蔓延る過激浪士を取り締まる為であり、その心意気を汲んで京都守護職たる会津藩の御預となっている。
「いずれ腕に覚えのある剣客集団ですな。しかし兄上がその連中を冷泉どのの身辺警護に?」
定敬は訝った。
「所司代・稲葉長門守どのからの依頼での」
ますます面妖である。すると、忠熈はそっと定敬の袖を引いた。
冷泉為恭は安政年間、京都所司代が酒井若狭守忠義の頃から深い繋がりがあったという。
為恭は絵師という職業柄、公卿、武門を問わず様々の人物と関わりがあった。宮門跡や塔頭、武家屋敷に入っては、作品を仕上げるまで数十日、長くは半年から一年近く滞在する。その間、依頼主と何らかの座談があることは言うまでも無い。
とりとめもない噂話から政談まで、そこで見聞きしたことを密かに所司代を通じて幕府に洩らし、小金を得ているという。
「ところが、さきの所司代・牧野備前守どのはうっかりしとった」
為恭が例によって見聞したことを報告に行くと、何も知らない牧野は追い返してしまったのだ。
のちに牧野はその経緯を理解して為恭を引き入れたが、何方からともなく噂が流れ出てしまった。冷泉為恭が公儀の間諜であるという噂が、尊攘過激派浪士の間に広まった。
「そこで近頃、冷泉為恭を暗殺せんという輩がうろついとるらしい」
忠熈は言った。為恭の訴えは所司代から守護職に回った。会津藩から付け人を出すというのも理屈としておかしい。しかし、朝廷や貴族の待遇改善には尽力せねばならぬという微妙な見地から、松平容保は新選組に命じて為恭を守らせたのだった。
「兄上らしい」
と、定敬は微笑した。定敬にしてみれば、たかだか絵師などうっちゃっておいて斬られようがどうということはない。すべて原因は己にあるのだ。己の始末も出来ぬ奴輩が国事うんぬんを言うのは愚にもつかない。そんな奴を暗殺しようとする連中も莫迦なのである。
「翠山公のお考えは違われますか?」
定敬は、忠熈を雅号で呼んだ。忠熈は答えなかった。答える代わりに従容と笑んだ。
「越中どのはお厳しい。例え話やが、そなたが京職(所司代)になられたら、不逞の輩ものうのうと京大路を歩けまへんな」
ふふ、と定敬は笑った。
既に栄誉職の江戸城溜詰にある自分が、わざわざ下格の職務に就くことは考え難い。例え話としても。
「有り得ない」
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