(四)
だが、翌日のことである。主君の部屋から笛は忽然と消えていた。錦の袋ごと。
城内騒然となり、何処に行ったか捜索が行われた。それこそ数十とある井戸という井戸の底まで浚えんという勢いであった。
そんな騒ぎも知らぬ久之丞は、急ぎ偽物を作らせようと匠を訪ね回っている最中であった。
笛を貸し出して数日目の朝、久之丞は表戸を激しく叩く音で目覚めた。老母が起きて玄関に出ると、藩の使いが立っていた。
「何事でしょうか」
久之丞は慌てて袴を着け、出迎えた。
「そこもとが殿にお貸ししたという笛がなくなったのだ」
「どういう事でござりましょう」
だが、使いの藩士は頗る仏頂面のまま高野家へ踏込んだ。
「城内隈なく捜索いたし、家臣より下男下女に至るまで糾問いたした。然るに、残っておるのは笛を渡したそこもとの屋敷のみぞ」
数名の藩士がどっと押し寄せたので、久之丞は抵抗の仕様もなく呆然と見ている他なかった。
「まさか目の前で御前に差し出した当人の家にあろう筈もなかろうが」
使いの者は皮肉に言った。
ところが、あろうことか笛は久之丞宅にあったのだ。亡父の書斎の違い棚の上に無造作に置かれていた。忽ち、久之丞は縛められ、詮議にかけられることと相成った。
「何故だ。まったく身に覚えが無い。あの時確かにお渡しした笛が、何故家に戻っているのか」
勿論、久之丞にはとんと説明の仕様がない。何を訊かれても「皆目判りませぬ」としか答えようがなかった。
その口説が執拗に主君を謀ると見られて、ついに久之丞は厳罰に処されることとなった。
「お家断絶のうえ放免」となったのである。家禄は没収され、一族路頭に迷うことになってしまった。それでも漸く老母や血縁の者を様々の方面に預け、久之丞一人城下を出て放浪することとなった。
そこまで話してきて、久之丞は暗い目のまま空を見上げた。
「しかし幸か不幸か如何なる因縁か、笛は没収されずに手元に残りました。恐らく御国御前様も、忽然とひとりでに消える笛を怪異に思われたのでしょう」
「成る程」
そう言いながら、藤吉郎は久之丞の身上話を全くの真実とは捉えていなかった。
「幾ら名笛とはいえ、そのような怪事が起こるわけがあろうか。あらかた、この男の笛に魅せられた妄想の産物に相違ない。”笛が踊る”など」
内心そう思って聞いていたのである。
「確かにこの笛には何かの怨念が籠もっておるような気がいたしまする。以前の持ち主は存じませぬが、沙弥は病で行き倒れ、その仇といった男は笛を奪おうとして手前に討たれてしまった。そうして、手前もこの笛の為に禄を失い、斯様な身の上と成り果てました」
「まことにお気の毒な」
「いっそ笛を棄ててしまえばよかろう、或いは燃してしまおうとも考え至りましたが、惜しむ心が捨て切れませぬ。これも笛に憑かれたといってよいのやも知れませぬ」
「何の。笛といっても所詮は器物に過ぎませぬぞ。お手前のお心次第では?」
藤吉郎は笑って言った。だが、久之丞は悲愴な声を出して頭を振った。
「それが出来れば苦しみはいたしませぬ。棄てようとしても棄てられぬ、それが禍なのです」
さすがにこの時の蒼褪めた顔色を見て、藤吉郎もまったくの出鱈目ではないようだと感じた。それにしても、久之丞は急度、笛の音の虜となって心を患うているのだと考えた。決して怪異ではあるまい。
やがて、夜も白々と明けてきた。
「まことに申し訳ございませぬ。長々と、余計なお話をお聞かせしてしまいました」
久之丞は頭を下げ、その日は藤吉郎もそこまでで引き揚げたのである。
翌日になって、藤吉郎は再びこの河原に姿を現した。
