(十) 大和・鍵屋ノ辻

 元治元年四月十一日、稲葉長門守正邦が正式に京都所司代を辞任、東帰して老中となるに代わって、松平越中守定敬が後任として就いた。
 近衛忠熈は、金泥紙本の懐紙にしたためた和歌を定敬に贈った。

 桑名中将定敬朝臣が所司代の任にありて志勤のこころことに浅からぬを感じ侍りて 前関白忠熈
 
  君がため こころをみがく玉じきの 宮このうちの守りただしき

 定敬は改めて着任の意欲を感じた。
「恐悦至極に存じます。上様より帯地と袴地を賜りました。急度この金泥とよく映ることと思います」
 さっそく表具に仕立てたいということを述べると、忠熈は喜んだ。
 話は和歌や政談に至ったが、ふと忠熈は言った。
「そういえば近頃、冷泉為恭の噂を聞かんが、如何?」
 さあ、と定敬は答えた。
「沙弥になってから一旦屋敷へ戻り、その後親類を頼って京を離れたとか」
「ほなら、もうあの男を付け狙う浪士はおらんのやな」
「何とも言えませぬ」
 定敬は八重歯を見せて、曖昧な返答をした。
 実は為恭は堺の物産問屋、大和屋徳次方を頼って行ったという事を、定敬は知っている。綾衣から聞いた話である。
 定敬はあれから数度、冷泉邸を訪った。無論、亭主の為恭はいない。二日に一度、午後の業務を慌しく終えてから、定敬は小姓を連れて馬場へ出ることにしていた。その、およそ二刻ほどの間である。
 裏木戸からそっと冷泉邸に入ると、綾衣が待っていた。綾衣は打掛に包まれた柔媚な肢体をしんなりと定敬に委ねてきた。定敬の耳たぶに濡れた唇をつけ、
「こなたはただ、あなた様がほしかったのどす。どうぞお情け下さりませ」
「おれもそなたが欲しい」
 綾衣は男になずんだ肌で、定敬の愛撫を受けた。
 およそ、あてがわれる側妾の無機質な反応とは違って、万事積極的な人妻との合歓は、若い定敬の好奇心を満たした。
「越中守様」
 綾衣は定敬の上になって動き、唇を開いた。
「うれしおす」
「そうか」
 離れである。為恭の仕事場である。庭の牡丹花のごとく繚乱と脱ぎ散らかした衣服の上で、抱き合ったまま何度も転びつ、それでも綾衣の白い腿は餅のように絡み付いたまま定敬を離さなかった。
 為恭の描いた花木図屏風を蹴倒すほどの激しい痴戯で、定敬は何度もむざんな声を立てそうになるのを堪えるのに苦心した。己の細い肉体から、したたかに湧き出る泉の深さに驚くほどである。
 だが、ひちひちと衣服から立ち昇る白檀の香とお互いの体液にまみれながら、一方でこの男は、芯から綾衣に耽溺する気はなかった。
「堪忍。綾子は罪深い女子におざります」
「お互い様ではないのか」
 そう言いながら、定敬はさりげなく隅に立て掛けられた一幅の絹本仏画を見遣った。未完のものらしいが、白象に乗る普賢十羅刹女が、穴の開くほど此方を見ているような気がした。羅刹女は、少し綾衣に似ている。
 よくよく考えてみれば何の事は無い、この人妻は誰が浮気相手でもよいのではないかという気がした。
 情を通じているのかどうかは判らぬが、未だに奉行所与力の正木を招き入れてもいる。新選組の若い連中にも色目を隠さない。亭主の不甲斐なさに倦んでいる、生来の男好きではないだろうか。
 それはそれで、綾衣という女も不幸には違いないが。
「刺客に狙われる、と日がな一日屋敷をうろうろしているみっともない亭主をいちばん不要に感じていたのは、この女ではないだろうか」
 為恭が一層憐れに思えた。
 四度目の逢瀬の時だった。互いに衣服を脱がせ合いつつ、いつものように離れまで進んだ。濃艶な交情の途中、定敬はふと奇怪な単語を耳にした。鼻口に掛かる甘い吐息とともに、女の紅い口唇から吐き出された言葉は、
「ああ、……所司代様」
 稲葉正邦のことか。はたまた定敬自身のことか。まさか、まだ正式に就任したわけでもないのに何故この女が知っている。やはり稲葉長門守か。それとも酒井若狭守か、牧野備前守か。いずれにしても、訝しい。
 当の綾衣は、恍惚の夢寐の中にあって、己が発した言葉にも気付かない。苛立ち紛れに定敬が責め立ててみても、気持ち善がるだけだった。
 定敬はそれ以来、綾衣に逢うのを止めた。
「ともかくこれで新選組も我々も警固の必要がなくなりました」
 定敬は、忠熈の顔を真っ直ぐに見詰めて言った。綾衣との夢現のような交歓を思い出して、ふと胃の腑の下あたりが熱くなっていることはおくびにも出さず。
 無論、為恭には「出家するのが得策にござる」と智慧を貸してやったのだから、これ以上かかずらうこともなかろう。
 忠熈は、己の顎に手をやった。
「お督どのは如何やろ」
「存じませぬ」
 定敬のすげない返事に、忠熈は少し憮然となった。
「そうか。綾衣いうお督は男山の社家の娘での。こなたが再婚を渋る為恭に口をきいてやった」
「巷では類稀な美形だという噂ですが」
「しかしな。情の強(こわ)い女子やよって、為恭ほど暢気な男でのうては亭主はつとまらん」
 忠熈は言った。
「お督の容色に惑わされて通い詰める間男がおっても、素知らぬ顔が出来るくらいの亭主でないと」
「成る程、名馬の騎手は幾らもいるが、名伯楽はただ一人というわけですかな」
 定敬は、些か卑猥な喩えを溌剌と笑って言った。だがその実、熱くなっていた鳩尾あたりに俄かに冷やりとしたものを感じていた。
 近衛忠熈こそ、かつて綾衣を囲っていた堂上ではないかという確信が、この時湧いた。
 そして、まだ彼等は通じているに違いない。
 何処となく、忠熈の浮付いたような苦笑いのような表情が物語っている。なればこそ、綾衣が房事の最中に定敬を「所司代様」と呼んだ理由が知れた。所司代就任の内示は、忠熈にしか話をした覚えが無い。
「してやられた」
 定敬は己の若さを悔いた。
 勿体ぶって忠熈に貸しを作ったつもりだが、そうではなかった。実は、忠熈が為恭の警固をせかされた相手というのは、綾衣ではなかったか。
 綾衣はまんまと忠熈を介して為恭の警固を押し付けて、その押し付けた若い男とうまうまと浮気までした挙句に邪魔な亭主を追い払ったのだ。
 否、或いは為恭は妻の色香をだしに、これまでの所司代に取り入っていたのではないか、とも考えられた。
 普賢十羅刹女の白く輝くような麗顔を思い出す。
「やはり京の連中は一筋縄ではいかぬ」
 定敬は、自嘲を込めた微笑を浮かべるしかなかった。

