(五) 祇園石段下
 
 卯の花くたしの雨であった。破れた番傘をさして、斎藤一は四条通を小走りに西へ向かった。
 人通りは稀で、袴に泥がはね上がるのも構わず、斎藤は黙々と歩いた。
 破れ傘ではさすがに雨滴が目間(まなかい)にかかる。回せば肩が濡れる。仕方が無いのでくるくると回しながらだった。
 傘を破いたのは、谷三十郎の手槍であった。祇園の芸妓のところで昼日中から飲んでいた谷を待ち伏せ、石段下で斬った。谷は相変わらずひょうひょうとした風情で、八坂神社の門をくぐり、下りてきた。傍らに佇む斎藤に気付いたのは、すでに石段を下り切ってからだった。
「御陵衛士の斎藤君ではないかね」
 一杯入った上機嫌と、普段の馴れ馴れしさが同調して、谷はにやにやと斎藤を小馬鹿にしたように笑んだ。
「返事も無いとは些か不遜ではないかね。幾ら我々新選組と袂を分かったとはいえ、お互いに行き戻りは御法度だが挨拶くらいは武士のたしなみだろう」
 谷はずけずけと物を言う。己が器量より下と見る者にはこのように容赦無いのだが、権勢ある者にはおくびにも出さず、押し出しの強さと二枚舌。これが副長・土方の気に食わなかった。
 弟・昌武を局長・近藤勇の養子にして縁戚関係となったのを機に、随分と大きな顔をしている。いずれ厄介な事にならないうちに始末しておこう、ということが土方の口からそれとなく漏れた事がある。勿論、谷本人は何も知らない。表立って斬る理由もない。かりにも組頭であり、真剣の腕はたいしたことはないが、「谷三十郎の槍は万両」と言われたほどの腕だ。
 つい三日ほど前、斎藤は松原通五条の角で乞食に扮した新選組密偵の山崎烝にすれ違った。
 山崎やか受け取った襤褸切れに、谷殺害の命が記されていたのである。
 どのみち、新選組を離れている斎藤ならば、隊内で詮議に掛かることはない。まして、手錬の三十郎を仕留めおおせられる腕を持つ者は他に選ぶ余地がなかったのである。土方のからりとした筆跡が物語っていた。
「谷さん」
 と、斎藤は番傘を傾け、手槍を差し出した。どうやら三十郎も意図がわかったらしい。互いに同時に傘を手離した。槍の穂先が斎藤の放った傘を突き刺した。
 しまったと思った次の合間までに、谷三十郎の体は胴払いに斬られていた。雨滴に血脂を洗い流し、国重を鞘に収めると、斎藤は何事も無かったかのように傘を拾って歩き出した。
「運の悪い人だ。道場主で満足していればまっとうできたものを」
 と、ふと思ったが、それも半町歩いて忘れた。
 高瀬川を渡る小橋の手前、斎藤は雨に濡れまどう仔犬を拾った。見れば白犬なのだが、何処から逃げてきたものか、母犬とはぐれたのか、痩せ細って泥塗れだった。
 斎藤は我ながら柄でもないと思ったが、どうせ泥に汚れついでと、仔犬を拾って歩いた。
 浮蓮亭の戸を叩いたが、返事は無かった。あまりこんなところでうろつくわけにも行くまい。と、踵を返したところで、裏口から紀与が出て来た。
 総髪を濡らし、股立ちを高く取った袴を泥だらけにしている斎藤を見て、紀与は追い返す気力が萎えた。姿を見るまでは、戸を開ける気にもならなかったが。
「傘を返しに来た」
 と言って破れた番傘をたたんだ斎藤の袖を掴み、紀与は中へ引き入れた。
「こんなにぼろぼろにして置いて、返すもへったくれもおへんわ。外聞悪いし入っとうせ」
 湯を絞った手巾で顔と項を拭いた斎藤は、こざっぱりとした男振りに戻ったが、袴の方はそうはいかなかった。紀与は斎藤から脱がせた袴を確かめた。点々と斜めに血痕が散っている。こびり付いた泥がそれを覆っていた。
