(六) 油小路七条
 
 十一月の候、いよいよ薩摩藩に接近するようになった伊東一派の行動を逐一密偵に報告させていた斎藤は、来るべき日の到来を知った。
 伊東はいつもの会談の後で手持ち無沙汰に扇子を弄びながら、涼しげな目元を細めた。
「そろそろ斬るかな」
 そう言えば、誰のことを指しているか、一同すでに承知だった。伊東は、酒は一滴も入っていない素面である。伊東の実弟・鈴木三樹三郎などは神妙な顔付きで頷いたが、斎藤はただ黙って居眠りでもしているかのように座していた。丁度、真向かいに座っている藤堂平助の頬が微かに引き攣っていた。唇を噛み締めている。斎藤は薄目を開けてみていた。
「して、如何様に」
 篠原泰之進が訊く。伊東がやはり秀麗な眉尻を下げ、篠原を見遣った時、斎藤は柱にもたせていた背を起こし、素早い動作でにじり寄って正座した。
「その役目おれが」
 斎藤の顔を、皆が一斉に見た。まことか否かという刺すような疑惑の目だった。只一人、伊東だけが切れ長の澄んだ目付きのまま変わらなかった。この何処と無く世の煩事にかかずらない、高邁でそのくせ他人を信じやすい目付きで生きてきたのだろう。同じ席に座しているとはいえ、斎藤とは対極のような生き方をしてきた男といえるだろう。
 「この人は奸智に長けているというよりは、疑いを知らない人間のように思える」と、斎藤は思う。
「斎藤さんに奴らを斬ることが出来ますかな」
 横槍を入れたのは、服部武雄だった。原田左之助や永倉新八も、手強いと賞したほどの凄腕の男である。
「なに、奴らはおれを単なる時勢に左右される、思想を持たない人斬りだと侮っている。新選組に入ったことも、御陵衛士に遷ったことも、金を貰って体よく人を斬る名目を求めてのことだとな」
 珍しく斎藤の多弁に、皆もしんとなって聞き入っていた。
「だが、生憎とおれは伊東さんの考えのほうが性に合う。そいつを思い知らせてやるさ」
 普段寡黙な斎藤がここまで言うからには、余程の奇策があってしかもその本意に偽りはなかろう、と誰もが言い、異議は無かった。
 翌日、斎藤は髪を乱し、顔といい四肢といい炭と泥を塗りたくって着物の裾を絡げ、刀を隠したこもを抱えてほっかむりの乞食姿に変装すると、月真院を出て行った。
 門を出ようとすると、藤堂平助が呼止めた。
「待って下さい、斎藤さん」
 振り返ると、半泣きのような平助の顔があった。「魁先生」と渾名された剣士とは思えぬあどけなさを残している。確か斎藤と同年の生まれの筈だが。
「もう会えないかも知れませんから」
 と言う平助に、斎藤はやや緊張していた面持ちをほぐした。「こいつはおれの嘘を看破っている」と思ったが、黙って出て行くに限る。斎藤の姿が見えなくなるまで、平助は門前に立っていた。
 斎藤はその足で新選組の屯所がある不動堂村へ駆け込んだ。
 真っ先に出てきたのは、土方歳三だった。
 伊東が近藤を討つ算段を決めたと聞いて、土方は顔色も変えずに例の赤い唇を歪め、片頬だけでにまりとする笑い方を見せた。凄絶な表情にその場に居た隊士達も度肝を抜かれた。
「先手を打つか」
 句でもひねるかのように一頻り考えるようにして天井を見上げ、斎藤君を労ってやれ、と言うと近藤と二人奥の局長室にこもってしまった。
 斎藤が乞食の扮装を解き、髪を結い直し終えた頃には、屯所内は俄かに慌しさを増していた。
 火鉢に当ってぼんやりとしている斎藤のところへ、近藤がやって来た。土方も一緒だった。
「御苦労だった」
 近藤は一言いい、一瞬だけ表情を和らげたものの、また厳しい顔付きに戻って奥へと引っ込んだ。
