(三) 新選組・斎藤一

 屯所を出る前から、しとしとと春の長雨が続いていた。番傘の下の斎藤一の顔は眠たげである。
 二重目がより眠たそうで、生来の不機嫌であるかのように見える。
「何で非番の日にわざわざ御所くんだりまで行かねばならぬ」
 懐手に歩きながら、斎藤は胸中毒づいた。伴はいない。一人である。
 副長の土方歳三から話があったのは、遅い起床後直ぐであった。
「悪いが斎藤、堺町御門筋の岡田という公家のところへ行ってくれ」
「はあ」
「先月からそこの主の護衛を仰せつかっている。いつもは原田の組に任せてあるんだが、今し方奉行所から遣いが来て、捕物だ。交替に行ってくれると有り難い」
 土方の有り難い、はつまり命令である。
「本当はおれが行ってみたいものだが、そうもいかんのでな」
 と、土方は軽口を付け加えて副長室に入って行った。
 そういうわけで、斎藤は何の委細も知らされず、とにかく行けと言われて出て来た。恐らくは黒谷からの命令なのであろうから、人がいないといって放っておけないのだ。
 果たして屋敷に着いてみると、意外に粗末であった。
 板塀に若い朝顔や青蔦が絡まっている。玄関で名を告げると、小女がやってきた。色の浅黒い小女は、
「ああ、会津はんのご家中の方どすな。お待ち申しておりました」
 新選組、とは呼ばれない。人聞きが悪いとでもいうかのようである。しかし、斎藤は感慨もなかった。こういう対応には馴れている。小女もおよそ公家の下働きとは思えない町言葉を使っている。恐らく、通いの女中なのだろう。
「斎藤先生、ご足労をお掛けします」
 廊下に出て来たのは、伊藤与八郎であった。平生、原田左之助の下についている平隊士である。昨年六月に入隊、美濃の生まれであるという。斎藤と年はほぼ同じだろうか。東海道の桑名宿で売られている安平餅のような白い長い顔をしている。
「先客がいるのか?」
「ええ。西町奉行所与力の正木様です」
 客間には奉行所与力・正木彦之進と向き合う若い女が座っていた。何やら楽しげに談笑しているが、其処に主の姿はなかった。
 奉行所で捕り物と聞いているのに暢気な、と思いきや勤番は今、東町奉行所なのであろう。京の奉行所は江戸の南北奉行所と違って、東西がひと月ごとに交替で勤務に就くのだという。理由は、斎藤もよく知らない。
「主は離れで襖絵の下絵を描いておるようです」
 斎藤は促され、客間には上らず、廊下で来意を告げた。与力の正木は不意の訪問者に些かむっとなったようである。おこぜのような下膨れの面を少し歪めた。対座する女は、これは岡田式部こと冷泉為恭の内儀のようであった。
「綾衣と申します」
 藤の花の揺れるような風情であった。斎藤より三つ四つばかり年長か。そして、容色は驚くほど美しかった。京洛にはやはり斯様な女子が、と思わせる美形ぶりといえた。それも人形のような冷たさではなく、ある種の生々しさをともなう。
 やんわりとした、京の公家言葉の所為かもしれない。まことに女が女らしい。
 ほんの一時であったが、斎藤を見詰める黒い双眸に何か蝋燭の炎の揺らぎのようなものが見えた。
 だが、斎藤は何事もなかったかのように会釈だけ返し、伊藤に案内されるまま歩き出した。
「成る程、土方さんがああいう言い方をしたのは」
 斎藤は納得した。綾衣という内儀を見てみたいという事か。おそらく警護の隊士が余計な噂を副長の耳に入れたものだろう。
 背中に刺すような視線を感じて、斎藤は何度か振り返ってみた。
「いやな男です」
 伊藤が小声で言った。
「冷泉どのが?」
「正木です。主人に用があると言っては足繁く屋敷にやって来ます。しかし、主と話すのは二言三言で、あとはああやって内儀と談笑しているのですが」
 伊藤が周囲を見回した。
「あの男は時々、内儀の手に触れたり肩を引き寄せようとしたり、目も当てられぬ痴漢です」
 潔癖らしい伊藤は額に薄っすら汗を掻いていた。
「主人も在宅というのに、離れにいるのをいいことに。内儀も内儀です。凛とした振る舞いあれば、あんな小役人などに」
「奉行所与力ともなれば仕方なかろう。案外、冷泉は見て見ぬ振りを決め込んでいるのやもしれない」
 斎藤は苦笑いした。その反面、あの内儀の色っぽさでは惹かれぬ男が男ではないような気がする。あまり素人女を好まぬ斎藤でさえ。綾衣は、その目付きだけで淫猥な想像をむくむくと起こさせるに充分な女といえた。伊藤のような朴念仁なら、そうは思わぬのだろうが。
「然様で。冷泉は朝議の秘密を幕府方にもたらす為に、ああいう風に内儀の容色を利用して正木のような男を呼び寄せているようです。何処までそのつもりなのかは、図りかねますが」
「おいおい。護衛がそんなことを言っちゃ拙いぜ」
 斎藤は、少しおどけて言った。
 伊藤が掲げた傘の下で、庭に下りる。板塀に沿って、淡紅色や鴇色の牡丹が咲き開いていた。
 離れの櫺(れんじ)窓から、冷泉為恭の姿が垣間見えた。小柄でやや浅黒い色の、貧相な男である。
 しかし、その貧けた四十男が、彩管一本で一幅数十両から数百両という大和絵を描くのだ。人の才能は何処にあるかわからない。絵筆をもて、斎藤が描けるのは、へのへのもへじがいいところである。
 為恭の行状は兎も角、芸術家としては頗る価値がある。
 伊藤は、「宜しくお願いします」と告げて、急ぎ屯所に戻って行った。
 雨は依然として降り続いている。何事もなく午前は過ぎた。
 正木は一頻り無駄話をして、綾衣と心行くまで過してから帰って行った。恐らく、金子の一包みでも置いていったのであろうか。綾衣が盆に載せた何かを持って離れに出入りする姿を、斎藤は一瞬だけ見掛けた。
 だが、夕刻になった頃、ちょっとした異変があった。斎藤が離れに続く廊下を歩いていると、破れ壊れた板塀の隙間から誰かが覗いているのが見えた。
「浪士か」
 と、目を泳がせたが、斎藤は直ぐに何食わぬ顔に戻った。忍び入る事が出来る場所でも探っているのか。
 ひっ、と斎藤の背で声が上った。離れから為恭が出て来たのである。
「誰かおるのか?誰か」
「いえ。去って行きました。物売りかもしれませぬが」
 斎藤が答えると、為恭は酷く蒼褪めた面つきで肩を竦めた。
「浪士なら斬ってたも」
 為恭はそう言って、内儀を呼んだ。
「殿さん、如何なされました」
 綾衣は、為恭に寄り添って奥へ入った。斎藤を顧みる綾衣の目線が揺れた。斎藤はやはりそれを見て見ぬ振りをした。
 雨でよかった、と斎藤は一息ついた。
「堂上(とうしょう)というのはいけ好かない。まるでおれらは犬や猫扱いか。真昼間から、よしなしごとを襖一つ隔てるだけで平気でやるとはな」
 雨が強まった。斎藤はむしろ喜んで、けぶる庭をうち眺めた。奥の間で為恭に組み敷かれ、綾衣がどういう嬌声をあげているのか、聞こえないで済む。

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