(九) 椿事、絵師を走らす

 斎藤一が今宮社を過ぎて北上し、西加茂へ入ろうとした時、行く手から足音が此方に近付いてくるのを聞いた。民家すら殆ど無い。只畑の中の細道をこんな夜更けに誰が、と斎藤は訝った。
 距離を縮めてきた男の姿は、浪士風であった。大銀杏髷に野袴である。斎藤は提灯を掲げた。
「もし、何処へ行かれる?」
 斎藤は呼び止めた。大楽源太郎である。無論、斎藤はその事を知らない。源太郎は息も荒かった。
「先程お手前が出て来られたその先は、禁足の域。加茂明神の森ではなかろうか」
 すると源太郎は、
「如何様。だが、貴殿の方こそこのような夜更けに神域へ向こうておられるのは、些か物騒とお見受けするが」
「確かに」
 斎藤は、暗がりの中で皮肉に頬を歪めた。
「だがおれは公務によって、立ち入りを許可されている」
 公務という言葉で、源太郎は感付いた。この附近は見廻組の所轄ではない。町会の見廻りでもない。
「新選組かっ」
 源太郎は、抜き打ちの一刀を浴びせた。斎藤も同時に抜いた。刃が噛み合う。二人はどちらともなく退いた。斎藤は確信した。伊藤はこの男に斬られたに違いない。
「ならば斬るしかなかろう」
 と、斎藤は念じた。
 互いが仕掛けて来い、と睨み合っている。燃え盛る提灯がその間にあった。提灯を中心に、両人はぐるぐると回って間合いを読んだ。だが、どうしても二太刀が出そうに無い。そこで源太郎は、
「……神光院へ行くと、面白い人物が待っておるぞ」
 そう言って低く笑った。斎藤は黙っていた。
「言っておくが、おれは今はあの絵師づれは殺さん。そういうことにした」
 源太郎がそう言って後退ると、斎藤は漸く刀を下ろした。源太郎の遠ざかる背を暫し見詰めてから、斎藤はすっかり暗くなった足元を照らすものもないまま、再び歩き出した。
 惜しむらくは、仕留め損ねたということに尽きる。だが、肝心の冷泉に害を与えぬと言われれば致し方ない。斎藤は思っているが、事実として伊藤を殺したとは、はきとは判らない。
 どうもこの晩の斎藤は、いつも以上に慎重であった。冷泉邸を訪問した幻惑の余韻がまつわり付いているかのような心地がした。
 杉木立の向こうに、急に提灯と思しき灯りが浮かんだ。狐火のようであった。だが、近付いてきた影が貴人と判るや、斎藤は道端に蹲踞した。
 つと、先払いに歩いている小姓が斎藤を見た。馬上の人が訊ねた。
「神光院の付け人か?」
 斎藤は、小姓に向かって「然様。新選組の者にござります」と、声を些か緊張させて言った。
 小姓が主人に告げると、馬上の主は提灯を一つ、斎藤の為に貸してやるように言った。
「まことに有り難き御心遣い、痛み入ります」
 斎藤は提灯を受け取ると、深々と頭を下げた。
 斎藤の前をその人が通り過ぎる時、ふと仄かに白檀の香がした。振り返ったが、既に主従は下り坂に差し掛かっているようであった。
 受け取った馬乗り提灯には、久松松平家の梅鉢紋が描かれていた。

 斎藤が神光院を訪ねた翌日から、為恭は堺町御門筋の屋敷へ戻った。そして、取って返すように三日後、また屋敷を出て行った。西加茂に戻ったのである。
 それよりも、神光院に行った斎藤が一晩其処で過し、翌日為恭に随行して洛中に戻ろうとした時、驚いたことがある。
 為恭は頭を丸めていたのである。昨晩まで公家髷であった男が一夜にして沙弥となった。名も心蓮とあらためたようであった。
「沙弥のなりをしておれば、いたづらに危害を加えられることもなく、仏の御加護があるだろう。まさか寺内で人斬りはあるまい」
 為恭は、驚く綾衣に向かってそう言って笑った。まさかこの人の知恵ではあるまい、と綾衣は不審に覚えた。
「どなたかのお勧めにてでありますのんか?」
「わしの思いつきじゃよ」
 為恭は嘘を吐いている。綾衣は直感した。そのような智慧が回る人間なら、屋敷の中で四六時中刺客に怯えるような愚かである筈があるまい。第一、僧形になったところで、暗殺者はそれこそ何処にでも出入する。その危険をも推し込めて為恭に入れ知恵をしたとなると、機転がきく者なのだろう。
「越中守様に違いおへんわ」
 綾衣は確信した。
 果たして為恭は出家姿になり、そそくさとまた屋敷を出た。今度は愛染律院に行くという。
 既にこの頃、齢七十を越えた太田垣蓮月の元へ寄寓するのだと、綾衣には告げた。
「心蓮という名も蓮月様のお計らいで頂戴したのや」
「ほなら殿さん、天誅騒ぎが止むまでお戻りになられませんのやな」
 綾衣は気の毒そうに言った。右往左往している様がまことに情けなく、夫に憐れみさえ沸いた。
 その後、二十日もせぬうちに再び為恭の運命は動いた。
 洛中から姿を消し、西加茂で安穏と絵を描いていた為恭は、意外な事を耳にして驚天動地に陥った。
 近頃、三条家や鷹司家などに出入している僧都の一人が蓮月を訪ねてきて、市中の噂話をした。
 為恭が離れの茶所にいるのを見計らっての話であったが、うっかり聞いてしまった小坊主が為恭に報せたのである。
 噂は何でも「冷泉為恭のお督様が若い男とみそかごとをしている」というものであった。為恭としては、居ても立ってもいられなくなった。
「そは何者じゃ?」
「そこまでは判らぬようですが、お武家様らしいと聞きました」
 すぐさま浮かんだのは、奉行所与力・正木の顔であったが、誰も代々の京生まれである奉行所与力をあからさまに武家とは噂しない。ならば新選組の連中か、と察した。
 不意に、この前神光院から付き添った斎藤という若い男の顔が浮かんだ。腹立たしい。主人が刺客に狙われているというのに、まるでこれでは飼い犬に手を噛まれるようなもの。
 為恭は悲憤して愛染律院を飛び出すや、脇目もふらずに我が家へ駆け戻ったのであった。
 必死の形相で帰宅したものの、
「まあ、如何しやはりました」
 一人で出迎えた綾衣は、少し驚いたがおっとりした風情であった。小女もいない。てっきり間男がいるものと覚悟していた為恭は、いきおい大股で座敷をのし歩いてきたのが拍子抜けした。
 為恭の複雑な表情を見ると、綾衣は牡丹のように笑んだ。
「こなたも一人で寂しうしておりました」
 潤んだ眸と視線が合うと、為恭は堪え切れず綾衣を抱きすくめた。間男を問い質す気が失せてしまった。綾衣の髪に微かに白檀が香ることすら気付かぬほど、夢中であった。
 ところが、為恭のこの要らぬ心配が不幸を呼んだのである。
 出家して愛染律院にいる筈の為恭が、また屋敷に戻っているということが町内に広まり、それが噂となって流れた。御蔭で為恭の命を狙う浪士がまたぞろ集まってきたのである。
 さて、またも居た堪れなくなった為恭は、今度は西加茂へは戻らず、縁者を頼って京を出た。
 そうして三月も過ぎ、四月になれば絵師の噂などすっかり市中の話題に上らなくなった。京の情勢はそれほど悠長ではない、ということである。

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