 「やはり新選組は人斬り者の集まり」と、紀与は胸中で呟いた。
 斎藤は縁側で仔犬をかまっている。人斬りの顔ではない、と紀与は思った。少なくとも庄五郎を追って来た時のような。
 紀与は酒を出しながら、斎藤に問うた。
「どなたはんをお斬りになりやったんどすか」
 斎藤は、紀与の緊張した面持ちを暫し見遣ってから、冷酒を飲んだ。先立って出された酒よりも、出来のいい香りがした。
「少なくともあんたの心配している男じゃあない」
 斎藤は、仔犬が必死でぶっかけ飯を喰らうのを見ながら言った。
「その犬、宿所に連れていにますか」
 紀与は少し意地悪く訊いた。斎藤は答えなかった。
「でも急度、気のきかない男所帯にいるとひんけてしまいますなァ」
「ひんける?」
「痩せこけてしまいますのや。しゃあないから置いといたってください。洗うてみたら案外可愛いらしいし、番犬になるかどうかは知らんけど」
 紀与は溜め息を吐いた。斎藤は、短く恃む、とだけ言った。男というのは奇妙な生き物である。鬼斎藤と呼ばれる男が迷い犬を拾う姿など滅多に見られるものではない。笑声を立てたいのを堪えている紀与を、斎藤はやや不機嫌そうに睨んだ。
「堪忍しとくれやす。何でまた斎藤はんのようなお人が迷い犬を」
 盃を上げた斎藤の手が、微かに震えた。
「何処と無くおれに似ているような気がしたんでな」
 誰を探して行きまどうているのかわからないが、右往左往しているうちにに我が身は血と泥で塗れてしまった、と思うのだが語ったところで仕方が無い。どのみち勘の良さそうなこの女なら、語らずとも察してしまうだろう、と斎藤は黙っていた。
 滅法気は強いが、いつも清雅な粉黛を凝らし、折り目正しく、深深と匂い立つような色気のある中年増の女。紀与が懐にしのばせている匂い袋の香りが気になった。
「斎藤はんは江戸のお生まれどすか」
 不意に紀与が言った。
「ああ」
 御家人の冷や飯食いである、と斎藤は答えた。成る程、立居振舞に何処か俄侍とは違う筋の通ったものが見受けられる筈だ、と紀与は思った。
 斎藤は、不意に酔いが回ってくるのを感じて立ち上がった。「帰る」と一言袴もつけぬ着流しのまま、外へ出た。傘を掲げた紀与が言う。
「あの男(ひと)はここ暫く来てまへん」
 斎藤は振り向かずに傘の柄を掴んだ。触れるとなしに紀与の冷たい手に触れてしまう。
「けど、よう降りますなァ」
 それには答えず、斎藤は雨の中へ身を投じた。
 それから数度、隊務の合間を見ては、斎藤は紀与のところへやって来た。ただ仔犬を眺めては酒を舐めて帰っていくだけなのだが。紀与も次第に打ち解けていたが、男女の間柄にはなり得ない。中井庄五郎という男の行動を介しての繋がりであるゆえに。
 ただ、斎藤が最近とみに休息所以外の女の元へ通っているようだという噂だけはあっという間に月真院に遷った御陵衛士たちの間で広まっていた。
 或る日、篠原泰之進が斎藤を呼止めて言った。
「きみ、随分と好い女がいるようだね。四条橋あたりの居酒屋の、かなり別嬪の女将だとか」
 悪意は無いが、妙に持って回った言い回しが斎藤の気に障った。篠原という男は新選組時代は諸士調役監察に就いていた。武張ってはいないが、素行に細かい。
「御陵衛士という御役目を忘れないでくれよ、と伊東先生も言っておられるよ」
 つまり、十六花弁の菊を頂く名誉の職務にある者が、飲み屋の女風情を囲うのは軽率だと戒めたいのか。もとより、三本木や島原の美妓を飽くほど見知った斎藤だったが、所詮女に入れ込む性質ではない。それに、女の価値はそういうところにはない、と思っているだけに莫迦らしい、と肚のうちで哂うだけだった。