 さて。
 冷泉為恭が大和屋徳次の世話になっているということを聞きつけた大楽源太郎は、その時になってあっと思った。松平越中守が言った「待てばそのうち機会が訪れるやもしれん」とは、この事に違いないと。
「越中守は冷泉警固を言われたものの、実のところ気乗りがしておらなんだ。冷泉本人には頭を丸めて隠棲することを勧めれば、彼等も命に背かず任務を離れることが出来る、と」
 その後は知ったことではない。市中の噂を聞きつけた源太郎らが為恭をどうしようが所司代の関知するところではない。まして、為恭は京を離れてしまった人間である。
「上つ御方は、あんな若造でも思いのほか腹黒いものだな」
 源太郎は、ますますお上というものにうんざりした。頭の中に、西加茂の森の闇中に見た定敬の表情を思い浮かべていた。
 源太郎は天岡と神山を呼び寄せると、三人で京を出た。まず堺へ下り、大和屋徳次を脅すや、為恭の居所を問い糾した。
「へい。大和丹波の永久寺におりやす」
 白状した。
「よし大徳。手代一人と駕籠を寄越せ。内儀を堺に呼び寄せたので逢いに来たくば来い、と言え」
 源太郎は為恭がこの方弁に引っ掛かると確信していた。綾衣に未練があろう。そして、女房恋しさに必ず出て来ると。
 果たして、源太郎の思惑通りであった。為恭は何の疑念も抱かず、大徳が差し向けた駕籠に乗った。
 村を外れる頃にはうとうとと眠っているらしく、返事もない。
 永久寺を出て十町ばかり堺へ向かった頃、丁度「鍵屋ノ辻」というところへ差し掛かった。
 源太郎、天岡、神山の三人は辻の東側の祠に潜んでいた。やがて、春のうらうらと温かい陽射しの中を、駕籠が向かってきた。
 源太郎は駆け出した。あらかじめの手筈通り、駕篭かきは駕籠を下ろして逃げ出す。そこへ夢心地から目覚めた為恭は思わず大和屋へ着いたかと勘違いし、首を出した。
「しゃっ」
 源太郎の一太刀が為恭の首を叩き落した。
 胴はほっぽって首をどう始末しよう、と源太郎が風呂敷に包んだ時、
「今これを提げて京へ戻るのは危険だ。大坂へ行って晒し物にしてはどうだ」
 天岡が提案した。そうして翌五月六日、大坂御堂前の石灯籠の火袋に押し込み、天誅文を貼り出し、三人は散った。
 源太郎はしかし、胸の裡に幾許かのわだかまりを抱えていた。
「その後、あのうつくしい内儀は如何したろうか?」
 京を離れた源太郎には知る由もなかった。綾衣はいつとはなしに京を去り、住む者のいなくなった冷泉邸は荒れ家になってしまった。市中の噂では、綾衣は誰か堂上の口添えで丹波の尼寺へ行ったと、大徳に引き取られたとも言われているが、それさえもひと月もせぬうちに誰も噂をしなくなった。
 最早、真実はもののはかなき浅茅が露である。

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