「お声が掛かるまでは、暫く屯所を出ないほうがいいぞ。いずれ嫌でもきみの出番は回ってくる」
 土方はそう言い残して斎藤の肩を軽く叩き、詰所を出て行った。
 が、斎藤は皆が忙しないのをいい事に、十八日の夕方黙って屯所を抜け出した。
 行く先は休息所ではなく、四条高瀬川の紀与のところである。
 来るなり、斎藤はむっつりしていた。いつもの事だが何だか様相が違うので、紀与はつと口にしてみた。時刻は六つで、店は開けていたが、どうも落ち着かない。
「何かありやしたんか」
 斎藤は黙っていた。
「今晩は降りそうや」
 紀与は言い、熱燗を盆に載せて差し出す。あてになるものを添えるのを忘れていた、と紀与は立ち上がる。だが、斎藤の力強い手が紀与の細腕を掴んで、無理矢理座り込ませた。
「五十両ある」
 と、斎藤は袱紗に包んだ小判を畳の上に滑らせた。紀与は呆気に取られる。
「おれは先日、月真院を抜けて新選組に戻った。わけは聞くな。迷惑なことかも知れんが、あんたは月真院の連中におれの女だと思われている」
 紀与は、何だか耳朶がむず痒くなるような気がした。折り目正しい斎藤の袴の膝を見る。顔を上げるのが恐ろしい。
「つまりおれは寝返ったことになる。月真院の連中は必ずおれを付け狙うだろう。すると、あんたの身の上も危うい。この金を持って逃げてくれ」
 斎藤の顔を、漸く紀与は直視した。嘘ではなかろう。顔色さえ蒼白だ。だが、紀与は包みを押し戻す。
「このお金何処で手に入れましたのん」
「月真院から持ち出した。斎藤は近藤勇を斬ると意気込んで出て行ったが、その実女に入れあげていて、五十両持ち出した。挙句に隊規で戻るに戻れなくなった、ということにしておく」
「いりまへん」
 紀与がぴしゃり、と言い放った。
「今までの酒代言うんならもろときます。けど、それは斎藤はんのもろてるお給金からどす」
 そういうわけにもいかん、と斎藤はまた五十両を押し返す。何度か繰り返していたが、六つ半になると、冷え込みの所為もあって客が増えてきた。紀与は店に戻り、斎藤は座敷に残された。
 黙って五十両置いたまま出て行ってやろうかとも考えたが、それでは急度、紀与はそのまま鴨川に捨ててしまうような気がした。仕方なく、ちびちびと酒を飲んで時間を潰しているうちに、正座しているのも窮屈になって、とうと寝転んだ。疲れが出たのか眠気がさす。そのうち、中庭からきゃんきゃんと犬の声が聞こえてきたが、遠い向こう岸のように覚える。
 七条醒ヶ井の近藤勇の妾宅では、六つ頃から宴が始まっていた。
 かねてより伊東が新選組に無心していた九州出張の旅費が、会津藩より下されたのでその報告をかねて、近藤が伊東を招いたのである。
 いったい、袂を分かった筈の新選組と御陵衛士の間でそういう約束が罷り通るのは、何とも不可思議な話だが、伊東の言い分ではあくまで新選組と仲違いをしたわけではないのだから当然だ、ということになる。
 だが、これが謀略ということを思わぬ者は伊東本人を除いて他に誰もいない。否、伊東も承知のうえで裏をかこうというつもりだったのか、まさかたった一人で虎口に飛び込む者を本気で噛み砕く連中がいるものか、と多寡を括ったのか。篠原や服部が引き止めるのも聞かずに、伊東は一人で出向いた。
 とにかく酒好きの伊東は、飲んで喋った。したたかに酔った四つ刻、伊東は酒宴の座を立った。
 少し足元がふらつくので駕籠を頼もう、と土方が言うのを断り、伊東は歩き出す。
