(四) 天誅予告状

 二月中旬になった。御所の築塀にある下馬札に、怪訝な貼り紙がなされた。

 絵師 冷泉為恭
   此者、安政戊午以来、長野主膳、島田左近等に組し、種々大奸謀を工み、酒井若狭守に媚び、不正の公卿と通謀し、悪虐数ふべからず。不日我等天に代わり、誅罰を加ふるべき者也。

 これは明らかな天誅予告状であった。
 東西奉行所から、非番である筈の与力・正木彦之進らまでもがやってきてこれを撤去したが、筆跡が誰のものとは知れない。
「些か行き過ぎた話やなかろうか」
 近衛忠熈は言った。先程から歌の下読をしているが、うまくいかない。
「悪逆を数ふべからずほど極めたかどうかは知れませんが、書き手はいずれにしても過激の尊攘派でしょうな」
 答えたのは松平定敬であった。
 正月、将軍・家茂の上洛以降京に滞在し、二条城の警固に携わっている。
 忠熈は、数ヶ月見なかった間に定敬が少年から随分と大人の顔に変化したのを、好もしく感じた。
「くだんの御本人はどうしておられるのですか?」
「屋敷にこもりっきりで出て来いひんらしいわ。先日、神光院(じんこういん)の寺侍が宅に来てこぼしておったわい。屏風絵を描いて貰うことになっとったのに、いっかな西賀茂へ来んので訪ねたところ、『わしは殺される、わしは殺される』と家内をうろついとるばかりやという」
 忠熈は筆を置いた。興が乗らない。
「被害妄想に尽きまする」
 と、定敬は唇を歪めた。
「いったい京に何人の浪士が蔓延(はびこ)って、その者のうちいずれが絵師を狙う者かも見当つきかねます。有象無象ではありますまいが、有り体に申しますれば、もっと巨魁がおりますでしょうに、何しにわざわざ冷泉どのを」
 定敬の反応はすげない。忠熈も止むを得ないという気はしていた。
「しかし越中どの、こなたもせっつかれての。一昨日使者がきおった」
 今は将軍在京で、その為に浪士もうんと市中に集まって来ている。会津藩をはじめ、諸藩士は悉く市中、城内外、禁裏周辺の警備にあてられ、冷泉一人の為に数人も囲っておくことはままならない。新選組とて同じであった。
 そこをなんとか前関白の人脈で都合をつけて欲しい、とさる筋から依頼が来たのであった。
 定敬は、ははあと思った。
「翠山公に否と言わせぬ相手とは、片手で数えるまでもない。あっちかそっちか」
 大体の見当はつく。だが敢えて言わなかった。聞けば聞いたでつまらぬ関わりが生じてもいけない。
「桑名藩兵もそう多くはございません。それに藩主をはじめ、なかなか気の利かぬ朴念仁ばかりですが」
 定敬はじらした。交渉事というのは己に利が少ない場合、なるたけ即答は避けたい。
 だが、請負ったところで何かの為になるかというと、これが今一つ利が薄そうである。
 別段、定敬は栄達や得を望んでいるわけではないが。冷泉為恭を救ったところで、あとあと小襖絵の一組くらいは描け、と大きな顔を出来るくらいのものであった。政事にはまるで無関係だ。
 実際、桑名藩士は百名足らずで在京任務を務めている。手が足りない。
「物事は小事より大事に至る。しかして、おれのこの行動が公武合体なり主上の為に結び付くのであれば」
 定敬は少し考えてから、頬を緩めた。
「承知つかまつりました」
 忠熈は、そうかそうかと二度頷いた。定敬はさらに、忠熈が吃驚するような事を言った。
「さっそく、それがしが冷泉邸に参りましょう」
 前代未聞のことをしたがる男である。松平定敬という若い藩主は。
 彼は忠熈に言った通り、騎馬で堺町御門筋まで出向いた。供者は、小姓の立見鑑三郎と馬の轡取りのみである。といっても、実際に馬を操るに、定敬ほど秀でた若武者は江戸でも京でもいなかった。
 定敬の愛馬は、家茂から下賜された欧州産の巨大な黒いアラブ馬であった。要は定敬が不意に馬を乗り捨てるような事があった場合の後追いの役目が、馬丁なのである。
 砂利道を優雅に進む。通行人が見惚れるほどの清々しい姿である。
「あれは桑名様やろ。さすがに名手やな、あないな大きい馬を乗りこなして」
「ほんに凛々しい。こわいこわい」
 京童の声が聞こえる。御所の南筋には物売りが行き交っていた。
 果たして先に立見が冷泉邸こと岡田家の玄関に赴いた。小女が取次いで、何がしか無愛想に言う。
「邸内に入れと申しておりますが」
 立見は戻ってきて、早口に伝えた。定敬は馬から降りた。
「為恭どのにご挨拶したいと伝えてくれ。不在のようなら長居は無用」
 定敬がそう言ったのは、屋敷があまりにもしんと静まり返っていたからである。新選組の付け人がいるならば、もう少し人気があってもよさそうなものを。すると、為恭は別宅か或いは神光院に出かけているのではないかと思った。
 立見が主人の意向を伝えに行くと、小女は引っ込んで、何と屋敷の女主人が出て来た。
「まことに申し訳おざりませぬ。式部は只今、西賀茂へ他行しております。五日ばかりで戻って来るとのことでございます」
「お裏どのか」
 定敬は何気無く、直に声を掛けた。滅多に無いことであった。直答を許された内儀は、
「はい。けど、お裏などと勿体無い。綾衣と申します」
 綾衣は顔を俯けたままであった。
 「お裏」と呼ぶのはこのような平堂上の妻ではなく、大臣家以上の内儀に対してである。この場合「お督(かみ)」でよいのだが、定敬は敢えて「お裏」と世辞を言った。
 ところが意気揚々と来たものの、拍子抜けした定敬はひとまず正直に、
「いや。為恭どのとは、過日の歌会でお会いしまして。近頃、御所の下馬札の件が手前どもの間でも物議を醸しておるのは、お裏どのもご存知かと。それがしも、さる御方より為恭どのの身辺警固を与って来たのであるが」
 そう言った。近衛忠熈の名は伏せた。
 まあそれは、と覚えず綾衣は面を上げた。
「御心いたみいります」
 綾衣の細面は、定敬が息を呑むほど艶やかであった。美しいのをしのいで余りある艶やかさであった。濡れた黒い双眸が、若駒のようなしなやかな定敬の立姿をねっとりと隅々まで見詰めたようであった。
 それが、まるでつと伸びた女の繊手が、定敬の体を余すところなく撫で回したような錯覚を与えた。
「御無礼をいたしました」
 と、綾衣は頭を下げて後退った。定敬は、女主人の慎ましやかな立居振舞にもかかわらず、其処から思い巡らせた産物が、一瞬とはいえあまりにも下卑ていたことに気付いた。
 羞恥ではない。それはそれで、大事の時に俄かに空腹を覚えたような居心地の悪さを感じ、「後日また」と述べて早々に引き返すことにした。
 玄関からそっと定敬を見届ける綾衣の姿を振り払うようにして、馬をいつしか早足で進ませる。
 定敬は、暫く今出川通に出るまで、綾衣の絡みつくような視線を感じて、いたたまれぬ心地で大宮通の藩邸へ戻ったのであった。

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