(二) 四条橋畔
夜更けて、酔いの回った片岡と二人、庄五郎は浮蓮亭をあとにした。春には無い白々と冴えた月が中天にあった。庄五郎らが出てから、ややあって紀与は框の隅に置かれた書状に気付いた。二人のいずれかが忘れていったものらしい。中は見なかったが、置いておくのも物騒なようで、気もそぞろになった。すぐに追えば捉まるだろう。いずれ河原町の十津川屋敷に戻るに相違ないので、道はわかる。
四条橋畔。
片岡は、南座あたりからやって来る三人連れに気付くのが遅れた。左端のややずんぐりと肩幅の広い男を避けようとして足が縺れた。酔いの所為で身をかわせず、相手がよろぼうた。片岡自身も均衡を崩して前に数歩のめったところ、それがいけなかったようである。
「おぬし、人にぶつかっておいて無言で立ち去ろうとは」
肩幅の広い男が、丸い眼を剥いて片岡を呼び止めた。
「そうではござらん」
と、片岡は振り向いた。
「御覧の通り手前勝手に蹴つまづいたのだ。それがし、今そこらで一杯飲っておったばかりで酔うておる。あいすまん」
足元は覚束ないくせに、口説は訛りを隠しているな、と庄五郎は感心した。
「しかし、酔うておるのは我々も同じだ」
丸い眼の男が食い下がった。確かに三人の男の頬はほんのりと上気している。その内のやや色の浅黒い長身の男がにやにやと笑った。厭味の無い面付きは庄五郎以上に童顔で娘みたいだが、三人の中ではいちばん上背があった。
「ほうら、また始まったぜ。永倉さんの意地っ張り」
もう一人、やけに眼つきの光るこれもやはり長身痩躯の男が、黙って頷いた。
「よしなさいよ。お互い様なんだから。つまんない相手と喧嘩なんてしたってさぁ」
浅黒い剽軽な男のその一言が、片岡の刀の鯉口を切らせた。「あ、また何か言っちゃったかな」と、慌てて口を押さえるが遅い。
「沖田さん、また余計な一言を」
眼つきの鋭い男が、低い声で淡々と言った。微妙に口許を歪めているのが不敵だ。既に永倉が抜き、片岡も抜いて向き合っていた。
天才肌ゆえに他人の機微に疎い、この浅黒い男こそ新選組一番隊組長・沖田総司。強情っ張りと言われた男が二番隊組長・永倉新八。そうして寡黙に剣を構えたのが、三番隊組長・斎藤一だったが、この時互いの素性を知る由も無い。
「おんし、つまらん相手とは何言うがぜよ」
片岡は直刀を振り下ろした。永倉が一歩引退き、悠々と初太刀を放った。あっさりと打ち込みが入った。片岡は体を回したものの避け切れず、左肩に深々と斬り込まれた。にまり、と沖田が頬で笑う。突き出そうとして、これはさすがに片岡が切尖でかわした。
にわかに片岡の全身に脂汗が噴き出した。これはいかん、どうやら当たりくじを引いてしまったらしい。この男たちは海千山千の実践者である。そこいらの道場で腕を鳴らした輩ではない。
「おや、もう一人いたはずだけど」
沖田は余裕の表情で言った。
くだんの中井庄五郎、柄に手を掛けたまま橋の欄干ににじり寄る。眼前の斎藤一は青白い顔をやや傾け、すでに鬼神丸国重を抜いていた。庄五郎はいまだ抜かない。抜かぬとなれば、居合の手かと斎藤は覚った。小野派か香取流か。右横を抜けさせまい、と斎藤はやや左肘を引いた。橋のたもとを抜け、脇道に入り込む姿勢のまま、庄五郎は抜刀に入った。
仕太刀は向き直りつつ横一文字に抜き上げたが、すでに変則の八双構えになっていた斎藤の大刀に阻まれた。鈍い金属音が響く。
青眼に構え直した庄五郎の眼に、今度は右に構え直した斎藤が映った。
「この男は場数が違う」人斬りが様相を変えるのだとしたら、このような男こそ人斬りを重ねるごとに面差しに静けさを増すのではないかと、庄五郎には思われた。
後退する庄五郎に、斎藤が仕掛けた。右、左と袈裟斬りを繰り出す。突き止めた時、ようよう斎藤の重い剣を食い止めて正面斬ったが、そこで庄五郎は大きく退いた。橋下の畦道に転がり込む。暗闇ではいくら何でもそう正確に打ち込んでは来られまい、と算段した。だが、直ぐにも足音が迫る。
「庄さん」
と、背中を引かれ振り返った。庄五郎の前に、紀与の凄艶なほどに蒼褪めた顔があった。
「忘れもんどす」
紀与は無造作に庄五郎の袷の懐に書信を押し込むと、橋下に背中を押し遣った。転ぶようにして、庄五郎は橋の向こうへと走った。
土手から上がってきた紀与の姿を視止め、斎藤は白い息でくぐもった刀身を下げた。
「いま其処に抜き身を持った男がいただろう」
少し聞き取り難いような低い声で、斎藤は訊ねた。
へぇ、と紀与は怖れず目の前の殺気走った男をねめ付けた。
「お侍はんどしたら、何やら青い顔して上手
