(五) 賀茂街道

 東山の長寧院に潜伏している天岡忠蔵の元へ源太郎が訪ねたのは、戌の刻であった。
 天岡は一人でいた。
「冷泉の居所がわかったぞ」
 と、源太郎は言った。
 御所の下馬札の貼り紙以来、冷泉為恭はおそれをなして何処かへ遁走したという噂が市中に流れていた。屋敷は門を閉ざされたままで、殆ど人の気配を感じなかった。無論、新選組の連中もいない。まことか否かを確かめようと物売りに扮して源太郎は通りを歩いてみたが、婢女一人出て来ない。
 いよいよ家人皆引き払って移り住んだか、と怪しんだ矢先であった。
「屋敷にこもっているのではないのか」
 天岡が訊いた。
「西賀茂の神光院にいるようだ。近頃、仏画が興に乗っていて、その筋の依頼が多いらしい」
 放光山神光院は京の弘法札所の一であり、神域とされた。そうそう市井の人間が立ち入る処ではない。
「うまく考えたものだな。二刀差しがうろつくと不自然だ。その話何処で仕入れた?」
 すると、源太郎は大きく頷いた。
「屋敷の前を通り掛った。すると、驚くな、意外な人物が冷泉邸を訪ねてきておった」
「正木という奉行所与力か?」
 いや、と源太郎は首を振った。源太郎はその時の様相をまざまざと脳裡に浮かべることが出来た。
 玄関先に、為恭の美しい内儀が立っていた。源太郎は、京で初めてあのような豊熟な女性を見た。そのことが与えた衝撃はひとかたならぬものであった。そして、対している若い男が何者であるのか、これは御所の前を行過ぎる京童の声で知った。
「松平越中守だ」
 源太郎は若い内儀のことは言わなかった。
「桑名か。どういうことなのか説明してくれ」
 天岡は膝を乗り出した。
「わしにもよくわからん。桑名藩と冷泉為恭の何に関係があるのか」
「襖絵を依頼するのにわざわざ藩主自ら赴くわけはなかろう。まさか――」
 天岡は言い澱んだ。
「冷泉の内儀と曰くがあるのでは。内儀は出ておらなんだか?」
 源太郎は愕然とした。天岡は何故、内儀の存在を知っているのか。
「出てきておったが、あの内儀と越中守が何かみそかごとでも、と言うのか」
「おぬしは知らんのか」
 天岡の方が首を傾げた。
 冷泉為恭の内儀、綾衣は巷では知らぬ者の無い美女で、もとは社家の娘であるという。
 為恭より一回り以上も若く、如何様な縁で為恭のような男に娶せられたのか不思議にも程がある、と噂されている。御多分に漏れず、そのあてな容色から綾衣には時折間男が訪ねてくるという下世話な風聞もあるほどだ。
 何故なら、あの辺りに多い御扶持米(おふちまい)公家屋敷の軒先をうろちょろする物売りなど滅多に無いというのに、為恭の屋敷には途絶えたことがない。急度、間男が扮装して勝手口から入り込んでいるに違いない、とも言われている。
「内儀はもともと誰か堂上のお手付きで、それが為恭に下げ渡されたともいうが」
「埒も無いことだ」
 何故か源太郎は不機嫌になった。
「正木彦之進も綾衣の色香に惑わされて、しょっちゅう屋敷を訪ねているらしい」
「かといって越中守までもというのは安直な。わざわざ訪ねるものでもなかろうに」
「男女の仲ほどわからぬものはないぞ。冷泉と綾衣しかり」
 源太郎は否定出来なかった。若者を見る綾衣の目付きに、そこはかとない媚態が含まれていたような気がする。天岡は笑った。
「仮にも越中守が間男なら冷泉はどうするかのう」
 何かの間違いであろう、と源太郎は己を納得させた。
「嘘かまことか、それはどちらでもよかろう。桑名が出入してると流言すれば、正木や他の連中も追い払う事が出来る」
「おれは感心せぬな」
 と、源太郎は苦虫を噛み潰した。
「手っ取り早く冷泉を斬ってしまえばいい」
 お、と天岡は目を丸くした。
「しかし、西賀茂は禁域ゆえ、冷泉が出てくるのを待たねばならん」
