(六)
冷泉為恭の脱走
伊藤与八郎の亡骸が壬生の屯所に運ばれてきたのは、二月二十八日の子の刻であった。
斎藤は遅い幹部会議ののち、自室で一献かたむけていた。
屋敷裏の砂利敷に荒筵がおかれ、その上に伊藤の遺骸が横たわっていた。
「刀傷からみると、心臓の下から斜
(はす)に入っています。脇差で飛び込まれたんでしょうな」
監察の山崎烝が言った。
「油断したな、伊藤」
斎藤はそう言って、筵をかぶせた。相手が大刀でないという、少しの優越が招いた結末に違いない。
「斬った男は商人のなりをしていた言います。同行の隊士によると、伊藤に問われて花屋町仏光寺の法衣屋やいうてましたが、あそこには法衣屋はありません」
浪士に違いない。
「あるいは堺町御門の犯人か思いましたけど、切り口を見ましたら、そんなへぼやないですわ。相当の使い手や思います」
山崎は再び、伊藤の骸に合掌した。あくる朝、斎藤は副長室を訪った。
「お前が頼みごととは珍しいな、斎藤」
土方は、片頬を皮肉に歪めた。斎藤は頭を下げる。
「岡田為恭の警固を伊藤の代わりにつとめさせて頂いても宜しいですか?」
「伊藤の弔い合戦か」
土方は煙管を咥え、窓の外を見遣った。
「そういうわけではありませんが」
それほど伊藤と親しかったわけでもなく、また職務と私人の感慨は別であると斎藤は思っている。
気になることが多いのである。理屈立てては言えないが、何やら伊藤の横死にはあの絵師に関わる何かがあるような気がした。斎藤自身一々市井の噂を気にしているのでもないが、御所の下馬札の事件があり、冷泉為恭が行方を眩ました時から、一旦警固の任は緩められた。
為恭が神光院への往復のみとされている。
伊藤の死はその隙に生じた。
「まさか、美形の内儀に懸想というわけでもあるまい」
土方に意外なことを言われ、斎藤はぎょっとなった。綾衣の面が思い浮かぶ。
「おれは他人様の物を盗む趣味はありませんよ」
「昔から女は『一盗、二婢……』というがねぇ」
土方は皮肉に笑った。
「だが、そう言うのならお前に任せる。しっかりやってくれ」
土方は快諾した。
斎藤が冷泉邸まで出向いてみると、為恭はまだ戻っていなかった。ならばそうと、神光院へ行こうと思ったが、綾衣が呼び止めた。
「斎藤様、もしお急ぎでのうたら御一服でも」
「いや。御主人の留守中ですので」
と、断ったが、綾衣はひどく悲しげな目付きをした。
「こなたどもも、屋敷に残るのは女手ばかりで心細うおざります。実は先程まで桑名様の御家中の方が見廻りに来てくださっとおりましたが、公務でお戻りになられはって」
桑名藩からも警固役が派遣されているのか、と斎藤は意外に思った。
京都守護職である会津藩が新選組を寄越すのなら、会津中将・松平容保の弟である桑名藩主・松平定敬の在京中、協力があっても不自然ではない。
斎藤は、何となく警戒心を解し、座敷に上ってしまった。
客間には、白檀の高貴な香が漂っていた。主人のおらぬ間もこうしてしめやかに香を焚くのか。だが、香炉は何処にも見当たらない。
綾衣自身が衣に移り香を纏っているのであろう。
やがて、小女が茶を淹れてきた。上等の煎茶である。屋敷は粗末だが、このような高級な茶を飲用しているという事は、やはり為恭は間諜の真似事をして賂いを得ている証拠であろう。
「酒
(ささ)のほうがよろしゅうおざりましたか?」
綾衣は言った。斎藤は公務なので、と遠慮した。しかし、二人きりで話す事が何も無い。
「斎藤様のご生国はどちらですのん?」
「江戸です」
「まあやっぱり。東国の殿方には頼もしい御方が多い聞きます」
綾衣は小さく笑った。いやに冗舌である。奉行所与力の正木が訪問している時は、正木が一方的に喋っているばかりであるが、どういう風の吹き回しなのだろうか。
斎藤は居心地が悪かった。
こういう時に和歌や今話題の書物の話でも出来ればと思うのだが、生憎女性の気に入るような学問にはとんと疎かった。『源氏物語』も読んだことがない。仕方が無いので、為恭の様子でも訊いてみる。
「あの貼り紙が出てからいうもの、殿さんはひどう怯えとります。元々臆病なところのあるお人ですけど、とみに。物売りが立ち寄っただけで、浪士の変装に違いない言うて、追い払おうとしておしまいになりますのや」
綾衣は細々と語った。
「おどおどして絵も描かんようになったので神光院のほうから督促が参りました。宥めすかして漸く行って貰いましたんどす」
「気の毒なことですな」
たかだか絵師一人の為に、皆がおおわらわになっている。斎藤もその一人であった。
ところが、為恭の言うこともあながち妄言ではない。事実、屋敷の周辺をとっかえひっかえ浪士がうろついているのだという。為恭が既に神光院で絵を描いているとも知らず、冷泉邸の築塀を不躾に覗こうとする輩も絶えない、と綾衣は言った。
「何や恐ろしゅうて」
綾衣はそう言って、袂で顔を覆った。
「こなたのお側に居って頂けまへんのか?」
顔を上げた綾衣の目が濡れていた。斎藤は、返答に窮した。黙っているのがもどかしいのか、綾衣はつと斎藤の正座した膝ににじり寄り、その上に繊手を載せた。大胆な振る舞いに、さすがの斎藤も呆然とした。
覗き込むように見上げる綾衣から目を逸らし、斎藤は腰を浮かせて立ち上がった。
「御免」
と短く答え、斎藤は毅然と頭を下げて出て行った。
「神光院へ向かいまする」
取り残された綾衣がどう思ったものか、敢えて斎藤は考えぬようにした。
綾衣の手が置かれた腿の部分が熱を帯びたように熱い。まるで、あのまま斎藤に抱きすくめられるのを待ち望むかのような所作と眸の力であった。
確かに、あの一瞬斎藤は忘我の域に差し掛かっていた。最初に見た時から、抱き心地の良さそうな女だという余計な色気を抱いたのがいけなかった。そのうえ、初日に夫婦の房事を匂わせる様子まで見せ付けられたのだから、雑念の無いわけが無い。
「やはり庇を貸して母屋を取る、ではまずい」
と思いつつも、実は綾衣の甘ったるい体臭が鼻についた。不思議なことに、白檀の香はいつしか薄れていた。
「正木がご執心というのもわからないではない」
斎藤は素直に思った。当の主人である為恭は暢気なものである。命を狙われているという恐怖から、女房の浮気心などには目が向かないのであろうか。かえって為恭が憐れに思えてきたのであった。
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