(七) 京都所司代

 「有り得ない」
 と、皓い八重歯を見せて言ったことが真実になってしまった。
 三月のうららかな陽光が、馬上の松平定敬を背後から照らしていた。二条城登城の帰路である。この日、兄・容保が将軍・家茂に定敬を京都所司代にと請願した。
 定敬にとっては、青天の霹靂であった。しかし、同時に思った。
「兄上は、配下の命令系統の足並みが揃わぬのに苦労されているのだな」
 京都所司代は、譜代の仕事である。本来、親藩の就く職務ではない。容保自身も御家門にありながら、敢えて危険な新職に臨んだ。ゆえに係累である己もそれに準じる必要はあった。
「このような緊迫した京の情勢にあって、まだ若い越中守を任用するのは酷かもしれませぬが。いずれこの者なら職掌をまっとうし得る器量は持ち得るかと存じます」
 容保は今日に限って多弁であった。むしろ、心からの声であろう。
 所司代は守護職という重責の任下において、忠実であるべきである。容保は当初、就任に際して牧野備前守を人事に引き入れた。
 ところが浪士らの言論開路に通じない。守護職と所司代の動きがばらばらであった。多くの心労も重なって容保は一旦守護職を辞し、松平春嶽に譲ったものの、結局それでも立ち行かぬので再任された。
 二度と同じ轍は踏むまいとの思いがある。気心の知れた弟の所司代採用を切願した。
「兄上の為なら」
 定敬は思った。それに、敢えて声高に他言はしないが、国事に参画することは、吝かではない。定敬はこの打診を快く承諾した。
「あるいは事勿れ主義の連中からみれば、おれはすすんで火中の栗を拾いに行くような大うつけかもしれんな」
 再三推挙されて已む無く守護職に就いた兄とは、やや趣を異にする。
 だが、見ようによっては容保は弟を所司代にして抱き込み、禁裏守護総督の一橋慶喜を表に立たせて京の実権を掌握するあくどい男ととられかねない。
「本当の兄上は、おれが見ても純なお人だ。とにかく京の実態を知りもせず、江戸でぴいちく喚いている連中を黙らせてやりたい」
 定敬は、意気揚々と近衛邸を訪れた。二条城でのしかじかの内示のことを忠熈に話した。
「それは目出度い」
 忠熈は、顔を皺くちゃにして笑んだ。忠熈の願いが現実のものとなったのである。定敬は、まるで我が子の昇進でも喜ぶかのような老卿に、
「くれぐれも御内密に。人事決定は来月とのことですので」
 そう告げて退出した。藩邸に戻る前に様子を見たい処があった。冷泉為恭の屋敷である。
 訪ねてみると、相変わらずひっそりとしていた。
 忠熈に頼まれてから、一度訪ねたきりである。いずれ藩士から交替で警固をつけさせようと思い、五日ばかり過ぎた。神光院から戻っている頃かと予測しての訪問だったが、まだ為恭は西賀茂に居るようである。
 やはり出て来たのは、内儀の綾衣であった。
 定敬は帰ろうとした。だが、綾衣の願いもあって、ついに屋敷内に上ってしまった。
 軽率かもしれないと思いつつ、客間へ招じ入れられるまま入った。
 これも何やら所司代内示のことで、気が昂ぶっていた所為であろうか。事前にそうと気付かぬのが、やはり若さであった。
「こちらは、殿さんが修行時代に描いた模本やそうです」
 綾衣は雅やかな京言葉で、絵師草紙模本や屏風下絵などの説明をする。綾衣の洗練された仕草に、定敬は感心した。
「法然上人絵伝は四度も模写してはるんですよ」
「徹底しておられますな。当方も掃部頭様ご存命の時、冷泉どのの絵は何度か見せて貰っておりますが」
「有難う存じます」
 綾衣は頭を垂れた。屏風絵を直そうとする綾衣の手がつと止まる。
「あっ」
 短い驚愕の声が上った。二寸ほどの百足が、畳を屏風伝いに這い上がってきたのであった。綾衣がいやいやをしながら童女のように叫ぶので、定敬は膝立ちをして屏風に近付いた。懐紙を出して、百足を押える。
「これでもう安心です」
 すると、綾衣はわっと定敬にしがみ付いた。赤く潤んだ眸で定敬を見詰め、
「堪忍。つい恐ろしゅうて。申し訳おざりませぬ」
 だが、綾衣の身体はすぐに離れようとはしなかった。
「このまま暫し、じっとこなたを抱いていて下さりませ」
 なんと。定敬は仰天した。
 しかし「困るの、お裏どの」と言ったものの、心臓は高鳴っていた。
「御無礼は重々承知いたしております。屋敷に寄って頂いただけでも畏れ多うて畏れ多うて。なれど――」
 綾衣は、定敬の若い胸に強く縋った。
「綾子は先立って初めて越中守様にお会いしました時より、貴方様のお姿を忘れることが出来ませなんだのです」
 綾衣の艶やかな唇から、世にも不思議な言葉が紡ぎ出される。定敬は喉が渇くのを覚えた。
 無論、この客間で起こっている椿事など、小姓の立見は知りもしない。一人供待に所在無く佇んでいることだろう。
「白檀のよい香がしやはります。凛々しいだけでのうて、雅な御方」
 綾衣は、定敬の袷に焚き染められた香の匂いを堪能していた。そうして綾衣を抱き締めているうち、若い自惚れが定敬の中に芽吹いてきた。
「浮気性な女子。京の女子はこういうものか。だが、確かにああいう風采の上らぬ亭主では、綾衣の容色も宝の持ち腐れのようだ」
 と思う。
「お察し下さいませ」
 綾衣は右手でそっと定敬の手首を掴むや、胸元の生温かい素肌に導いた。定敬は為恭を不憫に思いながら、しかしこの年上の稀なる美女をものにしたい、と願った。このまま、熱く息づいている胸乳を掴んだまま押し倒せばよいだけのことである。
 だが、ふと釈然としないものが定敬の心を波立たせた。
「お待ち頂けぬか、お裏どの」
 定敬はそう言って、綾衣をやんわりと押し退けると、立ち上がった。
「それがしは為恭どのの警衛に参ったので。お裏どのの警固には別の藩士を寄越しますゆえ、これにて一旦」
 定敬は、そそくさと客間を出た。そうして、まるで今し方まで大和絵の談義でもしていたかのような涼しい顔で立見を連れて帰路を急いだ。
 が、蓮台寺を東へ曲がり、向かうは西賀茂であった。為恭に一計を差し伸べてやるつもりである。
 加茂明神の鎮座する暗い森は、広大で深かった。境内には幾つかの塔頭がある。陽も傾きかけた。定敬は、馬が泥濘を踏まぬよう注意深く進んだ。
「気を付けろ、鑑三郎」
 立見に声を掛ける。先日の雨が水溜りになって残っている箇所があった。
「はい」
 立見が振り返って、答えた時であった。杉木立の間から人影が躍り出た。一人の浪士である。袴の股立ちを高くとった、三十歳くらいの屈強な男であった。

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