(八) 西賀茂の森
東洞院の商家に戻った時、大楽源太郎の居候している二階の間に天岡忠蔵と神山進一郎が待っていた。源太郎が戻るなり二人は、
「何処へ行っていたのだ。まさか……」
と、詰め寄った。
「抜け駆けは許さん。斬りに行くなら言いだしっぺの我等を呼べ」
神山が源太郎を睨め付けた。
「そうではないのだ」
源太郎は生乾きの装束のままであった。気持ち悪いので、その場で脱ぎ、縞の着流しを着た。
「新選組の一人を斬った」
「成る程」
已むを得ずであって端から斬るつもりはなかった、とは源太郎は言わなかった。
「堺町御門で誰か公家に斬り付けたときくが、おぬしら知らんか?」
天岡と神山は首を横に振った。天岡は、
「それを聞いて、冷泉が斬られたものと思うたのだ」
「いや、貴奴はまだ神光院にいる」
「いい加減痺れが切れた。こっちから出向いていこうではないか」
気の早い神山が言った。
「明後日には屋敷へ戻ってくる。やはり帰路でよいではないか」
そうして為恭が帰宅予定の日、三人は御門付近で待ち伏せた。
すると、午前に西町奉行所与力の正木が屋敷を訪れた。半刻もすると正木は出て行ったが、申の刻になるとまた別の男がやって来た。
松平越中守定敬であった。そのことにいち早く気付いたのは、源太郎であった。二人を呼び寄せて告げると、
「やはり正木のような小者では相手にならんのか。よりにもよって桑名様とはな」
「何を企んでおるのか、あの内儀」
「踏込んで密会の場所を取り押さえる、というのはどうだ。いやでも冷泉は出て来ざるを得んぞ」
それはまずいだろう、と源太郎は言った。
その言葉は天岡と神山に不審を抱かせるに充分であった。
「我々にとっては一挙両得ではないか。佐幕派の巨魁、松平肥後守の弟の不義密通は醜聞。桑名藩を追い払う切欠になるやもしれん。かつ冷泉も斬ってしまえばよい」
天岡は言った。
源太郎は答えなかった。懸念したのは越中守のことではなく、綾衣のことであった。
仮にこの密会が本当だとして暴露されれば、綾衣は批難の矢面に立たされる。無論、平穏無事には済まされぬ。京を追われるだろう。
それは酷い、と源太郎は綾衣の妖艶な姿を思い浮かべて思った。
やがてそうこうしているうち、半刻ほどで越中守は出て来た。源太郎はたまらず飛び出した。
「何処へ行くのだおぬし」
神山が呼び止めた。
「見ればわかるだろう。越中守を追う」
源太郎は振り返った。
「追ってどうする。斬るのか?」
「わからん」
源太郎はそういうわけで、禁裏付近からずっと松平定敬の姿を追って来た。
定敬の乗った黒いアラブ馬は、小姓の立見鑑三郎一人を伴って小暗い道を進んで行く。桑名藩邸に寄らず、紫野を北へ。おそらく神光院であろうと見当をつけていると、果たしてそうであった。
提灯を掲げた小姓の姿が、森の薄闇に浮かび上がった。源太郎は、近付いて初めて小姓が定敬とおっつかっつの若い、上背のある男と気付いた。
「何奴?」
立見が太い声で誰何した。源太郎は黙っていた。
立見は提灯を高く掲げた。源太郎の面が照らされる。
次第に黒味が増してくる森の中で、馬上の定敬をしかと見たい、と源太郎は欲した。冷泉邸を窺っていた時は遠目にしか判らなかった。身形で判別していただけである。
「どの面下げて間男などするか」
この余計な好奇心或いは闇雲な腹立ちが、源太郎の下腹に渦巻いた。有り体に言えば、嫉妬というものか。情を通じても無い女子に対して抱くものとしては不条理であったが、綾衣には源太郎をしてそう思わしめる何かがあったといえよう。
立見は続ける。
「もしや御仁は、近頃巷で公家ばかり狙って天誅を試みておる輩の一人か?答えよ。否応か。さもなくば」
立見は刀の鯉口をくつろげた。
「此処は神域であるぞ、鑑三郎」
定敬が、朗々と張りのある声で制した。