「五日後だ」
「帰路を狙おう」
 そういって、二人は別れた。
 源太郎は俄かに胸が騒いだ。春というのにいやに冷える夜、源太郎は寄宿している商家を出て洛北へと向かった。
 天岡と神山を出し抜こうというつもりではない。
 綾衣という内儀のことが気に掛かった。天岡の言う流言が飛び交うとなると、綾衣を巻き込むことになるのは必定。それは避けたいという気持ちがあった。どのみち冷泉為恭という男の女房であること自体が不幸であるのかもしれないが。
 何ゆえにそう思ったのかは、源太郎自身もよく判らない。
 綾衣のしっとりと黒い眸が脳裡に焼き付いている。もっとあからさまな想像も出来たが、それは何故か綾衣をものにしたいという気持ちとは違うようでもある。
 堀川沿いに北上し、北山へ。小雨がぱらついてきた。賀茂街道へ出たほうがよい、と源太郎は判断した。大徳寺方面を抜けると、桑名藩邸の前を通る必要がある。
 北山へ通じる大橋の手前、源太郎は三人の男が蟠っている姿を見つけた。袴姿である。明らかに二本差しの男ばかりが夜分に何をしているのか。
「浪士か」
 と思ったが、傘が蠢いて判った。浅葱色の羽織を着た連中である。新選組と判ると、源太郎は迷った。このまま真っ直ぐ行くか何処かで脇道へ入るか。しかし、農夫でもない商人の身形をした男が迂回路をとるのは不自然に思われるだろう。何とかやり過すしかない。
 案の定、通り過ぎようとして源太郎は呼び止めた。二十歳前後の若い隊士であった。
「おぬし何処へ行く」
「雲ヶ畑の蓮光院でございます」
「こんな夜更けにか」
 若い隊士は訝った。
「へえ。手前は花屋町仏光寺の法衣屋吉右衛門にございまして。蓮光院のご住職に呼ばれております。何でも明日、急のおつとめが入ったそうでして、先立って御注文の袈裟を届けに」
 ほう、と先頭に立っている若い隊士は言った。細長い顔の男である。源太郎の口説に反論はなさそうだが、疑念を払拭し切ってはいない。提灯に照らされた顔が無表情である。
「お武家様がたは此処で如何なされましたか?捕物でも?」
 すると若い隊士は「然様」と答えた。源太郎にはひどく横柄に聞こえた。
「堺町御門付近でさるお公卿に斬りつけた不逞の輩がいると聞いた。その男が鴨川に沿って北へと逃走したというので、我々は巡邏をかねて追って参った」
 浪士は淡々と説明した。かざした提灯が、細かい雨の中源太郎を照らす。
「おぬしは怪しい男を見なんだか」
 提灯の灯りが源太郎の腰に落ちた時、隊士は抜き打ちに斬り付けてきた。源太郎は身を交わした。三、四歩後退って大脇差を抜く。折からの雨で地面が湿っていた。
 背後の隊士二人も刀を抜いた。
「下手人はやはりお前かっ」
 若い隊士は切先を上段に構えた。源太郎は否定しなかった。まことに間が悪いとしか言いようが無いが、違うと言ったところで相手を逆上させるだけだと判断した。
「答えぬなら犯人とみなす。容赦はせん」
 源太郎は二太刀を避け、右へ滑った。そうして隊士の脇腹を突いた。そのまま逃げるつもりであったが、隊士は半身を捻り、源太郎の背に刃を突き立てようとした。已むを得ず、源太郎は隊士の胸を刺した。
 隊士は「うっ」と呻いて前のめりに倒れた。源太郎は振り返らず、脱兎の如く駆け出した。
 後の二人が追ってくるかもしれないと思い、走りに走った。途中、草鞋が脱げて土手を転び、鴨川の中へ嵌まってしまった。水は冷たい。
 這い上がるように浅瀬を歩きながら、源太郎は脇差の血糊を洗った。
「これは、己ひとり早まるなという警告かもしれん」
 源太郎はその晩、神光院へ向かうことは諦めた。

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