(三) 滝川
桜花の盛んな頃となった。そろそろ暖簾を落とそうと、紀与は表へ出た。四つ半である。
刺すような鋭い視線を感じて、見ると、長身痩躯の若い男が立っていた。
思わず、あ、と小さく声を洩らしたかもしれなかった。紀与の脳裏にひと月ほど前の四条橋畔の光景が甦った。中井庄五郎を追ってきた侍だった。あの時とは出で立ちが違う。天気もよいのに高足駄をつっかけ、映りのよい白地に縞の縮緬袷に折り目正しい黒袴というなかなか小洒落た風体で腕組みをしていた。
この間はそんな余裕も無かったのだが、存外に男前である、と紀与は見た。中高の面立ちに光る炯炯と黒い大きな眼に、少しこけた頬とやや厚めの唇が印象に残る。何処か不遜な微笑を湛えた男は、紀与を品定めするようにぢっと凝視していた。
「一杯くらいならかましまへん。桜見物のお帰りどすか」
素っ気無いくらいに軽忽な物言いで、紀与は斎藤一を店に入れた。温燗を出した紀与が台所へ去ろうとした時、はじめて斉藤は口を開いた。
「桜を見にきたわけじゃあない」
紀与は斎藤の手元を見ながら訝った。
「ほならお探しもんどすか」
紀与は言い、傍らにあった折りたたんだ紙を開いた。中井庄五郎と片岡源馬の人相書が並んでいた。
「こないだ四条橋のたもとで派手に斬りおうとったんは、あんさんら新選組やなァ。けど、ようここがわかりましたな」
紀与は生来気丈だが、あの時の斬り合いを見ても折り崩れなかったように、この明らかな人斬り稼業の男を相手にしても一歩も退かぬ性骨はあった。
斎藤は伏目がちに、その二皮眼をしばたたかせ、紀与が帯にはさんだ手拭いを指差した。「浮蓮亭」の文字が藍で染め抜かれていた。紀与は火が点いたように顔を赤くした。
この男はただの血気走った剣客ではない。しっかりと見ていたのだ。
すると、斎藤はやおら立ち上がり、紀与に向かって深々と頭を下げた。
「新選組三番組組頭、斎藤一と申す。あんたに頼みがあって来た」
紀与は、一瞬呆気に取られた。人を食ったようなところがあるかと思えば、今しも頭を下げたように礼儀正しい。奇妙な男だ。
「紀与といいます。頼みって何どすやろか」
思うよりも先に口が応えてしまった。
「お察しの通りだ。人相書の男を捜している。あんた―いや、紀与どのの知り合いか?」
紀与は少しためらったが、斎藤の真顔を見て渋々頷いた。
「こちらの男は昔知っとりました。けど、こっちの四角い顔の男は初見どした」
承知したとはいえ、紀与は名を明かさなかった。もう調べ上げているのかも知れないが、相手が泣く子も黙る新選組の鬼斎藤だとわかっても、左様ですかと軽々しく幼馴染の素性をばらすような女ではない。
「しょっちゅう来るのか」
「いえ、あの晩初めてどす。うちも大坂より越してきて一年あまりですから」
斎藤は黙ってぐいぐいと酒を飲りながら、紀与が果たして本当のことを喋っているのかどうか見極めている。
「あの後は来たかい」
紀与は暫し黙って考えた。胸元に手を遣る。奥にしのばせた匂い袋の存在がわかった。
庄五郎はあれから二十日ばかり経って、ふらりと昼日中にやって来た。
「紀与どの、先立ってはすまなんだ」
といい、片岡が今は傷療養していることを話した。紀与は書状のことも橋上での斬り合いのことも問い詰めるつもりはない。ただ、この何処か人の好さを残した功利に疎い庄五郎でさえも、京で勤王の、倒幕のという荒れる波間に自ら入っていくのかと思うと、些か気が滅入った。
「京では日常茶飯事どす」
と、つっけんどんに言いながらも、紀与は内心庄五郎の身を案じていた。それで漸く顔を見たことは安心半分の心地であった。庄五郎は帰り際、縮緬地の匂い袋を紀与に渡した。武道一筋で朴訥といっていい庄五郎からこういう気のきいたものを貰うのは意外だった。
「小間物屋に知り合いがおるのです」
庄五郎は、その時ひどく汗を掻いて言った。紀与は可笑しくてくすり、と笑ったが、それでもやはり庄五郎は困ったように大汗を額に浮かべていた。
この時ばかりは、紀与も十津川郷での昔を思い出した。
滝川のせせらぎが耳に甦る。叔父につれられて暑気の強い日には笹の滝まで何度か涼を取りに行ったことがある。その時隣家の子供たちもおり、庄五郎の姿もあった。すでにその頃から剣をとっては近隣の子供たちの中ではいちばんだったが、木刀を持たぬ庄五郎はありふれた子供だった。
「笹の滝でうちが滝つぼに落ちそうになった時、庄さんが引き揚げてくれたなァ」
紀与はふと、呟いた。庄五郎は、はっとなってまた俯いたまま、汗を必死で拭っていた。
ちなみに笹の滝は、文久年間に天誅組の参謀、伴林光平らがここを通り、嫁越峠を経て北山郷白川へと出、上京に到る。
「世を捨てて くまばや汲まん白菊の 花の中ゆく 滝川の水」
伴林光平の六角獄舎中でうたった歌の一首である。
斎藤は、紀与のうろんげな表情に何か悟ったらしい。殆ど顔色も変えずに二合ほど飲み干すと、銀子を差し出した。手馴れた仕草に都会者の小粋さと、ややもすると傲慢な雰囲気をみた。紀与は眉を顰めた。男の目付きの曖昧さが気になる。まだ二十代も半ばほどだと思われるのに、すでに世の中の深遠を見たような目付きだ。
「新選組は余程、金子がありあまっておいでやすか。それとも―」
音も無く立ち上がった斎藤の胸先が、紀与の喉元にあった。この時ばかりは色白の紀与の頬も更に血の気が引いた。普段は男の好色気をそそるようなぽってりとした朱唇が、きつく結ばれる。
「安心しなよ。他人の女に手を出すほど、おれも見境のないことはない」
斎藤は薄く笑った。やはり、他人を馬鹿にして喜んでいる節があるような気がする。紀与は動揺を覚られまいと、後退る。どうやら、庄五郎の情婦
(おんな)と思われたらしい。男の使う江戸言葉にこんなにどきりとさせられたのは、初めてだった。
斎藤は袴の折り目を正しながら、店先まで歩いた。
「傘を借りてもいいか」
了解を得ないうちから、戸口に立てかけてある柿渋塗りの番傘を手に取り、表へ出た。雨は降っていないが、柳の枝がざわめいていた。傘を借りる、というのは「また来る」という意思表示だ。
紀与はさすがに困惑した。だが、気圧されて言葉にならない。
振り返った斎藤の、わざと揃えず長くした束髪が若々しい。
「ここは祇園にも近いしな」
紀与は胸に置いた自分の手を、強く握り締めた。
「言っておくが、屯所に苦情を申し出ようなんてしちゃいけない。おれは今晩までは新選組の斎藤一だが、明日からは御陵衛士の斎藤一だからな」
斎藤は何やら聞きなれぬ言葉を残して去った。紀与は漸く上がり框にへたりこむようにして腰を下ろした。血の臭いが芬々と漂う男の凄味というものが、今頃になって身に沁みた。
半刻ほど経った頃、勢いよく花散らしの雨が降り出した。
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