(かみて)に走って行かはりました」
紀与の落ち着き払った様相に、斎藤は大きく息を一つ吐くと、刀を鞘に収めた。が、柄頭に手を掛けたままである。すれ違いざま、
「女、こんな処で何をしていた?」
「へぇ。手拭いを落としてしまいましてん」
紀与は咄嗟に、鴨川で濡らした絞り染めの手拭いをひらひらとさせて見せた。斎藤は、白いうなじを傾けて歩く紀与の、凄艶な色気に満ちた横顔を見送った。軽やかな下駄の音が遠ざかるのを聞いてから、再び四条橋上まで戻った時、永倉と沖田もすでに刀を収めていた。
「随分と長い間お楽しみだったようですね、斎藤さん」
「いや、逃げられた」
興の冷めた素っ気無い返事をし、斎藤は橋のたもとに寄り掛かっている片岡の姿を見遣った。左肩と右の脛に大きく刀傷が見えるようだが、死んではいない。
「こうしちゃおれん。道草を食ってしまった。いぬぞ総司」
と、永倉が言った。
「そうだねぇ。永倉さん、ついこないだ六日も謹慎食らったばかりだものねぇ」
あははは、と高い声で沖田が笑った。謹慎とは、先立っての正月三が日、参謀の伊東甲子太郎と永倉新八、そして斎藤一が島原の角屋で飲み続け、屯所に戻らなかった。その時の処分として伊東、斎藤に三日間、永倉に六日間の謹慎を命じられたことだ。局中法度に則れば、切腹も持さない筈が謹慎で済んだのだから幸いだが、それに懲りて永倉はここのところ深酒をしなくなった。
「斎藤も」
呼ばれて、斎藤も片岡を顧みず歩き出した。逃してしまった男に一太刀も浴びせられなかったのが心残りだが。
一方、その庄五郎はやはり戻ってきた。欄干越しに片岡の様子を伺い、まだ息があると判るとぐったりした体を担ぎ負った。
「大丈夫ですか、片岡さん」
「おう。かろうじて生きちゅうがぜよ」
片岡は意外に元気な声で答えた。ともかくも手当てをせねばなるまいと、斬られたあともそのことを思っていた。
「すまんが中井君、麩屋町姉小路までつれていっとうせ。池村久兵衛いう古本屋のおやじが知り合いじゃき」
「中町までは遠いから、それがええでしょう」
庄五郎は腕に生温かく滴る片岡の血を拭った。
「それにしてもあん男らは何者やろう。えろう強かったぜよ」
「おれの相手もでしたよ。流派はわからんが、ありゃあなまじいの度胸剣じゃない」
「おんしの居合でもあかなんだか」
「読まれちまう。あんまり物言わんほうがええですよ、片岡さん」
おう、と言ったきり黙るのかと思えば、片岡はまだ喋っていた。庄五郎は適当に相槌を打って返した。やはり京には噂に違わぬ猛者が集まっている。若い庄五郎の血が騒いだ。
池村久兵衛の書肆は、その実尊皇攘夷派のわだかまる待合でもあった。十津川郷の勤皇唱始者である、千葉赤龍庵などもかつて利用していたことがある。それだけに、庄五郎ともまったくの無縁ではない。赤龍庵の家塾に一時期庄五郎も通ったことがある。しかし、その頃の庄五郎は漠然とした勤皇思想しか持ち合わせていなかった。
吉野朝勤王の思想を綿々と受け継ぐ志士らが次々と上京するなか、庄五郎もその気概を持って故郷を出たつもりだったが、やはりそれよりも刀を持って身を立てるほうが手っ取り早いのではないかという気がする。
「ああ、えらいのと斬り合うてしまいましたなァ。新選組のもんやろう、その男らいうのは」
庄五郎の話を聞いて、池村久兵衛は淡々と答えた。
今時分、身形もよく、酔い心地で祇園界隈から連れ立って歩いてくるような羽振りのよい連中など、逼塞している長州勢でなければ新選組の者くらいなのだという。成る程そう考えると、相手の手強いのも得心が行く。
五日ばかり経って、庄五郎が池村のもとを訪ねると、片岡は杖をつきながら寝起きは出来るようになっていた。そして、庄五郎に言う。
「こないだの、ありゃあ新選組じゃったらしいがよ。そしたらえらい事やったなぁ、新選組の幹部に斬られて生きゆうが自慢じゃのう」
おかしな事で負け自慢をするもんだな、と庄五郎は思いながらも笑うしかなかったが、それも冗談では済まなくなった。片岡が下御霊社
(しもごりょうしゃ)裏手の古書屋の座敷で療養をはじめた頃、市中に人相書きが出回るようになった。
片岡がうっかり土佐弁を喋ってしまったのを、敏い連中が忘れる筈もない。急度、土佐の勤王・五十人組の一人かも知れない、と手を回したのだろう。
庄五郎はともかくも、大坂で目を付けられた片岡が河原町の十津川屋敷や土州屋敷に出入りしているのもまずい事になる、と傷が癒えるか癒えないかのうちに、やはり十津川に戻ることとなった。
(三)へ
(一)へ