(一)
麒麟山には狐火が浮かぶという。
毎晩のようにその狐火が行列を作り、山から里へ下り、阿賀野川の流れに沿って街道を行く。狐の嫁入り行列ともいう。狐は山上にある稲荷神社の神聖な御使であるので、決して悪戯心を起こしてからかってはならない。
そんな伝承が村にあるらしい、と松平定敬は津川の地に入って十日ばかり経ってから聞いた。
彼が津川港前に着いたのは、慶応四年五月二日であった。まだこの地には夏の雨の訪れる前である。
西軍の東山道軍が越後高田に集結したために、桑名隊は国境・鯨波へと進出せざるを得ず、藩主である定敬は安全を持して、後方の加茂へと移った。
桑名本隊は鯨波の戦にて薩長連合を撃退した。だが、友軍の敗報は続く。定敬は随行の藩士六十余名とともに街道を東へ進み、会津藩領に入って様子を見ることになった。
「立見の雷神隊は朝日山において、山県軍を打破したようです」
家老にして軍事総宰の服部半蔵正義が、定敬に告げた。
「立見鑑三郎か。あれなら心配ないだろう」
定敬は、庭先に出ていた。定敬が逗留するのは津川第一の庄屋、平沢伝右衛門の宅であった。
屋敷はまるで、京の所司代屋敷ほどに広大である。
会津の西の玄関口として、阿賀野川を下り、大坂へ米を、帰りに瀬戸内の塩を運んで栄える津川の米庄屋が平沢家である。家人は伝右衛門夫婦と長男夫婦、病身の一人娘と隠居した先代がおり、二十名程の住込みと通いの奉公人がいた。
「長岡が如何程持ち堪えられるか」
定敬は暗い池の水面を眺めつつ、言った。下弦の月が映り込んでいる。手を伸ばせば掬えそうな距離にあった。
「然様にございますな」
半蔵は、藩主の所在無い仕草を見遣りつつ、同意した。
「我々は如何にせん」
定敬はさらに呟くように言ったが、半蔵はそれに答える事は出来なかった。
総勢六十余名で援軍も何も無い。こうして西北の新発田の動きを探りつつ、立見らの様子を窺いながら、何時会津若松へ入るか否かを待つばかりであった。
つと定敬は立ち上がり、懐から秘蔵の篠笛を出すと半蔵に渡した。半蔵が意図を知り、一揖して唇に当てると、定敬は扇を開いた。
「名こそ楽浪や志賀の浦に、お立ちあるは都人か傷わしや。お舟に召されて浦々を眺め給えや。所は海の上、所は海の上。国は近江の江に近き。山々の春なれや花は宛(さなが)ら白雪の、降るか残るか時は知らぬ」
夜露が珠と散る。半蔵の吹く笛の音が冴え渡り、定敬の短く揃えた総髪が揺れた。
おそらく近年この郷で斯様な謡が響くことは、滅多とあるまい。定敬の通る声は河港にまで届き、細波が碇泊する舟ふねを揺らしているのではないかと思われた。
「緑樹影沈んで、魚木に登る気色あり。月海に浮かんでは兎の波を奔(はし)るか」
さて、ここまで唄うと、半蔵の笛がぴたりと止んだ。
定敬が振り返ると、離れの庇の下から拍手が聞こえる。一人の翁の姿があった。
「”竹生島”にございますな」
「然様。謡に通じておるようだな、御老人」
定敬は近付いた。この屋の隠居、先代伝右衛門祐徳という。今は只楽翁(しらくおう)と名乗っている俳人でもある。
「若い頃、江戸に奉公しておりました。その時見よう見まねで様々に」
只楽翁は、小柄な身体を揺すって言った。それで訛りが少ないのであろう。
「見よう見まねで判るものか。相当芸事にのめり込み、酒色をたしなんだであろう」
と、定敬歯に衣着せずに微笑した。
「やはり御前様方にはかないませぬ」
只楽翁は大息を吐いて、眉尻を下げた。定敬は、さらににこりと笑んだ。
「”竹生島”は春の歌。しかも今宵は満月でもない。まことに無粋ながら、どうしてもひとさし舞わずにはおられん気分になってな」
「いえいえ。鄙には稀なる勿体無い謡を拝聴いたしました。何分この辺りには御前様方のような貴人がお通りになることも珍しく、ほんに有難く」
定敬は只楽翁の座っている縁側に腰を掛けた。月影が若い横顔の秀でた鼻梁を照らす。
「この程度でよいのならいつでも聴かせてやろう。此方には随分と世話を掛けていることだ」
勿体無い、と老人は繰り返した。定敬と上士らは平沢家に、他の藩士は近隣の民家に分散して宿泊している。会津藩主・松平容保の弟であることがこの地での厚遇を生んでいるのかもしれない、と定敬は思うが。
「しかしながら、御前様の篠笛にございますが」
「笛がどうかしたか」
すると、只楽翁はふさふさした眉を八の字にして、
「音割れがしますようで」
「よく判ったな。少しひびが入っているのだ」
定敬は半蔵から笛を受け取ると、老人に握らせた。第二孔に微かな亀裂が入っていた。月の光では殆ど判らぬほどの細かいひびである。
「高須の母より頂戴した物であるので、大事にしたい。もともと母が水戸家より輿入れの際に持参したというので、来歴は詳しくは知らぬ。神君の五子・武田信良公のものともいうが」
「二百年以上経ておることは確かでしょうな」
「修繕したい」
「承知つかまつりました。知り合いに腕のよいのがおりますで」
只楽翁は笛を掲げた。
「ただ暫くお暇を頂戴いたしますれば、御前様が当方を発たれる時までに間に合いますかどうか」
「構わぬ。追って若松まで届けてくれれば。否、或いは」
と言い掛けて、定敬は言葉を切った。半蔵がやや強張った表情を作ったからである。まるで縁起でもない、と言いたげであった。
「その間、代わりの笛が欲しい」
定敬は気軽に言った。すると、只楽翁は畏まりましたと言って、屈めた腰の割には敏捷な動きで離れから奥に入って行った。
やがて戻って来た老人は、定敬の前に古い桐箱を持参した。桐箱を開けると、古びた篠笛が出て来た。
「我が家に伝わるものです。藤吉郎笛と申します」
見れば、黒檀のようなつやつやと光沢ある簡素な作りの笛だった。
「嘉祥年間の作といわれておりますが」
定敬は一瞬驚いた。嘉祥といえば千年以上も古えの平安朝初期の作ではないか。まさかそのような由緒ある笛が、奥州の僻地に伝わっていたとは。
「いつでもお使い下さいなし。但し、必ず夜間は一度この箱にお納めになり、結わえて置かれますようお願いいたします」
「然様。貴重な笛であるしな」
只楽翁は、首を横に振った。
「いえ。放っておくと笛が踊るのでございます。仕舞には何処へともなく消えてしまうと言いますので」
「まさか」
定敬は白い歯を見せた。只楽翁はつぶらな目を瞬いた。
「本当です。その笛にはこういう話が伝わっておるのです」
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