(二)
天保の頃である。二本松城下に氷見
(ひみ)藤吉郎という藩士がいた。
この男は、まだ当時十八歳の馬廻組の一人であった。父の跡目を継いで間も無く、まだ嫁も貰っていない。
藤吉郎は前髪立の頃から笛を習っていた。笛や謡など軟弱な、という武芸一辺倒の士風を持つ藩もあれば、二本松では文武両道の嗜みは藩風であり、また江戸や京の華美を知らぬ若者にはむしろ相応の芸事として、誰一人咎める者はない。
そのような中でも、藤吉郎の楽才は天稟なのか、際立って上手であった。
いつしか藤吉郎の腕前は噂になり、いずれ近々殿の御前にて披露する機会を与えるという話すら上るようになった。
ある秋のことである。
月の好いのに浮かされて、藤吉郎は笛を手に自分の屋敷を出た。
満月の下に薄
(すすき)や葦の穂が白波の如く乱れる中を、藤吉郎は踏み分けて城外の河原まで出た。虫の声もしんしんと鳴っている。それにつられて笛を吹きながら歩いて行くと、行く手に重なる笛の音が聞こえてきた。
もしや、川面に反射して己の笛の音が響くのかと思ったが、さにあらず。
己の吹く笛などよりも明らかに名手ではないのか、と思えた。
「誰だ。誰がこんな処で」
藤吉郎と同じく月夜に浮かれて彷徨い出ずるは、或いは狐狸の類ではなかろうか。さもなくば、河原乞食か。まさか河原に寝起きしている何処の馬の骨とも知れぬ輩が斯様な透き通る音を、と訝りつつ藤吉郎は河原を下っていった。
すると、掘立小屋がある。小屋の入口に筵を上げて、一人の男が座っていた。その男こそ笛の吹き手であった。
「そこな御仁」
男はやにわに呼び止められて、ゆっくりと振り向いた。
藤吉郎は男の姿が紛れも無い浪々の者と判ったが、身構える事はなかった。恐らく、年の頃は三十ばかり。いや、もう少し若いのかもしれない。薄っすらと男の頬や顎を覆った髭が老成させて見せているのだろう。
だが、藤吉郎にはこの男が只の浮浪者とは信じ難かった。
「先程から笛を吹いてござったのは貴殿か」
男は、はっと目を見開いた。警戒というよりは純粋な驚きであったようだ。
「余りにも美しい音色なので、それがしつい此処までつられて参った。それがしも手遊
(てすさ)びに吹いているのでな」
藤吉郎が笑うと、男も漸く表情を和らげた。
「いえ。まことにお恥ずかしい。聞いておられたとは。拙い調べにございまして」
「なかなかの修練を積まれた腕前と相見ました。しかも澄んだ音色。急度すぐれた名匠の笛では」
「とてもお前様にお見せできるものでは」
だが男は少し躊躇したあと、笛を拭って恭しく藤吉郎の前に差し出した。しからば、と藤吉郎は受け取って眺めた。黒く艶やかに光る笛を月光に透かして見、それから断りを得て吹いてみた。
藤吉郎は戦慄した。
己の持つ笛とは比べものにならぬ秀でた音色。たとえていうなら川瀬の小石を洗う清水の如き清冽さ、そして月光を凝脂のように固めて水面に落とせばこのような音色になるだろうか。微かに異国の古えの情景さえ浮かぶ。
「貴殿はいつから此処へ」
藤吉郎は、笛を飽かず眺めながら訊いた。
「三日程経ちましょうか」
それまでは京大坂、木曽路と所々を彷徨し、越後より国境を越えて来たという。今後の事も決めかねているらしい。
「お手前は武家であろう。何ゆえそれ程の名笛を持ちながら、そのように流浪せらるるか。何か事情がおありとお見受けするが」
男は黙っていた。藤吉郎は笛を差し返した。
「無理にお聞き出しはせん。喋りたくなくば構わん」
いえ、と男は言った。
「それがしの話を信じて頂けるのでしたらば、お話いたしましょう」
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