 「人斬り庄五郎」の名は京の暑気とともに否応無く尊攘志士の間で広まっていた。
 庄五郎は、内心そうして怖れられていることを悪い気はしない。だが、その割には若輩ゆえか、それとも直情な性質ゆえにか軽んじられているような気もしていた。
 或る晩、祇園甲部の茶屋で庄五郎は諸藩の尊攘志士らと飲んでいた。
「この刀は坂本さんから頂いたのだ」
 と、いつものように坂本との寺田屋での話をする庄五郎だったが、何だか皆も興が乗らない。さてはこの話を以前聞いていた仲間が混じっているからか、と庄五郎は再び佩刀を芸妓に預けて、仕方なくくいくいと酒を煽った。京の夏は蒸し暑く、それだけでも気が滅入る。
「それはそうと」
 誰かが言った。
「新選組の斎藤一に遇ったことがあるか?」
 一人の志士が微妙な笑みを浮かべつつ、言った。新選組の斎藤といえば、隊内で一二を争う腕利きと聞く。そんな鬼神のような剣術使いに遇った奴がいるとしたら、もはや祇園くんだりで今頃こうして宴会など出来るわけが無い。一同は苦笑いした。
「おれァこないだ智積院の前を通ったとき、ばったり出くわしたよ」
「ほう、よく命があったもんだな」
 志士たちが笑う。「奴ァ浅葱色を着ていないからさ。連れのもんに訊いたら、今は孝明帝の墓陵を守る御陵衛士だとか」
「少なくとも目下の敵ではないということか」
 庄五郎は黙って聞いていた。そんな男と行き合わせたら、おれの居合は通用するのだろうか。庄五郎は、正月に四条橋畔で対峙した男のことなど、すっかり失念していた。
 とにかく名のある尊攘派の連中とこうして政事談議をし、佐幕派の大物を斬って功成り名を遂げるのも一利あるだろう。それ以上に世の現状が憂えるとはいえ。一応の論客面をして散会したあと、何となく済し崩しに若さの漲るまま玄人女を抱いてみるが、何処か頼りない。
 褥の中でうとうとしながら思い出すのは紀与の白い襟足だった。
 十津川でよく鮎採りに行った頃のことを。殆ど収獲がなくとも紀与のところへは届けに行った。利発で気の強い紀与の黒い瞳が、その時は和らぐ。
「うちには兄弟がおらんから、庄さんは弟のようや」
 よくそう言っていた。とにかくそれでも構わないから、紀与の喜ぶ顔が見たくて剣術にも励んだ。いつか村を出て、いっぱしの勤王家になって紀与に尊敬されたいと。紀与が十九で大坂に嫁ぐまでは、そう心に決めていた。
「おれは何をしとるんだろう」
 反側転転としながら庄五郎は白粉の匂いに包まれてまどろんだ。浮蓮亭で再会した時の紀与は、艶めきたった美しさを放っていた。
 たまらず、あくる日庄五郎は四条高瀬川まで行ってみた。
 表から入る時間ではなかったので勝手口の方へ回ると、不意に戸が開いた。咄嗟に庄五郎は脇に身を潜めた。臙脂の格子縞を着た紀与が出てきたかと思うと、次に上背のある男の背中が目に入った。
「紀与どのに情夫(おとこ)がいる」
 そう思った途端、庄五郎は顔をそむけた。考えてみればまだ二十五の紀与に男がいても不自然ではない。しかしながら、落魄烈しかった。
 せめて男の姿をもう一度確かめておこうと覗いたが、すでに何処かの路地(ろうじ)に入ったようであった。しんと静まった界隈を、庄五郎はしばらくどんよりとした目付きで見詰めていた。

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