「然様にござりまする御前様。しかし、敢えてお言葉に反しますれば不逞の輩どもにとっては禁裏も仕母立屋も同じに思うておりまする」
「成る程」
定敬は軽く答えた。
小姓の癖に出過ぎたことを言う、と源太郎は驚き呆れた。同時に脂汗が掌に滲むのを感じた。
藩主の命は絶対であるというのに、この主従はどうやら違う。家老ならまだしも、立見のような軽輩が口答えをするなど。それを許している藩主も藩主。
「据え物の殿様ではない」
たかだか十八、九の若者にしては度胸が座っている、と源太郎は思った。世間知らずの為かもしれない。そうして大きく息をすると、立見に向かって、
「それがしは、長州の大楽源太郎と申す。お手前にお聞きしたい。桑名様が何故、冷泉為恭のごとき絵師づれを警固なさるのか?」
「詮索無用」
立見は鋼の如く撥ね返した。だが、定敬自ら開口した。
「そち等と同じことだ。我々は金子
(きんす)を得て以って絵師を護るのではない。たかだか絵師の一人すら護れぬようでは、京洛警固の面目が立たぬのでな」
「それだけにございますか?」
源太郎は大胆にも、直に問い返した。立見は、源太郎の無礼な発言に顔を赤くした。直答だけで充分失敬にあたるというのに。
源太郎は、ままよ、と思った。
「実のところ、冷泉を屠りに来られたのではないかと」
「たわけ」
立見はついに抜刀した。源太郎は左にかわし、鞘のまま鍔で受け止めた。定敬はつとめて冷静に二人を見ていた。
「根拠は如何?」
「それは――」
さすがの源太郎も口篭ってしまった。まさか定敬が冷泉の内儀と通じていて、それが為にではないのかとは言えなかった。皆まで言えば、即殺されても文句は言えまい。立見と睨み合ったまま、源太郎はじりじりと草鞋を鳴らした。
放り出された提灯が、立見の足元で一際燃え盛った。
定敬は馬を下りた。
「成る程、そちの申すことは一々面白い。が、即刻立ち去れ」
薄明かりの中、源太郎は定敬の表情を一瞬だけ見止めた。格別の美男子というのではないが、凛々しい趣がある。すぐれて通った鼻筋と強い眼差しだ。
まだ何処となくあどけなさも残るが、俗な言い方をすれば女好きのする顔立ちであった。
「しかし安心せい。待てば、そち等にも機会が訪れるやもしれん」
源太郎は、定敬の言った言葉の意味が判らなかった。立見は警戒し、定敬を庇いつつ源太郎の前に立った。
「御前様」
これ以上喋るなという口調で、立見は定敬を見遣る。その隙を突いて、源太郎は走り出した。神光院に向かってである。長い塀伝いに少し泥濘
(ぬかる)んだ道を、源太郎は駆けた。
「逃がすか」
背後で立見の叫びが上った。馬の嘶きが近付く。
源太郎は、あっさり追い詰められた。小暗い森を走るのは難儀であるうえ、定敬は馬術の達人、あっという間に前に回り込まれ、後方の立見と挟まれた。
「今は殺すなと言うたのに。それでも冷泉を斬るというのなら、主上に代わってこのおれが許しはせぬ」
定敬は騎馬のまま、刀の柄に手を掛けた。
源太郎は愕然となった。瞬時、この男なら本気で抜くだろうと思った。若い癖に、武士が本来は喧嘩屋であることを知り得ている。
そして、立見の構えにまるで隙が無いことが源太郎の動きを止めた。
「それに、主上とな。この男、朝廷の命で動いているのか?」
源太郎は、定敬の背後を訝った。公武合体の為の隠れ蓑かもしれないが、とまれ帝の名を出されては源太郎は為す術を失った。
「我々は、今晩おぬしの姿を見なんだことにする。越中守様の御厚意を無駄にするではない。疾
(と)く行け」
立見は納刀して、源太郎に言った。
源太郎は、西加茂の森を転ぶようにして下って行った。
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