(三) 

 男の名を高野久之丞という。偽名か本名かは判らない。藤吉郎が聞いたのは、その名のみである。久之丞もまた幼少より笛をよくした。武芸にも抜きん出ていた。
 或る日のこと、久之丞が十八になったばかりの頃のことである。道場からの帰路、田舎道の畔に一人の沙弥が倒れているのを見つけた。死んでいるのかと思い、屈み込んで見るとまだ虫の息がある。
「もし、御坊」
 抱き起こすと、沙弥姿の男は四十ばかり、卑しからぬ風貌であったが痩せておりひどく顔色が悪い。青いのを通り越して、紙の様である。
「私に触れぬほうがよろしゅうございます、お若い方」
「何を申されるか。見れば御坊、そこもとは病のようではないか」
 久之丞は捨置けまい、と水筒の水を含ませてやり、田圃の畔にある祠まで担いでいって横にならせた。だが、沙弥は咳き込み出して、終いに一升もあろうかと思うほど夥しい血を吐いた。
「もう長くはございません。労咳にございます。お前様のご親切、まことに心にしみ入りました。これでこの業深い一生も安らかに終えられましょう」
 男は息も絶え絶えになって言った。そうして、
「甚だ失礼かもしれませぬが、御礼のしるしにこれを」
 と言って、錦の袋を取り出した。薄汚れた行脚姿に似つかわしくない鮮やかな袋の中身は、篠笛であった。
「さる高名な舞楽者の用いていたものと言われております。ゆえにその音色、類稀なる調べにございます。お前様なら急度この笛をお預けしても大丈夫でしょう。しかし、くれぐれもこの笛に魂を奪われぬようお気をつけ下さいませ」
 そう言い残して、男は事切れてしまった。
 名前も生国も判らずじまいである。久之丞は近くの寺まで亡骸を運ぶと、懇ろに弔ってやった。持ち物にはいずれも男の身分を明かすような物は無く、無縁仏として葬ったのである。
 果たして沙弥が残した笛は、名管と呼ぶに相応しかった。
「いったいあの者は何故斯様な名笛を所持しておったのだろう」
 久之丞は不審に思った程である。
「京の名匠が成し、いずれかの公卿の持ち物として伝わっておったのかもしれぬ」
 すると、身分不相応な沙弥の男は或いは名笛を盗んで持ち歩いていたのではないか。それ故に今際の際にあのような謎めいた一句を残したのではないか。だとすれば、笛の所持者となった久之丞も、露見すると只事では済まないであろう。いずれにしても、秘しておくべきであろう、と久之丞は思った。
 そして、常時懐中に忍ばせつつ、時折こっそりと音色を楽しんでいた。

 一年程経った頃である。
 道場稽古を終えた久之丞は、帰路に一人の旅装をした侍に出合った。まるで、ずっと久之丞を待ち受けていたかのようであった。
「失礼。御貴殿が高野久之丞殿でござるか」
 編笠を脱いで、その若い侍は声を掛けてきた。久之丞が肯定すると、
「実はそこなる寺で伺った。御貴殿は先年行き倒れの沙弥を介抱し、形見として篠笛を受け取られたとお聞きしたが」
「然様」
「その沙弥はそれがしの仇にござる」
「何と」
 久之丞は瞠目した。すると、若侍は続ける。
「仇が病死とあっては致し方なし。せめて、そのしるしに笛だけでも持ち帰らねば、それがしが亡兄に何の顔向けも出来ぬ。笛をお渡し頂きたい」
 藪から棒に話を持ちかけられて、久之丞は閉口してしまった。何しろ若侍が何処の何者で、本当に死んだ男の仇であるのかという証拠も無い。証拠も無いのに黙って笛を渡せるものか、と思った。
「いったい如何なる仔細か、よく承った上でなければ話にならん」
 久之丞はむっとして言い返した。
「とにかく笛を返して頂ければよいのです」
「乱暴な。我を騙り取ろうというのではないか」
 すると、若侍はかっとなって顔色を変えた。
「ならば力ずくにても奪い返す」
 と、刀の柄に手を掛けた。久之丞にはその気は無かった。だが、相手に斬り掛かられて、左の腕を裂いてしまった。血を見た以上は黙っておけない。しかも城下で余所者から抜刀され、みすみす逃げるのは名折れであろうと、久之丞も刀を抜いた。
 四半刻のせぬうち、決着はついた。若侍は血塗れになって横たわり、久之丞に向かって呪詛のような言葉を吐き付けるや、息絶えた。
「笛が踊るぞ」
 如何なる意味であろうか。久之丞には皆目判らなかった。とりあえず事の仔細を藩に届けると、非は若侍のほうにあるという沙汰となり、久之丞にお咎めはなかった。結局、沙弥も若侍も何者であったか判らないままであった。
 そうして、久之丞は相変わらず笛を大事に懐に抱いていたが、この刃傷事件が噂となって主君の耳に入った。間の悪いことに、藩主はいたく興味を示し、「一度その笛を見せてくれ」という上意が下ってしまった。
 普通に考えればむしろ名誉なことである。ところが、久之丞は困った。
「とりわけ殿の御国御前様は笛を集めていらっしゃると聞く。御覧に入れるだけならいざ知らず御所望になられては」
 しかじかの事情もあって、因縁めいて己が手元にある名笛を手離すにしのびない。さりとて、家臣の分際でお断りするわけにもいかぬ。久之丞は当惑した。そして、決心した。
「よし。御覧にいれるだけで、もし御所望とあらば別の物とすり替えよう」
 かくして、久之丞は直々にお目通りとなり、笛を披露したのである。
 笛の妙なる調べを聴いた主君、御国御前をはじめ同席の家臣みなうっとりと天上の楽を聴いた心地になったという。そしてついに、
「のう高野。その笛を暫く貸してはくれぬか。差し出せとは言わぬ。貸して貰えぬだろうか」
 主君は言った。久之丞は予期していたことゆえ、然程驚きはなかった。しかし、胸が苦しくなった。
 貸せば急度、主も御国御前も笛にのめり込むであろう。さすれば所望する。幾許かの金品と引換えに笛を渡すのは馬鹿げている。
 ならば一旦返却頂いて、何か理由をつけて偽物とすり替え、もう一度献上する他に手立ては無いだろう、と久之丞は考えた。
 さて、笛はそのようにしてその晩から主君の手元に置かれることとなった。

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