 冴え渡る月に時折白い雲が掛かる。木津屋橋通を東へ折れ、酩酊しながらも頭脳が何処か覚めている伊東の様子を覗き見ていたのは、原田左之助、大石鍬次郎他数名だった。
 さすがに北辰一刀流免許の腕、伊東は予期していたかのように初太刀を遣り過ごし、宮川信吉を追い込んだが、横一文字に斬り込んできた大石に喉元まで一気に突かれた。この一太刀が致命傷となる。
 留めは原田がさし、伊東は絶命した。
 この凄絶な断末魔の叫び、戦闘に加わった者は決して忘れないだろう。
「奸賊ばら!」
 斎藤はふと目覚めた。
 どのくらい夢うつつを彷徨っていたのか知れないが、障子を開けると雪片がちらほらと舞い降りていた。初めて見る雪に、犬が吠えていたのである。
 段取りはそれとなく聞かされていた。間違いなく今時分、伊東はすでにこの世になく、隊長の死を知らせる手の者が月真院の裏木戸を叩いている頃だろうか。
 斎藤はよろめきつつ、立ち上がった。足元が不如意で、徳利を倒してしまう。襖に手を掛けると、勝手に開いた。目の前に紀与が立っている。
「今、何刻だ」
「四つ半を過ぎたところです」
 そうかと言い、斎藤は座敷を出ようとした。
「何処行かはりますのや」
 紀与の強い語気が斎藤の足取りを捉えた。斎藤はその時、ふと脳裏にとらまえていたことを思わず口走った。
「平助を死なせるわけにはいかない」
「あんさんお一人戻らはってどないなりますのん」
 紀与は冷たく言う。
「おれの所為だ」
 斎藤はなおも言った。恐らく、今頃伊東の死体を餌に月真院に居た者はおびき寄せられている。伊東のを引き取りに行く事を拒めないだろう。
 理屈を言えば、伊東一人を呼び出して計略にかけ、滅多殺しにする行為そのものが陰険極まりないが、さらに残された者も皆殺しにしてしまおうというのも、残虐で理に悖る。だが、とにかく藤堂平助だけは生かしてやりたいように思った。計略をそれとなく遠巻きに聞いていた時も、藤堂の名は誰の口からも一言も発せられなかった。試衛館以来の輩(ともがら)を見捨てることに決めた以上、藤堂の事は口に出してはならないとでもいう暗黙の了解が流れていた。
「見捨てられるのはおれではなかったか」
 もし仮に、近藤暗殺の計略を持って屯所に戻らなければ、間違いなくおれも斬られたに違いない、と斎藤は思った。「平助を逃がしておれが残ればよかったか。だとしたら、平助はおれの身代わりなのか」
 酔っているのだろう。酔っていなければ、そうは思うまい。
 紀与は斎藤の正面に回った。きつく引き結んだ唇をわなわなと震わせ、紀与は言った。
「行ったらあきまへん。あんたも殺される」
 やにわに紀与は、斎藤の腕に縋った。
「行かんといてください」
「放せ」
 と言ってみたものの、斎藤は動かなかった。
「おれが死のうがあんたに関係ない。むしろその方がいいだろう」
「何言うたはりますのん。あんたほんまに侘びしいお人やなァ」
 紀与は声色を柔らげた。斎藤は、紀与の腰を絞るほどの力で抱き締めてしまった。「五十両は」と言い掛けた斎藤の腕の中で、紀与は深く頷いた。
「承知しました。ほなら、ほんまにうちをあんたの女にしてください」
 嘘からでたまこと、と言うしかない。臥床の中の紀与はしっとりと温かく、とにかく放胆であった。
 斎藤は、遂情(すいじょう)のあとで、ぼんやりと考えた。
「まだ命は捨てられんということか。ならばせめてこの名を捨てるか」
 今夜限りで斎藤一をやめる。

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