(五)

「氷見藤吉郎の妻女が実家は三十俵三人扶持の佐田家ですが、それは養子にございます。生家はこの平沢家です」
 只楽翁は言った。
「佐田の家は気味が悪いと言うて笛を受け取らず、仕方なじょいうことで当家が引き取りました。幸いというべきか、我が家には笛に親しむような人間は殆どおらなんだのです。こうして、封印したまま置いております」
 ほう、と定敬は答えた。老人の話は嘘かまことか、とにかく俄かにとってつけた作り話とも思えない。
 作り話としても、ここまで凝っていると無碍に笑って取り合わないのも少し可哀想な、と思った。
「とにかく見せてくれ」
 桐箱を開くと、錦の袋があり、さらにその中に篠笛が入っていた。定敬は促され、手にとってみた。見た目より軽く、確かに千年は経たといっても嘘とは思えぬ沈殿した黒色が得も言われぬ。螺鈿や朱漆の華やかな笛とは異なる趣があった。
「お試し下さんしょ」
 そう言われて、定敬はやや逡巡しつつも唇を当てた。甲高い音色が出た。想像していたよりもずっと張り詰めたような音で、吹き手の指先にびりびりと己の息吹が感じられるほどである。
 定敬は己が手遊びに吹いていたものは、あれは何だったのであろうか、と戦慄した。
「禍々しいほどすぐれた音色だ」
 言い得て妙な言葉を只楽翁に向かって言い、定敬は笛を置いた。笛の音も他の楽器と同じく年代によって好みを変えるが、その意味でこの妖笛は、少なくとも今時分の嗜好とは異なる。胡楽が我が王朝に伝わって、そう長い年月を経ない頃の時代のものとみてよいだろう。
 何故なら、その音色は何処かまだ定敬も足を踏み入れたことのない遥か西方の地を髣髴とさせた。
「お気に召されましたか」
 只楽翁は頬骨を高くして、莞爾と笑んだ。定敬は、興奮冷めやらぬ様子で頷いた。
「ただ、今夜はもう仕舞っておいてくれ。夜更かしをすると、半蔵にお小言を言われるのでな」
 定敬は笑い、半蔵は困ったように眦を下げた。その面長の白面に月の光とは違う、少し赤い灯が照り返った。定敬は、夜空を見上げた。
「麒麟山からにござんしょう」
 只楽翁は言った。山の麓には二つ三つの明るい灯が点っていた。灯は東へと少しずつ揺れ動いて移動する。
「狐火ではあるまい」
「然様にございますなし」
 定敬は、首を振った。
「まさか。恐らく杣人(そまびと)か猟師であろう」
「蛍ではないのでしょうか」
 と、半蔵が言った。只楽翁は狐だ、と言い張る。
「御狐様を無碍に扱うと、祟ると申しますよ」
 定敬は答えようがなかった。
 面妖な土地だと思う。江戸には勿論、京にもこのような言い伝えを心底信じている者など見たこともなく、桑名にさえいなかった。もとより、理知を第一とする定敬だからであろう。
 それにしても、津川という土地はもう少し開明した人間がいるのかと思ったが、何だかこれでは前時代も甚だしい。
「斯様な土地柄の人々に異国と貿易するの、条約だのと話しても理解しかねるのは至極当然であろう」 
 と、憮然とせざるを得なかった。そう考えると、いよいよ己等がこれまで一心不乱に尽力してきたことは何だったのだろうか、という気もした。とまれ、定敬の心は時を留めているわけには行かなかった。朝敵の汚名を雪ぎ、一刻も早く徳川の名誉を挽回し、経世済民を行うべし。
 半蔵を見ると、主君の想いを推し量ったか、彼は切れ長の目を細めて柔和な表情を作ってみせたのだった。

 翌日は晴天となり、何事もなく過ぎた。定敬は気が向けば軍議や鍛錬のあとで外出可能である。
 平沢家には、ほぼ毎日のように人が訪れ、唐突な賓客に贈物が置いて行かれる。
「会津さぁお殿様のしゃで(弟)君様がおざったで、何もなかんけんどお上がりくなんしょ」
 という具合に、畑のものや川魚、水菓子などが届く。平沢家の台所ではせっせとそれらを見栄え良く料理して、定敬の御膳に上げるのだった。それとて食べ切れるものではないので、供六十名が同じ膳を相伴に与るのである。
「居候していて毎日豪勢に頂戴していては、本末転倒。おれの膳は皆と同じ一汁一菜でよい」
 分け隔てのない若殿のそんな言動も、村の者には評判が良かった。
 これがもっと田舎ではこうはいかなかったであろう。幾ら会津の殿様の血縁であっても、六十余名の大所帯など、寒村では賄う余裕などない。
 折しも季節が夏で幸いした。しかし、北越が破られれば、此処も安心出来る土地ではなくなる。退却軍が押し寄せて、東軍兵で溢れ返るだろう。
 さて、夕餉を終えた定敬は、只楽翁のところへ自ら赴いた。
「畏れ多いことで」
 と、老人は断ったが、定敬は「厄介者に畏れ多いも何もなかろう」と言って、離れに向かった。
 途中、家人の寝起きする間が幾つかあり、長い縁側廊下を一人渡って行くと、かそけき橙色の灯が暗くなり始める間際の庭にぼんやりと投じられている一間がある。
 身体のあまり丈夫でない、この屋の娘の部屋というが、定敬はまだ平沢家の中でその娘の姿を見た事がない。尤も、その事には殆ど気を留めてもいなかった。
 やがて老人の部屋へ行くと、老人はまるで朝から一日中そうしていたかのように座っていた。
 一礼をして桐箱を差し出す。定敬が紐を解き、蓋を開けた。錦袋はある。だが、何となく違和感を覚えた。触れてみて、定敬は覚えずあっと声を立てた。
 笛がないのである。
 袋を振ってみたが、出てくる筈もない。
「どうした事だ」
 只楽翁も、これには言葉がなかった。
「なして笛がのうなったか。なじょすんべ」
 土地の言葉丸出しで吃驚慌てた。
 確かに老人は昨晩、定敬の目の前で桐箱に笛を仕舞った。紐も同じ結び方であった。それが忽然と中身だけ消えている。
「あのあと、此処床の間に置いておいたのですが」
 只楽翁は漸く我に返ったかのように言った。
「笛が踊った」
 まさか、と定敬は低く呟いた。もしかしたら、老人は昨晩の定敬の気に入り様を見て、色気を出したのではなかろうか。踊ったなどと言って隠して置き、勿体ぶっているだけではなかろうか。そうして頃合をみて再び笛を出してきて、己に幾らかの金品を要求せんとも限らない、と。
 しかし、平沢家のような分限者が、今更笛と引換えに金目の物など必要もあるまい。しかも己は転々流浪する賊軍の将に過ぎぬ。だとすると、本当に笛は何処かへ消え去ったのか。
「はて面妖な」
 定敬は、その言葉だけを口にした。只楽翁は痩躯をますます縮こめた。
「そちを疑うておるのではないぞ。おれは笛に嫌われたのか?」
「いえいえ。名笛こそ奏手を選びます。古えの藤吉郎や久之丞が怪異に遭うたのは、邪心あっても名手なればこそでしょう。証拠に、手前ども無作法の者が持っておってもこの数十年というもの、何も起こりませなんだ」
「すると、おれが吹いたからか」
「然様にござりましょうか」
 只楽翁は、おずおずと肯定した。
「おれは然程の名手でもないが、まあよい。今晩は諦めよう」
 定敬は淡白に言い、静かに老人の部屋を出たのだった。

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