覆面をして身軽に装い、夜陰に乗じて薄の中を掻き分け、小屋の裏手に出た。
「おれとしたことが、どうにもあの笛が欲しくて堪らぬ」
藤吉郎は激しく沸き立つ欲求に駆られ、こっそりと抜け出してきたのである。譲ってくれと言ってみようとは思う。だが、恐らく素直に渡してくれそうもない。それは、昨晩の仇討ちの男の話で判った。
そうなれば、斬ってでも奪うしかない。そう決心したのである。
但し、藤吉郎は然程武芸には自信が無い。剣を取らせては久之丞が格段に上級であろう。そう見当をつけて、敢えて手槍を用意した。
実に恐ろしい。既にこの時、藤吉郎は妖しい笛の虜となっていたのである。そうとも知らず、藤吉郎は小屋の様子を窺った。
すると、内から獣のような唸り声が聞こえてきた。それが次第に大きくなる。久之丞は、悪夢にでも魘されているようである。藤吉郎は、一瞬躊躇した。小屋に踏込んで起こすべきか、それともこの際寝込みを手槍で一思いに襲うか。
「幾らなんでもそれは卑怯な振舞ではなかろうか」
藤吉郎は固唾を呑んで、その場に蹲っていた。やがて、もがき苦しむ声が一際高まった時、久之丞の身体が小屋から外へ転がり出してきた。
身を隠す余地も無く、藤吉郎は煌々とした月明かりの下に立ち上がっていた。手槍を持つその姿を見られては、言い逃れの仕様がない。
久之丞は衝撃で目覚めたようである。ひどく脂っぽい汗を顔といい腕といい、噴出させたまま、藤吉郎を見上げた。
「やはり貴殿」
と、久之丞は目を見張った。懐に手を入れ、錦の袋を掴み出した。
「この笛に御執心であられたか」
諦めとも嘆きともつかぬ低い声で彼は言い、項垂れた。そうして、図星を突かれたまま反駁も出来ない藤吉郎に向かって笛を袋ごと差し出した。
「何もかも失くし、どうでもよいと思っていた人生だが、もうそろそろ手離してもよかろうと」
「まことか」
藤吉郎は覚えず喜色に潤んだ声を立てた。我ながら浅ましや、と思うが迸る喜びは抑えられなかった。
「但し、昨晩手前がお話したことをお忘れ召さるな。精進なさいますよう」
「承知仕った」
藤吉郎は、既に久之丞の話など耳に入っていなかった。丁寧に会釈をして別れたものの、屋敷へ戻る頃には出て来る時に抱いていた後ろめたさも慙愧もなかった。斬り取り強盗の真似事もせずに済んだことも、その感情の高揚を扶佐していたとみえる。
「とはいえ、無償で頂くのは虫が好過ぎる。せめて幾許かの金子を」
藤吉郎は帰宅後そう考え、夜明けを待ちかねて早々に河原を訪ねて行った。
ところが、久之丞の姿を探して小屋に立入ってみると、藤吉郎は吃驚した。久之丞は大刀を己の喉に突き立て、自害し果てていたのであった。
五年の歳月が流れた。
藤吉郎は妻を娶って子供も儲け、傍目には何事も無く平穏無事に暮らしていた。だが、或る失策がもとで、その全責任を負い、切腹を申し付けられた。
身辺整理をし、いよいよ最期を迎えようという時、水裃姿の藤吉郎はふと大粒の涙を浮かべた。
「一つだけ心残りがございます」
と、彼は役人に向かって言い、例の名笛を取り出した。
「手前が冥府に行きし後、誰がこの笛を所有すべきかどうか」
そうして藤吉郎は、この笛に関する一切の経過を役人等に語って聞かせた。奇異な話に、はじめは誰もが顔を見合わせた。しかし、藤吉郎が最後に一曲を吹くことを願い出ると、許可された。
藤吉郎の奏でる静かな物悲しい調べに、役人も心打たれて聴いていると、やがて一曲が終わろうとする時、音が止んだ。
藤吉郎は笛をくわえたまま、死んでいたのである。
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